2 第二章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
  目  次  
 1 序・第一章  
 2 第二章  
 まえがき
  一 第二章の一
  二 第二章の二  ?  
   案内・講師のことば
   講  話  
   座談会  
  三 第二章の三   
  補 説  
 3 第三・四・五章  
 4 第六・七章  
 5 第八・九・十章  
  謝  辞  
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一 第二章の二 「地獄一定」


   座談会 「孤独について」
                                      司会 小 杉 敏 夫(農協職員)

 司会 今夜のテーマは「孤独について」ということですが、なかなか難しいテーマです。司会があたっているので、さきほどから、先生のお話をいつもより注意して聞いていたんですが、よくわからぬままに終ってしまって、座談会のいとぐちをみつけることができませんでした。

     孤独を感ずるとき

 司会 しかし、親鸞は孤独に徹底して生きたとか絶対孤独に生きた、というような言葉がありましたし、孤独について、いろいろお聞きしましたから、みなさんも、なにか感じられたのではないかと思います。
 それで、孤独というものは、実際には、愛するときとか、仕事の上でとか、いろんなかたちで感ずるものではないかと思います。そこで、みなさんの感じられる孤独の味といいますか、そんなことから話していただいたらと思います。
 森本国 ぼくは、孤独ということを聞くと、すぐさみしさということが頭にピンときます。
 松井 そうですね。孤独ということで、すぐ感じるのは、ひとりぼっちということですね。
 この間も、この境内で盆おどりがあった。その翌朝のことでした。青年はまだ寝ているのに、朝早く青年団の団長さんが、一人で、あと片づけや掃除をしている。これは毎年のことなんですが、それをみていて、責任のある地位につくと、いつも、ひとりということを強く感ずるのでないか、と思いました。一つのグループでも、友だちが沢山いるようでもなにか仕事を計画して一生懸命やろうというようなとき、「いったい、君らは真剣に考えているんか」と、どなりたくなるようなことがありますね。他人をあてにするのは間違いかも知れませんが、けど、一つのグループなんですから――。そんなとき、ひとりなんだなあ、と、つくづく感じることがあります。
 中村常 最近は登山ブームだといわれるが、そんなことを考えてみると、人間には、だれにも、ひとりになりたいという感情がスーッとおこってくるということもあるんじゃないか。
 松井 ひとりになりたいと思うときもあるし、いやおうなしに、ひとりぼっちになることもある。
 野呂賢 その孤独感ですが、なにか精神的に悩みをもって、ひとりで考えぬいて、そして、ひとりではとても解決できないというようなときに、だれか自分の尊敬する人とか、一番の友だちに相談する。それで、自分の思うような満足な解答が得られなかったら、これは自分ひとりで解決せんならん問題なんやなあ、と思う。そんなとき、自分は生まれながらひとりやったんやなあ、と感じます。
 山本正 なにか善いことに向って進もうとするときなど、はじめは共鳴者が多くても、しまいには自分だけになるということが多いですね。
 最近、町会議員の選挙で、この仏教青年会の人々にも応援してもらって、運動員は飲まず食わずということで、ほんとうに公明選挙をしようと、みなで力を合せてやったときにも、孤独感というようなものを感じました。もっと共鳴者があると思っていたのに、終盤になるにつれて、部落の長老や、なかまからも、飲まず食わずでは当選できんのやないかといわれて、それを実行するのは、なかなか困難でした。そして、公明選挙を実行しょうとしている自分が、なにか、さびしい、あわれに感じました。
 司会 いま、山本さんから、選挙のときの感想が出ましたけど、町会議員だけでなしに、選挙のときぐらい人間が悪う思えるときはありませんね。それは、個人個人がみな浮き上ってしまうからか。そういうときは、みんな、人を疑ってみるわけですが、そのうちに自分自身もわからなくなってくる。そういう場合、たしかに孤独になっていますね。

     孤独を愛する

 高田耕 ぼくは、孤独ということが座談会のテーマになると聞いて、そんなに難しく考えなかった。孤独というものは、もっと単純に感ずるものと思っていた。
 ぼくは、以前から、山などひとりでふらつくのが好きだったし、そんなとき、孤独やなあ、と思いましたし、また、年に一回ぐらい、都会へ遊びに行って、あの雑沓の中を歩いていると、そこでもまた、孤独やなあ、と思います。なにか、ぼくは、孤独になるのが好きやった。
 中村常 そうだナ。ぼくは、それでいいと思う。伊東先生の話は、独立者というか、そういう意味のほんとうの孤独なんでしょうが、いま、高田君のいうように軽く考えて、ぼくらが日常感じている孤独ということを、どんどん出してみて、よく考えたらいいと思います。
 森田貞 ぼくは、孤独ということはダメやと思う。孤独というのは、ヒロイズムとロマンティシズムがまじったようなもので、それは、ただ自分で孤独やと錯覚しているだけでないか。
 ぼくは、さびしくなってくると、友だちとパァーッと遊んで、無理からでも孤独をやめようとする。
 中村常 けど、ひとりでおりたいと思うこともあるだろう。
 森田貞 そういうものも、孤独ととる方がいいのか。
 司会 ひとりでおりたいという場合は、だれにでもあると思います。しかし、それは、なにか、あるものごとからの逃避じゃないですか。
 森本国 そうやナ、ぼくらは、なにかに行きづまった場合、そのことから逃げたいというか、自分から求めるような孤独もある。
 高田耕 けど、なにか、立ちあがるための方法として孤独がほしいということもある。

     ひとりであること

 森田貞 しかし、さっきもいったように、孤独というのは、自分の精神の錯覚とちがうのやろうか。
 松井 それは、精神の錯覚ということもあるでしょう。しかしまた、孤独を感じないというのも精神の錯覚である、ということもありうるのではないですか。やはり、自分が生きているという事実の底には、ひとりということがある。
 だから、友だちとか先生とか、いつでも自分の相談相手になってくれる人がいて、自分の思う方向にうまくいっている間は孤独を感じない。しかし、その友だちや先生との関係がくずれたらどうなるか。
 森田貞 ぼくは、孤独を感じている人は、不幸な人だと思う。
 高田耕 まあ、なんといわれても、ぼくは、孤独を感じる。孤独を感じているのは不幸な人だといえる人もある。けど、そういう人を、孤独を感ずるものからみると、また、不幸だなあ、ともいえると思います。
 竹田 その、孤独を感じたときに、どうしたらいいかということですね。ぼくらは、よく山へ一人で行って草を刈るわけです。そこには、だれもおらぬ。自分ひとりおるだけ。ところが、そのときは別に孤独だとも何とも思わぬ。夜になって、家へ帰れば家族がおる。だから、孤独だとは思わぬ。
 けど、ひとりで大阪行きの電車に乗る。見知らぬ人ばっかりだけど、それでも人間が沢山おる。それなのに、なにかさびしいというか、不安というか、なんともイヤな感じがする。そんなとき、どうしたらいいのか。
 森田貞 それは、孤独を感じるなんていうのは、その人の神経の問題やナ。ぼくら、そんなときでもさびしいなんて、えろう感じん。(笑)
 山本治 孤独というものを、自分で求めていく場合はいい。だけど、その孤独というものに、つきまとわれている場合には、やはり気の毒です。
 いま、竹田さんもいってたように、山へ行って、あたりさわりのない夢や空想をえがいて、草を刈っておるときはよい。けれど、家へ帰って、話し合いをしても、年令的な距たりがあるとか、相手が三人も四人も一緒になるとか、自分の意見のあとおしをしてくれるものが一人もないとさびしい。というよりもうそのときは、さびしさをとおりこしたものになってくると思います。だから、孤独につきまとわれている人は、結局、ダメになっていくのでないかナ。
 竹田 孤独を自分で求めている場合は、その孤独に耐えられるというか、孤独に満足感があるのかも知れんが、しかし、孤独には、なにかさびしいというような裏面があるんだから、それは、やっぱり弱きというようなものとちがいますか。
 松井 とにかく生きていることの事実が、ひとりであることは、だれがどうみたって確かなことなんだが、この孤独ということを、さびしいと感じる人もあるし、なんともないという人もある。
 だから、このひとりであることを孤独とすれば、その孤独を、さびしいんだとおきかえねばならぬということには、ぼくらの側に、なにか原因があるからなんでしょう。

     孤独のすくい

 山本正 先生のお話しによると、「孤独のすくい」というように、孤独に「すくい」という字がつきますから、そうすると、孤独は苦しみだと考えられますね。
 伊東 なるほど、そのように受けとられましたか。それだと孤独からのすくいという方が的確だということになるでしょうね。
 ぼくが「孤独のすくい」という言葉でいいあらわしたかったのは、親鸞のように絶対孤独に徹底すること、それがそのまま、すくいである、ということなんです。孤独から逃れるのでなしに、むしろ孤独に徹するところに開かれるようなすくい。
 野呂賢 孤独という言葉を全然知らないときは、ただ、さびしいと感ずるだけです。ふつう、ぼくらは、さびしいと感ずるだけです。ところが、孤独という言葉を聞いて、覚えますと、これからは、ああさびしいなあ――、と感じたら、そのあとで、これが孤独なんかと思うかも知れません。
 森本国 そうすると、孤独とさびしさとは、どうちがうのかナ。
 高田耕 さっきから、孤独ということを、だんだん難しく、わからんものにしてしまったようですが、先生、なにか一言――。
 伊東 中国の孟子の言葉に「老いて妻なきを(かん)という。老いて夫なきを()という。(いとけな)くして親なきを孤という。老いて子なきを独という」というのがあります。
 それで、孤も独も「ひとり」ということですね。みなしごのことを孤児といい、ひとりぼっちの旅人を孤客(こかく)という。また、ひとりみのことを独身、ひとり立ちすることを独立という。ですからふつう一般に孤独という場合は、ひとりぼっちの状態、親がないとか兄弟がないとか、友がないとか、そういうふうにつれがない。だから、さびしい、と。こういうように、さびしいということと孤独ということは非常に近いものだといえますね。
 ところが、さびしいというのは、つまり、感情でしょう。それにたいして、孤独というのは、われわれ人間の状態というか、あり方というものをいいあらわす言葉です。人間というものは、ひとりである孤独である、と、こういう。だから、そのような、ひとりの状態を感ずることを、孤独感といいます。
 さきほど、孤独ということを単純に考えていたという意見がありましたが、さびしいという感情、孤独というものは、リクツぬきに感ずるものなんですから全く単純です。しかし、そういう感情をもつ人間というものは――、と、考え出すというと、いろいろリクツが出てくる。孤とはなにか、独とはなにか、ということになって、これは随分難しいことになる。それは、人間とはなにかという問題につながっているからですね。
 まあ、ぼくの話は、このくらいにして、みなさんで活発に話し合ってください。

     人間はひとりではおれない

 司会 いま、先生が、さびしいというのは感情で孤独というのは人間の状態を考えたものだといわれましたが、このような、さびしいというか、孤独感というか、これは、どうして感じるのでしょう。浜田さん、ご意見ありませんか。
 浜田 それは、なにか欲求不満というものがあって、それで感ずるのではないですか。
 松井 そうですね。いろいろ外に求めても得られない。それでひとりぼっちになってしまう。
 村瀬 孤独というのは、第三者の立入ることのできない感情だと思うのです。大衆の中で孤独を感ずるというのも、そういうことをあらわしているんだと思います。堀秀彦さんの本にも、そういうようなことが書いてあったと覚えていますが――。
 中村常 「群衆の中の一つの顔」というアメリカ映画がありましたが、たしかに、そういうものがある。全然関係のない人たちのところで感ずる孤独というような例は、沢山あると思う。
 さきほど、山へ一人で行くという話があったが、一人で働いていても、つながりというか、連帯感というものがあれば、孤独なんか感じる余地はないわけだナ。
 先日、京都の広瀬(たかし)先生からもらった手紙に、これは正確ではないけれども「人間というものは、一人でおることができないのでないか」というようなことが書いてあった。そういうことと、そして全く関係のない人びとの中で孤独を感じるというのとはなにか関係があるように思うナ。
 森本国 ぼくは、孤独には深さがあるように思うのです。ぼくは、まだ、ほんとうに自分が孤独やなあ、と思ったことはないけれども、「オレは孤独なんだ」というて、孤独にしてみたくなったことは何回もある。
 それから、また、ひとりでおれない自分もある。その意味では、友だちをつくることで孤独を解消させるのは、一つの前進ではないかと思うのです。
 中村常 そう、わずらわしいものから逃れたいというような孤独もある。
 森本国 それで、ぼくは、これまで、孤独ということは、なにか逃避的なものだというようなとり方をしておったけど、今日、先生のお話を聞かしてもらって、孤独という意味のとり方が全くちがうのやなあ、と、そう感じました。
 山本正 わたしは、孤独という言葉で、直接感じたことはないのですが、今日、先生のお話をお聞きしていて、自分の歩んで来た半生は、たしかに孤独だったと思います。孤独は、わたしたちの悩みのタネであるということがわかりました。

     孤独に徹する

 大西真 いままでにも、親子や親友やというても肉体が別であるように、なにか越え切れないものがある、やっぱり孤独なんやと感じていました。それでも、いままで自分が考えていた孤独というのは、まだまだ、あまさがあるのでないか、と、先生のお話を聞いて、そう思いました。
 それで、先生がおっしゃった親鸞の孤独ですね。法(ほう)とか人(にん)とか、そういう執着を捨てきった完全な孤独というのですか。そういうことを聞いて、なにか、すごく力強いというか、明るさというものを感じたのですけれど、それを自分にあてはめてみると、その、人(にん)とか法(ほう)から絶対に離れるということを考えると、なにか、すごくさびしい気がするのです。
 やはり、孤独に徹するということは、親鸞にはできたか知らんけど、わたしにはできない気がするのです。
 村瀬 先生のおっしゃる独立者というのは、人(にん)とか法(ほう)を、すべて、捨てきったものということですか。
 伊東 いや、人の執われ、法の執われを離れたものということなんです。
 親鸞は、法然にめぐりあうことによって、すくいの道にめざめることができた。それで「よき人のおおせをこうむりて信ずるほかに別の子細はない」といいます。だからというて、法然という立派な指導者に出会うたことをハナにかけたり、法然の力をカサにきて威張ったりして、法然の人格というものに執着したのでは、ほんとうにすくわれたとはいえないわけです。
 また、念仏が、いかにすぐれた法(ほう)だからといって、念仏と他の教えを比較して、ああだこうだとリクツをいったり、念仏の効能をふりまわしたりすることは、それは、ほんとうに信じるのでなくて、念仏をわたくしすることになる。
 ですから、わたしたちの信心は、よき人がなければ決定しない、念仏の教えがなければ決定しない、人も法も、ともに非常に大切なものなんだけれども一歩あやまれは、それによって、かえって傷つく。とんでもないことになる。その根本の原因をおさえて、それは我執(がしゅう)というものだと教えているわけです。
 それから、少し長くなりますが、ぼくは、親鸞は孤独に徹して生きたといいましたが、しかし、「わたしは孤独に徹して生きている」「わたしは孤独に徹して生きられる」という親鸞の言葉があるわけではありません。
 けれども、「地獄は決定的な住家です」という言葉に、わたしたちは、地獄の底をふんまえて立ちながら、しかも、地獄をスックと越え出た親鸞を感じます。つまり「いずれの行もおよび難き身なれば――」ということのできるところに、孤独に徹してすくわれていく親鸞のすがたがある、と、このように、ぼくには思えるのです。
 大西真 けど、わたしは、そういえない。そうできません。
 伊東 ええ、ですから、わたしたちは教えを聞くのですね。親鸞のような心境がわたしの心境になり、親鸞のような言葉がわたしの言葉になって、自信をもって生きていけるようになるために、親鸞の歩んだ道、親鸞の生きた生き方、親鸞の語った言葉、そういうものを、わたしの教えとして学んでいくわけですね。

     孤独なわれにおけるわれら

 村瀬 そうすると、先生は、孤独を肯定されるのですか。
 伊東 そうですね。人間は絶対に孤独の存在である。絶対に――ですね。人間は、本来、孤独である。相対的には、孤独を感ずる人もあるでしょうし、感じない人もある。同じ人でも、感ずるときもあれば感じないときもある。けれども、人間は、やっぱりひとりでないか。独りで生まれてきたし、独りで死んでいくではないか。
 たとい双子(ふたご)であっても、ひとりひとり生まれてきた。そして、だれかを道ずれに死んでも、やっぱり、ひとりで死ぬ。合意の心中をしましてもね、片方の人は死にきれずに生きかえるということがありますものね。
 そういう意味で、人間は孤独なんです。しかし、それは、ぼくらが、ひとりぼっちのひとりというような孤独ではない。話の中でもいいましたように、親鸞の生きた孤独は、ひとりいてにぎやかな孤独であったと思うのです。
 中村常 この前に、録音テープで、金子大栄先生のお話を聞いたのですが、そこで先生は、自分は若い頃、ひとりになるのが好きだった。それで河原を散歩したり山を歩いたりした。ところが、気がついてみると、この「われ」は、実は「われら」であった、と、こういう展開が語られておりました。
 だから、孤独ということを考えても、そういう展開がないとダメなんじゃないですか。ただ「われ」ということだけでは、明確にならぬものが残る。孤独というても、ひとりぼっちはさびしい、ということで終ってしまう。
 伊東 そうですね。そういう「われら」の世界がみつかっているから、「われ」「ひとり」といっても、そこに、にぎやかさがある、と、こういいたいわけです。しかも、そのにぎやかな世界は、絶対孤独のひとりに立つというか、そういう巌頭に立たないと知ることができない。

     めんめんのおんはからいなり

 伊東 それで、第二章を、もう一回、来月も拝読することにしたいと思っておりますが、その対話の最後をみますと、そこに「この上は、念仏をとりて信じたてまつらんとも、また捨てんとも、めんめんのおんはからいなり」とありますね。これについては、また来月お話しますが、この「めんめんのおんはからいなり」という言葉。
 これを、「これだけいうてもわからぬか、もう勝手にしろ」という意味だと理解している人もありますね。そうすれば、それは、ひとりぼっちになった親鸞ということなんですが、ぼくは、そうは思わない。事実、それを聞いて、うなずいている人たちが前にいる、つまり、そこには、人びとの同感がある共感がある。「めんめん」というように、たしかに一人ひとりなんだけれども、そのままが同感に結ばれた一つの世界が開けている。それが第二章の結論として語られているわけですね。
 まあ、今日の話は、途中で、そういう世界の開ける巌頭に立つ境地、絶対の孤独を「地獄は一定すみかぞかし」と、こういってあるわけですね。
 松井 さきほどから、いろいろ孤独について話し合ったけれども、ぼくらのいう孤独は、結局、地獄一定というような孤独でないナ。なにか、みている、ながめているというか、そういうところがある。
 植村 そう、やはり、わたしたちのは、感覚的な孤独なんでしょう。だから、ジャズを聞いて癒そうということになるが、それと、本質的な孤独とはちがうということがあるのでしょうね。なにをもってきても癒されない孤独というか、そういうものがあるのじゃないかと思います。その絶対的な孤独というところに、宗教の世界が開けてくる――。
 松井 その場合、まず感覚的な孤独というものがあって、それがもとになって、本質的な孤独の世界が開けてくる、そういうことを忘れてはダメだと思います。それで、さきほどからの、具体的な問題が大切なんでしょう。
 ぼくらの欲求とか我執というものが、さびしいということを感じる。それを突込んで、そうして、ほんとうにそうだというところまで話が進まぬと、宗教というても、観念になってしまうと思います。

     愛と孤独と死

 司会 では、だいぶ時間も経ちましたので、この辺で、先生にお話し願うことにしたいと思います。
 伊東 今日は、話の途中で、だいぶ口をはさんで考えをいいましたし、それに、だいたい結論らしい話も出ていますから、特につけ加えることも頭に浮びません。が、せっかくのことですから、もう少し感じたままを申し上げることにします。
 まあ、これまでには、孤独ということを、さびしさとして感ずるということで話が進みましたが、やはり人間の本来のすがたは孤独なんですね。そういう自分は引き受けられないとか、イヤだとか、そういう自分でありたくないとか、いろいろ問題になるわけですが、そうなると、たださびしいではすまされない。
 たしかに、孤独を感ずるのは、さびしいことだといえるでしょう。独生独死などという言葉を耳にすると、さびしさが胸にせまる。けれども、孤独というものは、たださびしいという感情だけのものではないわけですね。
 たとえば、こういう会合で、なにか発言をしようとするけど、なかなか思うようにいえないというような場合、ほかの人たちは、どんどん発言するし、自分はいえないとなると、自分がみじめで、あわれで、そうして、とり残されて、ひとりぼっちに思われてくる。そんなとき、わたしたちは、自分と他の人を比べて、イライラしたり、腹立たしくなったり他人にシットしたり、ねたんだり、そういうわけで心は激しくゆれ動きますね。ちっとも、じっとしていない。さまざまに変化している。
 そういうふうに動く心の根っこにあるのが、自愛とか、我愛という言葉でいわれるようなものなんでしょうね。自愛の心が、自分と他人を比較して、いろいろな感情になってあらわれる。さびしいとも思ったり、ねたんだり、うらやんだりもする。そういう自愛、我愛のすがたを見開いているのを、孤独に徹するというのでしょう。
 だから、ほんとうは、もともとの孤独にかえればそこには無数の友だちがいるんだけれども、孤独に徹しきれないものだから、かえって自己保存の、自愛というような煩悩によって、自分の城というか、囲いというか、自分のカラをつくって、そこにとしこもることになるのですね。

     ひとりぼっちにするクセモノの正体

 伊東 こういう会で発言できないということを、もう少し考えてみると、上手にいおうとか、自分を自分以上に語ろうというような心がはたらいている。つまり、この会で、リーダー的な存在になりたいという気持ちが、しらずしらずの間にはたらいているわけでしょう。ところが、実際にはしゃべれないのですから、自分の中には、リーダー的な存在になれぬものも同居しておる。
 はずかしいとか、あがってしまうということも、人に笑われないようにとか、上手にとか、そういう頑張っている心、我慢の心がはたらくわけです。そして、自分の意見を述べて、それでもって他人を納得させて、自分の考えに従わせよう、と、そういう心もはたらいている。
 さきほどは、人(にん)とか法(ほう)に執われるといいましたが、そういう執われがあると、他の言葉が素直に聞けぬのでしょう。人に執われるというのは、なにか、その人を尊重しているようにみえるけれども、ほんとうは軽視しているのでしょう。その人の言葉に従っているような顔をして、ほんとうは我執まるだし。また、法に執われるというのも、そういう考えに従っているようにみえて、その実、そういう考えを自分のために利用する。
 ですから、この自愛とか我愛といわれるような我執こそ、わたしたちを、ひとりぼっちにしてしまうクセモノの正体なんですね。つまり、リーダーになりきることのできないものをもっていながら、リーダーでありたいと自己主張している。そして、自分の考えというもので他人をおさえようとする。人とか法の執われというものも、こんなかたちで、身近にあるわけなんでしょう。
 それで、今日は、もう時間も来ましたが、孤独ということは、愛とか生とか死という問題と深い関係がある、愛と孤独と死は、一連の共通性をもつ問題だと申し上げて、終ることにいたします。
 司会 どうもありがとうございました。


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