|
※ Web版註: 本サイトは、著者および出版社のお許しを得て、管理者の責任で公開するものです。
内容に関する連絡および問い合わせ等は管理者に行って下さい。 |
三 第一章の二 「め ざ め」 |
座談会 「捨 身 の 愛」
司会 高田 耕吉(酪農業)
司会 今日は「捨身の愛」というテーマで話しあいたいと思いますが、いつも座敷で話したり、庫裡で話すときには、いろいろ意見も出るのですが、座談会となると、どうしても数人の人が中心になってしまって話しが出ないのです。それで、みなが自由に意見を出せるようにするにはどうしたらいいか、と、ここへ来る途中いろいろ考えてきました。
それには、やはり、みなが声を出すことだと思うのです。それで、どうでしょう、この座談会の緊張した雰囲気をほぐすために、童謡でも歌ってみたら――。では、思いきり大きな声で、「夕やけこやけ」を――、これなら、みな知っているでしょう。
夕やけこやけで 陽がくれて
山のお寺の鐘が鳴る
おててつないで みな帰ろ
烏といっしょに 帰りましょう
(ハミングでもう一度くりかえす)
座談会の意義
司会 どうもありがとうございました。
では、はじめにこの座談会の意義というか、あり方というか、そういうことについてもう一度はっきりさせておきたいと思います。松井君どうですか
松井 そうですね、お互いを理解するためには、やはり、まず話し合うことが大切だと思います。自分の意見を発表するときは、笑われるのではないかというような心がはたらくものですが、他人のことをいうのならともかく、自分のことをいうのですから、いえないはずはないわけです。また、それを聞けば、誰でも「そうだなあ」と共感することもあるものです。
それに発言してみると心の中に思っていたことが明確になるということがあります。また、発言するときは、実際に行なっていることより多少オーバーになってしまうものですが、かりにオーバーなことをいっても、いった言葉はすぐ自分に帰ってくるものです。
だから、自分のいった言葉によって逆に自分が動かされていくということもあると思います。そういう意味で、大勢の中で発言することによって、まず自分の考えをたしかめ、他の人の考えを知る、そうしてお互いが理解しあうということになります。そればかりか自分の意見を出すことによって、かえって新しい自分がつくり出されるような方向が、はっきりしてくるというようなことにもなります。
それに、肩を張った世間とはちがって、ここの座談会は、歎異抄に聞く会――、つまり聞法の場所ですから、大いに、忌憚のない意見を、ざっくばらんに出しあって、お互いを磨いていきたいと思います。
愛情のない生活をみつめる
司会 では、松井君の言葉にありますように、さっそくテーマの「捨身の愛」ということについて、みなさんの考えを活発に話してください。
山本 先生にお聞きしたいのですが、これは経済的に恵まれたある夫婦の例です。その奥さんは過去に好きな人があった。そのために、現在の夫にどうしても愛情がわかない。それで離縁ということまで考えてみるのですが、夫の気が弱いのでそれも出来ずに困っている。
つまり、夫はあわれっぽい人間、弱い人間なんでそれを捨てきれない。あわれな夫にあわれみを感じている。それで、そんな夫について自分は一生不幸な生活をせねばならぬと告白している。あわれみと本当の愛情とはちがうと聞いたことがありますが、このようなケースは世の中に多いと思います。
それからもう一つ、これは非常に横暴な夫を持った婦人の例です。ところが、婦人はふんでもけられてもその夫にすがっていかねばならない。わたしはこれは婦人の方が積極的に求める愛ではないかと思うのです。ふまれようがけられようが、自分から欲していくのです。
それで、このような求める愛が正しい愛ではないかと思うのですが、これと、さきほどのあわれみの愛というものとどちらが純粋な愛かということで、先生の判断をお聞きしたいのですが――。
伊東 どちらも、人間の切ない愛であることにかわりはないと思います。が、果して純粋かどうかと問われれば、どちらも純粋だとはいえないのでしょう。なぜなら、それぞれ愛することによって苦しんでいる。愛情が強ければ強いほど、苦しみや悩みやあるいは憎しみも大きくなる。これが、われわれ人間の愛です。
このような愛なくしては人間はないわけですが、しかし、こういう愛が、もし純粋な愛なら、人間が愛によって救われるということはないといわねばならぬと思います。
山本 では、初めの例で、夫が弱くて、あわれっぽい人間であるために、それをあわれみ愛していこうと努力する、その努力は認められるのですか。
西洋で離婚の多いのはこういう思想を否定するためだと思うのですが――。愛してもいないものに愛をかたむけるのは自分を殺すようなものだということで、自分の好きな人と一緒になるために離婚するわけですね。
ところが、日本では、まだまだ古い家族制度がしっかりしている、古い道徳にしばられておる。だから、自分の愛情を犠牲にする場合が多いのではないかと思います。
伊東 いまのお話は、一応、そういうケースを仮定しての話でしょう。身上相談の答えというものは仮定の場合と、具体的な実例とでは全くちがってくるはずです。
いまの例でも、ご主人にたいする欲求不満が、以前の男の人を忘れられなくしているのかも知れない。しかし、その弱いご主人から離れられぬということは、ただあわれだからということでなくて、そこには、弱いものにたいする母性愛のようなものがはたらいているのが感じられる。その奥さん自身も気づかないような、深いつながりが、ご主人との間にはあるにちがいない。
だから、他人目には、よくも耐えられるものだというような不幸にみえることも、ご本人にとっては案外そうでないことがある。
グチをいいながらも、耐えられそうにないことに耐えておれるという事実がある。自己犠牲は、本当の愛ではないけれども、そうしておれるということが、その人自身の幸せにつながっているものです。
それからさっき、あとの例で、「夫にすがっていかねばならぬ」といって、それを積極的な愛だといわれましたが、すがるということの裏には、その人の功利的な打算がありはしないかということも考えられる。要するに、そういう人間の愛情というものを、よくみつめて、それを、みきわめねばならぬと思います。が、ともかく、いまの、お話は仮想ですから、いろいろにいうことができますね。
山本 いや、第三者でなくて、本人がそういっていたのです。
伊東 そういっていたといっても、あなたのことではないでしょう。いまも、もうしますように、なにが純粋で、なにが不純か、なにが幸福で、なにが不幸か、ということを公式的に決めることはできぬと思います。また、話し合いで決めてみても意味のないことでしょう。生きた自分に関係のないことなら――。
愛することと愛されること
竹田 実は、二三年前の話ですが、わたしの家の長屋(物置)にのら猫が住んでいて、それが子供を生みました。それを知らずに藁をおろしに行きましたら、親猫はわたしがその子猫をとりに来たとでも思ったんでしょう、親猫は子猫を逃がして、自分は逃げないのです。わたしの方をじっとみつめて、毒をふくというんですか、おこったようにして、むかってくるようなかっこうをするのです。ほんとうに捨て身だったですね。
まさかあの猫は歎異抄を読んでいたのでないだろうに(笑)、また仏さんを拝むということもしないだろうが、それでも、あれだけのことをします。
それにくらべて、自分は、果してあれだけのことができるだろうかと思いました。いまでも、自分がそういう場所におかれたら、果してあんなにできるかどうかと考えると、なにかさびしいものを感じます。
司会 愛という言葉をよく使うわけですが、愛というものは一つであると考えてよいのでしょうか。
松井 愛に種類があるというのも変ですが、親切にするというのも、また友情というようなものも愛だから、愛のあらわれ方を具体的にみれば、いろいろあるといえると思います。
「あなたが故郷を愛するように、わたしは愛されたい、わたしが故郷を愛するように、あなたを愛したい」という流行歌があります。これから考えると一般にわたしたちの愛といっているのは、愛されたいという意味なのか、愛したいという意味なのか、はっきりせずにいっているのではないか。
もし、愛するということよりも愛されたいということがまず気になるとすれば、そういう感情には問題がありませんか。
山本 この頃の女の子には、愛されたから愛するというような考え方はないのではないですか。あくまでも自分本位に考えて、自分に愛の心が芽ばえるときにはじめて愛する。だから、他人から愛されたから自分も愛するというような消極的なのはない。もしそうなら、最後には押しの強い男が勝つということになる。
松井 しかし、実際はそうはいきませんね。この頃の女の子は――と、みな一緒にして考えることもできぬと思うし、また、押しの強い男が勝つといいきることもできない。愛には相手を考えるということがあります。そして、「愛しています」ということは自分に不純なものがあるかぎりいえない。だから、自分の押しだけでは愛にならぬし、また押せる自信もない、恐くて押せない、これがぼくらでないですか。
奪う愛と与える愛
司会 奪う愛と与える愛というようなことを考えてみる必要はありませんか。奪う愛には、おぼれるというようなことがあると思うのですが――。
西山 わたしたちの家庭生活というのは、与える愛と奪う愛のやりとりですね。相手の方に与えるという気持ちがあると自分もおだやかなんですが、頭から無視されると自分もすぐやりかえしてしまう。
森本国 意味はちがうかも知れませんが、ぼくは最後はやはり愛されるということではないかと思います。だれに愛されるかというのにはいろいろあると思いますが、その愛されているということがはっきりわかってしまったら、愛することができるのではないか。その愛されているということを、ぼくは神の愛とみたいのですが――。
司会 愛されるから愛するというのは、とりひきということになりませんか。
森本国 いや、とりひきでなしに、子供が親に愛されている場合、子供はとりひきで親を愛するのではない。子供は親がとりひきで愛しているとは感じない。なにか純粋な気持ちで愛に答えるというか、そういうものが愛するということではないか、と。
藤谷 愛ということを広い意味に考えると、やはり一つなんでしょうね。愛、というと、愛されることになりがちですけど、愛するということが徹底してくれば、おのずから愛されるということになるのではないですか。これが愛ということの理想でないかと思ってきたのですが――。
自分のほしいものはあとにして、まず他人のほしいものを与える。そのあとで自分はもらったらよいではないかということもいわれます。そういうことと捨身の愛とどういうことになるのでしょう。
竹田 ぼくは、与える愛とか奪う愛とか、愛するとか愛されるとか、いろいろいっている間は、愛よりもずっと遠い世界にいるように思うのですが――。
松井 そうでしょうね。たしかに愛そのものを語るということはできないでしょう。しかし、愛について語ることはできる。だから愛について語らずにおれないものがあるかぎり、その語っていることは単なる話ではなく、自分の愛はどうであるかという反省を含めて言っているのですから、語っていること自体が愛のはたらきだともいえる。ですから、愛について語ることは無駄だというわけにはいかぬでしょう。
捨身の愛
森本貞 捨身ということはよくわかりませんが、ぼくは、愛というものは、与える愛と与えられる愛と、パッパッとスパークするところにあると思う。ただ与えるだけでは愛にならんのではないですか。
野呂勇 わたしは、愛になにか条件をつければ、それは愛ではなくて欲望である。欲望は愛ではない。そういう意味では無我というのがほんとうの愛。だから捨身というのは無我ということでしょう。
中村常 その無我になれるかどうかだな。
野呂勇 それはなれないさ。
松井 愛はスパークだという意見が出ましたが、そこにはまず愛するということがなければならない。その愛するということは、自分が愛するということだから、自分が捨身できるかどうか、無我でおれるかどうか、そういうことが問題になります。
野呂勇 まだ無我に到達できん。
松井 到達できんといっても、ほっておけない。だから愛するとか愛されるという問題が起るのでしょう。こういう問題が起るのは、我があるからだといえばたしかにそうでしょうが、しかし、その我のすがたがはっきりしなければ、無我ということもはっきりしないし、無我という意味もわかりませんね。
藤井 愛するとか、愛されるとかいうが、愛は交換条件じゃないと思う。猫が子供をかわいがるのはあれは愛のあらわれで、その愛の極端が捨身になった。だから愛は、あの女を愛するから、おれも愛してくれというそういう交換条件ではない。仏心は愛ですが、それを親心というのは、いいあらわしようがないから、親心にたとえたのでしょう。
野呂勇 親の愛は純真だというが、親であるわたしが自分をみると、そこには多分に交換条件がある。「はえば立て、立てば歩めの親心」というけれど、さあ、はえば立て、立てば歩いてこちらへ来い、早く学校もあがってこい、早く卒業しておれを養ってくれ、という心がないでもない。
森本国 さきほどの猫の捨身の愛ですね。新聞にそれとよく似た話が出ているのを読んだことがありました。猫はあのような捨身によって、子供をすくっただけでなしに、なにかそれによって自分が救われたというようなことがあるのだろうと思います。
中村常 愛するというのは、何か対象を愛するのでしょう。しかし、他を愛するというけど、そこには、自分を愛するというものがあるのではないですか。
松井 そうでしょうね、だから他を愛するということは、ほんとうは自分を愛することであるという点がはっきりしないと、条件が変った場合、愛は憎しみになる。
大山 わたしは、与える愛と与えられる愛というものをプラス・マイナスで考えて、プラスの愛を与える愛、マイナスの愛を与えられる愛と仮定してみたいと思います。
プラスがマイナスより大きいときがあり、またマイナスがプラスより大きいときがある。愛情が一致してスパークするというのは、おそらくプラス・マイナス・ゼロということを表現しているのではないでしょうか。仏教で無我の愛というのは、このゼロにおける愛をいうのだろうと思います。そういう場合、愛は個というものの尊厳において成立すると思います。自分の個を尊重し、相手の個を尊重して、共に人格を生かしていく、それがほんとうの愛だろうと思います。
猫の愛・人間の愛・アミダの愛
司会 愛については、いろいろ、ご意見もあることと思いますが、時間の都合もありますので、最後に先生に一言お願いして、今日の座談会を終わりたいと思います。
伊東 「捨身の愛」というテーマで、いろいろおもしろいお話を聞かせていただきました。
はじめの猫の話ですが、あれは親猫の盲目の愛であるとか、動物的本能というものであるとか、リクツをいえば、いろいろいうこともできるのでしょう。が、あの話を聞いて、一番わたしの心に残ったのはあれこれリクツをいうのでなしに、「自分はどうか」といっておられるところです。あんなことは、ある意味では、だれでも知っている、けれども、あの話を聞いていると、ただ猫をみたということではない猫のすがたに自分をみたというか、自分を教えられている。
ということは、親猫は子猫がかわいかったから、ああいう行動をしたのだというように解釈をしないで、あの猫の本能的な愛が、なにか純粋な本能の世界に気づけと教えているという点です。
その猫からなにかを教えられるということは、猫は畜生だというてけとばす猫でなしに、猫は単なる猫ではない。猫にはちがいないが、そこになにか猫以上のものを語っている。つまり人間が人間を教えられている、そういう点をみておられるのは尊いことだと思って聞かせてもらいました。
それから、愛はスパークであるというようなおもしろい表現もでてきました。そして、それをプラス・マイナスで整理して説明されました。たしかに、愛というものが意識されるときには、愛されているとか愛しているとかいうように思われるのでしょう。
ところが、そのように思うはたらきは、生きているということの上に成立っている。刹那、刹那に変化して、プラスだとか、マイナスだとか、いろいろ受けとられるのでしょうが、事実は一つです。さきほどのプラス・マイナス・ゼロという表現をかりていえば、いつでもゼロ。愛している、愛されているのそのままがゼロ。
しかし、このゼロを無我だといわれましたが、そう簡単にはいかぬ。生きているということが、愛そのものにほかならない。これを自愛といい我愛といいます。だから、わたしたちは、この自愛とはいったいどういうものかを正しく知らねばならぬと思います。
さて、捨身ということで、いつも、わたしの念頭に思い浮ぶのは、捨身は自己犠牲ではないということです。なにかのため、だれかのために自分を犠牲にすることを捨身と思ったら、きっと悔いは、最後に自分の上に残るでしょう。
人間は、なにかのために自分を捨てることはできませんし、また、捨ててはならぬと思います。たいへん利己的なことをいう、と思われるかも知れませんが、自分の力では人間は自愛から離れられない。これは苦しいことであり、恥ずかしいことですが、事実です。しかし、こういう自覚の徹底が、いわゆるエゴイズムをこえる道につながるのだと教えるのが親鸞です。
だから、捨身の愛というものはアミダの愛であって、人間にはないものと見定めねばならぬと思います。さとりの世界にあるアミダは、迷いの世界にある衆生を発見して、「自分は最後の一人が救われるまで、さとりの座にはかえらぬ」という誓いをたてられました。
「たとい身をもろもろの苦毒のなかにとどむとも忍びてついに悔いず」といわれます。これは、迷える衆生をもって自己とするということ、つまりアミダの捨身――それこそ真実の愛であると思います。
それから、さきほどからのお話では、愛しているということと愛したいということ、愛してほしいということと愛されているということなど、同じなのかちがうのか、ちがうならば、どうちがうのか、というような問題が残っております。が、問題は次の機会に残して、今日は、これで終わることにしましょう。
司会 どうもありがとうございました。ではまた来月――。
このあと、来月の讃談会のテーマについて話し合い「なぜ拝むのか」ということに決定。
目次に戻る /ページ先頭/ 次に進む
|
|
|
|