3 歎異抄の筆者
歎異抄の筆者はだれか。これについて、今日では、この抄の中に実名のみえる唯円であるというのが、ほぼ定説となっています。しかし、唯円説に落着するまでには、多くの先輩が激しく論争しましたし、また、そのために生涯をかけた献身的な研究があったことも忘れることはできません。とりわけ銘記すべきは、講話でもふれたことですが、今日『歎異抄聞記』として残されている、真宗大谷派の学僧、妙音院了祥の研究であります。
従来、この抄の筆者としては、本願寺第三代の覚如説、親鸞の孫にあたる如信説、それに唯円説があり、近くは大正十一年に中沢見明氏によって提唱されたところの、唯円の手記と如信の口伝と覚如の私記を含めた合成の作とする説などもみられます。
ことに、香月院深励は、『口伝鈔』との関係から、三証一理をあげて覚如説を否定しました。三証一理とは、すなわち
一の証。第三章の「善人なおもて往生をとぐ」が、口伝鈔下に「本願寺の聖人、黒谷の先徳(法然)より御相承とて、如信上人おおせられていわく」として出ていること。 二の証。第一章の「本願を信ぜんには他の善も要にあらず」が、口伝鈔上に「上人親鸞おおせにのたまわく」として出ていること。
三の証。第十三章の「ひと千人殺してんや」が、口伝鈔上に出ていること。
一の理。この抄の文から、これは明らかに親鸞面授口伝の語録であるが、覚如は、親鸞滅後の誕生であるということ。
以上であります。ところが、了祥は、
一、第十章(別序)に、「そもそもかのご在生のむかし」とあるが、これは筆者自身が親鸞に会うたことを示す。
二、第二章に「十余か国のさかいをこえて」とあるが、これは、この対話の席にいなければ書けない文章である。
三、第九章の「念仏もうしそうらえども」の文体からみれば、如信が間接に聞いたのでは書くことができないといえる。
四、第十三章の文体も、唯円が直接承った話でなければ書けない。
などと、くわしく研究し、また「如信の作ならば、存覚の『浄典目録』にのっていないはずはない」と反証をあげて「まず唯円坊の作と決択するなり」と断定しています。さきに述べた中沢氏に激しく反論して、強く唯円説を主張されたのは、梅原真隆氏でありますが、氏の所説も、この了祥の断定する理由をうけて展開されたものといえましょう。これを、今日に残された史料から客観的に証明することはできませんが、歴史学者の間でも、ほぼ唯円の作とする説が認められるようであります。
では、唯円とは、いったいどういう人でありましょうか。実は、親鸞にかかわる同朋に、唯円という名の人物が二人あります。その一人は、親鸞門下のいわゆる二十四輩に名のみえる鳥喰(茨城県常陸太田市)の唯円。いま一人は、宗誓の『遺徳法輪集』巻三に「常陸国茨城郡河和田村(茨城県水戸市)報仏寺、当寺開基唯円房は、俗名幸次郎とて平太郎舎弟なり、聖人の御弟子となり、如信上人の御代まで給仕せり」と伝えられる人であります。了祥が、この抄の筆者とするのは、河和田の唯円でありますが、この唯円は『慕帰絵詞』三によれば「正応元年(一二八八)冬の比」に上洛して、若い覚如と対面したとあります。
そのことから、金子大栄先生は、岩波文庫の『歎異抄』における解題に「唯円は、親鸞の減後にも上洛するほどの元気があったようである。親鸞の入滅した弘長二歳から正応元年までは二十七年になるから、親鸞在世の時に上洛して、その物語を記録した頃の唯円の年輩もほぼ想像されることである」と述べておられます。
では、唯円が、この抄の後序に
「露命わずかに枯草の身にかかりてそうろうほどに、あいともなわしめたもう人びと、御不審をもうけたまわり、聖人のおおせのそうらいし趣をも、もうし開かせまいらせそうらえども、閉眼ののちは、さこそしどけなきことどもにてそうらわんずらめ」
と述べ、「なくなく筆をそめてこれをしるす」と書き終えたのは、いったい、いつ頃なのでしょうか。これについて、了祥は「わが祖(親鸞)御減後三十年も隔りて、異義盛んになったについて唯円、この鈔を記して、わが祖の伝えを残す」といいます。これまで多くの学者は、この了祥の説によって減後約三十年と推定していますが、歴史学上の考証など、専門にわたる問題の追求は歴史学者の研究にまつほかありません。したがって、ここでは、最近「減後約二十年より二十五年までの間、唯円五十歳前後の頃の撰述か」と推定する細川行信氏の説(宮崎円遵博士還歴記念論文集「唯善事件の波紋――善鸞と唯円について」所載)があることを紹介するにとどめたいと思います。
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