1 序・第一章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
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 1 序・第一章  
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二 第一章の一 「す く い」


   座談会 「なんのために生きているのか」


                             司会 西山 英夫(農業)

 司会 まだ座談会も二回日のことで、なかなか話も出にくいかと思いますし、司会の方も、こういうことは不得手(ふえて)ですので、そこはみなさんにたすけていただいて、会を進めさせていただきたいと思います。
 それで、はじめに、今日の先生のお話について、なにか質問がありましたら、話の口火をきるという意味で、どうぞ――。

     ミダとシャカ

 田中 「ミダの誓願(せいがん)」ということで、いま、摂取不捨のはたらきをミダというとお聞きしたわけですが、それでよろしいでしょうか。
 伊東 はい。
 田中 ずっと以前に、吉川英治の『親鸞』を読みました。そこに「ミダの誓願不思議にたすけられまいらせて」ということがありましたが、その時は、さきほどのお話のようにはうけとらずに、シャカ如来の衆生済度(さいど)にたいする熱意とか志願というものをミダの誓願というと受けとったのですが、ちがうのですか。
 伊東 全くちがうというわけではありませんが、しかし、シャカとミダをただちに一つということはできません。というのは、ご承知のように、シャカは、インドに生まれた歴史上の人物で、さとりを開いてブッダ(仏陀)となった方です。では、シャカにさとりを開かせたものはなにかともうしますと、それがミダのはたらきなんです。シャカはミダの本願にめざめてブッダとなった。簡単にいえば、そういう違いがあります。
 田中 すると、ミダは、人ではないのですか。
 伊東 そうですね、人格神のようなものと考えると間違いです。
 田中 それでは、さきほど、(ほとけ)如来(にょらい)ということばが出ましたが、シャカをシャカ如来といい、またミダをアミダ如来といいますね。これは、どうちがうのですか。如来というのは、最高の位ということですか。
 伊東 わたしたちは、ふつう(ほとけ)さんというようによんでおりますが、いつの間にか死んだ人が仏さんだということになってしまっているので、それと区別するために、わたしは、特に力を入れてブッダ(仏陀)というんですが、このブッダというのは、自己にめざめたもの、つまり自覚ですね。そして他をめざましめるもの、すなわち覚他、それからそのはたらきが永遠できわまりのないもの、これを覚行(かくぎょう)窮満(ぐうまん)といいますが、こういう力をもっている、こういうはたらきをもっているものをブッダという、とこのようにいわれます。
 それから、世の中のすべてのことを、みなよく知っているという意味で世間解(せけんげ)とか、それから、人びとに尊放され、供養をうけるにふさわしいものという意味で応供(おうぐ)などと、千種の名(十号)をもって仏をよびます。
 如来(にょらい)というのは、その十号の一つですが、その意味では最高の位をあらわすといってもいいでしょう。如来は、また如去(にょこ)ともいいます。つまり如(真如・真理)からこの世に来り、世をめざましめて如に去るものをあらわします。
 その如来が人の世にあらわれてシャカ如来となったのです。だから、シャカは、この世にありながら人でありながら、さとりを開いて仏となり如来となった。そして、そのシャカにさとりを開かせたものめざめざせた根源の法のはたらき――それをアミダ如来といいます。
 田中 するとシャカもミダの誓願を信じて修行したというわけですか。
 伊東 ええ、そうです。真実を求めて修行をしたわけですが、求めてみれば、それはミダのはたらきによるものであった。そのミダの本願はすべての人にはたらいている、どうかそれに気づいてほしいと説くのがシャカの事業なんです。
 中村常 はじめは、ぼくもアミダは人格者だと思っていました。だからアミダに救われるなどということはくだらんことだと思っていました。しかし、よく聞いてみるとそうではないのですね。
 蓮如(れんにょ)は、「木像よりは絵像、絵像よりは名号」といっております。ところが、この頃の寺には、どこに行ってもアミダの木像がありますね。これをどう考えればいいのですか。
 伊東 蓮如の言葉の意味ですが、「木像より絵像、絵像より名号」というのは、一番もとにはナムアミダ仏の名号があることを忘れるな、かたちにとらわれるな、ということだと思います。だから、名号が一番すぐれているといってみても、ナムアミダ仏と書いた紙をかけてみても、それがただの文字なら絵像も木像もかわらぬことになる。そうでなくて、ナムアミダ仏という言葉が本尊である。生きてはたらく言葉の仏さまを拝むことを忘れるなというのでしょう。そのナムアミダ仏が絵像にあらわされ、木像にあらわされているのです。

     なんのために生きているのか

 竹田 話がかわりますが、ぼくはこの頃よく、「おれは、なんで生きておるのか」と思いますが――。
 高田 「なんで――」といえば、親から生まれてきたからだとか、いろいろ説明できる。科学的にも説明できると思う。だから問題は、「なんのために」ということなんだろう。ぼくが宗教にひっかかりを持った一番最初は、なんのために生まれ、なんのために生き、なんのために死んでいかねばならんのかという疑問からでした。
 中村勉 なんのためにというのは、わたしはわたしの真実に生きるということではないのかな。
 竹田 あんたのように、わたしの真実といえるものがあればよいが、ぼくにはそれがない。
 恥ずかしい話ですが、いつかおやじに「家は建てんならんし、財産はないし、あんた、この世へなにしにきたのやな」と問うたことがあった。
 そうしたら、おやじが「おれも考えておるのやが、なにしにきたというてなにもない」という。そして「おまえ、今からしっかりして、これだけはしましたということを残せよ。おれはもう結局あくせくあくせくして働いて、つらいめをして、まくれあるいて仕事をしたがなにも残らなんだ。ただ夫婦げんかをして生きてきたというだけや、それだけではつまらん。おまえ、家だけでもええ、田地だけでもええ、これはおれが買うた田や、おれが買うた山やというもの、おれがしたもんやというものを残せよ」と。
 そういわれるほど、なにか自分が苦しくなってくるんです。なんのためにわたしは生まれてきて、なにをしていったらいいのかと思っていたら、わたし自身のものがなにもないようになってきた。一万円札ばっかり追うていると、一万円札よりはしたない(いやしい)人間になるように思えるし、子供のためにといってみたって、もし子供に裏切られたらと考えると――。かといって仏さまを信じて、毎日感謝して生きるという気には、まだなれないし――。
 中村常 それなら、なんのためにということで、それにこだわって考えてみたらどうでしょう。金のためなら金のためとして、はたしてそのために生きられるか、検討したらどうでしょう。本当に金のために生きられるかということを考えて、一万円札が大切だと思ったら、そのために生きていったらよいと思う。
 中村勉 金のために生きるというのなら、銀行ギャングでもやったらよい。
 中村常 金のためにならなんでもする。もし、つかまらないとわかっておれば盗みもする。そういうことができるかどうか。
 中村勉 やはり、ぼくは金のために生きるとはいえないと思うね。
 中村常 そうではないとわかったら、金のために生きるのではないということに徹しようではないか。金のためでないとわかれば、それだけははっきり確認しなければいけないと思う。さきほど、子供のためということもちょっと出たが、とにかくぼくは、なにかのために生きるとなったら生きられないと思う。やはり自分は自分自身のために生きる。
 中村勉 しかし金のためではないというけれども金があれば自分はいいんだろう。すると、金のためということと自分のためということとどうなるかな。
 中村常 自分はいいということと、自分自身のためということとはちがうと思う。金のためということも、結局は自分のためだということになるのならなにも金もうけするために迷う必要はない。
 金のみに生きるということに迷いが生じるということは、金のみに生きるのが自分でないということがわかっているからだろう。だから、ほんとうに自分のためになることはなになんかを考えてみなければならないと思う。ただエゴイスティックになってなんでも自己本位に考えるのが、ほんとうに自分のためなのかどうか。
 野呂賢 その金のためということですが、エゴイスティックな意味でなくて、一生懸命はたらいて、金をもうけるということもあるのとちがいますか。昔は、それで家を築いた人が沢山あった。
 松井 金もうけが目的でなしに、一生懸命はたらいていたら、金がもうかったということですか。それにしても、結果からみると、家を建てるためにはたらいていたということになりませんか。
 中村常 さきほどもいったように、なんのために生きるかというのは、自分自身でないなにかのために生きるということでしょう。だから、ぼくは、なにかのためにはどうしても生きられないと思う。
 野呂賢 すると、結局、自分が生きるために金があるということかな。
 高田 ぼくらは、自分のためにしか生きとらんのだろうが、それを素直に認められんのとちがうかな。
 竹田 そうかも知れんね。子供のためとか、社会のためとか、そういう大義名文をたてないと生きていけない。かといって、金のためかというと、うんといえない。

     おこす心とおこる心

 森本国 いま、いわれているような、なんのためという疑問をおこさせてくるのが、宗教だと思うのです。ぼくは仏教というか、宗教をつっこむことによって、どうもよけい苦しみを感じるように思うのですが。
 藤谷 それに関係する問題だと思いますが、「念仏もうさんとおもいたつ心のおこるとき」とあります。これが普通の生活から信仰生活への橋渡しになるのだと思います。さきほど、先生のお話にありましたが、ぼくがここに来ているのは、会に出ようという心をおこしてきたというようなところもある。しかし、それでは不自然です。信仰というような気持ちは、年がよればおこってくるというのでなしに、宗教的な普遍的なものが世代を問わずにあって、それが若いわたしたちにも、おこってこなければならぬ、と思うのですが、それがどうも明確にならないのです。
 司会 そうですね、ぼくらも寺へ来るようになったのは、心がおこるのでなしに、おこされたといいますか、みなにさそわれたりして、こうして集まるようになったわけですが、みなさんはどうですか。
 山本 わたしも若い頃はそうでした。仏さんも神さんもけつくらえです。あの戦争中、京都の近くにおりました時に、大阪市内や尼崎が焼けているのをみましたが、全くおもしろいぐらいでした。いま思うと自分に谷底がなかったからだと思います。妻をもち、子供ができるようになると、わずか二十米か三十米の台風でも責任感といいますか、そういうものが先に頭へ来ます。エゴイスティックな考えですが、他人に被害があっても自分だけはのがれたい、自分だけは助かりたいと思うこともあります。
 しかし最近ではなにか生かされているというような気がする。職業は商業ですが、明日は手形を落さんならんが金はないということで困りはてることがある。しかしめったにいのちをとりにも来ません。必ず救われていきます。なにかの形で救われていく。そういうとき、自分はこれにたいしていったいどういう態度を示したのかと考えてみますと、実に不可思議というよりほかないことがあります。そんなときに、これはやはり自分の力で生きているのではない、生かされているのだという気持ちがおこります。
 高田 今の意見に反するかも知れませんが、仏教は、生かされているといっても、エゴから出発したような生き方をしていてはだめだということを教えるのではありませんか。
 山本 商人というのはもともとエゴから出発したものでしょう。けれども、わたしはそれにたいして厳しい反省をしています。こういう生き方をしていることで、人に迷惑をかけはしないか、こういう世渡りをしていて、人は歎いてはいないかということを思います。
 松井 いま山本さんは、自分はエゴイストだ、自分は自己反省しているといわれましたが、エゴイストだということと自己反省しているということとは矛盾しているのではないですか。さきほど、「おこる」とか「おこす」という問題が出ましたが、自己反省しておるといえば、自己反省というのは「おこす」ものだと聞こえますが、「おこす」のが果してほんとうに自己反省なんかどうか。自己反省というのはエゴイスティックな生活をしている全体の中からおこってくるものではないんですか。
 山本 エゴイストというけれども、それで他人に迷惑をかけているとは断言できないと思います。
 松井 それなら、エゴイストということも認めていないことになるでしょう。エゴイストを認めないのなら、自己反省の必要はなおさらないことになります。

     エゴイストとはだれのことか

 山本 結論を先にいうと、人間というのは、みなエゴイストではないですか。そうでないと生きられんではないか。勿論、そこで他人に迷惑をかけているかいないか、社会で自分の存在はどうなっているかぐらいは、知っておく必要があるけれども。
 松井 自己本位でないと生きておれないといわれますが、そうかといって、それをそのままにしてほっておけないのではないですか。そのほっておけない心が、ぼくらを、この場所へ出させているのでしょう。ほっておけるのなら、この会に出る必要すら感じない。だから、たしかにぼくらはエゴイストでしかないけれども、それを黙認するわけにはいかない。なんとかしなければならないと思う。その心がおこした心か、おこった心かということなんでしょう。
 山本 だいたい、エゴイストの張本人は学問のある人、しかもインテリは合理的なエゴイストだと思います。おそらくわれわれのような社会の中で、無知のものや人情はだの人にエゴイストは少ない、その実わたしはエゴイストだと思うのだから、まだ救われるところがある――(笑)。
 松井 それじゃ、結局、自分で問うて自分で答えているのではないですか。自分で問うて自分で答えられる人があるのなら、そのような人は、教えを聞く必要もないし、また聞いても聞こえないのだと、ぼくはいいたいのです。
 山本 しかし、なにかにはたよりたいという気持ちはある。それは明日のわからんいのちだから――。
 松井 そうすると、さきほどからの話の出発点をかえねばならないことになると思う。自分はエゴイストだというけれど、その自分は反省をするんだから、まだ救われるというような他人と比べている態度ではだめなんでしょう。
 山本 いや、わたしはエゴイストだといっただけです。しかし、わたしはエゴイストだけれど――。
 松井 エゴイストだけれど、自分はそういえるだけまだいいというのではないですか。
 山本 いいともいわぬ。エゴイストだけれども、こういう考えを持っている。そして、こうもしていきたいということをいっただけです。
 司会 松井君のいうのは、もう一歩出て発言してほしいというのではないですか。
 松井 ぼくも、さきほどの山本さんの火事の話で思い出したんですが、最近、京都の下宿の近くで火事があった。ちょうどそのときは、食堂で夕食をしていたのですが、食事をそのままにして友だちと見に行きました。すると、ぼくらと同じような野次馬が沢山いる。
 ところが、その野次馬が火事をみて帰っていくときは、みんな「かわいそうやな」といって帰っていく。矛盾しているわけですね。みんなエゴイストだから火事をみていたわけでしょうが、しかし帰りにはかわいそうだなと、みんなでいい合わぬと帰って来れないようなものを持っている。「かわいそうやな」というのは、ほんとうに心の底から同情している言葉でもありませんが、そういわぬと見に行った気持ちがおさまらぬものがあるのだろうと思います。
 それで友だちと「人間ってだめなものだなあ」といって帰ったのですが、「かわいそうやな」という心は、やはりおこした心ではなく、おこった心でしょう。このようなおこる心をぼくらは忘れているのではないか。そういうことをはっきりさせるためにも、ただ自分はエゴイストだと断定しただけで終ってはいけないんじゃないか。それしかないのだけれども、それしかないということと、それでよいということとはちがう。この会では、そういうことを話しあいたいわけです。
 森本国 ぼくも、ときどきエゴイストだなあ――と痛感するのです。けれども、そう思ったときに、まだ、ほんとうのエゴイストだということがわからないのではないかという感じがします。それで、ぼくは、ほんとうに自分がエゴイストであるということがわかるのが、救いの始まりでないかと思うのです。ぼくは、それをわかるために話を聞かさせてもらおうと思うのです。
 中村常 その前に、自分がエゴイストに徹することができるかどうかということも考えていいのではないですか。
 森本国 エゴイストだといいなから、エゴイストでない。自分がエゴイストであるかどうかということは、自分が認識する以外にはないんでしょうが、それがぼくにはどうもわからんのです。自分はエゴイストだと思ったり口に出していながら――。

     身のある事実に帰って考える

 山本 悪いと知りつつ悪いことをするのと、悪いと知らずに悪いことをする、どちらも悪いが、どちらがまだ救われる可能性があるかということについてはどうでしょう。(笑)
 伊東 あなたの発想は終始一貫、なかなかくずれそうにないですね。いつも二つならべて比較して考えています。
 山本 しかし、これは現実にあることなんです。
 伊東 それは現実というても、あんた自身をぬきにした現実でしょう。つまり、あんたはAとBと比較して考えるところに立っているのだから、あんたのいう現実は、生きた現実でなくて考えた現実――。
 山本 いやそんな人が実際おります。
 竹田 人がおるというても他人なんやろう。だから、あんた自身の問題ではないわね。
 司会 まだ話は尽きないでしょうが、時間も大分過ぎましたので、これで一応終りたいと思います。最後に先生に一言――。
 伊東 ひとりで考えていたのでは、とうてい気がつかないようなことを、いろいろ教えていただきました。ただ、はじめの一時間のぼくの話が、座談会の手がかりにならねばならないのですが、なかなかなりにくいようで、もうしわけないと思います。
 さて、さきほどの「なんのために生きるのか」ということですが、金のためでもない、子供のためでもない、自分自身のために生きるんだという話が出ました。また、人間は、自分のためにしか生きられないんだともありました。自分のためにしか生きていないというのは深い反省であり、懺悔でしょう。そしてなにかのために生きるのではない、自分自身のために生きるというところには、主体性を失わずに生きたいという願いがあると思います。
 ぼくは、つねづね、なにか生きるための大義名分をたてて、そのために生きようとしてはだめだと思っています。ひところ、仏教の伝道のために――などと思っていたこともありました。けれども教えのために生きるなどと頑張っていても、きっと疲れるときがきます。大義名分をたてて頑張れば、その奴隷になってしまいます。けれども、ただ自分のためだといってみても、こういうだけでは、もうひとつ落ちつかぬものがあります。
 だから、自分のために生きるといい、自分のためにしか生きられないというときの自分とはなにか、どうなることがほんとうに自分自身のためなのか、そういう問題が残ります。それは、ひとつこれからの宿題にしましょう。

     いま現におこりつつあるもの

 伊東 それから、おこす心とおこる心ということですが、いまもいろいろ話されていましたように、ここへ心をおこして来た人もある。自発的に来た人もあれば、無理矢理につれてこられた人もある。動機はいろいろあるでしょうが、ここにみなが集まって話し合っている事実をみると、みなをここに坐らせ考えさせるようなものが現にいまおこりつつあるといえる。
 そういうものがなければ、みなさん、さきほどから一時間も二時間も坐っておられるはずがない。みなの身がここにあるという事実は、そのようなものが、いま、たしかにおこりつつあるということを証明している。
 この、わたしたちみなに、おこりつつあるもの――それを今日は「願われてある」という言葉でお話ししたわけです。「どうかほんとうに生きてください真実に生きてください」と願いがかけられている。その願いの心にめざめて「はい」とうなずいて、わたしの心になるとき、そのときを「おもいたつ心のおこるとき」といってあるのだと思います。だからこれは、いまの自分をぬきにした、どこかの他人のことではないわけです。
 まだもうさねばならぬこともあるようですが、思いつくままに感想をもうしあげて終わります。
 司会 どうもありがとうございました。来月は農繁期の最盛期になると思いますが、この会をどうしますか、予定どおり開催するかどうか、あとで話しあっていただきたいと思います。
  

 このあと、「農繁期だからやめる」というのは反対だという意見が圧倒的に強く、六月の会の開催を決定。次回の座談会テーマについても話し合って散開。


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