6 第二章について
a 対話の帰結
第二章には、親鸞とその同朋の間におこなわれた、ある日の対話(問答)をとおして、念仏の教えに出あうことの歴史的意義が明らかにされています。
一読すれば、すぐわかりますように、ここに記録された対話は、関東の同朋が、念仏の信心について惑い疑いをいだき、はるばるいのちがけで、京都の親鸞をたずねたところからはじまりました。しかし、その同朋と応対する親鸞の態度をみますと、問われたことについて直接的表面的に応答することのみにとどまらず、教えにたいする同朋の基本的な姿勢を鋭くつき、問いの内面を深くえぐり出してみせます。問うていることの当面の意味が、たといどのようなものであろうとも、問うたことに秘めてもつ意義が、いかに重大なものであるかということを、明らかにしています。教えにあい、教えを信じ、教えに生かされるということの歴史的現実が、どのようなものであるかを明示しています。第二章については、まず、このことが注意されねばなりません。
そして、これは対話でありますから、いうまでもなく、ここには、具体的な人びとが登場してきます。すなわち、これは、親鸞と同朋(唯円たち)との問答ですが、同時にまた、これは、約半世紀にもおよぶ年月を隔てながら、現におこなわれつつあるところの、親鸞と法然(さらには釈尊をはじめ、仏教の伝統を形成した人びと)との対話でもあります。このようなところに、従来、第一章が難解であるのにたいして、第二章は親しみやすいとされた理由があるのでしょう。
第一章には、「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて‥…」と説きはじめられるとおり、端的に、念仏の「法」が教えとして語られます。それは、なんの疑いもなく、ただ信知すべきものでありますから、人間の智慧にとっては、いかにも難信の(信じがたい)法であります。
ところが、第二章には、対話というひとつのできごとをめぐって、念仏する「人」があらわれます。「おのおの(みなさんが)十余か国の境をこえて、身命をかえりみずして(いのちがけで)たずねきたらしめたもうおんこころざし……」とはじまって、「めんめんのおんはからいなり(みなさんのお考え次第です)」ということばに終結するところには、生き生きとした独立者・念仏者の世界が感知されます。
この第二章を、先輩たちの多くは、前後二段に分けておりますが、しかし、その段落の切り方は、必ずしも一致していません。それには、たとえば、「しかるに、念仏よりほかに……」からを第二段とする説(妙音院了祥師)、あるいは、前段を「はしがき」として、第二段は「親鸞におきては……」以後であるとする説(曾我量深先生などがあります。けれども、わたしは、これらの説を念頭におきながら、さきの講話において述べたとおり、全文を五節に分けて読むことにしています。これは、ただ文意を了解しやすくと思ってのことであります。
また、第二章の対話が語ることについて、先輩たちの受け取り方もさまざまですが、たとえば
一 「往生極楽の道」を明らかにする。と同時に、親鸞の人生観を語る。 金子 大栄
二 「専修念仏」すなわち念仏往生の大道を宣明された物語。 梅原 真隆
三 「唯信念仏」すなわち、ただ念仏を信ずべきことを示す。 妙音院了祥
四 「一大事と賭けるこころ」を語る直情、赤裸な告白。 倉田 百三
五 弟子たちにたいして、親鸞がその心境をさらけ出して見せた或る日の教誡。 小野清一郎
などと解されております。たしかに、この対話は「めんめんのおんはからいなり」ということばに終ったのですが、先輩たちの指摘されるとおり、親鸞の心は、すでに語られた「親鸞におきては……」の一言にいいつくされているといえましょう。その意味において
「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よき人のおおせをこうむりて、信ずるほかに、別の子細なきなり」
ということばは、対話が終るのにさきだって示された、対話の帰結であります。これを了祥師は
「ただ念仏して(行)、弥陀にたすけられまいらすべし(証)と、よき人のおおせ(教)をこうむりて、信ずる(信)ほかに別の子細なきなり」と、たくみに教行信証に配しています。
「ただ念仏して……という「よき人のおおせ」は、かつての親鸞の暗く閉ざされた生を転じて、開かれた大道を明示する教えであり、その教えを「信ずるほかに、別の子細なきなり」と表白することは、現にいま、親鸞が、その大道を歩みつつあることを物語っているのであります。だから、この一言には、念仏の教えに生かされて生きるものとなった親鸞の、人生のはじめと、念仏の教えに生かされつつアミダの世界に直結する親鸞の、人生のおわりが語られているといえましょう。
その生死を一貫するものが「弥陀の誓願不思議」(すなわちアミダの誓願の不思議なはたらき、智慧ある愛の仏・アミダのはたらき)であり、「ただ念仏」の教えであります。
したがって、この一言の前景と後景とを憶うとき、第二章の対話は、念仏の歴史(大行)を明らかにするものであると了解されるのであります。
b 生死の巌頭
では、「親鸞におきては」と表白されるところの「ただ念仏」の信念は、親鸞の上にどのようにして実現したのでありましょうか。この信念の確立ということについて、善導は
「仰ぎ願わくは、一切の行者等(すべての人びとよ)、ただ仏語(ブッダのことば)を信じて身命を顧みざれ。決定して行(念仏)に依って、仏の捨てしめたもうをば、即ち捨て、仏の行ぜしめたもうをば、即ち行ず、仏の去かしめたもう処をば、即ち去く。これを仏教(ブッダの教え)に随順し、仏意(ブッダのこころ)に随順すと名づく。これを仏願(アミダの本願)に随順すと名づく。これを真の仏弟子と名づく」(観経四帖疏散善義)
と述べたあと、就人立信(ブッダについて信を立つ「就行立信(念仏について信を立つ)ということを問題としています。
われわれの求道にとって不可欠の条件は、まず指導をうけるにふさわしい適格者を得ることであります。しかし、師を求めるということは、そこに説かれる教えを聞くためでありますから、人(師)について信念を明らかにすることは、やがて教えを実践して信念を磨くことになりましょう。このように、就人(人につくこと)は、おのずから就行(法につくこと)へと展開するのであります。
ところが、そこには、求道上の根本的な問題が潜在しているといわねばなりません。すなわち人(師)を得るのでなければ信が明らかにならぬということは、求道者の運命ですが、といって、その人(師)に執われれば、真の求道者となることはできません。また、行(法)によってでなければ信が磨かれないということは、求道の必然的な事実ですが、しかし、その行(法)に執われるならば、真の求道であるということはできせん。第二章には「親鸞におきては」ということばのあと、そのような問題が明らかにされているのであります。
たしかに「親鸞におきては……」の一言は、この対話の帰結であります。これは、親鸞が、師の法然からうけとった教えとして、いくたびもいくたびも口にして、同朋に語ったであろう信念にちがいありません。しかし、関東の同朋が、いまさらのようにそれを聞いたとき、関東の地をあとにした不安は安堵に転じたのでありましょうが、実は、そこに求道者にとっての陥穽(おとしあな)があるのであります。
その誤りを解いて、正しく力強い信念を確立するために、まず親鸞は
「念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべるらん。また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり」
といいます。これについて、倉田百三氏は「これは実に思い切った、物凄い告白である。ここまで表現することは親鸞以外誰にもできまい。法然にもできまい。白隠にもできまい。恐ろしい表現とは、こういうものをこそいうのであろう。そして、それがわざとらしい、誇張した感じがしない。親鸞の内面の本当の姿であると肯ける。これなどは、一歩間違えば悪魔の言葉であり、堕地獄の文字である」(法然と親鸞の信仰)と解説し、また西田幾多郎氏は「宗教の極致」をあらわすもの(善の研究)といいますが、この一段のことばは、透徹した人間凝視、徹底した自己批判が見開いたところの人間の自性を語るものといえましょう。
まず「念仏は……」と法についての我執をきり、次いで
「たとい、法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、……」
と、人についての我執を離れた信念が明らかにされてあります。これは、ことに法然と邂逅し別離したなかから、九十年の生涯をかけて、親鸞自らがかちとった信念であります。これは、善導が
「(一)人びとが、どのような経論の証があるからといおうとも、(二)たとい、それが菩薩であろうとも、(三)また仏であろうとも、われを誘惑しようとすることばなら、聞いて、たじろぐような信念ではない」(散善義のいわゆる四重の破人の取意)
といったのに相い応ずる心境であるといえましょうか。
「後悔のない心」とは、人間であることに徹底して、人間であることの執われから超え出る自覚でありますが、それについて親鸞は「そのゆえは」と注意を喚起しながら、
「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」
と表現しております。地獄とは、生存するものにとっての極苦最悪の境遇であり、生死する生存者の最極限でありますが、親鸞は、その地獄をもって「一定すみか」とするというのであります。これについては、清沢満之先生が
「独立者は、常に生死巌頭に立在すべきなり。殺戮餓死、もとより覚悟のことたるべし。既に殺戮餓死を覚悟す。もし衣食あらば、これを受用すべし、尽くれば、従容、死に就くべきなり」
といわれたことばを思い起します。「地獄は一定すみか」とは、「生死巌頭に立在するもの」としての、この身のある現実のめざめであります。これを、第三章には「煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死を離るることあるべからず」といい、その自覚の根源を求めて「生死を離るることあるべからざるを哀みたまいて、願をおこしたもう」といいます。そして、それを第二章には「弥陀の本願まことにおわしまさば」と説きながら「愚身の信心におきてはかくのごとし」と信に帰着せしめて、信念が、アミダの本願に由来するものであることを明らかにしているのであります。
c 大行の歴史
親鸞にとっての法然は、いうまでもなく「よき人」(善知識・ぜんちしき)であって「ただ人」ではありません。それは、『和讃』(源空讃)に
智慧光のちからより 本師源空あらわれて
浄土真宗をひらきつつ 選択本願のべたもう
阿弥陀如来化してこそ 本師源空としめしけれ
化縁すでにつきぬれば 浄土にかえりたまいにき
とあることからも知られるように、法然(源空は、アミダの世界から誕生し、アミダのはたらきを身にうけて生き、やがてアミダに帰るところの「よき人」でありました。
したがって、いま親鸞は、すでに死別した法然の「教え」に耳かたむけながら、「よき人」との邂逅を語るのですが、それはさながら『大無量寿経』に「去・来・現の仏(過去・未来・現在の仏)、仏と仏と相い念じたまえり」と説かれる世界を慣わせられるものがあります。すなわち、法然と親鸞と、そして同朋との対話は、すでにブッダとなったものと、やがてブッダとなるべきものが相念する世界での対話であります。「諸仏の称名」する事実とは、まさにこのことをいうのでありましょう。
『教行信証』の後序には、吉水教団が解散して、師弟が別離することとなった念仏禁止の、いわゆる承元の法難について述べたあと、師教によって「雑行を棄てて本願に帰した」(人間の自力を絶対のものとする心をひるがえして、アミダの本願に帰依した)のは親鸞二十九歳のときであったこと、次いで『選択集』の書写をゆるされ、さらに真影とともに銘文をたまわったことを記して、その教えの内容を明らかにしています。
それによれば、教えとは、「南無阿弥陀仏、往生の業には 念仏を本と為す(往生之業念仏為本)」ということであり、したがって「ただ念仏して」であったといいます。また、その教えとは、善導によって聞きあてられたアミダの本願(往生礼讃の、いわゆる加減の文)であったことも述べて、親鸞の邂逅した教えの伝統、すなわち親鸞の摂取された念仏の歴史を明らかにしています。それを第二章には
「弥陀の本願まことにおわしまさば……」
と述べて、弥陀――釈尊(仏)――善導――法然をとおして、親鸞に伝えられたものであるというのであります。この一段において、第一に注意すべきことは、倉田百三氏が
「弥陀の本願がまことにおわしますことを証明しなければならない場合に、おわしまさばという仮説を初めに持って来ることは驚き入った非論理である」「中学生にでも解るように、これは論理上には、証明にも何にもなっていない」(法然と親鸞の信仰)
というように、「アミダの本願がまことであるならば、ブッダ釈尊の説教もいつわりであるはずはない。……ならば……はずはない。……ならば……法然のお言葉もどうしてうそであろう」と表現される点であります。そして、第二には、「法然のおおせまことならば、親鸞がもうすむねまたもってむなしかるべからずそうろうか(むなしいたわごとでもあるまい、といえようか)」とあること、すなわち「か」の一字を加えて親鸞の信念が表白される点であります。
後序(第十九章)には、親鸞の徹底した人間観、社会観から、自己と環境を「煩悩具足の凡夫(まよいけがれにみちた人間)、火宅無常の世界(火のついた家のようにはかないこの世)は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなき」と断定し、それをうけて
「ただ念仏のみぞ、まことにておわします」
といってあります。それにたいして、第二章に「おわしまさば」というのは、アミダの誓願は不思議であること、すなわち人智を超越するものであること、したがって、「か」というのは、その誓願より生じた信心が、親鸞にたまわり親鸞に実現する信念であっても、それは、いわゆる親鸞の信念ではない(親鸞のものということはできない)ということを示すのでありましょう。
教えにたいする親鸞の態度は、「かたじけなくも、かの三国(インド、中国、日本)の祖師、おのおのこの一宗(浄土真宗)を興行す。ゆえに、愚禿(親鸞)勧むるところ、さらに私なし」(伝絵)ということでありますが、そのような信念から「正信(念仏)偈」を結ぶにあたっても
道・俗時衆、共に同心に(出家も在家も、いまの世の人びと、共に同じ心をもって)
唯、斯の高僧の説を信ずべし(ただ、これら高僧たちの説かれることを信ずべきである)
といっております。
このように、第二章には、念仏(大行)の歴史に出あい、念仏の教えを信じつつ生きて、念仏(大行)の歴史を形成するものとなった親鸞の、一点の私心もない人生が、如実に語られていると了解されるのであります。
伊 東 慧 明(いとう えみょう)
1930年 三重県松阪市に生まれる
1953年 大谷大学文学部卒業
1962年 大谷大学大学院文学研究科 真宗学専攻 博士課程終業
現 在 大谷大学学監・事務局長・文学部講師
著 書 「阿弥陀経に聞く」(教育新潮社)
歎異抄の世界 2
昭和42年3月1日 初版発行
¥ 300
著 者 伊 東 慧 明
発行者 田 中 茂 夫
印刷所 中村印刷株式会社
発行所 文 栄 堂 書 店
京都市中京区寺町通三条上ル
振替京都2948
電話(23)4712
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