2 第二章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
  目  次  
 1 序・第一章  
 2 第二章  
 まえがき
  一 第二章の一  ◀ 
   原文・意訳・注  
   案内・講師のことば
   講  話  
   座談会  
  二 第二章の二  
  三 第二章の三   
  補 説  
 3 第三・四・五章  
 4 第六・七章  
 5 第八・九・十章  
  謝  辞  
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一 第二章の一 「めぐりあい」


     案内のことば

 トーキーが発明されて、一番とまどったのは、これまでの無声映画芸術の大家といわれる人たちでした。彼らは「台詞(せりふ)は、なによりも分離された場面の並置によって生ぜしむる統一と調和しないからである」(サドール著『世界映画史』より)とかなんとかいって批難しました。
 しかし、いかにケチをつけてみても、大衆は新しく生まれた音の魅力の可能性を、肌で理解していったのでした。やがて、大家たちも、無声映画時代の洗錬された手法と、新しい技術をつかって、次々とすぐれた映画を作りました。廻りくどい視覚的表現にとってかわって、映画に新しいリズムが登場したのです。生きた大衆性とは、このように、歴史の発展とともに、さまざまな様式で豊かになっていくものです。
 前講で、「大衆はだまされない」といわれた伊東先生の胸のなかには、あたえられた状況の複雑さや困難を、なにひとつむくわれることなく、いつも豊かさに転じてきた、大衆の歴史への、かぎりない信頼があったのでばないでしょうか。
 歎異抄のことばが、共通のことばとして疎遠である今日、わたしたちは、この疎遠なことばを、七百年後の現代に生きた大衆のことばとして復興したいと願っています。そのためにも、現代の状況から目をそむけてはならないのだと思います。

    昭和二十九年八月十五日                        飯南仏教青年会


     講師のことば
 
 「人生とはなにか」と問えば、答えは、人によって、いろいろ違うことでしょう。が、しかし、だれでも共通することは、この一生の間には、たくさんの人に出会うということ、そして、いつしか別れるということです。また、わたしたちは、さまざまな事件を経験しますが、それも、やがて時とともに、ほとんどみな忘れてしまいます。このように、人生とは、めぐりあい(邂逅(かいこう))と、わかれ(別離)との、反覆であるといえましょう。
 では、人生には、会うた喜びが別れの悲しみにかわらないような、永遠のめぐりあいはないのでしょうか。ひとたび経験した喜びが、もう決して悲しみとはならぬような、ほんとうの幸福はないのでしょうか。
 歎異抄の第二章は、そのような問いについて、みごとな解答を与えてくれています。そこで、今回はそういう永遠の「めぐりあい」について考えることにしたいと思います。


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