1 序・第一章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
  目  次  
 1 序・第一章  
 まえがき
  一 序  
  二 第一章の一  
  三 第一章の二  
  四 第一章の三   
  補 説  ◀ 
   1 歎異抄の魅力
   2 歎異の精神
   3 歎異抄の筆者
  あとがき  
 2 第二章  
 3 第三・四・五章  
 4 第六・七章  
 5 第八・九・十章  
  謝  辞  
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補説 歎異鈔の諸問題


     1 歎異抄の魅力

 歎異抄は、どうして、これほど多くの人びとに読まれるのでしょうか。ことに、現代人の心をこれほど強く深くとらえて離さぬ魅力は、いったい、どこにあるのでしょうか。講話においても述べましたが、今日、歎異抄を読む人びとの範囲はきわめて広く、したがって、歎異抄にたいする関心や興味も多様多彩であります。だから、歎異抄に()かれる原因についても、考えは、人さまざまであることでしょう。それについて、わたしは、この歎異抄の魅力は、親鸞の強い自信を表白するところにあるのだと思います。
 現代は、静かな戦国時代だといわれます。この混乱する時代社会のなかで、不安におののくたましいは、生きる自信を求めずにはおれません。愛と智慧と力なくしては生きられないこの人生にあって、わたしたちは、なによりも、まず、強い自信を求めます。周知のとおり親鸞は、平安未から鎌倉時代にわたる、めまぐるしい日本歴史の転換期に生きて自信を求め、そして自信を求め得て生きた人であります。だから、人びとは、その自信に生きた親鸞が、この歎異抄をとおして語りかける世界のなかに、それぞれ、自身のすくいを求めて、集まるのでありましょう。
 「歎異抄に聞く会」が発足するとき、わたしは、青年たちに、なぜ歎異抄を選んだのかとたずねましたところ、かれらは、異口同音に「生きる自信を求めて」と答えました。すなわち、歎異抄は、そこに語られる世界が何であるかということを、まだ的確には知らない人びとにすら、自信の書だと受けとられているわけです。
 しかも、ここにあらわされる自信は、ただ単に親鸞個人のものではないということが、その魅力を、より強く深いものにしているといえましょう。いうまでもなく、この書は、親鸞の語録、つまり同朋によって聞きとられた親鸞の言葉と、それにてらして書かれた歎異、つまり当時の社会(教団)の歎かわしい現実を批判したものとの、二部から成りますが、この筆者をして歎異せしめるはたらきこそ、実は、万人に自信を与える根源の力、すなわちアミダの力にほかなりません。歎異抄にみられる親鸞の自信は、人生の根源であるところのアミダに由来するものであり、したがって、それは、万人に共通するところの自信であります。
 第二章をみますと「親鸞におきては」と、実名をあげて名のり、そして、
 「たた念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よき人のおおせをこうむりて信ずるほかに、別の子細なきなり」
と、「よき人」にたいする絶対憑依(ひょうい)の信を表白し、
 「弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したもうべからず。善導の御釈まことならば、法然のおおせそらごとならんや。法然のおおせまことならば、親鸞がもうすむね、またもてむなしかるべからずそうろうか」
と、その信の由来を述べ、
 「せんずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、また、すてんとも、めんめんの御はからいなり」
と、絶対の自信が宣言されてあります。
 仏教の歴史をさかのぼって顧みますと、インドの天親菩薩は『願生偈』の劈頭(へきとう)に、
 「世尊よ、我は一心に、尽十方無碍光如来に帰命したてまつる」
と、帰敬のこころを述べていますが、この「我一心帰命」の伝統のなかから、中国の善導大師はみずからの「深信の心」を
 「一には、決定して深く、自身は現に是れ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁有ること無し、と信ず。二には、決定して深く、彼の阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受したまう、疑い無く慮り無く彼の願力に乗ずれば、定んで往生することを得、と信ず」
と、領解しています。これを、二種深信とよびならわしますが、法然上人は、偏依善導、つまり善導一師に憑依する立場に立って、この教えの伝統に生きたのであります。
 したがって、その法然上人を「よき人」とする親鸞の信も、これと異質であるはずはありません。そのことは、さきの第二章の表白からも十分に明らかにうかがい知ることができますが、しかし、教えを聞きとった親鸞には、親鸞ならではの信の領解があるわけであります。二種深信について、『愚禿鈔』をみますと
 「第一の深信は、決定して自身を深信する」
 「第二の深信は、決定して乗彼願力を深信する」
とあります。これは、善導の言葉を、単に簡潔に表現しなおしたものではなく、ここに、親鸞の聞きあてた深信の心が、端的にいいつくされているのであります。
 これによって知られるとおり、要するに、親鸞の自信とは「自身を深信すること」であります。換言すれば、自信とは、深く信ずることのできるような自己の自身に出会うた心境であります。だから、それは、自己の自性を正しく認識しないことに起因するような、優越感・増上慢ではありません。たかあがりする慢心は、やがては劣等感・卑下慢に転ずる慢心でありますから、そのような心が、真実の自信であるはずはありません。
 思えば、自信のない人生は、まことに不安であります。この人生の荒海をわたるために、わたしたちは、自ら信じ、他から信じられることを求めます。しかし、自身を信ずることのできないような自己が、どうして他から信じられましょうか。また、そのような自己が、どうして他を信ずることができましょうか。他を信ずることなくしては、他から信じられることもなく、したがって、また、自信などあるはずもないのであります。それゆえに、みずからが深く信ずることのできるような自身にめぐりあうこと、つまり自身を深信することこそ、一切の信の根本であるというべきです。歎異抄にみられる親鸞の自信とは、実は、このようなものなのであります。
 第三章の
 「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを、世の人つねにいわく、悪人なお往生す。いかにいわんや善人をや」
という有名な言葉でもって周知のように、歎異抄は、この自身の自覚を、悪人正機、つまり「悪のめざめあるものをアミダのすくいの正客とする」と教えております。それを、第一章には
 「弥陀の本願には老少善悪の人をえらばれず、ただ信心を要とすと知るべし。そのゆえは、罪悪深重、煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします」
とありますが、ここにいう悪人とは、親鸞によって見出された人間の自性であり、親鸞によって名づけられた人間であることの別名である、といってもいいと思います。
 第二章では、この、悪人のすくいにこそ人間のすくいがあるという信が、アミダの本願に由来するものであることを明らかにして、次いで
 「しかれば、本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきがゆえに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえに」
と述べていますが、従来、この一節は、親鸞に独自の「現生不退」の心境をあらわすものといわれております。現生不退とは、未来を発見することによって、現在に安らかであるところの心境であります。自身の未来はアミダの世界にあると信知することによって、過去の負い目の束縛から解かれ、ただいまの生涯に安んじて立つ心境であります。
 歎異抄の自信とは、曾我量深先生の『歎異抄聴記』にいわれるように、この現生不退の心であります。すなわち「歎異抄は、おそらく現生不退の内容を最も明瞭に示した」ものでありましょう。これについて、曾我先生は、さらに「自分一人浄土へ行けばよいというのは、真宗の安心ではない。真宗の安心は、個人的なものではないということを銘記せねばならない。このことが歎異抄一部を貫通している」といっておられます。
 歎異抄を(ひもと)く人びとは、全篇いたるところに、力強いことば、みずみずしいことば、生き甲斐あることばを発見するでありましょう。万人につながる親鸞の、自信あふれる言葉で綴られた書物――、ここに、七〇〇年の時を距てていながら、現代に生きるわたしたちの心をとらえて離さぬ歎異抄の魅力があるのだと思います。


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