2 第二章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
  目  次  
 1 序・第一章  
 2 第二章  
 まえがき
  一 第二章の一  ? 
   原文・意訳・注  
   案内・講師のことば
   講  話  
   座談会  
  二 第二章の二  
  三 第二章の三   
  補 説  
 3 第三・四・五章  
 4 第六・七章  
 5 第八・九・十章  
  謝  辞  
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一 第二章の一 「めぐりあい」


     
講 話 「めぐりあい」

めぐりあいからはじまる自信
 今日は、第二章を「めぐりあい」というテーマで拝読したいと思います。いまこの第二章が、わたしたちに語りかけている問題を、めぐりあい、つまり邂逅(かいこう)という言葉でいいあらわしてみたわけですが、実は、先日、これを聞いた京都の友人が、ひやかして、まるで小説か映画の題のようだねというのです。この、めぐりあいという言葉の感じは、あるいは多少ロマンチックなのかも知れませんが、しかし、この邂逅ということの意味は、なかなか深いものがあります。ですから、わたしたちの人生における、ほんとうのめぐりあいは、いったいどういうものなのか、それを知るためには、わたしたちは、この第二章を、じっくり読まなくてはいけないと思うわけであります。
 ところで、先月まで、三回にわたって第一章を拝読してきました。その要点を簡単にふりかえって考えてみますと、すくいにめざめるということ、すなわち救済の自覚というものは、われわれに自信ある生活を開くものだと説いてありました。生きることの、ほんとうの自信というものは、すくいにめざめるところから始まる。それを「アミダの誓願(せいがん)の不思議な力にたすけていただいて、かならず浄土に生まれるのである、と信じて、念仏をとなえようとおもいたつ心のおこるとき、まさにそのとき、すくいは実現する。すなわち、あらゆるものを摂取して捨てないアミダの心が、人生のただなかにあらわれて、わたしたちは、この、かぎりのない智慧ある愛のはたらきに生かされて生きるものとなるのである」とあり、そして、「他の善も要にあらず……悪をもおそるべからず」という自信が表白されてあります。いま第二章には、それを()けて、親鸞のそのような自信というものは、宗教的な出会いといいますか、法然上人とのめぐりあいを契機として開かれたものだということが語られてあるわけであります。

邂逅と別離の人生
 ところで、案内状にも書きましたように、この人生とは、いったいどういうものであろうか。そういうことを改めて考えてみますと、おそらく一人ひとり顔がちがうように、考えもまたちがうかと思いますが、それにしても、どんな人にも共通する点、だれも否といえないような問題があるにちがいありません。
 そういうことの一つに、出会いと別れというものがあります。考えてみますと、人生というものは、オギャーと生まれおちてから今日まで、だれかに会うて、そして別れてきた歴史である。なにかに出会うて、しかも別れつづけてきた生のいとなみである。仏教では、諸行無常といいますが、人生とは、邂逅と別離をくりかえしくりかえしして描いていく軌跡のようなものである、とこのようにいうことができるかと思います。
 「めぐりあい」というようないい方をしますと、さきほどもいいましたように、非常にロマンチックに聞こえる。つい先ごろ、そういう題のフランス映画が上映されていましたから、よけいにそう思うのかも知れませんが、たとえば、そういうようにロマンチックに考えるとしますと、それは多分、忘れられないような人とのめぐりあいということなんでしょう。
 愛する人、恋する人があるならば、その人との出会いのこと。あるいは、別にそういう人がいない場合には、いつか、どこかで、すばらしい恋人に出会わないかなあ、と、期待しているようなめぐりあい。まあ、めぐりあいということを、わたしたちの身近なところでとらえるなら、そういうことになるかと思います。いずれにしても、この、めぐりあいという言葉に強い関心をもつということ、あるいは、この言葉に強い響きを感ずるということは、実は、わたしたちが待ち望んでいるめぐりあいが、まだ得られないか、それとも、忘れることのできないほどに強烈な経験があったのか。
 しかし、考えてみますと、人生というものは、出会っても出会っても、すぐ別れに終っていくものである。もし、かりに、だれかとめぐりあったとしても、つかの間の出来事にしかすぎない。だから、かえって、ほんとうのめぐりあいを求める気持も強く激しいわけでありましょう。つまり別れがあるということを本能的に知っている。だから、会うということが、ひしひしとわたしたちの胸にせまる。ちょうど、それは、人間には死がある、死ぬということがあるものだかし、かえって生きるということの意味がはっきりする。それと同じことだといえるのでしょう。もし、出会ったものが、永遠に別れないんだと決っているなら、めぐりあいということも問題になるはずはありません。
 このように考えてきますと、もし人生に、出会いと別れということがないならば、人として生きる喜びも、また悲しみも起きようがありません。言葉をかえていいますと、出会いの喜びも知らず、別れの悲しみも知らないようなものは、ほんとうに生きておるとはいえないんだ、と、このようにいってもいいかと思います。ですから、わたしたちは、人間でありますから、十年二十年と生きてきたなかで、邂逅と別離の喜び悲しみを経験しつづけてきたにちがいありません。
 しかも、出会いは喜び、別れは悲しみという公式があって、そのように決っているわけではない。会いたくて会うた、望みが実現して会うことができたという場合もありますが、心にそまないのに会わざるをえないということ、あるいは、会ってみて、はじめて会いたくないということがはっきりしてきた、そういうケースもありうることであります。別れにしたって同じことで、思いのひきさかれるような状態で別れるということもあるでしょうし、また、案外、別れてせいせいしたというようなこともありうるわけであります。
 親鸞の『和讃』に「恩愛はなはだたちがたく、生死はなはだつきがたし」という言葉がありますが、わたしたちは、この恩愛の中で人びとと結ばれたり、いろいろなものに出会ったり、そしてまた、この恩愛の中に、それらと別れていく。そういう生のいとなみを、くりかえしていくわけであります。

昨日のわたしと今日のわたし
 さきほどは、愛人とか恋人の例をだしてみたわけですが、これは、なにも恋人にかぎるわけではありません。もう、すでにおわかりのように、友だちや先生も、父や母も、夫や妻や、あるいは兄弟姉妹たちも、みな、この例外ではない。さらに、人びとだけではなくて、財産とか、地位や名誉なども、やはりそうですね。昨日までは自分の財産だと思っていた、ところが、事業に失敗して今日では、もう自分の財産というわけにはいかなくなった。事業の失敗に出会ったために、財産を失った。
 いま、ちょうど町会議員の選挙の最中で、みなさん仏教青年会が推薦する人も立候補しておられるそうですが、これで当選すると、ただいま現在では、飯南町の一青年にすぎない人が、もう十日もすると議員さんになる。その反対に、いまの議員さんが十日たってみると、一町民になっているということもありうるわけですね。あるいは、健康だってそうです。体自慢、腕自慢、健康自慢だった人が、いろいろの原因から、健康でなくなる。また、小さい時には病弱だった人がなん年も経ってみると、見ちがえるように元気になる。
 知識とか、学問についてもそういうことがいえますね。わたしは安田理深先生から、なんども聞いたことですが、たとえば、十年勉強したからといって、もし十年なまけていたとすると、はじめの十年はなにもしなかったのと同じことになってしまう。ふり出しにもどって、もとのモクアミになってしまう。ところが、あとの十年も勉強を続ければ、合して二十年ということになると。つまり、かってあったからといって、それが、いつまでもあるとはかぎらない。知識などもあったはずのものが、なくなってしまっている。
 こんなことをお話しているうちに、ぼくの学生時代のことを思い出してきました。実は、ぼくは大学二年のはじめに男声合唱団に入りまして、それから卒業まで、一応、席だけはおいておりました。ファースト・テナーと、セカンド・テナーとをいったりきたりしていて、ときには、コールユウブンゲンとかコンコーネなどをもって、レッスンに通ったこともあったのですが、結局は、どうも音痴だということで途中でやめてしまいました。つまり、自信がなくなったものですから、思いきっては歌えないということになったわけです。そして、卒業の時には肋膜炎をわずらったので、歌わないほうがいいだろうということで、今日になってみれば、もう、さっぱり声が出なくなったわけです。昔は、ずいぶん声自慢で、弁論大会に出ましても、論旨を声でゴマ化して……、じゃなくて、声でカバーしていたものですが、いまになってみれば、さっぱり歌えません。つまり、昔は歌えたんだという記憶だけ残っていて、実際には、歌えない。「歌を忘れたカナリヤ」ではありませんが、かっては歌えたということが、いまのぼくを苦しめたり悩ませたりすることもあるのです。このように考えていきますというと、めぐりあいということの意味も非常に広いといわねばなりません。
 「日々に新たなり」という言葉もありますが、徹底していうならば、昨日のわたしと今日のわたしとはちがう。このわたしですら、昨日と今日とかわっていく。肉体には、新陳代謝ということがあるといいます。つまり、わたしたちは、昨日のわたしに別れて今日のわたしと会っていく。そういう生のいとなみを人生というのだといっていいと思います。
 このような邂逅と別離、喜びと悲しみのなかで、わたしたちは、愛するものとはいつまでもと思い、そして、憎いものとは、ひとときもはやく別れたいと思うて生きております。けれども、生きているということの事実は、第六章にありますように「つくべき縁あればともない、はなるべき縁あればはなる」。これであります。
 いのちあるもの、生あるものは必ず死ぬ。と、同じように、会うということには、必ず別れがある。それじゃ、この人生には、永遠の出会いというか、会って再び別れることのないような世界はないのであろうか。別れということが、かえって永遠に別れのない世界を描くということはないのであろうか。それを語るのが、これから拝読しようとする第二章であります。

第二章を五節にわける
 では、さっそく第一一章を読むことにいたしましょう。ここには、一読して、すぐわかりますように、京都にいる親鸞と、そして、その親鸞をはるばるたずねてきた関東の同朋との間に交された問答、つまり対話を記録してあります。
 これは、比較的長い文章でありますが、五節に分けて読めば、意味を聞きとりやすいのではないかと思います。まず「おのおの十余か国の境をこえて」つまり「みなさんが、はるばる十あまりもの国ざかいをこえて、いのちがけでたずねてこられたご本心は、ただアミダの浄土に生まれる道を問いただし、聞いて明らかにするためである。ところが、この親鸞が、念仏のほかにも、アミダの世界に生まれる道を知っておるとか、また、そういうことを記した書物なども知っておるのであろう、それが知りたい、と思っておられるならば、たいへんなあやまりである。もし、そういうことなら、奈良や比叡山にも、すぐれた学者たちがたくさんおられることだから、あの人たちにでもお会いになって、アミダの世界に生まれるための要点を、よく納得のいくまでお開きなさるがいい」。これまでが第一節ですね。
 そして、「親鸞においては、ただ念仏してアミダにたすけていただけといわれる先生(法然上人)の教えを聞いて信ずるほかに、格別のわけもありません」というところが第二節。それから第三節は、次の「念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべるらん」というところから、「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」と、親鸞のぎりぎりの心境が表白されているところ。
 第四節は、親鸞の表白が一転して「アミダの本願がまことであるならば、お釈迦さまの説かれる教えが、うそいつわりであるはずはない」と、親鸞の上に実現する信念の伝統がのべられているところ。それを承けて、「要するに、愚かな親鸞の信心は、このようなものです」というところから、対話の終るところまでが第五節、と、このように読むことができると思います。

関東から京都へ
 それで、この対話は、「おのおの十余か国の境をこえて」という言葉からはじまっていますが、十余か国というのは、当時の関東、常陸国から京都まで、もし東海道を通るならば、下総(しもふさ)武蔵(むさし)相模(さがみ)、伊豆、駿河(するが)遠江(とおとおみ)三河(みかわ)尾張(おわり)伊勢(いせ)近江(おうみ)山城(やましろ)という国ぐにがある。また、東山道なら、武蔵(むさし)から、甲斐(かい)信濃(しなの)美濃(みの)を通ることになるわけです。
 これによってわかるように、この対話がなされているのは京都である。つまり、親鸞は、それまで二十年もの長い間、住みなれて道友も多くなってきた関東地方を離れて、生まれ故郷の京都に帰ってきた。それから、なくなるまで約三十年の間、ずっと京都で暮らすわけですが、その晩年のある日、関東からの来訪をうけて、信仰問題について同朋たちと真剣に対話した、その記録がこの第二章なんです。
 ご承知のように、親鸞は、京都に生まれ、九才で得度(とくど)して比叡山に登って修行しました。ところが、山上の修道に疑いをもって、いろいろ苦しみ悩んだあげく、山をおりて法然上人の門をたたいた、それが二十九才のとき。たまたま、当時はげしくなってきた念仏禁止、念仏弾圧の法難に出会って、法然と別れ、ひとり今の新潟県の直江津に流罪(るざい)に処せられたのが、三十五才。そこで妻帯し、子をもうけますが、四十才をすぎてから罪をとかれて自由の身となったので、妻子をつれて、当時はまだまだ開拓の余地多い関東地方に移住して、やがて稲田というところを中心に、それから二十年も住むことになります。その間には、土地にもなじみ、沢山の友だちもできた。したがって、生活の方も、だんだん安定してきていたにちがいありません。
 ところが、六十才をすぎる頃、親鸞は、その住みなれた関東に、多くの友を残したまま別れをつげて、京都に帰ります。それは故郷に帰るとはいいますけれども、生活のことなど考えると、関東の方がどれだけ安定しているかわからない。故郷とはいうけれども、もう三十年も前に出たっきり、多少の身よりがないわけでもないが、現実生活だけを考えると、どうして、多くの友にかこまれた賑やかな関東を離れる気持になったのか。伝道にあけくれし、教化のみのりがようやく眼に見えはじめた二十年。その二十年を、まるで捨てるかのようにして、親鸞は、京都に帰ったのであります。親鸞は、なぜ関東を去って京都にもどったか。これを親鸞の「二度の出家」という言葉で考えている人(小林勝次郎氏)もあります。

九十歳まで隠居しなかった親鸞
 学者たちも、これについては、いろいろのことを推測して申しております。が、決定的なものはこれだ、というような、一致した意見が、はっきり出ているわけではありません。
 そのなかには、親鸞は指導者に祭りあげられるのをきらったのだという考えがあります。二十年もの間、伝道したのですから、周辺には沢山の同行ができた。その数は数万人もあっただろういや十万人ほどもいただろうという学者もあります。親鸞は「弟子一人ももたず」といい、そして、念仏を信ずるなかまたちのことを御同朋・御同行といっておりますように、自分が指導者になることをさけようとした。けれども、幾千人幾万人というような人びとが集まってくれば、どうしても、その集団の中心的人物として、いわゆる指導者のようにみられることになる。それを避けて、ひとり京都にもどったのだという考えがあるわけです。
 それから、また、親鸞の九十年の生涯は、弾圧の連読であった。これひとつと信じた念仏が、いつもときの政府によって、朝廷の国家権力によって、また既成の仏教教団の力によって、弾圧されつづけていた。そういうことと、そして、そんな事情のなかにあっても負けないで、自分が生涯かかって教えられてきたこと、考えつづけてきたことを書きしるして、世に発表せねばならぬという、熱烈な志願をもっていた。つまり『教行信証』という大切な書物を完成して、当時の学界、宗教界、思想界に発表したいし、その他、まだまだ残る仕事が沢山ある。そのために、親鸞は京都へ帰ったのだという考えもあります。
 このように、いろいろ思うことができるわけですが、ただひとつ間違いのないことは、六十才といえば、今日では会社にしろ役所にしろ、一応は停年ということで、恩給をあてにした生活のはじまる年頃です。そんな年になってから、親鸞は、なにかの目的を実現するために、あえて生活の不安定なのがわかりきっている京都に旅だったということ。それから、結果的には、九十才でなくなるまで三十年の間、関東の同朋たちと交渉を続けながら、沢山の著作を書き残した。だから、親鸞は、そのエネルギーを最後の最後まで完全に燃焼しきるまで仕事をして、そして、ついに隠居するなどということはなかったのであります。

親鸞をたずねた人びと
 ところが、中心になる親鸞がいなくなった関東では、だんだん年月がたつにつれて、さまざまな異見、ちがった考えを主張するものがでてくるようになる。そして、念仏の教えで結ばれているはずの社会(教団)が、混乱するようになるわけです。それで、親鸞は、その混乱の原因を調査して、混乱をなくするようにという目的で、子供の善鸞を関東に行かせます。が、ミイラとりがミイラになるという言葉もありますように、そのことがかえって(あだ)になります。具体的には、どんなことだったのか、よくわからぬのですが、善鸞は、親鸞の本心にそむくようなことをいって、人びとをいっそう迷わせた。それで混乱は、かえって大きくなったことだけは間違いありません。ですから親鸞は、とうとうたまりかねて、善鸞を勘当(かんどう)する、義絶(ぎぜつ)するわけです。それは親鸞が八十四才のときのことですが、そのとき、子供の善鸞(つまり慈信房)に宛てた義絶状の写しがいまも残っております。
 いま、第二章の問答がおこなわれているのは、ちょうど、その頃のことであろうと推測されます。親鸞は、もう八十才をいくつかこしている。その頃、教団には、なにか非常に重大な問題が発生して、たいへん混乱している。だから、関東の、各グループのリーダー格の人たちの間には「この際、ぜひ一度、親鸞聖人に直接おめにかかって、本心を聞かせてもらおう、ほんとうのところをお聞きしてこよう。そして、この教団の混乱を治めるには、いったいどうすればいいのかよく考えることにしよう」と、こういうような意見が出てきたと想像されるわけであります。
 おそらく、この歎異抄を書いている唯円房も、親鸞をたずねた代表者のなかに加っていたのでしょう。代表者は、いったい幾人だったのか。五人か、あるいは十人か、わかりませんが、その中には、青年唯円の姿もまじっている。唯円が歎異抄を書いたのは、それからずっと後のことで、もう相当に年をとってからのことですが、この問答のおこなわれたときには、まだまだ若かった。感受性の鋭い、純情一途な求道者の唯円が、この問答に、じっと聞きとれていたのにちがいない。でなければ、問題の核心をちゃんとおさえながら、このように生きいきと、当時の情景を描けるはずがありません。

いのちがけの問いと答え
 それから、ここに「身命(しんみょう)をかえりみずして」、つまり「いのちがけで」とありますね。これは、なにかいのちがけで尋ねなければならんようなことが、教団のなかにおこっていることをあらわしています。当時、関東から京都まで旅をするのにどのくらい日数がかかったのでしょうか。今年(昭和三九年)の十月には、新幹線が開通して、四時間でこられるようになりますが、これは、いまから七百年も前、鎌倉時代の話なんです。天候次第で、ずいぶんちがったのでしょうが、二十五日かかったのか、あるいは三十日か。
 徳川時代になってからですら、庶民の旅は、いのちがけのものだったということです。それは各地の大名たちが参勤交代で江戸城へ行く、長い行列を作って、武装を堅固にして「シタニー、シタニー」といって悠々と旅をするという話なら別ですが、庶民は、そういうわけにはいかない。庶民というものは、武士のように、護身のための大小を腰にさし、身を守る術も心得ているというわけではありません。だから旅というものは危険千万なものだった。徳川時代がそうだったというのですから、まして鎌倉時代となれば、おして知るべしです。もう、旅の一歩一歩がいのちがけだったんでしょう。
 親鸞のところに集まったのは、ほとんどが、貧しい農民や、漁師(りょうし)猟師(りょうし)や、商人たち、あるいは下級の武士であったといいますから、大部分は、身を護る術を知らない人たちですね。ですから、ここに「身命をかえりみず」とある一語の背後には、非常に重大な意味が秘められてあると読むことができるのです。
 いのちがけなんですから、箱根の??(けん)を無事こえられるかどうか、わからない。親鸞に会うという目的を果すまでに、死ぬのかも知れない。それでも、旅をやめることはできない。途中で、いのちを捨てるかもわからぬが、いのちを捨てでも聞かねばならぬような問題が起っている。言葉をかえていいますと、このまま関東にいたのでは、死んでも死にきれないような問題、親鸞に会ってはっきりさせないのなら、死にきれないような重大な問題である。だから、そこで、旅にいのちをかけることになるわけです。
 それでは、そんな重大な問題は、いったいなにか。どんなことがおこっているのか。それについて、具体的なことは、この歎異抄にはなにも書いてありません。だから、それを知ることは、一応できないわけですが、次の文章をみると
 「身命をかえりみずにたずねてこられたご本心は、ひとえにアミダの世界に生まれるものとなる道――往生極楽の道を問うて明らかにし、聞いて正しく知るためです」
とあります。ここで注意をしたいのは、この「問い聞かんがためなり」という表現ですね。問う人たちに代って、親鸞が、相手の心中を見ぬいていうた形になっております。ふつうなら「これこれの問題をもって、やってこられたのですか」とか、あるいは「こういう問題を聞くためにこられたのでしょう」といってもいいはずです。むしろ、それの方が自然のように思える。ところが、そうでなくて「問い聞かんがためなり」と断定的にいいきってあります。相手の心の中を見ぬいて、問題の中心をおさえて、そして「あなたたちは、アミダの世界に生まれる道を聞いて明らかにするためにこられたのです」といい切っている、断定している、これが注意すべきところだと思います。

対話が明らかにするもの
 この第二章は、対話である、問答であるといいますけれども、同朋たちの語った言葉は記録してない。みな親鸞の言葉という形でまとめてあります。ということは、問うた人の言葉の要点を、親鸞が、相手の立場に立ってとらえて、そして、自分の言葉にして語っております。問いの内容をよく吟味し、問いの意味をよくたしかめて、「結局のところ、みなさんが知りたいのは、こういうことです」というふうに、まず最初に明らかにしてあるわけであります。
 さきほどもいいましたように、この教団に起っている問題は、いのちがけで解決せねばならんような問題でありますから、第二章は、比較的長い文章でありますけれども、しかし、実際におこなわれた問答は、ここに記録されているだけのものではないのでしょう。ここには記録されていないけれども、この言葉の背後には、ずっと長い沢山の言葉があるにちがいない。実際にかわされた話し合いの言葉は、もっともっと長いものだったのでしょう。ですから、あるいはそれは三日も四日も、それこそ寝食を忘れて話し合われたというようなものだったのでしょう。だから唯円房は、その長い対話の要点だけを、親鸞の言葉にして記録していますが、それは唯円によって簡潔に整理されたものなんだということを忘れてはならぬと思います。
 それで、歎異抄は、どこをみても非常に名文でありますから、調子よく読むことができますがだからといって、一気にスラスラと読んでしまったのでは、正しい意味がとれないのだと思います。やはり、一語一語、じっくり慎重に読まないというと、この対話の真意というものを、ほんとうにとらえることはできないのでしょう。
 ところで、少し余談になるようですが、この歎異抄の中には、問答が三か所あります。すでにお読みになった方は、お気づきでしょうが、一つは、いまの第二章、つまり、第一章をうけて、それを展開するところ。それから、第二は、前半の十章を終る直前、第九章にあます。これで一応、歎異抄の第一部が終るわけですが、このように、第一章に述べたことが、さらに展開していくところと、そして、その第一章が展開して第十章に(おさ)まっていく直前のところ。この二か所に問答があります。それから、もう一つ、前半の第三章と対応関係にあるところの、第十三章にまた問答があります。これは、問答でなければ、対話でなければ、あらわすことのできないような信仰の問題があるということです。ですから、そのような対話の一つ一つに、それぞれの意味があるわけでありますが、後の第九章と第十三章については、あらためて考えることにいたしましょう。
 まず、ここでは、問答する親鸞の態度というものについて一言だけ注意しておきたいと思います。それは、親鸞は、問われた言葉にたいして、直ちに答えないて、問うた心の本心を、よく吟味して、問う人の身になって答えているということです。そのことをよくあらわしているのが、さきほどの「往生極楽の道を問い聞かんがためなりけり」という断定的な表現ですね。
 ところが、
 「それなのに、親鸞は、念仏よりほかにアミダの世界に生まれる道を知っておるとか、それを証明するような教えや、また、そういうことを書いた聖典などを知っているのであろう。その真相を知りたいものだ、などと考えておられるならば、大変な間違いです」。
 ここに「心にくくおぼしめしておわしましてはんべらば」とあるのは、にくらしいということではありません。実にめんどうな表現ですが、この「心にくく」というのは、真相が知りたいということ。そんなことなら、当時の「奈良や比叡山に、すぐれた学者たち、先生がたがおられるのだから、そこでよく、聞かれたらいかがでしょう」。

実存の名のり
 このようにいい切っておいて、そうして、
 「親鸞におきては、ただ念仏してアミダにすくわれよ、と教えてくださる先生のお言葉にしたがって信ずるばかりです」
といわれます。先生、つまり「よき人」というのは、親鸞にとっては法然上人のことなんですが、それを法然という名前を出さずに「よき人」といってあります。そうして、また「わたしは」といわないで「親鸞におきては」と、実名で語られております。
 ここで「わたし」といえば、それでいいようなものですが、しかし、「わたし」というのは、この自分だけでなしに無数にある。この自分をほんとうにあらわすにはまぎらわしい。けれども「親鸞」といえば世界中にただ一人。だれにも代ってみようのない「わたし」である。しかも、それが「親鸞は」といわないで「親鸞におきては」といわれます。ここに、なにか主体性のある発言といいますか、親鸞の実存の名のりといいますか、そういう非常に強いものを感じさせられます。
 それで、「親鸞におきては」というのは、その前に、それを聞いている同朋がいるわけですから、まずもって関東の同朋にたいして「親鸞におきては」といっておられるのだと考えることができるでしょう。
 ところが、さきほどもちょっといいましたように、この人たちが親鸞をはるばる尋ねなければならなかった原因を考えてみますと、これは全く一つの推測なんですが、息子の善鸞事件がからんでいるのではないか。としますと。「善鸞は、いろいろ勝手なことをいって人をまどわせている、けれども、わたし親鸞にあっては」という意味ももっていることになります。
 あるいは、親鸞の先生、つまり法然上人の門下には、ずいぶん沢山のお弟子がおられた。それで、今日の状態をみてもわかりますように、やがて浄土宗がいくつかに分派することになるわけですが、つまり、同じお弟子といっても、法然の教えの受けとり方というものは、それぞれまちまちである。「わたしは、こう思う」「いや、わたしは、こう聞いた」と異説が多い。それらにたいして、いま「親鸞におきては」といわれる。

日蓮の折伏と奈良叡山の弾圧
 これを、もっと広く考えていきますというと、親鸞が八十才をこえる頃から、関東地方を中心に、日蓮上人と、その教えを受けた人たちの活動が、だんだん活発になってきています、日蓮上人が立教開宗の宣言をされたのは、親鸞八十一才のときのことだと伝えられています。その日蓮は、大道の辻に立って説法した。今日では創価学会の折伏で、だれも知らぬものはないようになりましたが、日蓮には、あの有名な「四箇格言」というものがあります。
 「念仏無間(むけん)、禅天魔、真言亡国、律国賊」。いわば、これで当時の日本の仏教界を総攻撃しているわけですね。無間というのは、間がない、ヒマがないということですが、これは無間地獄のこと、そこに堕ちるというと、苦しみの連続で、苦しみに間がない。このように、まず、まっさきに念仏を槍玉(やりだま)にあげて、念仏なんか信じていると、極楽どころか、無間地獄というおそろしいところへ堕ちるんだぞ、と。それから、禅は天魔だ、真言は亡国の徒だ、律は国賊だと、口をきわめて批判している。非常に激しい口調で、当時の仏教を総なめにしているわけで、まあ、その布教の態度ともうしますか、調子ともうしますか、いまの創価学会のようなものだったんだろうと想像できるわけであります。
 そういうことがあったものだから、このあとのところに「念仏は、浄土に生まれるたねであろうか、あるいは、地獄に堕つべき業であろうか。親鸞は、そんなことは、いっこうにわからん」といってある。こういうことを、よくもまあ思い切っていったもので、言葉の意味をとりちがえるとたいへんなことになりますが、とにかく「念仏は極楽のたねか、地獄の業か、考えてみてもわからない」といってあります。こういうところから、「念仏なんかしていると、地獄に堕ちるぞ」という日蓮の言葉にまどうている人たちにたいして、「親鸞におきては」といっておられるのだと考えることもできるわけであります。
 あるいは、さきほどから読み進んできましたように、
 「親鸞は、念仏のほかになにか知っているのでなかろうか、と、そんなことを思っておられるなら、たいへんな間違いである。それなら、南都(奈良の興福寺)や北嶺(比叡山の延暦寺)にも立派な学者がおられるから、そこに行って聞きなさい」
とありましたが、そういう聖者の歩む道を行く人たち、聖道門の仏教者たち、これが、当時の権力者と結んで、法然や親鸞を弾圧した。こういう人によって念仏が弾圧されたんだけれども、しかし「親鸞におきては」といってあるんだとも思われます。
 こういうように、長いときをへだてて、親鸞の言葉を聞きますというと、「親鸞におきては」という一言のもつ意味というものは、実に、広く深いものがあります。身近なところでは、眼前の同朋たちにたいし、広くは念仏を禁止弾圧する人びとにたいし、「人はいかようにもあれ、親鸞におきては」と、ここに実名をあげて名のるわけでありますが、この実名の名のり、これは親鸞の実存の名のりである、と、こういっていいのじゃないかと思うのであります。

親鸞と法然の出会い
 しかし、このように沢山の人たちから、みずからを選んで「親鸞におきては」といわれる答えは、極めて簡単明瞭です。
 「ただ念仏して、ミダにたすけられまいらすべしと、よき人のおおせをこうむりて信ずるほかに、別の子細なきなり」。
まことに簡単明瞭ですね。
 さきほどからのお話でわかっていただけると思いますが、親鸞がこういうふうにいっているのは八十才をいくつか過ぎたころ、あるいは八十四才をすぎたころかと想像してみるわけですが、いずれにしましても、親鸞が法然に出会うたのは二十九才のときでありますから、そこには、ほぼ半世紀もの時の距たりがある。法然に会って、もう五十年も経ってから、この会話がなされている。ですから、出会いともうしますが、法然と親鸞の出会いに秘められた意味は、いかに深いものがあるか。それは五十年の時を距てて、なお、あざやかに記憶されていて忘れることのできないような出会いであります。
 親鸞は、九才で比叡山に登って、二十年間、そこで難行苦行の生活をした。ところが、二十九才のとき、その青春を()けて求め続けた山上の生活を捨てて、山を下り、法然をたずねた。そして、その法然に出会ったところから、全く、新しい親鸞の求道生活が始まる。それまでの、長かった精神の遍歴に終りを告げて、全く新しい人生が展開することになる。ですから、法然のもとにあった六年間の一日一日は、人に生まれて学ぶべきものを、いま、ほんとうに学びつつあるのだ、求むべきものを、ほんとうに求めつつあるのだという、感動にみちた真剣そのものの暮らしであったにちがいありません。それは、長い苦難をくぐって求めてきた青年親鸞の求道に花開くときともうしましょうか。求め続けて、遂に求むべきものを求め得たとき。生涯、忘れようとしても忘れることのできない、まさしくエポック・メーキングなときであったわけであります。
 この会の第一回のときに、親鸞は、自分の私事を語らなかったともうしました。が、親鸞は法然に出会ったという歴史的な事件については、はっきりと書いています。あの『教行信証』の一番おしまいのところをみますと、それを「後序」とよんていますが、そこに非常な感激をもって、法然との出会いを記しています。まえにももうしましたように、私事を語らなかったのは語る必要がなかったわけでしょう。自分は、いつ、どこで生まれたとか、父や母はどんな人であったとか、あるいは、自分はどんな苦労をしてきたかというような、個人のことなど、ことさらいう必要がないような生き方をしていた。
 ということは、法然に会うたところに始まる親鸞の人生というものは、みな法然の教えに(おさ)まっていく。親鸞に新しい出発点を与えた法然の教えのなかに、人生全体が摂まっていく。だから教えを語ることが、とりもなおさず人生を語ることになるのである、と、そういうことをあらわしているわけであります。ですから、いま関東の同朋から、真剣にいのちがけで問われているわけですが、それにたいする答えは、ただ一つ、すなわち「ただ念仏してアミダにすくわれよ、という先生の教えを信ずるばかりです」。

身のある現実をごまかさない
 ところで、さきほど、人生というものは、邂逅と別離の描く軌跡のようなものだといいましたが、だからこそ、わたしたちは、この人生において、だれに出会うか、なににめぐりあうかということが、非常に大切な意味をもってきます。いわば、それは、わたしたちの運命を決定するとさえいってもいいのでしょう。いつ、どこで、だれに会い、なにに会うか。
 もちろん、わたしたちは、会いたいと思うからといって、思うように会えるとはかぎりません。求めれば必ず得られるとはきまっていませんけれども、しかし、求めなければ得られない。求めれば、求めた気持にふさわしいものが得られるというわけにはいきませんが、といって、求める努力がなければ得ることもないということだけは、はっきりしております。
 そして、この会うたもの、得たものとも、やがては別れる、離れていくのが人生でありますけれども、出会うたという事実までなくなるわけではない。たとえ別れても、会うたということはなくならない。会うた経験は、この身にちゃんと残っている。そういうわけですから、この身というものは、非常に大切な重大な意味をもっているのであります。第二章を注意してみますと、この文章の中で、親鸞は、「身」という言葉を三回使っています。ぼくは、これを意訳するときこんな言葉は略してしまった方が訳しやすいとも思ったのですが、それでは意味が正しく伝わらなくなる。それで、意識してこの言葉を残すことにしたのですが、まず、第一には、
 「自余の行もはげみて、仏になるべかりける身」。
この身をもって生きているところに、ゴマ化しのぎかない現実があるわけですが、念仏以外の修行によって、この身が、はたしてブッダとなることなどできるのであろうか。第二は、
 「いずれの行もおよびがたき身なれば」。
わたしたちの思いというものは、あれもできる、これもできると勝手気億に思うのですが、そのような浮気な思いというものを、いつも現実にひざもどすのが、この身というものであります。それから、最後の方に
 「せんずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし」
とあって、親鸞自身のことを、愚かな身といってあります。つまり、身というのは、自身のこと。
 英語では、マイセルフ(myself)とか、ユアセルフ(yourself)といいますが、わたしには、わたしの自身というものがある。そして、その自身というものは、わたしが考えているよりも、もっと確かなわたし自身である。このわたしと、わたし自身を切り離して考えると、なにか実体的なものが二つあるように思われるかも知れませんが、そうでなくて、このわたしにおけるわたし自身というもの、つまり、かたちのないわたし自身のかたちというものを「身」という言葉であらわす。だから、身というものは、なにか、かたちにあらわすことのできないような実在の象徴である、と、このように考えられると思います。
 ですから、この身というものは、現実には、時とともにうつろうていくような肉体、時とともに変化し流転していく肉の身として存在するわけでありますが、しかし、それは、ただ変っていく、流れていくというだけの意味しかもたぬのではありません。この身は、かたちのない、そして、いつまでも変らない実在というものの、現実にあらわれたかたちである。したがって、わたしたちは、この身において、実在というか、真実なるものというか、そういう永遠不変のものに出会うのである。だから、現実にあるこの身というものをゴマ化してはならぬ。この身の生きている事実というものを正しく知らねばならぬのであります。

この身は愚かで正直なもの
 だいたい、わたしたちが生きておるということは、わが身があるということです。身があるということを生きているといいます。わたしたちは、この身のあるところに、現に実に生きている。ところが、この身にたいする心というものを考えてみますと、われわれの心は、たいてい生きている現実のところにはいない。現実を逃避して、あちらこちらと浮気をして歩いている。
 たとえば、わたしは、あまり大きくもない寺の長男に生まれたのですが、子供の頃から、寺がイヤだと、どれだけ思ったことか。そしてサラリーマンならよかろうにとか、お医者になろうかとか、たびたび、そういうことを考えた。しかし、この寺に生まれたのがイヤだといっているわたしが、現に育てられ、支えられているのは寺院という世界のここであった。寺とともにあるこの身が、心ではイヤだイヤだといいながら、寺に育てられていた。そういうことであります。
 工場で、機械の前に立って仕事をしている、「ああ、イヤだなあ、どこか海へでもいって泳ぎたい」と思っていても、やっぱり機械の前にいて、生きる責任を果すのは身であります。イヤイヤ仕事をして、心ここになくてウワのソラだったために、機械のベルトに手をとられた、足をとられた、そしてケガをしたというときに、身は、浮気な心の後始末まで引きうけて、現実に生きる責任を果していくのです。
 このように、心は、現実を避けて、夢をむさぼったり、空想を追うたりしている。そういう浮気な心を、この現実にひきもどすのが身というものです。身は、心がフワフワと遊んでいる間もこの現実に、じっと耐えて生き続けている。そういう意味で、この身は、実に愚かにも正直なものだといわねばなりません。

宿業の身が生きた歴史
 それから、わたしたちの心は出会ったことを、たとえ忘れていくにしても、この身は知っている。心は、もう忘れてしまって知らないことでも、身は知っている。身は、事実として知っている。そういうふうにいうこともできるわけであります。
 例年のことですが、八月が来ますと、原爆記念日のこと、そして、第二次大戦の終戦のことが思い出されます。今年は、戦後十九年、そういうことで、広島や長崎を中心に、原水爆禁止の運動がさかんにおこなわれる。けれども、もう十九年もたったのに、いまなお戦後でもあるまい、ということがいわれる。もう戦後といってみてもピンとこない、と。
 今度のオリンピックの聖火リレーの最終ランナーに選ばれた青年。かれは、戦争の終った年に生まれた。そういうことでランナーに選ばれたということを、今日の新聞に手記を寄せて、感激をもって書いています。しかし、そうはいっても、終戦のときのことが記憶にあるわけではない。だから、経験としてはピンとこないのでしょう。ここにお集まりのみなさんの中にも、戦争を知らない人は沢山おられるわけであります。
 しかし、一応は、そういうふうにいいますけれども、それでは、原爆が落ちてから後に生まれた子供は、原爆を体験しなかったのでしょうか。「原爆などは知らない」ですまされるのでしょうか。こういう一つの大きな問題があります。なるほど、一応は知らないといわねばなりませんね。わたしは戦争を知らないといえば、そのとおりでしょう。ところが、これは、広島の高校の教師をしている友人から聞いた話ですが、広島のある小学校の子供が作文を書いた。その子供の親は原爆の被災者で、原爆症で死んだのだそうです。作文を正確には覚えていませんが、こういう意味の文章なんです。つまり
 「朝起きて、手をじっとみつめる。ああ、今日の手も、昨日の手とかわっていない」。
 原爆で一瞬のうちになくなった人が沢山あったわけですが、いまもなお長い療養生活をしておられる人もある。そればかりか、つい前日まで非常に健康そうだった人でも、急に容態がおかしくなって倒れるというような人もある。「ああ、今日の手も、昨日の手とかわっていない」。しかし、今日の手が、明日もかわらぬという保証はない。この今日の安堵と、明日への不安。この不安のところに原爆の体験が生きているわけであります。つまり、原爆を、一応は知らないけれども、しかし知っている。この身についた体験が不安を感じさせる。こういうところに生きた歴史というものがあるのではないでしょうか。
 われわれは、歴史などといいますと、学校で教えてもらった歴史、年表というものがあって、それをもう少し詳しく肉づけした解説のようなものが歴史だと考えるのでしょうが、生きた歴史というものは、わが身として現在する。ですから、たとえば原爆症の可能性というようなものを遺伝としてうけついだとしますと、その遺伝こそ、仏教でいうところの宿業である。この身に遺伝してもっている、そういうことを宿業の身といいますが、この宿業といいあらわすような、この身の歴史こそ、ほんとうに生きた歴史だといわねばならぬと思うのであります。
 また、なかには、自分は父なんか知らぬ、母なんか知らぬという人があるかも知れませんが、それにしても、父がなかったわけではない、母がなかったわけではありません。つまり、わが身があるかぎり、父があり、母があったにちがいない。それは、父を失った身、母に死なれた身として、ここに生きている、このことがなによりもたしかな証拠であります。
 このように、身という問題は、いろいろ考えつくさなければならぬ非常に大切な問題でありまして、だからこそ、親鸞が、とくに、この身をゴマ化さずに正しく把縁するという意味があるわけであります。すなわち、親鸞が、念仏のすくいというのは、この身がすくわれるということである。身のある事実というものを、正しく知る勇気と智慧は、ただ念仏の教えからのみ与えられるのである、と、このように親鸞はいっているのであります。

生別から死別へ
 このように考えてきますというと、三十五才で法然に分かれた。親鸞は越後へ、法然は土佐へと、それぞれ流刑に処せられて、別れ別れになっていった。ところが、越後へ行ってみるというと、京都の吉水で、法然の教えを聞いていたころ、いわば吉水大学の研究室とでもいうべきところで学んでいたころと全くちがう。そこには「海や川で網をひいたり、つりをしたりして世わたりをする人びと、野山で、ししをかり、鳥をとって、いのちをつぐ人びと、商いをしたり、田畠をつくって生活する人びと」が待っていた。親鸞は、そういう人のなかまとなって暮らすことになるのです。
 そうじてみると、これまで法然上人に教えられて、もうわかっていたはずのことのなかに、新しい問題がどんどん出てきた。生活をしていくうちに、いろいろ問題が出てくる。それで、今度罪がゆるされて自由の身になって、法然上人に会えるときが来たなら、これも聞きたい、あれも聞きたい、と、山ほどの問題があったにちがいないと思います。ところが、流罪になってから五年、親鸞の罪がゆるされたという報せのすぐあと、法然が京都でなくなったという訃報に接することになった。ということは、親鸞と法然の生き別れが、いまや死に別れとなってしまったということ。つまり、これまでは、なにか問題があっても、もし解決しなければ、法然に会うときをまって尋ねようという気持に支えられてきたわけですけれども、いまとなってみれば、もう法然のところへ行けばいいではすまされないことになった。最後の支えとでもいうべきものを失って、さあ、親鸞は、これから、なにをたよりに生きていったらいいのだろう。なにを支えに生きていったらいいのだろうか。

永遠のめぐりあい
 法然はなくなったという報せを受けとったんだから、たしかに先生はなくなったのにちがいない。けれども、なくなってしまったのでは困る。先生に死なれては困る。果して、ほんとうに先生はなくなったのだろうか。どこかに生きておられるのではなかろうか。こういうことが、改めて問題になってきたろうと思います。
 そして、そういう課題をもって、法然と別れたときのこと、法然にめぐりあったときのこと、あるいは、法然からいろいろ教えられたことなどを、くりかえしくりかえし反覆しているうちに、やがて気づいてきたこと、それは親鸞が法然と会うたのは、実は法然の教えに会うたのであった。法然の教えに会うたのは、ただ念仏の仏法に会うたのであった。と気づいてみますというと、親鸞が会うて別れたのは、いわゆる人間関係の中での法然であった。しかし、その法然をとおして会うた事実は消えきらない。生別が死別に終っていくような、あの別離にもかかわらず、法然がこの身に残していった念仏の教えには終りはない。たとい人縁は別離するとも、アミダ法縁の邂逅は、無縁のゆえに、永遠である。法然に死なれてみて、そういうことが、はっきりしてきたにちがいないと思います。
 ですから、親鸞の上に、いよいよ明らかになっていきますことは、法然は、ただ単に、生から死に向った人ではなかったということ。生から死に向っていただけではない。ということは、法然と親鸞は、ただ会うて別れたのではなくて、親鸞にとっての法然は、死して生きるような法然であった。その、死して生きる法然は、親鸞の身のある事実として生きつつある。そういうことにめざめた表白が、いま第二章にありますところの「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと、よき人のおおせをこうむりて、信ずるほかに別の子細なきなり」。いわばこれは、親鸞の身に開かれた永遠のめぐりあいというものを語る表白であります。

地獄一定は独立者の自覚
 まだ、いろいろ、いい残すことがありますが、予定の時間がまいりましたので、今日のお話は、この辺で終ることにいたしたいと思います。要するに親鸞は、法然と出会いすることによって、自分にとっては、「ただ念仏して」と信ずるほかにはなにもないといい切るような人間になったわけでありますが、そういう人間像を、言葉をかえていうならば、それは「独立者」というべきである。つまり、ほんとうに自分の足で大地を踏みしめて生きるものである。まさしく「ひとりに生きる」ものというべきである。このように、真実にめぐりあった人間の像は、なにものにも依存しないで生きる独立者であるということを明らかにするのが、この第二章の後半であると了解することができるのでありますが、それに先立って、そのような「ひとりに生きる」ことのできるような心境というものは、いったいなんであろうか。それについて、絶対孤独のすくいが、「地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし」という自覚のところに実現すると説かれております。それで、次回は、この第二章を「地獄一定」というようなテーマで、ゆっくり拝読することにいたしまして、今回のお話は、これで終ります。 (昭三九・八・一九)


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