2 第二章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
  目  次  
 1 序・第一章  
 2 第二章  
 まえがき ◀ 
  一 第二章の一  
  二 第二章の二  
  三 第二章の三   
  補 説  
 3 第三・四・五章  
 4 第六・七章  
 5 第八・九・十章  
  謝  辞  
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まえがき


【推薦のことば1】

 この書には、生きた「感覚」がある。そのことは、何でもない事のようで、実は容易ならぬ事柄である。現代の仏教界一般に欠けている根本の点も、結局はそこにある。その意味で、この書は、現代に類の少ない仏教書の一つだと思う。
 著者の講話は、誰にもわかる日常の言葉によっている。しかも、ただの通俗講話ではない。そこでは、「歎異抄」の核心を突いた解明が展開され、それがわれわれの心に底深く響いてくる。むしろこれこそ、真正の講解というものであろう。
                京都大学名誉教授・大谷大学教    西 谷 啓 治


【推薦のことば2】

 著者と、著者をささえている二十歳台を中心とした伊勢の田舎町に住む八十二名の人びとが、「歎異抄」をかみしめながら、いかに「生きる」かを話しあい、煮つめていった記録が、ここにある。この書は、すばらしい素人楽団の奏でる交響楽だ。それだけに親しみ深く、かつ鮮烈である。著者のタクトも見事、あなたはきっと聴衆としてではなく、メンバーの一人として、八十三人目に加わるにちがいない。
 それが親鸞の、また「歎異抄」のふしぎな伝統と作用であるとおもう。
                龍谷大学教授    森  茂 吉


     ま え が き

 今日は二月四日、立春――。わが家の前を流れる加茂川の水のせせらぎにも、はやくも春の訪れが感じられます。思えば、この『歎異抄の世界』の第一巻が、世におくられてから、ちょうど三か月。この間に、わたくしたちは、多くの先輩や知己とまじわりを深め、多くの未知の方がたと新しく近づきになりました。そして、寄せられた激励や讃辞、あるいは批判や誤りの指摘などに、歎異抄の世界が、いかに広く深いかと、しみじみ痛感いたします。
 いただいたお便りには、たとえば「ユニークな企画」といい「変った形式の本で、しかも、作ろうとして作ったものではなく、自然にできあがったということが尊い」といってくださった人があります。また「座談会の記録があることが、同朋のあり方を暗示している」、「座談会の様子から、人びとの求めているものもさぐり知られ、興味深い」、「読み方として、このようなグループ・リーディングは有益である」と、この書が「わたくし」のものではなく「われわれ」の求道の記録であることに共感してくださる方がたもあります。
 たしかに、わたくしの領解は、会に集まる青年諸君によって触発され、啓蒙され、そうして深められていくのであります。だから、青年諸君は、わたくしの単なる友ではないといわねばなりません。あるいは、この書の歴史的な観点を問題にして、「歎異抄の、思想と表現を、歴史のなかで腑分(ふわ)けし、吟味するということが非常に弱くはないか」と、示唆あるご注意もいただきました。また「勤労生活の単なるなぐさめでない、根源的なエネルギーの源となるような仏教を――」という、きびしく重い課題を与えてくださった人もあります。
 これらは、みな、わたくしたちをはげまし勇気づけ、より大きく育てようという心から出たことばでありますが、なかには、われわれの身にすぎた評価と思われるものもありました。いずれにもせよ、これらの声に素直に耳を傾け、ことばの本意を正しく聞きあてて、さらにさらに精進したいと思うことであります。
 それにしても、わたくしは、さる昭和四十年十一月から、大谷大学の講師と学監と事務局長を兼任して、この書のためにあてる時間が、ほとんど得られない状態にあります。全五巻完結の約束は、ぜひ実現しなければなりませんが、歎異抄に聞くなかで気づいたことや、人びとから教えられる問題点を、深く吟味追究することもできず、「諸問題」の叙述にも意をつくすことができません。読者のみなさんには、まことに相済まぬことであります。
 しかし、この書には、わたくしの個人をこえて、青年諸君と共に歎異抄に聞き、そして、聞き得たことがらが記録されています。それらの問題が、幸いにも読者のみなさんによって、さらに深く問われ明らかにされるならば、この書はこのまま、歎異抄の世界が広まっていくための任務を果すものといえましょうか。
 さて、この第二巻には、編集の都合上、まずはじめに歎異抄第二章の原文と現代意訳と注釈、および三回にわたる講話と座談会を収録しました。これによって、第二章が提起する問題の要点に関しては、なんらかのかたちで一応はふれることができたかと思います。ここには、人生の愛と孤独と死のただなかに、いかにしてアミダ(永遠)のすくいが実現するのか、教えに出あうことの歴史的意義は、いったいなにであるのか、ということが明らかにされています。
 このあと「歎異抄の諸問題」では、さきの第一巻でふれることのできなかった点、つまり、歎異抄の全体にかかわる問題と、第一章、第二章についての要点を、補説の意味から、与えられた頁数の範囲におさめるように、ごく簡単に述べました。
 こうして、ようやく第二巻が出来上ったのでありますが、このためには、一々、名前を列記できないほど、実に多くの人びとのお力ぞえをいただきました。ここには、そのことを記して、心から深く感謝いたします。
    一九六七年二月四日

                                         京都上賀茂にて
                                            伊  東  慧  明


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