2 第二章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
  目  次  
 1 序・第一章  
 2 第二章  
 まえがき
  一 第二章の一  
  二 第二章の二  
  三 第二章の三   
  補 説   ◀
   1 歎異抄の時代
   2 歎異抄の構成
   3 歎異抄と観無量寿経
   4 歎異抄と教行信証
   5 第一章について
   6 第二章について
 3 第三・四・五章  
 4 第六・七章  
 5 第八・九・十章  
  謝  辞  
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補説 歎異抄の諸問題

  1 歎異抄の時代

     a 親鸞の生涯

 日本の歴史を概観すると、親鸞の生きた一二世紀後半から九〇年の間は、史上まれにみる大きな時代の転換期であったことが知られます。
 すなわち、それは、藤原氏を中心とする貴族階級に代って、新しく武士階級が抬頭して政治権力をにぎることとなる時代であり、古代社会から封建社会へと大きく移行する時代にあたるわけであります。したがって、親鸞の生きた時代は、それから約七世紀もの間続くところの、封建時代胎動の時期であったともいうことができましょう。
 しかも、その時代は、われわれ日本人が体験した歴史の転換期として、政治史的にも、精神史的にも、明治維新以来の百年間に比べて、まさるとも劣らぬほどの重要な意義をもつ時期でもあったのであります。
 親鸞が生まれたのは、一一七三年(承安三)ですが、それは平氏が政権をにぎった平治の乱(一一五九・平治一)から一四年を経て、その勢力がもっとも盛んだったときにあたります。しかし、古代社会の最後の政権担当者として登場した平氏の権勢も、さほど長くは続きませんでした。その推移を年表にすれば、次のようになります。

―――(一一七三・承聖二) この年、親鸞は藤原氏の末裔(まつえい)、日野有範(ありのり)の長子として誕生したと伝えられている(伝絵)。
 三歳(一一七五・安元一) 春、法然が専修念仏を唱えた。九月、京都大風。
 四歳(一一七六・安元二) 四月、大地震。
 五歳(一一七七・治承一) 四月、京都大火。六月、平清盛は、院の近臣が鹿ヶ谷(ししがたに)で陰謀するのを知り、これを捕えた。僧俊寛らを喜界ケ島に流す。
 七歳(一一七九・治承三) 七月、平重盛、没する。一一月、大地震。
 八歳(一一八〇・治承四) 四月、源頼政は以仁王(もちひとおう)(後白河の第二皇子)の令旨を諸国の源氏に伝え、五月決起したが、以仁王、源頼政らは、宇治川の合戦で敗れた。六月、清盛は、福原への遷都を強行。八月源頼朝が伊豆で挙兵、石橋山で敗れた。九月、源義仲が木曾で挙兵。一〇月、平氏は富士川の戦いに敗れた。一一月、都を、ふたたび京都にかえす。一二月、平重衡ら、東大寺・興福寺を焼打ちした。
 九歳(一一八一・養和) 二月、平清盛、没する(六四才)。春、親鸞は、青蓮院の慈円のもとで得度して、範宴(はんえん)と号し、比叡山にのぼる(伝絵)。
一〇歳(一一八二・寿永一) 一月、京都飢疫、死者多数。
一二歳(一一八四・寿永三) 一月、源範頼・義経は、近江粟津で義仲を敗死させた(三十一)。二月、平氏は、一の谷の合戦で敗れた。
一三歳(一一八五・文治一) 二月、屋島の合戦、三月二四日、壇ノ浦の合戦で、平氏は敗れて滅亡した。
一七歳(一一八九・文治五) 四月、義経は、藤原秀衡の後嗣、泰衡に襲われて自殺(三十一)。九月、奥州の藤原氏が滅亡した。
一八歳(一一九〇・建久一) 頼朝は二月上洛、一二月には鎌倉に帰る。
一九歳(一一九一・建久二) 栄西が宋から帰国。九月、親鸞は、磯長の聖徳太子廟に参籠したと伝えられる(高田正統伝)。一二月、兼実が関白となる。
二〇歳(一一九二・建久三)  三月、後白河法皇、没する。七月、頼朝が、征夷大将軍となった。一一月、熊谷直実が出家した。


 こうして、平氏に代って政権の座についた源頼朝も、一一九九年(正治一)には、五三歳で没しますが、その直後、一二〇一年(建仁一)、二九歳の親鸞は、比叡山を出て、洛中の六角堂で百か日の参籠を行い、聖徳太子の示現(じげん)を得て、法然をたずね、その門に入ります。しかし、その間にも、社会では、源氏将軍の二代にわたる暗殺や、北条執権政治の確立、古代政権にたいして痛撃を加えた承久の乱(一二二一・承久三)などが相次いでおこり、動乱の果てることがありません。
 いま、その時代のことについて、これ以上多くの紙筆を費す余裕はありませんが、これら一連の歴史的激動は、ことに親鸞の前半生におこっていることに注意したいと思います。それは、そのことが、『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』の後序に
 「然るに、愚禿釈の鸞(すなわち親鸞)、建仁(けんにん)(かのと)(とり)(れき)(一二〇一・建仁一)、雑行(ぞうぎょう)(念仏以外の一切の宗教行)を棄てて、本願(アミダの本願)に帰す」
とあるとおり、聖道(しょうどう)(ひじりの歩む道)の仏教と訣別して、アミダの本願を説くことを生命とする念仏の教えに生きぬくことと、深いかかわりがあると思うからであります。
 爾後(じご)、六〇年の間、親鸞は、越後に東国に、有縁のままに流行(るぎょう)して教化の旗を続けました。それは、浄土の真宗の証道を体現(たいげん)することによって、時流の表面にかくれて見捨てられた無告(むこく)の大衆(自由に意志表示のできぬ人びと)に、救済の自覚を明示するためであったといえましょう。そして、一二六二年(弘長二)一一月二八日、親鸞は、京都の善法院において、その長かった九〇年の生涯を静かにおえたのであります。

     b 親鸞とその同行

 ところで、『歎異抄』は、すでに述べたとおり、親鸞の減後、さらに二〇年、あるいは二五年(あるいは三〇年か)を距てた後に書かれたものと推定されます。その頃の日本は、文永(一二七四・文永二)と、弘安(一二八一・弘安四)の両役という未曾有の国難を、からくも克服したところの、いわゆる戦後の時代に相当するわけであります。そして、また、鎌倉仏教の各宗の祖師たち、すなわち、法然(一二一二没)、道元(一二五三没)、日蓮(一二八二没)など、すでになく、一遍(一二八九没)も最晩年の日々を過していたのでありましょう。つまり、各宗それぞれの流れを汲む人びとが、祖師たちの教えを、いかに受けつぎ伝えるかを課題としていた頃のことであります。
 ことに、それらの流れのうち、全国各地で盛大に受けいれられたのは法然の専修(せんじゅ)念仏(ねんぶつ)の教えでありました。その代表的な人びとには、西国筑紫の聖光房(しょうこうぼう)弁長(べんちょう)(一一六二~一二三八・その流れが鎮西派(ちんぜいは)で、今日の浄土宗)。京都山城の西山(せいざん)善恵房(ぜんねぼう)証空(しょうくう)(一一七七-一二四七・今日の浄土宗西山派)があり、このほか、『歎異抄』に名のみえる勢観房(せいかんぼう)源智(げんち)(一一八三-一二三八)や、洛東長楽寺の隆寛律師(りゅうかんりっし)(一一三八-一二二七)など、その他多くの人びとの名をあげることができます。
 さて、親鸞は、一二一四年(建保二)の頃から、一二三五年(嘉禎一)に至るまでの約二〇年を、関東に過して伝道教化したのでありますが、その、親鸞の、関東における布教の結果は、いったいどのようなものだったでしょうか。それについて、笠原一男氏は「親鸞の直弟子の一人に、常陸国の奥郡というところに、大部(おおぶ)中太郎(ちゅうたろう)という坊主がいた。かれは、『親鸞聖人門侶交名牒(もんりょこうみょうちょう)』にも、名をのせてもらえぬほどの目立たない存在であった」。この中太郎が入信させた念仏者の数は百人をくだらないというところから「親鸞の布教活動が、二〇年をすぎ、さらに帰京後をつうじて、全関東や奥州で、少なくとも十万の人びとが念仏の信者となって組織された」(親鸞研究ノート)と結論されております。
 いずれにせよ、当時、すでに相当数の同朋がいたわけでありますが、では、その人びとは、どこに、どのように組織されていたのでしょうか。『門侶列名』(藤島達朗編)によれば、『門侶交名牒』によるもの計四八名があるとして、それぞれ、下野国(しもつけのくに)(栃木県)に七名、常陸国(ひたちのくに)(茨城県)に二〇名、下総国(しもふさのくに)(茨城県)に三名、奥州に七名、そして、武蔵(むさし)(埼玉県)、越後(えちご)(新潟県)、遠江(とうとおみ)(静岡県)に各一名、洛中(京都)に七名。そして、『二十四輩牒』にあって『交名牒』にみえぬもの五名、その他の史料によるもの二三名、合計七六名の名があげられております。
 親鸞は、常陸の稲田(茨城県笠間市稲田町)に草庵をむすんで、そこを教化の中心にしましたが、上記の人びとは、それぞれ各地に門徒の団体をつくって、親鸞の教えを受けていました。その門徒の代表的なものは、次のとおりであります。 

  1. 横曾根(よこぞね)門徒真下総国(茨城県)利根川の東部、飯沼の南にあたる地方で、早くから親鸞の同朋となった性信(しょうしん)(一一九一-一二七五)を指導者とする門徒です。また、この近くには蕗田(ふうきだ)門徒、佐島門徒もいました。
  2. 高田門徒真下野国(栃木県)大内庄高田を中心とする門徒で、真仏(下野の国司大内国春の息男)と、その姉婿となった顕智を指導者としました。
  3. 鹿島(かしま)門徒真常陸国(茨城県)の鹿島、行方(なめかた)地方の門徒で、順信を筆頭に、浄信、真浄などがいました。そして、『歎異抄』の筆者とされる唯円は、稲田から鹿島への中ほどに位置する河和田(かわだ)(水戸市河和田町)に住んでいたのであります。

 これら東国の同朋にたいして、親鸞は、帰洛後もずっと、その生涯を終えるまで、教化指導を続けておりました。そのことは、残された書簡集(末燈鈔・親鸞聖人御消息集)や、あるいは『一念多念文意』・『唯信鈔(ゆいしんしょう)文意』などの文献から具さに知ることができます。たとえば、「正嘉(しょうか)元歳(がんさい)丁已(ひのとみ)八月六日書写之(これをしょしゃす) 愚禿(ぐとく)親鸞 八五歳」と記した『一念多念文意』の奥書には、
 「いなかの人びとの、文字のこころも知らず、あさましき愚癡(ぐち)きわまりなき故に、やすく心得させんとて、同じことを、とりかえしとりかえし書きつけたり。心あらん人は、おかしく思うべし、あざけりをなすべし。然れども、人のそしりをかえりみず、一向に、おろかなる人びとを心得やすからんとて、しるせるなり」
とあります。また、同年の八月一九日、あるいは前年の三月二四日に書いた『唯信鈔文意』にもほとんど同文の奥書がみられます。親鸞の撰述書写の活動は、八三、八四、八五歳の三か年が特に顕著でありますが、この、なすべきことをなしおえずにはおかぬという志願の貫徹は、また、同朋たちへの慈愛の発露であったというべきでありましょう。
 八四歳のとき、親鸞は、五月二九日付で、慈信房善鸞(ぜんらん)(親鸞の長子)に書状を送り、父子の縁をたつと申し送っております。すなわち異義をたてて常陸・下野の門徒を誘惑したかどで義絶(かんどう)するのであります。そして、また、同行の性信(しょうしん)(横曾根門徒の代表者、善鸞事件で活躍した人)にも書状を送って、このことをつげるとともに、門徒に廻覧するよう伝えております。その晩年の悲劇的な事件のなかから、ことに撰述書写に専念した親鸞の実践力に驚歎せずにはおれません。
 このように、激動する社会の、思想的、精神的な混乱のなかで、指導者とたのむ親鸞に去られた同朋のリーダーたちは、門徒の統制に苦慮したにちがいありません。それなればこそ、親鸞は年老いてなお、遠く離れた東国の同朋たちに憶いをかけつつ、切々たる情のこもる便りを送って疑い惑いをはらそうとしたのであります。

     c 歎異抄の時代

 しかしながら、親鸞が在世してすら、なお、異義が行われたのですから、親鸞なきあと、二〇年、二五年と経るにしたがって、念仏にたいする疑惑や異端が増大したであろう様子を想像することは、さほど困難なことではありません。それは、唯円が、
 「そもそもかの御在生(ございしょう)の昔(親鸞の生きておられたころ)、同じこころざしにして、(あゆ)びを遼遠(りょうおん)の洛陽(ここでは関東からみた京都)にはげまし、信を一にして心を当来の報土(まさに来るべきアミダの世界)にかけしともがらは、同時に御意趣(ごいしゅ)をうけたまわりしかども、その人びとにともないて念仏もうさるる老若(ろうにゃく)、その数を知らずおわしますなかに、聖人のおおせにあらざる異義どもを、近来(きんらい)は多くおおせられおうてそうろうよし、伝えうけたまわる」。
とのべて、八か条の異義をあげ、そして
 「一室の行者(同じ念仏の教えに結ばれた人びと)のなかに、信心異なることなからんために、なくなく筆をそめて、これをしるす。名づけて歎異抄というべし」
と書き綴った心境にも、同感されることであります。
 このように、唯円が「先師口伝(くでん)真信(しんしん)(親鸞から直接教えていただいたほんとうの信心)に(ことな)ることを(なげ)き」「ひとえに同心(どうしん)の行者(同じ心で道を求める人びと)の不審を散ぜんがため」にと、『歎異抄』の筆をとっている頃、すなわち、一二八三年(弘安六・親鸞滅後二一年)一一月、親鸞の末娘の覚信尼(かくしんに)がなくなりました。
 かえりみますと、親鸞は、一二六二年(弘長二)の一一月二八日、晩年の生活をともにした王御前(おうごぜん)(後の覚信尼)と、たまたま上洛してきた兄の信連房(しんれんぼう)など、ごく少数の肉親と同朋にみとられてなくなりますが、翌二九日には、洛陽東山に葬送されたと伝えられております。その後、覚信尼の奔走と、門侶たちの合力によって、大谷の地に廟所がつくられて、あたかも在世する親鸞に仕えるように祖廟が維持されたのであります。
 ところが、覚信尼がなくなって後、同朋たちにかわって、廟所の給仕・維持を代行する留守職(るすしき)に、だれが選ばれるかが問題となりました。そして遂に、一三〇八年(延慶三・親鸞減後四六年)には問題が表面化し、その相続をめぐる内争のために、唯善(覚信尼と小野宮禅念との間の子)と、覚如(覚信尼と日野左衛門佐広綱との間に生まれた覚恵の長子)は、青蓮院で対決して、裁決をあおぐことになったといいます。
 そして、留守職を継いだ覚如は、やがて、廟所御影堂を本寺(本願寺)として、本願寺第三代の地位につくとともに、一二九五年(永仁三・親鸞減後三三年)には『本願寺聖人親鸞伝絵(でんね)』を撰述、次いで、一三二六年(嘉暦一・親鸞滅後六四年)『執持鈔』、一三三一年(弘元一・親鸞滅後六九年)『口伝鈔』一三三七年(建武四・親鸞減後七五年)『改邪鈔』などを著し、また一三四三年(康永二・親鸞滅後八一年)には『伝絵』を完成したのであります。
 森龍吉氏は、その著『本願寺』において、覚如の歴史的位置について批判的に述べたあと、「親鸞が出世してから覚如が本願寺の基礎を確立するまでの、ほぼ二世紀のあいだに、惣領制を社会再組織の原理とした封建社会の初期はおわり、公家と武家の二重的な政権は崩壊をはじめ、全国をつつむ南北朝の内乱につきすすむが、惣領制は解体されはじめても、封建制の基礎である、あらたな家父長制の権威が、在々所々の村落と党の結合のなかでうみ出され、成長しつつ、封建制本来の武家政権を、唯一の政権として確立していった。この世俗の論理を背景として、親鸞に発する真宗教団は、その原始時代をおわり、その本寺たる本願寺をうみ出すのである」
と論じておられます。
 たしかに、そのとき、東国と京都を結んで形成された原始真宗教団の時代は終ったのでありましょう。と同様に、そのとき、数学的にも、原始真宗学ともよぶべき一つのエポックが過ぎ去っていく、ということはできないでしょうか。
 いうまでもなく、親鸞の思想と信仰は、その主著『教行信証』に顕らかにされております。そして、それに関する本格的な解釈書としては、一三六〇年(延文五・親鸞滅後九八年)に、覚如の子の存覚によって完成された『六要鈔(ろくようしょう)』があります。また、存覚には、このほか『持名鈔(じみょうしょう)』『女人往生聞書』『浄土真要鈔』『破邪顕正抄』など、多くのすぐれた著述があるのであります。したがって、原始真宗学といえば、その存覚にまで及ぶものとも考えられましょう。
 しかし、存覚の『六要鈔』に比べて、半世紀以上も早く、また、覚如の著述より数十年も早く書きあげられていた歎異抄には「歎異抄の時代」があったといわねばなりません。曾我量深先生の『歎異抄聴記』には
 「歎異抄には、歎異抄のみの言葉があって、それが一つの時代を画している。浄土真宗では、歎異抄という一時代があるにちがいない」
といって、親鸞と覚如との間に、一時期があると述べてあります。
 『暮帰絵詞(ぼきえことば)』三によれば、唯円は「正応元年(一二八八・親鸞滅後二六年)冬のころ」に上洛して、若い覚如と対面したとありますが、それは、歎異抄を書き終えた直後のことであったのでしょうか。あるいは、歎異抄は、親鸞減後三〇年頃の作とする推定にしたがえば、唯円は、その草稿を懐にしていたことになりましょう。ともあれ、覚如の手になった親鸞の伝記(伝絵)や、その語録(執持鈔・口伝鈔など)は、筆者の唯円や、歎異抄の影響をうけたのであろうことは、それらを一読すれば、容易に首肯されるところであります。
 しかしながら、歎異抄も、また覚如の著述も、ともに「親鸞のことば」を伝えるものであるにもかかわらず、後者は、主として本願寺教団の内で読まれてきたものであるのにたいして、前者は、現にいま教団の枠外に出て、広く世に膾炙(かいしゃ)されつつあることに注意せねばなりません。
 それは、歎異抄が
 「露命(ろめい)(露のようにはかない命が)わずかに枯草(こそう)の身(枯れ草のような老いの身)にかかりてそうろうほどに」「閉眼ののちは(死んでからは)、さこそしどけなきことどもにてそうらわんずらめと(さぞかしとりとめもないことだろうと)、なげきぞんじそうらいて」「一室(いっしつ)の行者のなかに、信心異なることなからんために、なくなく筆をそめて」
としるされたのにたいして、覚如の著述は、本願寺教団を組織するという意図をもって書かれたことによるのでありましょうか。
 その「歎異抄の時代」と七世紀を距てながら、明治以来の百年には、ことに多くの人びとに愛読されて、ここにまた「歎異抄の時代」が出現しつつあるのであります。これこそ、如実に、歴史を貫流するところの不可思議(永遠なるアミダのはたらき)の実在を明証するものであるといわねばなりますまい。


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