2 第二章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
  目  次  
 1 序・第一章  
 2 第二章  
 まえがき
  一 第二章の一  
  二 第二章の二  
  三 第二章の三   ? 
   案内・講師のことば
   講  話  
   座談会  
  補 説  
 3 第三・四・五章  
 4 第六・七章  
 5 第八・九・十章  
  謝  辞  
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三 第二章の三 「ひとりに生きる」


    案内のことば

 たとえば、母校の野球の応援に行ったときの熱い連帯感――たとい、試合に敗れても、ああ残念だったと、それ以上のなにものも求めない無償の喜びは、与えかつ奪うどころか、もっぱら奪うことばかり多い生活のなかで、「ぼくら」という、若い響きのこだまする人間の故郷へ帰っていくことを明示した、一つの道しるべではないでしょうか。火事場のヤジ馬が、他人の尻にのっかってワイワイ騒いでいる無責任な自己不在にくらべて、共同の願いで結ばれた行動をささえる責任感は、すでに責任の重みをこえた無償性をはぐくんでいます。
 前講で「孤独に徹した(にぎ)やかさ」ということがいわれましたが、それが、あきらかに賑やかなのかどうか。その賑やかさが、孤独の幻覚でないためにも、親鸞が北陸で、あるいは関東で孤独の孤独に聞いた働く人びとの無償な連帯の歌を、わたしたちは聞かなければならないし、歌わなければならないのだと思います。
 こんどの集まりは、ひとつ、野球の応援とまではいかなくとも、せいぜい賑やかに――、そう、歌でいえば行進曲(マーチ)風に語り合おうではありませんか。

  昭和三十九年十月二十日                         飯南仏教青年会


     講師のことば

 親しい友人が、自分から去っていくような場合、わたしたちは、その友人をひきとめたりあとを追ったりしないでしょうか。「あなたの自由になさい」と、心からいえるでしょうか。考えてみますと、今日では、信教の自由はもちろんのこと、あらゆる自由が、一応は憲法によって保証されていますが、ほんとうの自由は、なかなか手に入りません。たとえば、人生問題を解決するために、神にすくいを求めれば、神の(しもべ)とならねばなりません。また主義(イズム)を固執すれば、主義(イズム)にしばられます。いつでも、どんな場合でも、依頼心は、やがてそのものの奴隷となる心です。したがって、一人ひとりの自主独立が大切な問題になってきます。
 そのような問題点をよく知っていた親鸞は、第二章の対話を結ぶにあたって「さて、わたしのいうべきことは、いいつくしました。この上は、念仏を信じられようとも、また、おすてになろうとも、あなたがた一人ひとりの、お考え次第、決断次第です」といいます。これを聞いた同朋たちは、混乱する社会(関東の教団)のなかへ、こんどは、自分の足で大地を踏みしめて帰っていけるような、勇気ある人になったのでした。つまり、独立者・親鸞のことばが、独立者を生み出したのです。
 今回は、これが、第二章の帰結であるということを念頭におきながら「ひとりに生きる独立者とはなにか」ということを考えてみたいと思います。


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