2 第二章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
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一 第二章の一 「めぐりあい」


     
座談会 「友情について」

                                       司会 森 本 国 則(農協職員)

 司会 今日は、友情について、お話あいをねがいたいと思います。司会は、不慣れですので、どうかみなさんの方で、どしどし活発に意見を出してください。

     ただの友情とほんとうの友情

 高田耕 森本君は司会なんですから、話のいとぐちをつくるという意味で、君の友情感を、まず、述べてくれませんか。
 司会 ぼくの場合、友だちは沢山あります。子供のときから、ずっと、ぼくの良いことも悪いことも知ってくれておって、そして、そういうことにこだわらないで、つきあってくれる友だちがあります。また、ひとつの目的をもっていて、たとえば、この青年会ですと、仏教を聞くという目的があって、友だちになっている人もあります。一口に、友人というても、いろいろあるので困りますが、友だちによって生かされているというか、力になってくれるということが、ぼくの場合、大きいと思います。
 だれでも、友だちのない人はいないでしょうからみんな、友情ということについては、多少はしゃべれると思います。どうですか、林さんのご意見は――。
 林憲 自分のことを語るのは失礼かも知れませんが、友だちは、やっぱり、つくるものといいますか育てなあかんと思います。めぐりあいを充実させていく。それを育てるように努力せなあかん。そうして、できた友だちは少数ですが、わたしには非常に良い友だちがあります。いまから考えると、自然にそうなったともいえますが、やはり友だちは、大事にしなければならんと思います。
 森田貞 友情というと、きれいな言葉に聞こえるが、ぼくの考えとしては、友情というのは、男同志が、一緒におれば芽生えるものだと思う。友情というのは、ただの友だちという関係のときにいうんじゃないか。だから、ただの友だちでないようなときは、ただ友情といわずに、しんからの友情というのが、ほんとうだと思います。友情は、ある晩はじめて会って「いっぱい飲みに行こう」ということで芽ばえる。
 司会 それは、おもしろい考え方ですね。
 森田貞 友情の情というのは、ナサケだろう。だから、そんなものは、どこにでもある。
 林憲 そうすると、友情と、ほんとうの友情とは別だということになる。けど、そんな、ややこしい友情なんて、あらへん。ぼくは、やっぱり友情は、純真なものだと思う。
 高田耕 ただ、親友になる道程に、友情というものがある。ところが、そういう友情が芽生えるまでに、単なる友人関係であったということがあると思います。
 それで、友情の最初は、奪うかたちなんだけれども、最終的には、やはり与えるというようなかたちの友情になる。そのとき、ほんとうの親友といえるようになる。
 中村常 それを、もっとわかりやすく――。
 高田耕 たとえば、だれかと恋愛する場合、つまり、ぼくが、ある女性を好きになって、恋愛したとする。と、その女性は、ぼくに、なんらかのものを与えてくれる。ぼくは、その女性から、なんらかのものを受けとる。また、ぼくが、なにかを、その女性に与える。それで恋愛するということになるんだけれども、それをずっと続けていくと、最後には、その人のためなら、自分のいのちもいらんというとこまで行って、ほんとうの恋愛になる。
 友人関係も、そういうかたちになると思います。たとえば、ぼくと中村君が友だちになる。はじめは中村君と友人関係を結べば、なんらかのかたちで自分が有利になるというか、そういうことから友情は芽生える。しかし、それが、だんだん続くと、ぼくは、その友だちのためなら、なんでもしてやれるということになって、それで、はじめて親友になる。
 中村常 それで思い出したのですが、ぼくが二十歳ぐらいのとき、松阪のバーへ三人で飲みに行った。もう十二時になったので帰ろうといって、帰りかけた。ところが、あとの二人は、なにをしておるのか帰ってこないんだナ。どうもおかしいと思って、もどって行くと、二人が、グレン隊にかこまれている。四、五人ぐらいだったか。それで「どうした」といって、その中に入っていったら、グレン隊の方も、キョトンとして、こちらをむいた。そのスキをみて二人とも、ワァーと逃げた。その代りに、ぼくかつかまって、なぐられた。ずいぶんなぐられた。ぼくも、スキをみて逃げたが、そのとき、友だちの一人は、どんどん逃げて行く。ところが、もう一人は、逃げたけれども、ぼくがなぐられているのを見て、引きかえしてきてくれた。
 逃げていった方は、非常にソフトな感じの男で、どこへでも簡単につきあうし、気楽な友だちだった。ところが、もう一人の、帰ってきた方は、わりに固い感じで、友だちにちがいないけど、なにか、つきあいにくいナと思っていた。けど、途中まで逃げて帰ってきてくれた。そのとき、ぼくは、友情というものを身にしみて感じた。なぐられて、痛かったときだけに、よけいにそう思ったのかも知れんが――。
 林憲 友情というものは、あるかないかでなくて、友情は、あらわれるものだと思います。友情は、なにか、ことがなければ、あらわれませんよ。
 それで、友情のもとにあるものは、愛情だと思います。その愛情が、夫婦間にあったら夫婦愛、友だち間にあったら友情、異性間なら恋愛というようなものになる。表面では、多少、ちがいますけれど、底にあるものは、やはり愛情でしょう。
 友だちなら、悪友もあるし、善友もある。だから悪友の場合は、要するに友情がないわけでしょう。友情というのは、善友の間の愛情ではないのですか。
 高田耕 しかし、それが、悪友だといいながら、つきあっているなら、その悪友からも、なにかを得られるということがあって、つきあっている、と、憶測できる。
 林憲 けど、ぼくは、友情は愛情のあらわれであって、功利的なものではないと思います。
 村瀬 たしかに、友情には、ある目的をもった愛情もあるでしょうし、また同性愛的なものもあるのでしょうね。
 中村常 その目的をもった愛情というのは――。
 村瀬 さきほど、いわれたように、悪友でも、つきあっておれば、なにかあるというような、功利的なものでなくて、その人には、なにか自分に足らないものを教えてくれるものがある。
 高田耕 いや、教えてくれるものが、意識的にはなくても、悪友といいながら、つきあっているのなら、その事実は、やはり立派な友だち関係なんでしょう。

     男性と女性の間

 中村常 ふつう、友情というのは、男同志の友情とか、女同志の友情といって、男と女の友情ということは、あまりいわんね。
 林憲 そんなことはない。それは、いう。(笑)
 中村常 ちょっと、いいすぎかも知れませんが、でも、わりあいに少い。そんな場合は、恋愛といって、友情とは、あまりいわない。
 司会 ぼくの場合は、やはり目的を、お互いにもっていくような友情が、大きな位置を占める。目的をもった人間同志のつきあいには、なにか、友情というようなものが出てくるように思うのですが、みなさん、どうでしょう。
 藤谷 さっきから、友情を主にして、夫婦愛とか恋愛とか、いろいろ出ていますが、そこで、人間同志を結びつけるものは、友情の場合はこういう内容のもの、夫婦愛はこういうもの、というように、友情とか夫婦愛とか恋愛というもので、お互いを結びつけるものが、みな同じなのか、それともちがうのでしょうか。
 たしかに、あの家のダンナさんは、よその奥さんに、ものすごい友情をもっているとはいいませんね。
 林憲 しかし、そういう場合もある。(笑)よその奥さんと、どこかのダンナさんとの友情――。(笑)
 松井 いや、そういうものが、もし、かりにあったとしても、友情という言葉はつかわないということなんでしょう。
 高田耕 たとえば、男同志を結びつけるものは、物質的な利害関係とか、知識を、やりとりするとか――。しかし、男女の場合は、なにか男女間の愛情というようなものが介在するでしょう。
 林憲 しかし、夫婦の間にも、友情的なものかあるのは否定できんでしょう。「対象によって区別されない愛情」という表現が、一番いいわけです。愛情が、対象によって、友情になり、夫婦愛になり、親子愛になる。だから、ぼくは、友情というのは、愛情のよび方が違ったものだと思います。
 司会 ぼくも、友情と愛情は一つのものだと思います。ただ、愛情というと、だんごを一つにまるめたような感じがするし、友情というと、一つ一つのだんごてあるけれども、そこに、なにか通じたものがある、お互いに別個でありながらも、なにか通じているものがあるという感じです。
 伊東 たしかに、友情は、愛情の発露する一つのすがたという意味で、本質的に違ったものではないでしょう。が、さきほどから問題になっている男女の友情というようなことを考えるには、どうしても性の問題にふれないと、具体的によくわからぬことになると思います。
 ぼくの先生からよく聞いたことですが、男性と女性は、同じ人間なんだが、その間の距離は、猿と人間より遠い、と。そんな関係にある男女の間を結びつけているものと、そして、友をなりたたせているものと、ただちに同じ、一つのものですませられるかどうか。
 林憲 異性間における友情というものには、やはり、多少、異性を意識するというようなことはあるんでしょうナ。
 伊東 男女の間でも、性を全くぬきにしたような関係があれば、それは友情なんでしょう。だから、「あの二人は、まるで友だちのような夫婦だ」ということもあるし、また「自分たち夫婦は、友だちのようにありたい」というのを聞いたこともあります。が、実際問題として、そういう夫婦の関係は、どこにもここにもあるというものではない。
 「心に色情をいだいて女をみる」ということが『バイブル』にありますが、異性というかぎりは、男が女をみる、女が男をみるということで、性をこえて人間をみるというようなことは、そう簡単にはできない。
 たとえ、男が女をみてる、女としてはみない、というのは、その人を中性的な人間としてみるということになりますか。しかし、男とよばれるような人間が、女の人をみて、ほんとうに性をこえて、中性的人間としてみるなどということは、そう簡単にあるものではない。
 適当に年令が接近している異性にたいするのと、赤ちゃんの女の子や、おばあさんにたいするのとでは、いろいろ違うのでしょうが、要するに、問題を具体的に考えるということが大事だと思いますね。

     男同志・女同志

 伊東 それで、林さんや森本君のいわれるように友情は愛情のあらわれで、同じものだけれども、たとえば、友情と、親子の情とではちがうという面がある。そういう周題を具体的に考えることが大切なんでしょう。
 親にもいえないようなことを、親しい友だちにはいえるとか、家のなかで落ちつかぬことが、友だちとしゃべっていれば心安らぐ、と、そういうことがある。また、親子の間には、もう言葉に出していわないのに、お互いにわかるというようなものがあってそれによって結びつけられている、ということもある。このように、親子の愛とか、夫婦の愛とか、友人間の愛情というものは、具体用な生活の中であらわれるすがたかたちは、ちがうのでしょう。
 女の人に聞いてみたいのですが、よく、ぼくなど男同志の友情について話しますと、それを聞いて女の人は「うらやましい」というのです。「わたしたち女同志には、そんな友情はない」と。
 司会 女の人は、友情がなくても友だちというんでしょうか。「女の人には、友だちはあるけれどもそれは友情ではない」というようなことを聞くことがありますが――。
 高田 それは、ここに出席している女の人に聞かぬとわからぬ。
 中村常 やはり、男同志がふれあうのは、ある目的をとおしてというか、そういうものがある。
 司会 しかし、ぼくは、ちょっと女の人を弁護したいのですが、ある意味では、なにか、目的をとおして成り立つ男の友情は、「自分らには友情がない」という女の人より、キタナイともいえると思うのです。
 中村常 けど、男は、なんの目的もなしに友だちになるということには耐えられんというものを感じる。どうも男と女を区別してすまんが、たしかに、女性が社会的に、十分解放されていないから、女性の自覚と、男性のおもいやりがないといけないナ。
 司会 法子さん、あんたは、ここに来る沢山の男の人をみて、いろいろ感じられるでしょうし、どうですか。
 松井法 わたしには、男の友情というのは、よくわかりませんけど、女性はですね、まず自分にトクになる人を選ぶんじゃないかと思います。それは経済的なトクということもありますし、地域的にも遠い人より近い人、また、自分の気ままをとおさしてくれるような人。そういう人を、結局は、友だちとして選んでいるような気がするんです。
 それで、そういうふうにして、自分の友だちと思っている人のことを、だれかがけなす、「あの人すかん」とか「へんな人やなあ」というのを聞くと「いや、あの人は、よい人や」といって、かばうことになります。まあ、それは、ほんとうの友情でないのかも知れませんけれども、女の友情というか、女のナサケというものがあるのでないかと思うのですが――。
 林憲 お嬢さん(法子さん)とつきおうとったら、つまらんなあ。(笑)
 高田 いや、男の友情というものも、分解したらそういうことになるのとちがうかナ。
 司会 そうでしょうね。
 林憲 そうやろうか。ぼくは、幸いにして、もっと、いい友だちにめぐりあえました。利とか不利とか、そういうことを考えないで、相手のために直言(ちょくげん)することもある。ぼくは、みなさんの友だちが、いまの意見のようなものだとしたら、実に不幸せだと思います。

     友だちになる資格はなにか

 高田 法子さんのいうたのが、ふつうの友だち関係であって、それが、ずっと進んで、親友関係になる、それが、いま林さんのいわれたようなことになるのではないでしょうか。
 林憲 最初にもいいましたように、そういう友だちができるためには、お互いに育てる、友だちを育てるという気持ちがないとダメだと思います。ただ、自然発生的な友だちというのでは、ほんとうによい友だちはできない。
 司会 法子さんが、さっきいわれたような、友だちの悪口を聞けばかばうという、いたわりあいというものを、だんだん積み重ねていくのが、友情を育てるということだと思いますが、女の場合には、結婚ということがあって、それで中途半端になるのでしょうね。
 森田貞 男でも女でも、友だちをつくるとなると、やはり打算的なものが一番初めにくる。あの人とはつきあいにくいということは、もうカンジョウしているわけ。だから、つきあわぬということになる。友だちをムリヤリにでもつくるという話もあるけどとても、ぼくらにはできん。
 林憲 もう大人になってしまってからの友だちには、やはり打算がまじる。とにかく、竹馬の友というか、一緒にままごとをして遊んだ友だちというものは、ほんとうに功利的なものを離れて、いつまでも残るんですね。
 高校とか、大学になってからのつきあいになるとあいつとつきあってれば就職に便利だとか、いいことがあるとか、打算的なものが入って、ほんとうの友だちができにくいと聞いたことがありますが、そうかも知れませんね。
 ぼくのように、社会に出てから、同業者だからというのでつきあいするのは、なにか打算的な目的というのがまじる。だから、終生の友ということにはなかなかならない。
 司会 友だちで、一番自然なかたちでできるのは、学校の同級生。そんなに深い友情でもないようだけれど、そんなに浅くもない。
 林憲 いつか、終生の友というのは道友だと聞いたことがありますが、やっぱり、そうでしょうね。だから、ここへ集まっているわたしらは、お互いに遺友として終生の友だちになる可能性が十分にある。
 松井憲 友情は、広いものか深いものか、いろいろ話が出ましたが、そういう概念的なこと、段階的なことも大切ですが、さきほどから、林さんなどの話を聞いていて、ぼくらは、あのようなほんとうの友情というものを望んでおるのかどうか、そういうことも考えてみなければならぬと思います。そしてほんとうの友情を望むのなら、その友人になれる資格はどんなものかということも、自分に問題にしなければなりません。友だちなんて、なくていいという考え方もあるでしょうし、おもしろおかしくやっていく友だちがあれば、それでいいということもあるのでしょう。
 しかし、「自分の一番困っている問題をいえたらなあ」というかたちで、ほんとうの友だちを望むということもあるでしょう。このように、ぼくたちがほんとうの友がほしいと願うなら、いったい、どうしなければならぬのか。こういうところに、ぼくたちの具体的な問題があると思います。
 いま、友情について、いろいろ問題が出ているのは、こういうことを話しながら、ほんとうの友だちがほしい、ほんとうの友だちでありたい、そうして生きがいというものをみつけたい、という考えがあるからでしょうが、そのためには、どうしたらいいんでしょう。

     功利的な考えやウソは禁物

 藤谷 ちょっと、それに関係があると思いますが、わたしたちが、どういう人生観をもっているか、そして、その日その日の精神生活のポイントをどこに置いて生きておるか、またどこに置いて生きるべきか。それによって、友情の内容が変ってくるのではないか。
 それで、さきほどの話にもどるのですけど、友情とか恋愛とか、また夫婦愛とか、それらは、みな一緒になっていくのではないでしょうか。また、一緒にすべきものだとも思うのですが――。
 司会 つまり、そこに、一本の線が通っているということですか。
 藤谷 一つの、あるべきすがたというものがあるように思うのです。
 高田隆 「必要なときの友は、ほんとうの友だという言葉を聞いたことがありますが、それを、いろいろにいいかえてみることができますね。まあ、必要なときということを吟味しますと、わたしにとってほんとうに必要なときに、だれが友になってくれるかということも、考えてみなければなりません。また、友ということを、先生なり愛人なり妾なり、いろいろな場合に入れかえてみることもできます。
 なにか、これは、実際に実験し体験した人の言葉として、われわれは、じっくりあじわうべき言葉だと思います。さきほどからのご意見を聞いていて、ぼくは、この「必要なときの友」ということを考えさせられました。
 中村さんの話にもありましたが、逃げていった友だちが思いがけず戻ってきてくれた。一応、必要だとは思っていなかったけれども、友だちをみて嬉しかったのは、やはり、そのときには必要だと心の底では思うておった。だから、嬉しかった、友情を感じた。
 中村常 ふつう、飲み友だちの場合、ぼくは酒を飲む、松井も酒を飲む、と、もうそれで通じるのですね。飲めるという共通のものがある。つまり、他人の中に自分をみるといいますか。
 それで、友情というものには、自分はこう考えるとか、こう生きるのが正しいというような、世界観や人生観というか、自分の信じていることを他人の中にみていくということがあるように思います。
 森田貞 とにかく友だちの間では、ウソをいわんことさ。それで、ウソをいわんならんと思ったら、だまっておるのが一番。とにかく、ほんとうの友情を育てていくのに、ウソは一番あかん。
 林憲 それに、功利的な考えはいけません。塩尻公明先生の人生論のようなものの中に、友だちを遊ぶ条件として、功利的なものを含んだ友だちとは、つきあわぬこと、というてありました。
 松井憲 その場合、功利的なものを含んだ人は友だちにしないというのでなしに、自分に功利的なものを含めば友だちの資格を失うんだというように、自分に話をもどして考えないとダメなんでしょう。

     飲み友だちに終らぬということ

 司会 結局、ほんとうの友情を育てるためには、日々努力をしなければならんということですね。愛するという言葉はおかしいか知りませんが、やっぱり、まず愛することでしょう。
 高田隆 ただ、その努力がいらぬようになったらほんとうの友なんでしょうね。いま、ぼくは、松井さんと京都で話したことを思い出したのですが、友だち同志で(ひざ)つき合わせて坐って、しゃべっておって、もう一つはっきりしないことをお互いに感じて「胸を開いて話そうでないか」と、努めてしなければならぬようなことがおこってくる。それは、ほんとうの友でありたいと求めているということもありますけど、そのときの状態をとらえてみると、ほんとうの友というわけにいかない。やはり、ほんとうの友ではないと気づくということがあって、そうして努力ということの必要もなくならないとダメじゃないかと思います。
 中村常 さきほど、ぼくがいった飲み友だち――。あの、飲むということのなかで、逃げっ放しになった友だちのことを考えてみると、それは飲むだけで終った友ですが、しかし、引き返してきた友だちは飲み友だちで終らなかったものを感じさせる。
 それで思うのですが、友情ということで一番大切なのは、この生きているなかで、お互いに感動しあう世界があるということでしょう。
 松井法 中村さんの話で思うのですが、飲むだけで終った友だちといいますか、飲んで逃げて帰ってこなかった友だち――。そんな関係が、わたしたち女の友だち関係には多いと思います。
 あの、高田さんが改善結婚をかねた仏前結婚式をやろうということで、仏青の男の人たちが寺へ来て相談しておられるのをみて、つくづく思いました。世間の非難をあびるようなことがわかっていると、女性の友だち同志では、実行できなくなることが多いのです。けど、男の人たちは、非難されても善いものは善いんだと決断していく。意志が強いですね。あれをみて感心しました。
 司会 まあ、女性は、それでいいんでしょう。すぐ結解して、そうして、ダンナさんの意見に調子を合わしていかねばならんからナ。
 松井憲 いや、それでしかないということはあっても、それでいいというてしもうたらダメなんでしょう。
 高田耕 いま、法子さんの話を聞きながら、改めて思うのですが、男の友だちと女の友だちとは、やはり違う。ぼくたちは、お互いに一緒にいるときはボロクソにいい合うけれども、友だちのいないところでは、案外、味方をしてほめるものナ。
 中村常 女性は、男性の場合のように、親しくしていて、それでボロクソにいうことがあるのかどうか。
 高田隆 ケンカができるのは親しいからだともいえる。
 伊東 たしかに、思う存分がいえる、議論がやがてケンカにまでなっても仲違いはしない、そういう友だちはめったにないものですね。
 いま、女性の友情と男性の友情が問題になっていますが、だいたい二つに傾向づけることはできてもまあ、それでどちらが善い悪いと割り切ることはできませんね。また、そうする必要もないんだと思います。
 要するに、女性であるわたしは女性として人間ですし、男性であるわたしは男性として人間である。そこに立って、友情について考えるわけです。
 それで、ぼくは常づね思っているのですが、批判というものにも、カゲの批判と、面と向い合っての批判がある。正面から批判したり、意見をいったりすることは、なかなかできるものではないけれどもそれのできる関係にあるのがほんとうの友だちじゃないですか。
 カゲの批判というか、カゲ口にはどんなに花が咲いても、毒花だし、実りはありませんね。精神的にも、肉体的にも、また時間的にも、あらゆる意味でこれくらいエネルギーを空費するものはないと思います。

     シャカの友情について

 中村常 それで、あの善導の「二河譬(にがひ)」ですね。あのなかに、旅人が道を進もうかどうしょうか迷ったあげく、「一種として死を(まぬか)れざれば、前に向うて行こう」と決断する。そのとき、背後にいるブッダ、つまり、釈迦が「行け」といいますね。そのことと、いま問題にしていることとは深い関係があるように思うのです。
 伊東 そうですね。「二河(にが)譬喩(ひゆ)」については、前にもちょっとお話したことがありますが、これは歎異抄の第二章を読むのに深い関係がありますからまた、この次にでも、もっと詳しくお話しすることにします。
 それで、いまの中村君の意見ですが、道に迷うた旅人が、やっと行くべき道を発見する、仏道に生きょうと決心する。そのとき、釈迦は「行け、決して死をおそれるな」というわけですが、そこに、ぼくは、釈迦のきびしくあたたかい愛情を感じますね。
 実は、釈迦は、「真の仏教徒はみな自分の親友だ」と、こういうのですから、それからいえば、これこそ釈迦の友情だといってもいいのでしょうね。

     親   友

 司会 では、時間もきましたので、これで終らせていただきますが、この友情という問題は、これから生きていく上で、非常に大切な問題だと思いますので、最後のしめくくりを伊東先生にお願いします。
 伊東 終り近くになって話が少し難しくなりましたが、いろいろ、子供の頃からのことを思い返しながら、ご意見をお聞きしておりました。
 中学から大学まで、ずっとそうでしたが、学籍簿といいますか、身元の調査票というものを毎年書かされました。本籍、現住所から家族構成、それに趣味というようなものを書き込むのですが、その中に「親友」という欄がありました。ぼくは、へソ曲りだったのか、いつも「親」という字に×をつけて消して、そうして友だちの名前を書いたものでした。
 話しにも出ましたように、たしかに竹馬の友というか、おさななじみには、いい知れぬ独特の親しさがありますね。「いくつになってもケンカ友だちは忘れられぬ」ともいいます。が、これには、多分に表現のアヤというものがあるわけで、「忘れられぬ」といいきってしまえばウソになります。
 中学や高校の頃、いつも時間があればくっついていたほどの友だちでも、いまとなれば、年に一回、年賀状の頃に思い出す程度になったというような状態です。だから、自然発生的な友情というものは、たいへん親しいのだけれども、生活環境が変わるにつれて疎遠になり、やがて忘れ去ってしまいます。
 そういうのにたいして、目的を一つにするところに生まれる友情というものがあるという話も出ました。その場合、注意しなければいけないのは、目的のために友情を利用するようなことがあってはならぬということでしょう。もし利用したり手段にしたりするならば、相手を害するし、自分もまた傷つくと思います。
 たしかに、友は求めなければ得られない。得られたのは求めたからにちがいない。そして友情は育てなければ大きくならない。深い友情は大切は大切に育てた結果である。そのとおりですね。そのとおりなんですけれども、友というものは、求めれば得られると決ったものではない。友情というものは、育てれば成長すると決まっているわけではない。こういうことも知っておらねばなりませんね。

     不請の友

 伊東 それで、友を求めるとか、友情を育てるという前提に、もう一つ大切なものがあるのでなかろうか、と、こう思います。
 というのは、ぼくの体験を申しますと、自分の究極の目的に到達しようと歩いているうちに、気がついてみたら、友がいた。道を教えてくださる先生に会うことができた、そうしたら、その周辺に無数の友がみつかってきた、と、そういうことなんですね。つまり、友が与えられている、友情のなかに包まれている。これこそ、ほんとうに大切にしなければならぬと思っております。
 ですから、人生究極の目的というか、そんな大ゲサな表現をしなくても、身近に、この会場でいいますなら、「歎異抄に聞く」という共通目的が一つはっきりしておれば、仕事がちがってもいい、年がちがってもいい、顔がちがってもいい、それでもやっぱり友だちだ、と、こういうことができるわけですね。
 ぼくが、この会に来たのは五回目ですから、この中には、名前を知らない人も沢山おられます。けれども、みなさんは、ぼくの友だちです。たとえ、みなさんが敬遠したり、逃げたりされても、みなさんは、ぼくの友だちです。友だちでなければ、ぼくはここへは来れません。やはり、善友です。悪友ならなにもわざわざ、京都から粥見まで来ません。
 こういうかたちで、幸い、ぼくには友だちが与えられている。それは、全く思いがけないところに友だちがいるものです。「ああ、ここに、こんな人があったか」と。
 仏教に「不請(ふしょう)の友」という言葉があります。つまり、これは、ブッダは、請われないのに自ら進んで孤独な人の友になってくださるということです。わたしたちが、気がついてみたら友が与えられていた。これが不請の友であります。
 ですから、ブッダは、気づかない人のためには、まず不請の友となろう、そして、気づいた人には、親友となろう、と、このようにいわれます。ここにただの友情といってしまえない、深い深い友情(慈悲)があると思います。
 ずいぶん長話になりました。座談会の、しめくくりにはなりませんが、感ずるままに一言申しあげました。
 司会 どうもありがとうございました。では、今日は、この辺で――。


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