1 序・第一章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
  目  次  
 1 序・第一章  
 まえがき
  一 序  
  二 第一章の一  
  三 第一章の二  
  四 第一章の三   
  補 説  ◀ 
   1 歎異抄の魅力
   2 歎異の精神
   3 歎異抄の筆者
  あとがき  
 2 第二章  
 3 第三・四・五章  
 4 第六・七章  
 5 第八・九・十章  
  謝  辞  
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補説 歎異鈔の諸問題


     2 歎異の精神

 この書物が「歎異抄」と名づけられた事由については、筆者自らが、後序(第十九章)に
 「一室の行者のなかに、信心異ることなからんために、なくなく筆をそめてこれをしるす。名づけて歎異抄というべし。外見あるべからず」
と述べていることによって明らかであります。
 親鸞の去ったあとの関東地方には、すでに親鸞在世の間から、種々様々な異義異説がおこなわれておりますが、没後年を経るにしたがって多くなる異義のために、同朋たちの信はたじろぎ、教団の動揺はますます大きくなった、と思われます。序にもありますように「同心の行者の不審を散ぜんがため」に、すなわち「一室の行者のなかに、信心異ることなからんために」、親鸞の言葉を記録し、多くの異義から八ヵ条を選んで一々批判を加えて、この抄は編集されたわけであります。
 では、歎異(異ることを歎く)といわれるところの「異」とは、いったい何でありましょうか。それについて、序には
 「先師口伝の真信に異ることを歎き」
といいます。いうまでもなく、それは、筆者にとっての先師、親鸞より直接に教えられた真信との異りを歎くのであります。さらにいえば、真信とは、さきに述べたとおり、善導大師以来の伝統の二種深信であり、親鸞における「自身を深信する」という自信であります。これについて、増谷文雄氏はその著『歎異抄』に「たんにこの筆者が、親鸞からしたしく聞いたことという程の意ではなくして……法然から親鸞へと相承せられた醇乎(じゅんこ)として純なる本願念仏のおしえ、それが先師の口伝の真信でなくてはならない」というのが「わたしの新しい解釈である」と力説しておられます。
 たしかに、善導から法然への伝統相承は、いわゆる口訣(くけつ)口伝(くでん)ではなかったというところに、法然ならではという偉大さがあるわけであります。しかしながら、問題の要点は、「先師口伝」についての単なる解釈にあるのではなく、いま筆者が歎異するところの「先師口伝の真信」の内景を、わたしたちが明らかにするということでありましょう。すなわち、歎異の精神を正しく理解し、歎異の感情に素朴に生きるものとなることこそ、歎異抄を繙くものの最大の願いでなくてはなりません。
 そのような観点から歎異抄をみますと、歎異するのは、この抄の筆者その人であると知られてきます。一見、先師親鸞と、あとに残された人びととの間の、異りを歎くかのようでありますけれども、歎異は筆者の主体性を離れてはありえないと思います。したがって、異の歎きは、筆者その人に受けとめられた現実にたいするものというべきでありましょう。それが、二種深信の伝統でありますし、なによりも、そうでなくては、親鸞の語録や異義の歎異が、これほどの迫真力をもつことはないといわねばなりません。
 第九章をみますと、ある日、唯円が
 「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)の心おろそかにそうろうこと、また、いそぎ浄土へまいりたき心のそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」
と、信における極めて重大な問題、つまり、アミダの信と願にたいする唯円のまどいを問うたことが記されております。唯円は、親鸞の信との異りを、求道におけるまどいとして問うたわけであります。ところが、それにたいして、親鸞は、全く驚くべき言葉をもって答えたとあります。すなわち、
 「親鸞も、この不審ありつるに、唯円房同じ心にてありけり。よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもいたもうべきなり」
といっております。「親鸞もこの不審ありつるに」とは、なんと自信にみちた言葉でありましょうか。唯円のまどいに同感する親鸞は、実は、まどいに同体し共感することのできる親鸞であります。したがって、この一言のもつ意味は、きわめて重大であるといわねばなりません。
 ここには、唯円の歎異精神が、そのまま親鸞の歎異精神であることが明らかにされております。それを語るのが、次の「よくよく案じみれば」以下の言葉でありましょう。歎かるべき「異」の現実が、
 「よろこぶべき心をおさえて、よろこばせざるは、煩悩の所為なり」
と、とらえられています。すなわち「異」の現実の根本原因が煩悩にあるといいます。この無明の煩悩こそ、善導をして「自身は現に是れ、罪悪生死(しょうじ)の凡夫、曠劫(こうごう)より已来(このかた)、常に(もっ)し常に流転(るてん)して、出離(しゅつり)の縁有ること無し、と深く信ず」と、いわゆる機の深信を表白せしめたものにほかなりません。
 しかし、歎かるべき「異」が見出されているということは、とりもなおさず、異の現実を「歎」かしめる力のはたらきにほかなりません。「よろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもいたもうべきなり」と、いい切ることができるのは、すなわちアミダのはたらきであります。それを、
 「しかるに、仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりと知られて、いよいよたのもしくおぼゆるなり」
と述べてありますが、これは「彼の阿弥陀仏の四十八願は、衆生を摂受(しょうじゅ)したもう、疑い無く慮り無く彼の願力に乗ずれば、定んで往生することを得、と深く信ず」という、いわゆる法の深信をあらわす言葉であると了解されます。
 『歎異抄聴記』をみますと「この異ることを歎く深い歎異感情を突きぬけて、如来廻向の一味の安心が自証されうる。……信心の問題を、単に個人的に考えて来れば、各自各自みな異っている。これを同じというのは抽象である。個人的安心といえば、異るのが本当であろう。それを抽象して、ただ共通点のみを発見して、平等というにすぎない。ただ抽象的な共通点よりも、各自各自異る具体的内容が大事である。それを抽象して、同一というても無意味なことである」とあります。
 したがって、親鸞と唯円との歎異精神における同一性こそ、かえって、後序に
 「源空が信心も、如来よりたまわりたる信心なり。善信房(親鸞)の信心も、如来よりたまわらせたまいたる信心なり。されば、ただ一なり」
というところの、真信の同一を反顕するものでありましょう。すなわち、仏教における歎異の精神の伝統は、換言すれば、アミダに始源する同一信心の歩む歴史であります。その歴史から誕生し、その歴史をつくるものとなるところに、歎異精神を基調とする歎異抄の歴史的意義があると思うのであります。


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