2 第二章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
  目  次  
 1 序・第一章  
 2 第二章  
 まえがき
  一 第二章の一  
  二 第二章の二  
  三 第二章の三   
  補 説   ◀
   1 歎異抄の時代
   2 歎異抄の構成
   3 歎異抄と観無量寿経
   4 歎異抄と教行信証
   5 第一章について
   6 第二章について
 3 第三・四・五章  
 4 第六・七章  
 5 第八・九・十章  
  謝  辞  
  ※ Web版註: 本サイトは、著者および出版社のお許しを得て、管理者の責任で公開するものです。
           内容に関する連絡および問い合わせ等は管理者に行って下さい。
補説 歎異抄の諸問題

  5 第一章について

     a 真実の数え

 歎異抄の第一章は、きわめて短かくて簡潔な文章ですが、これは、この抄全体の総説であり、また要説であります。すなわち、この、最初に掲げられた親鸞のことばは、唯円に聞きとられた親鸞の教えの要旨を総じて説くものであります。したがって、これは、師訓篇の眼目であるばかりでなく、広く歎異篇をも包んで、それのよりどころとなる極めて重要なことばであります。
 では、この第一章の概要は、一言でいえば、どのように表現することができるでしょうか。このことは、歎異抄を読み進むうえに、決定的ともいえるほどの大切な意味をもつと思います。第一章をいかに読みとるかは、歎異抄の世界に、どのようにいざなわれ、どこまで広く、また深くたずね入ることができるかを決定するものだからです。
 これについては、先輩たちも、多大の苦心を払っておられますが、たとえば、
 一 勧信誡疑(かんしんかいぎ)(信を勧め疑いを(いまし)める)               香月院深励
 一 弘願信心章(ぐがんしんじんしょう)(アミダの真実の本願に由来する信心をあらわす章)  妙音院了祥
 一 初めに不思議あり                       倉田 百三
 一 誓願不思議(せいがんふしぎ)(アミダの誓願の人智を超えた不思議なはたらき)   金子 大栄
 一 絶対他力(ぜったいたりき)(相対するもののない他力・すなわちアミダの本願の力) 梅原 真隆
 一 本願念持(ほんがんねんじ)大道(たいどう)(アミダの本願に憶念・執持された大道)     曾我 量深

などと、それぞれ了解を示されております。これらは、いずれも先輩の苦心の結果を示すものでありますから、われわれは、こころして傾聴しなければなりません。
 ところが、いま一つ、前節において述べたように、師訓前四章が教行信証をあらわすという着眼にもとづいていえば、第一章は「真実の教」を明らかにするものであると了解することができます。このような観点から、教行信証と歎異抄の関係を念頭において、第一章を注意深く読みますと、ちょうど、「教の巻」に「往相と還相の二種廻向」ならびに「真実の教・行・信・証」を内に包んで、「真実の教」が説かれてあることが憶われるのであります。
 親鸞は、釈尊の説かれた教えはさまざまで、それは、今日、大蔵経・一切経として伝えられているけれども、「真実の教は『大無量寿経』である」と定めました。それは、この経には、「アミダ(阿弥陀)が発願(ほつがん)して、大衆のために広く法蔵(ほうぞう)(のりのくら)を開き、念仏(すなわち功徳の宝)を選んで与えようと誓われた」ということ、そして「シャカ(釈迦)が人世(ひとのよ)に出て、大衆のために広く教えを説き、念仏(すなわち真実の利益)にめざましめようとされた」
 
註 「それ真実の教を顕さば、則ち大無量寿経これなり。この経の大意は、弥陀、誓いを超発して、広く法蔵を開き、凡小を哀れんで選んで功徳の宝を施すことを致す。釈迦、世に出興して道教を光闡(こうせん)し、群萠(ぐんもう)(すく)い、恵むに真実の利を以てせんと欲すなり。」(教の巻)
ということが説かれるからであります。そして親鸞は、
 「ここをもって、如来(にょらい)(アミダ)の本願を説くを、経(大無量寿経)の宗致(しゅうち)(根本の精神)となす。即ち、仏の名号(ナムアミダ仏の念仏)をもって、経(大無量寿経)の体(具体的事実)とするなり」
と結論します。すなわち、大無量寿経がなぜ真実の教であるかといえば、この経は、アミダの本願を根本精神として、われわれに、もっとも身近で具体的な念仏のすくいを説くものであるからであります。
 この一段について、金子大栄先生は
 「真実の教は、本願(アミダの願い)を説くを(しゅう)(心)とし、名号(すなわち念仏)をもって体(法)とするものである。したがって、本願の体は名号であり、名号の宗は本願である」(口語訳教行信証)
といい、また
 「弥陀の本願は、釈迦の教説となりてあらわれ、あまねく群生(ぐんじょう)(人びと)の聞知すること(聞き知るところ)となった。本師・釈迦の恩徳(おんどく)は高い。されど、また、弥陀の本願を説くことなくば、釈迦出世の意味も、(むな)しきものとなるであろう」
と領解を述べておられます。
 これによって明らかなとおり、教えの根本には、アミダの本願があり、教えの示す具体的事実は、「ただ念仏もうす」ということであります。そして、教えを信ずるということは、アミダのすくい(救済)に、めざめる(自覚する)ことにほかなりません。したがって、第一章には、その教えが
 「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて……」
 「弥陀の本願には、老少善悪の人をえらばれず……」
 「しかれば、本願を信ぜんには……」
と、総説されるのであります。

      b 第一章の概要

 さて、第一章を一見しますと、これは、三節に分けることができるようであります。先輩たちも、たとえば、香月院深励師、妙音院了祥師をはじめ、梅原真隆先生、小野清一郎氏など、ほとんどの人が、三節に分けると解されておりますし、金子大栄先生は、これについて、「序・正・結」のようなものだという見解を発表しておられます。
ところが、曾我量深先生は、第二節の後半の「そのゆえは」からを分って第三節に配し、第一章を四節に分けるとされます。
 いま、その説によりながら、私見を加えて示しますと、
 第一節 「弥陀の誓願不思議に……」――念持の道――救済の実現(すくい)
 第二節 「弥陀の本願には……」――――信心為本――自覚の肝要(めざめ)
 第三節 「そのゆえは罪悪深重……」――悪人正機――自覚の内景(めざめ)
 第四節 「しかれば本願を……」――――現生不退――現生の利益(自信ある生活)
と、このように分科することができるのであります。
 まず、第一節は、救済の道、「本願念持(ほんがんねんじ)大道(だいどう)」(アミダの本願に憶念・執持された道)をあらわすものであります。すなわち、そこには、教えに開かれた道が明示されています。
 しかし、いうまでもなく、教えも、また道も、教えられつつ道を歩む「人」を離れてはありえません。教えが生きてはたらくということは、教えられる人が現にあるということであります。道が発見されるということは、その道を歩む人が誕生したことにほかなりません。その意味において、第一節のことばは、「教えの開く道に生きる人」のことばであります。
 そこでは、教えとして聞きとった法然のことばが、正しく領解されて、親鸞のことばになっております。だから、また唯円は、その親鸞のことばを教えとして、そこに開かれる道に生きたのでありました。そのように、一つの教えのなかに、道(法)と人(機)とが一体になったすがたを端的に「南無阿弥陀仏」というのであります。
 したがって、第一節は、そのナムアミダ仏のはたらきのなかで、親鸞が、そして唯円が、ナムアミダ仏のすくいについての領解を語ったことばであるといえましょう。それを「救済の実現」(すくい)といいあらわしたのであります。
 ついで、第二、第三節は、ともに「アミダのすくいにめざめること」、すなわち、救済の自覚を語るものにちがいありません。ところで、この一段について、了祥師は、これが聖覚の『唯信鈔』の文によるものだと注意しております。
 たしかに、歎異抄が、唯信鈔から受けた影響はすくなくありません。それは、親鸞が、同じ法然門下のなかでも、聖覚と隆寛の二人には、とくに深い尊敬の念をもって兄事していたからです。親鸞は、いくたびとなく唯信鈔を書写したばかりか、自ら『唯信鈔文意』を製作して同朋に与えたり、あるいは、一念多念(ひとこえの念仏か、数を重ねる念仏か)・有念無念(いろかたちを心に思うことか、いろかたちを心に思わぬことか)などの異義にまどう人びとには
 「そのようは『唯信鈔』に詳しく(そうろう)。よくよく御覧候べし」
と幾度も便りを送って指示しました。だから、いわゆる「大切の証文」には、唯信鈔から抜粋した文も入っていただろうと想像する人もあるわけです。
 了祥師は、唯信鈔と歎異抄の関係について、
 一 第十三章「唯信鈔にも、弥陀いかばかりのちからましますと知りてか……」
 二 第一章 「弥陀の本願には……」
 三 第三章 「親鸞におきては、ただ念仏して……」
 四 第三章 「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを、世の人つねにいわく……」
 五 第九章 「よろこぶべき心をおさえて、よろこぼせざるは、煩悩の所為なり……」
 六 第十一章「誓願の不思議によりて、たもちやすく……」
 七 第十三章 善悪の二業、宿業によるということ。
など、七文をあげて、その影響が、歎異抄の全篇に及ぶと指摘しております。
 これを第一章についてみますと、
 一 「弥陀の本願には老少善悪の人をえらばれず」
  これは、唯信鈔の「名号(念仏)は……たもちやすく、これをとなうるに、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)をえらばず、時処諸縁をきらわず、在家出家、若男(にゃくなん)若女(にゃくにょ)、老少善悪(ぜんまく)の人をもわかず、なに人かこれにもれん」とあるのによる。
 二 「ただ信心を要とすとしるべし」
  これは「仏力(ぶつりき)無窮(むぐう)なり、罪障(ざいしょう)深重(じんじゅう)のみをおもしとせず。仏智無辺なり、散乱放逸のものをもすつることなし。ただ信心を要とす」によるもの。
 三 「悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまぐるほどの悪なきゆえに」
  これは「仏いかばかりのちからましますと知りてか、罪悪のみなれば、すくわれがたしとおもうべき」とあるのによる。
と解されるのであります。
 このように、いま第二節の「ただ信心を要とすと知るべし」ということばは、たしかに唯信鈔をうけたものでありましょう。しかし、その信心(すなわち救済の自覚・すくいのめざめ)の内景が、
 「そのゆえは、罪悪深重、煩悩熾盛(しじょう)の衆生をたすけんがための願にてまします」
と示されるところには、伝承のなかから生まれ出た親鸞の己証(こしょう)が語られるものと解されます。すなわち、「そのゆえは」以下の一段を分って、一節とし、これを「悪人正機」と名づけるのは、やがて第三章に「善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや」と語られるに先立って、ここに親鸞独白の自覚内容が明示されたものと思われるからであります。
 アミダの本願は、老少善悪に差別のない、絶対の平等です。が、「ただ信心」を肝要とするのであります。なぜならば、衆生であるということ、すなわち老少善悪の区別なく共通するところの衆生の平等性は、「罪深く悪の重いこと」(罪悪深重)であり、「(わずら)いや悩みの心がさかんであること」(煩悩熾盛)であります。したがって、第三節の文章を解説するために補足しますと、「そのゆえは、罪悪深重、煩悩熾盛の(そういう自分だという自覚をもった)衆生を、たすけんがための願にてまします」となりましょう。
 ここで、「ただ信心を要とすと知るべし」といわれるところの「信知」が、ついで(悪人の自覚があるもの)を「たすけんがための願にてまします」と、「願」に転ずるところを見逃してはなりません。この転開に着眼して、「そのゆえは」以降の一段を一節として「悪人正機」と名づけるわけであります。
 そして、第四節は、その信心の利益を
 「しかれば、本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに、悪をもおそれるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆえに」
と述べるのであります。これと全く同様のことが『口伝鈔(くでんしょう)』には、「善悪二業(にごう)の事」として、
 「それがし(親鸞)は、まったく善もほしからず、また悪もおそれなし。善のほしからざるゆえは、弥陀の本願を信受するに勝れる善なきがゆえに。悪のおそれなきというは、弥陀の本願をさまたぐる悪なきがゆえに」
とあります。これは、まさしく、信念ある人の現生には、不退の心境が開かれるということ、すなわち、自信ある生活の実現を語るものにほかなりません。
 このように、第一章は、まずもって、アミダの本願の救済を自覚すること(すなわち、すくいのめざめ、悪人であることのめざめ)こそ肝要である、アミダの本願は、悪人を救済するものだからである、悪人であることが自覚されれば、善をたのみ悪をおそれる必要はない、と説くのであります。

     c 第一節の問題点

 第一章は、「弥陀の誓願」すなわち「アミダが、自身のすくいを賭けて誓われた願い」ということばからはじまっていますが、では、いったい「アミダの誓願」とは、具体的には、どのようなものなのでしょうか。
 それを明らかにするために、大無量寿経に説かれる「本願のことば」を読んでみましょう。金子大栄先生は、それを
 「われ、仏とならば、生あるものみな、心を(いた)信楽(しんぎょう)して(まことの心をもって疑いなく)、わが国(アミダの世界)に生まれようと欲い、わが名を称えよ(念仏せよ)。その人、もし、生まれなければ、われも仏となるまい。ただ、逆悪を造り、正しき法を(そし)るものを除く」(第十八願文・口語訳教行信証)
 
註 「たとい我、仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。若し生まれずば正覚を取らじ。唯、五逆と正法を誹謗するとをば除く」。(第十八願文)
と口語訳しておられます。これは、「まことの心をもって、疑いなく、アミダの世界に生まれようとおもうて、念仏せよ。その人は、かならずすくわれる。わたしは、その人のすくいに、自身のすくいを賭けて誓う」という意味でありましょう。
 第一節において、まず第一に注意すべき点は、その「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて……」と表現される点であります。
 第二章には、
 「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よき人のおおせをこうむりて、信ずるほかに別の子細なきなり」
とありますが、「たすけられまいらす」とは、歎異抄にのみ見られる独特の表現であります。親鸞は、その多くの著述のなかに書き記さなかったけれども、同朋たちにたいしては、おそらく、このような表現で、アミダのすくいを語ったのでありましょう。それが、聞きおとしなく記録された点からみても、語録としてのこの抄の価値はきわめて高いといわねばなりません。
 しかも、第二章は、よき人の教えを語るものでありますから、「たすけられまいらすべし」といわれるのが、第一章には「たすけられまいらせて」とあります。ここに、「アミダの本願が実現して(成就して)」「アミダの本願のはたらきにたすけていただいてまごころそうして「往生をばとぐる(かならず浄土に生まれるのである)と信じて」と述べるところに、歎異抄的表現があるのであります。このように第一章には、いまアミダの本願が実現しつつあるという場に立って述べられますが、これを親鸞は、アミダの「本願の成就」であるといいます。
 それについて、大無量寿経には次のように説かれてあります。すなわち
 「生あるものみな、弥陀の名声(みょうしょう)(念仏の声)を聞いて、信心歓喜する(信じて、身も心もよろこびにあふれる)。その一念に仏のまごころはめぐまれる。したがって、彼の国(アミダの世界)に生まれようと願えば、即ち往生を得て(たちところにアミダの世界に生まれるものとなり)、不退転に住する身となるであろう(ふたたび退転することのない確固不動の地位につく)。ただ、除かるるものは、逆悪(ぎゃくあく)を造り、正しき法を(そし)るものである」(第十八願成就の文・口語訳教行信証)
 
註 諸有衆生、其の名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に廻向せしめたまえり。彼の国に生ぜんと願ずれば、即ち往生を得、不退転に住せん。唯、五逆と正法を誹謗するとをば除く」。(第十八願成就文)
と。ここで第二に問題となるのは、
 「……往生をばとぐるなりと信じて、念仏もうさんとおもいたつ心のおこるとき、すなわち……」
ということばについてであります。
 「念仏もうさんとおもいたつ心」とは、いうまでもなく、念仏する人に(すなわち親鸞に、また唯円に)おこりつつあるものでありますが、しかし、それは念仏者の(すなわち親鸞の、また唯円の)もの(所有するもの)ということはできません。すなわち、親鸞にとっての信心は、
 「如来(アミダ)よりたまわりたる信心」(第六章・後序)
だからであります。したがって、「おもいたつ心」がおこるということは、アミダの心(如来よりたまわりたる信心・如釆廻向の信心)をこの身に獲て「念仏もうさんとおもいたつ」のであります。
 アミダは、それによって真実の人生が成立つところの根底であり、また、そこから真実の人生がはじまるところの根源であります。そして、また、われわれが、そこに向って進んでいくところの人生の家郷であります。だから、アミダの本願は、生命の故郷のよびかけであるといえましょう。親鸞は、そのアミダの「よびかけ」に、めざめた心境を、
 「弥陀の五劫思惟の願(アミダが五劫という長いときをかけて思惟して、念仏をえらびとられた本願)を、よくよく案ずれば(よくよく考えてみると)、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業(多くの、けがれにみちたおこないなど)を、もちける身にてありけるを、たすけん(たすけよう)とおぼしめしたちける(おもいたってくださった)本願のかたじけなさよ」 (後序)
と、常に述懐したといいます。
 ここに、人びとをたすけようと「おぼしめしたちける本願」(おもいいたってくださった本願・すなわち、我が国に生まれんと欲えというよびかけ)とあるアミダの心が、第一章には、念仏もうしてアミダにすくわれようと「おもいたつ心」(すなわち、彼の国に生まれんと願う心)として、現実に「おこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたもうなり(あらゆるものを摂取して捨てないアミダの心が、人生のただなかにあらわれて、わたしたちは、この、かぎりのない智慧ある愛のはたらきに、生かされるものとなるのである)」と表白されます。
 すなわち、たすけようと「おもいたってくださった」アミダの心が、その心を真実に、めぐみ与えようとするはたらき(至心廻向・ししんえこう)によって、たすけていただこうと「おもいたつ心」となります。このように、第一章には、アミダの本願とその成就(実現)のはたらきが、呼応しつつ一体であると説かれるのであります。
 そして、第三の問題は、その、おもいたつ心の「おこるとき、すなわちアミダの摂取不捨の利益をうける」と述べられる点であります。これは、さきに記したとおり、本願の成就の文に
 「彼の国(アミダの世界)に生まれようと願えば、即ち往生を得て(たちどころにアミダの世界に生まれるものししなり)、不退転に住する身となる(ふたたび退転することのない確固不動の地位につく)。」とあったのと照応するものであります。
 親鸞の解釈によれば、「おこるとき、すなわち」とは、即時に、即刻にという意味であり、また、すなわち(即)とは、即位する。とでもあります。『一念多念文意(もんい)』をみますと、「即ち往生を得て」という文が、
 「即は、すなわちという、時を経ず日をも隔てぬなり。また即は、つくという、その位に定まりつくという語なり。得は、うべきことを得たりという」
と釈されております。これによって明らかなとおり、第一節には、アミダの本願を「信じて、念仏もうさんとおもいたつ心のおこるとき、すなわち」即時に、現生に不退の位に即き、あらゆるものを摂取して捨てないアミダ(永遠絶対)の利益を得るのである、ということが語られるのであります。

     d 信心とその利益

 さて、次いで第二節には、さきに説かれた「念持(ねんじ)の道」(すなわち、すくいの実現)をうけて、めざめの肝要であることが強調されます。
 源信僧都は
 「我も(また)、彼の(アミダの)摂取(すくい)の中に在れども、煩悩に眼を障えられて、見たてまつらずと(いえど)も、大悲(アミダの心)(ものう)きこと無くして、常に我を照らしたもう」(正信偈より)
と表白していますが、これは、アミダのすくいにめざめたところの「自覚」を語るものであります。これを従来、信心(しんじん)為本(いほん)(信心をもって根本とする)と了解するのであります。
 そして、第三節には、その、めざめの内景が、アミダの本願は「悪人を正機(正客)とする」と明らかにされます。それを、後序には「そくばくの業(たくさんのけがれにみちたおこないなど)をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願」と述べてありました。これが悪人正機の本願であります。
 このように、念仏の信心と、信ある人(機)を明らかにしながら、第四節には、「善もほしからず、悪もおそれなし」と、信念ある人の不退の心境が述べられます。信心とは、澄浄(ちょうじょう)なこころまことのこころ、疑いのないこころ、なにものにもやぶれず、かたむかず、みだれぬこころであります。まことに、真実の信心は、この汚濁動乱の世界に、アミダの浄土を開く要の門であります。
 しかしながら、この信心を獲て、不退の人となることは、実に容易なことではありません。なぜならば、衆生とは、罪悪の身の別名だからです。衆生とは、煩悩の中に生まれ、煩悩に育てられた存在だからです。それなればこそ、親鸞は、信心為本(めざめを肝要とする)と教えるのであります。
 「信の巻」のはじめをみますと、
 「然れば、常に悩みに沈む凡愚(ぼんぐ)(おろかな人びと)、業にさすらう群生(ぐんじょう)(人びと)も、無上の妙果が成りがたいのではない。ただ、真実の信楽(しんぎょう)(信心)が、実に()がたいのである。」(口語訳教行信証)
 
註 「然るに、常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じ難きにはあらず、真実の信楽、実に獲ること難し」
と歎じてあります。
 「凡夫が、さとりを得るということは、難いことではない。如来(アミダ)の願力(本願の力)があるからである。されど、その願力を信ずるということは、甚だ難い。信ずるとは、この身にいただくことであって、われらの力にて(おこ)し得ることでないからである。
 これをひるがえせば、さとりやすぎは自力でないからであり、信じ難きは、自力をたのむ心が離れないからである。さとりやすきも道理、信じ難いことも道理、その一つである道理の前にわれらは、自覚をせまられているのである。」(口語訳教行信証)
 しかし「もし信をうれば」と親鸞はいいます。
 「たまたま、かかる浄信(きよらかな信心)を獲れば、この心は顛倒(さかさま)でなく、この心は虚偽(いつわり)ではない。これによって、極悪深重のわれらも、大慶喜心(だいきょうきしん)(おおいなるよろこび)を得て、もろもろの聖尊(ほとけたち)重愛(いとしみ)()るのである」
 
註 「遇、浄信を獲ば、この心顛倒せず、この心虚偽ならず。ここを以て、極悪深重の衆生、大慶喜心を得、緒の聖尊の重愛を獲るなり」
と、獲信の(信をえた)よろこびを語っております。
 すなわち、信をうれば、もろもろの聖尊の「重き愛を獲て」、この現生に与えられた業をつくして、生きるのであります。その自信ある生活を第四節には「善もほしからず、悪もおそれなし」というのでありましょう。
 さらに、親鸞は
 「金剛のようにかたい信心をうるものは、ただちに、地獄や餓鬼や畜生などの、まよいの世界(五趣・ごしゅ)をこえ、仏法を聞くことのできない境界(八難・はちなん)をはなれる。そして、必ず現生(げんしょう)に十種の(やく)をうる」(信巻の取意)
 
註 「金剛の真心を獲得する者は、横に五趣八難の道を超え、必ず現生に十種の益を獲」(信巻)
ともいっております。すなわち
 一 神がみにまもられる益 (冥衆護持益・みょうしゅごじのやく)
 二 最高の徳をそなえもつ益(至徳具足益・しとくぐそくのやく)
 三 悪を転じて善とする益(転悪成善益・てんまくじょうぜんのやく)
 四 あらゆる仏たちにまもられる益(諸仏護念益・しょぶつごねんのやく)
 五 あらゆる仏たちにたたえられ愛される益(諸仏称讃益・しょぶつしょうさんのやく)
 六 アミダの心に常にまもられる益(心光常護益・しんこうじょうごのやく)
 七 心に多くのよろこびをうる益(心多)、益・しんたかんぎのやく)
 八 いのちの根源を知って感謝することのできるものとなる益(知恩報徳益・ちおんほうとくのやく)
 九 つねに慈悲あるおこないのできる益(常行大悲益・じょうぎょうだいひのやく)
一〇 かならずブッダになる身となる益(入正定聚益・にゅうしょうじょうじゅのやく)
など、十種の益をうるのであります。
 あるいは、信心をうれば「(よこさま)に(一念というみじかいあいだに、ただちに)四流(しる)超断(ちょうだん)する」ともいいいます。四流とは、(一)生・老・病・死の苦悩であります。また、(二)風波に荒れる四つの大きな河、すなわち
 一 名利(名誉や利益)を追求する欲望(欲)
 二 自己の存在に関する深い執着(有)
 三 智慧をともなわぬ主義・主張(見)
 四 いのちのはじめとおわりを知らぬ無明(無明)
であります。そして、また歎異抄の第七章には、
 「念仏者(ねんぶつしゃ)は、無㝵(むげ)一道(いちどう)なり(さわりのない一すじのみちである)。」
といい、「信心の行者(念仏を信ずる人)には、天神・地祇(ちぎ)(天のかみ、地のかみ)も敬伏(きょうぶく)し、魔界・外道(悪魔と異教)も障㝵(しょうげ)することなし。罪悪も業報(ごうほう)(おかした罪悪の結果)を感ずることあたわず、諸善もおよぶことなきゆえに、無㝵の一道なり」とあります。これらは、みな、親鸞が、念仏を信ずるところに与えられる利益を、つぶさに明らかにしょうとして、ことばをつくして語られるものにほかなりません。
 いま、それを第四節には「善もほしからず、悪もおそれなし」と表現されるのであります。この「他の善も要にあらず」ということは、他をかえりみて自分と比べる必要もないということでありましょう。そして「悪をもおそるべからず」とは、与えられたこの人生に真に安んずるということと解されます。すなわち、信をうるということは、このような心境をもって、無上の妙果(みょうか)(アミダのさとり)に向う人となるということであります。
 アミダの本願の念仏は、人生における、いわゆる善悪の相対をこえた絶対善であります。すなわち、本願の念仏は、善悪の彼岸のことばであります。だから、本願を信じて、なお、どうして善が必要でありましょう。どうして悪を畏れることなどありましょう。アミダの本願のはたらきが、人間の自性としての絶対悪にめざましめるのであります。
 したがって「他の善も要にあらず」ということは、いま現にかくある生以外のものを必要としない、ということと解されます。自覚ある悪人にとって、いわゆる善は、自己とかかわりのない仮偽(けぎ)のもの(かりのもの、いつわりのもの)であります。信ずることは、「深く自身を信ずる」のでありますから、この信ずることのできる自身のほかに、なお且つ善を必要とすることなど、ありえないわけであります。
 そして「悪をもおそるべからず」ということは、いま現にかくある生を、(おそ)れるなということでしょう。ここにいう悪人とは、いわゆる悪い人のことではなく、悪が人であるような人を意味します。すなわち、アミダの本願は、このような「悪人」を正機(正客)として、無畏(むい)(なにものにもおそれのない)の心を開く、これが現生に不退の心境であると語っているのであります。
 
註 信心の利益に関聯(かんれん)して、親鸞には、現世利益和讃(げんぜりやくわさん)十五首があることも忘れてはなりません。その一首、「南無阿弥陀仏をとなうれば、この世の利益きわもなし、流転輪廻(るてんりんね)のつみきえて定業中夭(じょうごうちゅうよう)のぞこりぬ」。


目次に戻る /ページ先頭/ 次に進む