2 第二章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
  目  次  
 1 序・第一章  
 2 第二章  
 まえがき
  一 第二章の一  
  二 第二章の二  
  三 第二章の三   
  補 説   ◀
   1 歎異抄の時代
   2 歎異抄の構成
   3 歎異抄と観無量寿経
   4 歎異抄と教行信証
   5 第一章について
   6 第二章について
 3 第三・四・五章  
 4 第六・七章  
 5 第八・九・十章  
  謝  辞  
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補説 歎異抄の諸問題


  3 歎異抄と観無量寿経

     a 観無量寿経の精神の歩み

 古来、歎異抄は、観無量寿経系の聖典であると解されてきました。たしかに、第二章以下、各章には、観無量寿経の教えと、その解釈の書から受けた影響を明らかに認めることができるのであります。
 この『歎異抄の世界』第一巻の「諸問題」において、「歎異抄の魅力」は「親鸞の自信」を表白するところにあると述べました。そして、その自信とは、アミダの本願を信ずることによって親鸞の「自身を深信する」こと、すなわち、決定(けつじょう)して深く信ずることのできるような自己自身を知ることでありました。その深信(じんしん)(ふかくしんずること)とは、周知のとおり、中国の善導が聞きとった、観無量寿経の教えのこころであります。
 つまり、経典には
 「アミダの世界に生まれるには、三種(さんしゅ)の心を発さねばならぬ。一は、至誠心(しじょうしん)(至誠をつくす真実の心)、二には、深心(深く信ずる心)、三には、廻向発願心(えこうほつがんしん)(日頃のおもいを転じて、アミダの世界をねがう心)で ある。この三心を具えるものは、必ずアミダの世界に生まれる」(正宗分散善上輩観の取意)とありますが、この「深心(ふかきこころ)」を、善導は、「深信(ふかくしんずる)(こころ)」と了解されました。その教えの伝統が、第二章には、
 「弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教(念仏せよという教え)、虚言(きょごん)なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈(おんしゃく)(観無量寿経に説かれることは、アミダの本願の意にてらせば、念仏せよということに帰するという解釈)、虚言したもうべからず、善導の御釈まことならば、法然のおおせ(善導の教えにしたがえということ)そらごとならんや、法然のおおせまことならば、親鸞がもうすむね、またもてむなしかるべからずそうろうか」
と語られるのであります。
 これによって明らかなように、親鸞の自信は、「ただ念仏して」という、「よきひと」法然の教えにあうことによって()られたものであります。その教えが、第二章の冒頭に、端的に
 「弥陀(みだ)誓願(せいがん)不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏もうさんとおもいたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨(せっしゅふしゃ)利益(りやく)にあずけしめたもうなり」
と述べてあります。すなわち、この一節は、親鸞の聞いた「よきひと」の教えであります。しかも、それは、親鸞が語ることばでありますから、それは、教えに聞く親鸞の了解であり、また、それを聞く唯円にとっては「よきひと」の教えにほかならぬのであります。
 この「弥陀の誓願」にはじまる一節は、アミダの本願の「すくい」を明らかにすることばですが、そのアミダの救済が「摂取不捨の利益」として実現する、と、説かれる点に注意せねばなりません。「摂取して()てず」(摂取不捨)とは、他の一切を自らに包み(包摂し・摂取し)内に包んだ他をもって自とする(編入する・不捨である)ことを意味します。つまり、これによって、アミダの、「智慧ある愛のはたらきがもたらす恩恵」が語られているのであります。
 ところが、周知のとおり、ここに、アミダの心を「摂取不捨」と語ったのは、観無量寿経(第九真身観)の文
 「無量寿仏(アミダ仏)の、……一々の光明、(あまね)十方(じっぽう)世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまわず。……仏心(アミダ仏の心)とは大慈悲これなり、無縁の慈をもって、もろもろの衆生を摂す」
とあるものによったのであります。
 そして、その利益が「念仏もうさんと思いたつ心」に与えられるということは、善導大師が、この経文(および阿弥陀経の正宗分の文)によって
 「ただ念仏の衆生をみそなわして、摂取して捨てざるがゆえに、阿弥陀と号す(アミダという)」(往生礼讃)
と、釈されたこころを受けたものであります。
 このように、歎異抄の生まれる背景には、観無量寿経と、その解釈の歴史があるのであります。もちろん、歎異抄は、同朋の唯円に聞きとられた親鸞の語録であり、日本のことばで綴られた宗教書でありますが、それは、観無量寿経の精神の歩みから生まれ出て、日本人の血肉にまでなった聖典であります。その意味において、歎異抄は、日本の大地に開花、結実した観経であり、日本のことばで書かれた観経であるとすらいえるかと思うのであります。

     b 福と四、五、六章の関係

 歎異抄と観無量寿経の関係は、さらに各章のなかから、問題点をとりあげることができるのでありますが、その一に、たとえば、次のような問題があります。すなわち、第四、第五、第六の三章は、観無量寿経のはじめ(序分・散善顕行縁・散善は行を顕わすの縁)に説かれる三福(一は世福・せふく、二は戒福・かいふく、三は行福・ぎようふく)に深いかかわりがあるということであります。
 たとえば、了祥師は、さきに述べたとおり、親鸞のことば(師訓)の前三章を「安心訓(あんじんくん)」とよび第四章以降を「起行訓」としましたが、そのうち、ことに第四、第五、第六章は、利他の(他を利益する)はたらき、第七、第八、第九章は、自利の(自らを利益する)はたらき、そして第十章は、自利利他円満の(自他ともに利益を満足する)世界を示すものと解します。そして、
 第四章――第一世福の慈心不殺(慈悲の心をもって殺生しないこと)
 第五章――第一世福の孝養父母(きょうようぶも)(父母に孝養すること)
 第六章――第三行福の勧進行者(かんじんぎょうじゃ)(道を求める人を勧め励ますこと)
と、それぞれを配して理解しようとしております。
 思えば、観無量寿経は、マカダ国の王妃(おうひ)、イダイケ(韋提希)夫人が、あの「王舎城の悲劇」とよばれる、いたましい事件を機縁として、アミダの世界に救われていくことを説く経典であります。つまり、イダイケ夫人は、その悲劇の渦中から、ブッダ釈尊の導きによって、発心して
 「わたしは、いま、(さち)ある国の、アミダ仏のみもとに生まれたいと願います」(欣浄縁(ごんじょうえん)の意訳)
と表白して、アミダの道をたずねます。それにたいして、釈尊は
 「イダイケよ、そなたは、いま、このことを知っているのであろうか。そなたの求めるアミダ仏は、ここから遠いところにましますのではない」(散善顕行縁の意訳)
と述べ、さらにことばを重ねて
 「かのアミダの世界に生まれたいとおもうものは、次のような三福(さんぷく)(三とおりのおこない)を、かならず修めねばならない。まず第一には、父母に孝養をつくし(孝養父母)、師匠や年長者に心からつかえ(奉事師長)、慈しみの心をもって、みだりに生きものを殺さず(慈心不殺)、かずかずの善いおこないを修めること(修十善業)である。……第二には……。第三には、大乗の経典をよく読んで了解し(説諭大乗)、人びとにも、その道を勧めること(勧進行者)である」
と説きつつ「汝、今、知るや(いな)や、此の三種(さんしゅ)の業(三福のこと)は、過去・未来・現在の三世(さんぜ)の諸仏の浄業の正因なり」と教示されています。
 いうまでもなく歎異抄は、現実の生活に即しつつ、人生の問題を根本的に解決するという信仰の書であります。したがって、いま、念仏生活の展開をとおして、その自覚の徹底を期そうとするにあたり、まず、われわれの生活に身近な三福のなかから、とくに世福をとりあげて、これを手がかりとするのでありましょう。了祥師は、第六章を第三の行福(勘進行者)にあたるものといいますが、むしろ、これは世福のなかの「師長に奉事せよ」とあるものに当るものと思われます。したがって、これは、

と、配することができましょう。ここには歎異抄の深い配意が感ぜられるのであります。
 しかも、この世善の中から、まず「慈心不殺(じしんふせつ)」が、そして「孝養父母(きょうようぶも)」と「奉事師長(ぶじしちょう)」がとりあげられます。それは、観無量寿経の三福を、一応の手がかりとはするが、説いて明らかにしようとする本意は、「真実のいのちの根源は、アミダの本願にあることを知れ」ということでありましょうか。

 第四章に説かれる愛の真実(すなわち慈悲の真実・すなわち寿命の真実は、アミダの心であります。それを観無量寿経には、「仏心(ぶっしん)(アミダの心)とは、大慈悲これなり」といい、「念仏の衆生を摂取して捨てず」といってあったのであります。
 そして、その、愛(慈悲すなわち寿命)のはたらきが、「父母(ぶも)孝養(きょうよう)」を契機として、さらに深く真実の歴史(歴史観・世界観)にいざなうことを説くのが第五章でありましょう。また、その、いのち(寿命すなわち慈悲)のはたらきが、「弟子一人ももたぬ」という自覚を与え、それによって真の社会(社会観・世界観)を見開かしめると説くのが、第六章であると了解することができます。

     c 歎異抄の顕説と密意

 上記のとおり、歎異抄は、観無量寿経の精神の歩みが生んだ聖典であり、それを、さきには、日本のことばで書かれた観経(かんぎょう)であるとまでいったのであります。しかしながら、ここにいうところの観無量寿経は、日本の生んだ最高の宗教書、思想書というべき親鸞の『教行信証』と、内面的に深い関係をもつものであります。すなわち、親鸞によって読みとられた観無量寿経の精神が、歎異抄の底を流れていると解すべきであります。
 それについて、法然が
 「往生浄土(アミダの世界に往き、アミダに生かされて生きること)を明かすの(きょう)というは、三経一論(さんぎょういちろん)これなり。三経というは、一には無量寿経、二には観無量寿経、三には阿弥陀経なり。一論というは、天親の往生論これなり。」(選択集教相章)
と決定されたことに注意せねばなりません。なぜならば、この法然の了解は、親鸞にとっての教えであるからであります。
 この、教えとして聞いた法然の解釈においては、三経はひとしくみな、アミダの世界に生まれるための真実の道を明らかにするものであり、三経に説かれるところに差別はありません。すなわち、真実と方便(真実と、それを明らかにするための手だて)との区別はないのであります。
 ところが、その教えを受け、その数えのなかで育まれた親鸞は、三経にたいする了解を深め徹底していくのでありますが、それを教行信証(化身土巻)に記しております。それによりますと
 「釈家(しゃくけ)の意(観無量寿経を解釈された善導の意)によって、無量寿仏観経を按ずれば、顕彰隠密の義(あらわに説くことと、かくしつつ説くこと)あり」
と述べてあります。つまり、善導の指導によって観無量寿経を読めば、経の表面に顕説(けんせつ)する(あきらかに説く)ことと、その内に秘めた経文の密意(この経典が説かれる本意)とがあることがわかるといいます。そうして、これをもって
 「方便真実の教なり」(方便の教えを説きつつ、そのままが真実を顕らかにすりり教えである)
と親鸞の己証(こしょう)を明らかにしています。
 いま、この教行信証にみられる親鸞の、観無量寿経の読みとり方をもって、歎異抄をみるならば、やはり歎異抄にも、「表に、あらわに説くこと」と「裏に、秘めつつ説かれる本心」とがあるのに気づきます。すなわち、顕説されることのみが、説かれるもののすべてではありません。
 「隠密のままに彰わされる聖典の本心を聞きあてよ」というのが、親鸞の教えであります。
 たとえば、それを、第三章の表現の上にみることができましょう。あの
 「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを、世の人つねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや」
という表白は、歎異抄のなかでも、ことに人口に膾炙(かいしゃ)された有名なことばですが、
 「よりて善人だにこそ往生すれ、まして悪人は」
という述懐をもって結ばれる第三章には、親鸞の、自身に徹底する自覚がとらえたところの、人間観が明らかにされております。
 ここで注意しようとするのは、まず「善人なおもて往生をとぐ」と、善人の存在を認めながらそれをうけて「いわんや悪人をや」と展開するということ。すなわち、「往生する人」に善人あり悪人ありとする点であります。
 このように、一応、善人と悪人を相対させながら「自力作善(じりきさぜん)の人(善人)は……自力の心をひるがえして、他力をたのみたてまつれば(その自性としての悪人であることにめざめるならば)……往生をとぐ」と結論します。すなわち、ひとまず「善人なおもて往生をとぐ」と、救済の可能性を示しながら、やがて「いわんや悪人をや」と、悪の自覚の徹底へといざなうのであります。
 また、第四章においても、まず
 「慈悲に聖道・浄土のかわりめあり」
と述べて、二種の慈悲が示されています。ところが
 「聖道の慈悲というは……始終(しじゅう)なし(一貫しない。という意味で真実ということはできない)。……しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる(徹底した、という意味で真実の)大慈悲心にてそうろう」
と、人間の愛から、愛の真実へと導くのであります。まことに、すぐれた聖典は名鐘のごときものであります。小さく叩けば低くこたえ、大きく求めれば高くこたえつつ、鐘声は、梵音(ぼんのん)(さとりの声)を伝えます。
 このように、歎異抄は、浄土の三部経のうち、ことに観無量寿経の影響を強くうけて生まれたものですが、しかし、ここにいうところの観無量寿経は、親鸞の教行信証を離れては考えることのできないものなのであります。


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