1 序・第一章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
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 1 序・第一章  
 まえがき
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  二 第一章の一  
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   講  話 
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  補 説  
  あとがき  
 2 第二章  
 3 第三・四・五章 
 4 第六・七章  
 5 第八・九・十章 
  謝  辞  
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四 第一章の三 「自信ある生活」


   
座談会 「なぜ拝むのか」

                            司会 大西 義博(理髪業)

 司会 今日のテーマは「なぜ拝むのか」となっておりますが、これについては、先回の座談会のあとで、いろいろ話しあったわけです。
 はじめ、だれでしたか、次のテーマは「なぜ拝むのか」ということにしようといったのですが、そうしたら、それでは自分は拝んでいる、自分は拝めるんだということになるではないか。拝んでいるということを前提にするから「なぜ拝むか」ということが問題になる。けれども、はたして自分は拝んでいるか、拝むことができるかというと、そうはいえない、と、こういう批判がありまして、それなら「なぜ拝まねばならぬのか」としてはどうかという意見がでました。
 しかし、それもなにか拝むということが義務のようなことになる。頭から拝めといわれるような話になるわけで、ぼくたちにあるほんとうの心は、拝めぬということです。だから「なぜ拝みたくないのか」「なぜ拝めぬのか」とするのが一番正直でいいという意見もでたわけです。
 こういうわけで、テーマを決めるのに、いろいろ経過があったということを念頭において、今日は「拝む」ということで話を進めていただきたいと思います。

     迷   信

 森本国 ぼくは、なにかを無意識に拝むという伝統は、たいしたものだと思います。ぼくらがたまに拝む場合は、どうしても人がみておるというようなことを意識します。
 西山 ぼくは寺へ参っても、どうしても真剣に拝めませんし、だいたい寺へ来るのが嫌でした。
 それが第二回目の講義だったと思いますが、現在生かされているということに関係して、母の愛から親の愛、そして先祖へつながっているという話を聞いて、はじめて仏檀も、拝んでいいものなんだなという気がしたのです。やはり、あのお話のように親というところから先祖へと考えていくと、現在生かされておるということに感謝しなければならないのではないかと思います。
 年長の人が頭から先祖を拝めと強制しても拝むわけにいきませんが、話を聞いて納得しての上なら、だんだん拝めるようになります。
 松井 正月の元旦などには、若い人でも、お宮さんやお寺へ参る。また、部落対抗の青年運動会には部落の氏神さんに参る。あれをほんとうに拝むことだとは思っていないでしょうが、しかし、かたちだけにしろみなやっています。
 竹田 そういえば、もうすぐ甲子園の高校野球がはじまりますが、テレビをみていると、みな地元の神さまをもち出して応援する。選手もお守りをもっている。それから、原子力発電所の開所式や、東海道新幹線の開通式でも、神主さんに拝んでもらっている。考えてみるとへンなことです。
 伊東 松阪からここへ来るバスの中で、お守りを腰にさげた青年をよくみかけますね。昔、戦争中にハヤったもので、絹のレース糸というのですか、あれで編んだ小さい袋、長いふさをぶらぶらさせて――。青年にしてみれば、アクセサリーかなんかのつもりなんでしょうが、なかみは、やはりお守り札が入っているのでしょうね。
 松井 しかし、この会にくる人のなかには、車にお札をさげているものは一人もいないし、大安や友引など、さすがに気にしない。
 中村常 一般に、新興宗教の場合は、病気を治すためとか、金をもうけるために拝むわけでしょう。だから、それは結局得にならんと拝まない。新東海道線の場合でいえば、工事がうまくいきますようにとか、走っても事故がありませんようにとかいって拝む。そういう拝み方に、ぼくらが抵抗を感じるのは当然です。
 松井 そういう意味で拝まぬというのならいいんです。
 それで思うのですが、ぼくらは宗教は嫌いたというけれども、実は知らず知らずの間に迷信的になっているということがあるのではないか。信じない、拝まないといっても、なにか信じなくてもいいものを信じ、拝まなくてもいいものを拝んでいるということがあるのでないか。先生の話に、この科学時代が同時に迷信時代だとありましたが、そういう問題ですね。
 高田 迷信というのは、計算する心で拝むということでしょう。だから、計算が合わないようになると拝むのをやめる。だから、迷信は欲の変形だといってもいい。
 森本国 しかし、習慣的にしても、迷信的にしても、なにか漠然とでも拝むというのは、何かを求めているんだと思います。新興宗教や迷信を馬鹿にするけれども、それは、正しい道がわからぬだけで、やっぱりなにかを求めている心がある。だから、拝むんだと思います。
 伊東 迷信はつまらぬというふうに片づけないで求める心が拝むんだということに注意されたのは大事なことですね。なにかを求める心はだれにでもある。だから、だれでも毎日なにかを拝んでいるといえる。けれども、いったいなにを拝んでいるのか、正しい道がはっきりしないと、どこに進んでいくかさっぱりわからぬ。それこそたいへんなことになります。

     拝むということ

 竹田 その拝むということですが、ぼくは挨拶というか、習慣というか、軽い気持ちで拝むんだろうと思うのですけれど、それがぼくにはできない。たまに拝んでもなにか恥ずかしい。
 伊東 先月の会のときにも、たしか話したと思うのですが、去年の夏でしたか、この青年会で仏教夏期講座を開いた。そのときの座談会で、あなたが、仏檀を拝むのは、仏さまにたいする挨拶と考えてもいいかと質問されましたね。いまでもよくおぼえているのは、よっぽど面白い考えだと思ったからでしょう。
 それで、まあ拝むのを軽い気持ちで挨拶だとする。すると、この会場に来て、友だち同志には「こんばんわ」と挨拶をするけど、この会場の中心になる仏さんには挨拶をしないで坐っている、ということになると、いったいどうなりますかね。
 高田 挨拶となれば、したくてもできないという気持ちがある場合もあるし、無理にでも挨拶せんぞという場合もあるし、いろいろです。
 伊東 つまりですね。人間関係におきかえて考えてみると、挨拶をするところからお互いの心が通じ合う道が開けるのか。それとも、相手の心がわからぬと挨拶もしないのかということなんです。
 竹田 知り合い同志で挨拶しないと、相手は、おこっているのかなと気になる。しかし、電車などへ一人で乗った場合、みな知らぬ人ばかりですね。だから、挨拶もせずにただだまって降りていく。
 わたしは、宗教というのは、全然というぐらいわかりませんから、まあ電車に乗って知らぬ人に会うような感じです。だから、挨拶する必要がないというか、拝むこと自体が、なにかそらぞらしいような感じがするのです。
 田や畑の仕事で人手がいるときには、知っている人に手伝ってくれと、たのみにいきます。そんなときは、すなおに拝むというか、たのめるのですが――
 伊東 その拝むということと、たのむということですね。さきほども、計算する心で拝むという問題がありましたが、それなら「困ったときの神だのみ」ということになる。そして、ふだんは「さわらぬ神にたたりなし」で、挨拶する必要がないしと思うと知らぬ顔をしている。
 けれども、そういうような拝み方、たのみ方ではどうもほんとうとは思われないというものをお互いにみな感じている。そこに、人と人がする朝晩の挨拶というのと、仏さんにたいする挨拶というのと、ちがう点がでてくるのでしょう。
 あなたは、すなおに拝めぬということを問題にしておられる。そういうことを考えると、電車の中の例が出ましたけれども、仏さんとは全く関係がないとはいえない。拝めないといいながら、拝むことが問題になっているんですから――。
 だから挨拶でもいいから、その挨拶ということを徹底して、ほんとうに心が通いあうということを考えてみる。するとそこに、挨拶できない自分ということが問題になってくる。そういう自分をはっきりさせてくれるのが、仏(ブッダ・覚めたひと)であると、こういうように、仏と自分との関係がついてくることになると思います。
 司会 この地方でも、年寄りの人など、寺や神社の前を通るときには頭を下げていく人がありますね――。
 伊東 もう十年も前のことですが、ぼくは、京都の東寺というお寺のお世話になって、そこに住んでいたことがありますぐ ずいぶん広いお寺なものですから、近所の人が境内を通路にしているのです。東寺の弘法さんは、京都の庶民にはたいへん親しみがあるということもありますが、お参りに来たのとちがって、ただそこを通っていくだけなんです。しかし、素通りしないで頭を下げていく。なかには、ていねいに拝んでいく人もありますね。
 高田 ぼくは牛乳を運ぶ仕事で、朝早く自動車で出かけるのですが、いまでも昔の四方拝というのですか、朝早く手をたたいて拝んでいる人をよくみかけます。ああいうのをみると、なにをやっているのかという気持ちがおこります。
 中村常 そういう拝み方には、当然、理性的な反撥はあるけど、しかし、そういう人も包めるというようなものがないといかんのとちがうかな。
 高田 それで、そういうことを、ここでゆっくり考えてみると、拝んでない自分よりも、拝んでいる人の方が尊いんだとは思うけれども、それをみたときは、まず最初になにをやっているのかという気持ちがおこる。
 伊東 念仏をとなえるにしても、聞こえよがしに、わざとらしく念仏するということもある。法話を聞いていて、まるであいの手のように、まってましたというように念仏をとなえるということもあります。
 どんなときだって、ナムアミダ仏という言葉にかわりのあるはずはないけれども、自分の問題として考えてみると、念仏する心、拝む心がどうなっているのか、それが問題になりますね。
 西山 ぼくらも、何か悲愴な念仏というか、そういうものをよく聞くから困るのです。
 中村常 この座談会のテーマを決めるときから思っているのですが、どうして「拝まねばならぬ」ということが問題になるのか、ぼくにはわからぬのです。別に拝めなければ拝めないでいいのではないか。
 ぼくの場合は、ただ話を通して聞こえてくるものにたいして拝む心がでてくる。たとえば、ナムアミダ仏ということでも、話を聞いてみると、ぼくらが誤解しておったということがわかる。だから、その言葉の意味がわかれば、それに素直に頭を下げればいいんだろう。
 たから、ぼくは人が拝んでいることは気にならない。人が拝んでいるものをなにも反撥しなくてもいい。なにをしているのかバカバカしいというのは、やはり人にたいする軽蔑なんだろう。それは、苦しいときの神だのみというすがたには、理性的に反撥する。しかし、そういう人も包んでいくというものがないとだめでないかな。
 たとえば毛沢東は、共産主義者は勝利するといわないで、人民が勝利するという。そして、それから人民を信斬し人民に奉仕するという言葉がでてくる。こういう言葉の底には、どんな人でもバカにはできないんだという問題があると思う。
 竹田 すると、ぼくが間違っていたということか。
 伊東 つまり、問題は自分にかえってくるということでしょう。
 松井 拝むというときは、だれかを拝む、なにかを拝むのだけれど、しかし、ものをたのむために拝むのではほんとうではない。また、そういうことで人が拝めるはずはない。
 拝むのは、だれかを拝むのでなしに、自分にもあり人にもあるなにか、そういうものを驚きをもって感じたときに拝む。そういう感情が外にあらわれたのが拝むというすがたになる。ところが、ぼくらはそういう心にふれることをぬきにして、拝むすがただけをとらえる。だから、反撥も感じる。
 伊東 中国の曇鸞という人が、外見のすがたが礼拝しているからといって、必ずしも帰命の心があるとはいえない。しかし、帰命の心があれば必ず礼拝のすがたにあらわれるといっていますが、注意すべき言葉ですね。
 高田 さっきからも、たびたび話がでてくるように、ぼくも、すなおに拝めない。だから拝んでいる人をみると、なにか抵抗するものがあるんです。
 しかし、寺に来て、座敷や庫裡でおそくまで話しこんでいて、ひとりで帰るときがある。そのとき、この本堂を通ると、なにか、すっと素通りできぬような気になることがあります。まねごとでも、一ぺん、ここに坐って、仏さんの方に向って頭をさげる。ひとりのときは、そうしないと落ちつかぬ気持ちがおこるのもたしかです。

     ナムアミダ仏とはなにか

 中村常 これは、拝むということに直接関係があるかどうかわかりませんが、ぼくは先日、郡民体育大会で走り幅跳(はばとび)に出ました。スクーターで事故をしてから、二三年スパイクをはいたことがないので、いい記録はだせないとは思ってましたが、出場しろと勧められるのでとにかく参加しました。
 ところが、じょ走はできても踏み切れない。どんなに踏み切ろうと思っても、いよいよとなると跳べない。それで、もうやめようかと思ったのですが、もう一回残っておる。そのとき、ふと念仏を思い出しました。それで、心の中でナムアミダ仏ととなえてみた。そうしたら、不思議に気が楽になったというか、跳べたんだ。いま考えてみると、自分の力がそのまま出せた。
 こういうことは、科学的にも筋肉の緊張がほぐれてリラックスする(ゆるむ)というように証明することもできるのでしょう。残念ながら、五位だったから、念仏の功徳は創価学会でいうお題目のご利益のようなわけにはいかないんだが、しかし、跳べないものが跳べた。それでぼくは、念仏というものは自分の力がそのまま出せるということだ、と。
 伊東 筋肉がこわばっているのはストレス、(ゆが)んだ力が加わっている状態でしょうし、そのストレスの本には自我の頑張りがあるのでしょうね。
 昔は跳べたのだから、あの頃ほどではないにしても、恥かしくないだけはやはり跳べるんだ、跳ばなくてはならぬ、いい成績をあげねばならぬと頑張っている心、計算している心がある。それがかえって跳べなくしている。
 そういう心が、もともとの自分のところへ帰るのがナムということ、自分のほんとうのところへ帰って、自分をさらけ出す。すると、自分のもっている力がフルに発揮できる。はからい(計算)をすてましたということが、ストレス解消という意味をもっているのは面白いですね。
 中村常 まあ、いまの例は走り幅跳だったからうまくいきましたが、現実の生活の中で、ナムする、念仏するということはなかなかできません。
 高田 どうも、ぼくはいまのようにいわれると、拝むということが新興宗教と同じように聞こえますが――。
 中村常 ナムアミダ仏というのは、自分の現在の精一杯出せるものにまかせるという意味なんだろう。ぼくがナムというのは、なにも神さんにものをたのむというような意味でいったのではない。
 高田 解説すればそういうことになるんだろうが、だいたいぼくは、そのナムという言葉にレジスタンスを持っているというか、ナムといったら楽になったと聞くとカチンと来るものがある。
 西山 ぼくの近親者を例にとってもうしわけないですが、ふだん、なにもないときにはナムアミダ仏といわない。ところが、ぼくと意見が合わないとか、うまくいかぬときになると、ナムアミダ仏、ナムアミダ仏――。
 ぼくらの身近なところでは、ナムアミダ仏が、こういうように使われているという問題があると思います。
 高田 そうです。だからナムアミダ仏ととなえるということにひっかかるのです。それと同時に、ナムアミダ仏には、ほんとうの意味があるのだろうとも思うし、また、それをもっと勉強していかねばならんとも思うのです。
 中村常 それなら、その勉強していかねばならんという方を大事にしていくべきで、他人のとなえる念仏にひっかかるというのは、君自身の問題だろう。まあ、ぼくは、あの跳べないときに、ナムアミダ仏ととなえた。それが、いまある力を出す以外にないではないかということになった。
 松井 そういう意味では、ナムアミダ仏という言葉を思い出したときに、いままで自分に聞いてきた教えが、その言葉に結晶したわけだろうな。だから言葉だけとらえると、おまじない(呪術的)になるから、言葉の背景をみなければならぬ。
 中村常 ナムアミダ仏という言葉の表面だけをみてはだめで、その言葉を通して、自分の力を発見できたということ。
 高田 そうにはちがいないが、さっきのように、ああいわれると、いまのような意味には受けとれないわけです。
 中村常 受けとれないというのは君の責任でしょう。それは、ぼくらが一生懸命アメリカ帝国主義反対といっても、一般の人びとにはアメリカ反対としか聞いてもらえないのと同じでしょう。
 ナムアミダ仏でも、それをとなえたら極楽へ行く特急券のように思われている。けど、親鸞はそうはいわないのでしょう。それを、勝手にそういったとぼくらが解釈するなら、それはぼくらの責任であって、親鸞の責任ではない。
 西山 しかし、たまに寺へ話を聞きにいくと、説教師もそのような話をするし、参っている人もそう思っている人が多いのではないですか。
 中村常 そこには、やはり説教師の問題もあるし既成教団の責任もあると思う。しかし、ぼくらの責任もあることに気づかぬと、話が聞けないと思う。
 他人の責任だというだけでは、いつまでたっても話は聞けぬし、また自分から一歩も出ることができない。だから、まず自分がどのように聞いていくかという立場をはっきりさせなくてはならんと思う。
 司会 では、時間もだいぶんたちましたから、最後に先生に一言――。
 伊東 ナムアミダ仏には長い歴史がありますからこれが人びとに受けとられるところには、いろいろの曲解もあり誤解もある。妙ないい方ですが、ずいぶん人間の手垢でよごれている――というより、よごしている。
 そこに、いまいわれるような既成教団の問題ということもあるわけで、そういうことを聞くと、わたしは自分が恥かしくなります。責任を感じます。
 青年が寺へ集まらぬ理由は、いろいろあるでしょうが、それは念仏のことを知らぬからではなくて、ある意味では知っている。そんなことを知る必要はないと知っている。われわれの生活とは関係がないと知っているということがあるのでしょう。
 けれども、さきほどもいわれたように、ナムアミダ仏のほんとうの意味を知りたいという気持ちもあるわけだし、そのために、まず自分の態度をはっきりさせねばならぬという問題がある。だから、それを忘れないようにしていくということが一番大切なんだと思います。
 司会 では、今日は、このへんで――。どうもありがとうございました。

 このあと次回の座談会テーマについて意見を交換した結果、「友情について」とすることに決定した。


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