1 序・第一章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
  目  次  
 1 序・第一章  
 まえがき
  一 序  
  二 第一章の一  
  三 第一章の二  
  四 第一章の三  ◀  
   案内・講師のことば
   講  話 
   座談会 
  補 説  
  あとがき  
 2 第二章  
 3 第三・四・五章  
 4 第六・七章  
 5 第八・九・十章  
  謝  辞  
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四 第一章の三 「自信ある生活」


     案内のことば

 映画“荷車の歌”をご覧になりましたか。
 三十年つれそった亭主の茂市が、妾を家に入れるというのです。「仏さま、仏さま。わたしの体にゃ千のウロコがみえるでしょう。二本のツノがみえるでしょう」。セキは、仏檀の前で泣きました。
 涙もかれたセキは、死のうと思いましたが、しかし、戦場に送った息子の胸には、きっと母の姿が宿っているという予感に、生きる決意をしました。
 ある日、(めかけ)のオヒナが、病にかかって動けなくなりました。「それみろ、罰が当ったんだ」。そう思いました。けれど、苦しんでいるオヒナをみて、セキは不憫(ふびん)になりました。まどろむ(微睡む)と、戦場のどこかで、息子が倒れています。「どうか敵でもいいから、助けてください」。セキは、敵を助けるように、オヒナにやさしくしました。
 わたしたちは、このような母の愛を感じ、母の愛にこたえようとしたことがあるでしょうか。
 前講の伊東先生のお話は、もっぱら母の愛の讃美だったようです。座談会でも「男の愛はヤクザだ」といった人もいました。きっと、先生も、男の愛の自己讃美はテレクサかったのでしょう。
 しかし、仏とは智慧ある愛であるとのことです。わたしたちにとって、智慧ある愛に気づいた生活とは、いったいなになのか。さあ、テレずに語りあおうではありませんか。
  昭和三十九年七月十八日                         飯南仏教青年会


    講師のことば

 世のなかに、不幸をよろこび幸福をきらう人はありますまい。ですから、幸福のもとは善行にあり、不幸の原因は悪徳にあると考えて、人は、善を求め悪を憎みます。
 では、なにが善で、なにが悪か、なにが幸福で、なにが不幸か、と、あらたまって問われると、よくわからなくなってきます。
 だから――と、第二章の第四節は語っています。ほんとうにわからぬと徹底し、決着しなさい、そこから、わからぬことに頼ったり、あてにしたりしなくていい人生がはじまる――と。たとい順境にあっても有頂天(うちょうてん)にならず、どんな逆境にあっても負けないわたし、そんなわたしの「自信ある生活」はアミダのはたらきのなかに開れる――と。
 このように、第二章は、わたしたちの遠く深いいのちの根源(アミダ)が、念仏として現在にあらわれて、わたしたちに、ゆるぎのない生活を与えると結ばれます。
 すくいは、いつ、どこで、どのように生きようとも、なにものをもおそれない不退(ふたい)の生活です。そして、めざめは、人としての責任をはたし、使命をつくす明るい心境です。
 この、念仏によって、現在に自信ある生活が開けるという現生(げんしょう)不退こそ、親鸞の教えの、最も大切な要点であります。


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