1 序・第一章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
  目  次  
 1 序・第一章  
 まえがき
  一 序  
  二 第一章の一  ◀ 
   原文・意訳・注 
   案内・講師のことば
   講  話 
   座談会 
  三 第一章の二   
  四 第一章の三  
  補 説  
  あとがき  
 2 第二章  
 3 第三・四・五章  
 4 第六・七章  
 5 第八・九・十章  
  謝  辞  
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二 第一章の一 「す く い」


   
講 話 「す く い」

歎異抄の構成
 前回は、この「歎異抄に聞く会」をはじめるにあたって、これから歎異抄を読んでいくわれわれの態度とか、あるいは歎異抄をめぐるさまざまの問題を、「序」によりながら、「忘れられぬこと」というテーマでお話したわけであります。そこで、今日は、さっそく本文を拝読していきたいと思いますが、その前に、歎異抄の講成について簡単にふれておくことにしましょう。
 歎異抄は、前半と後半の二段に大きく分れていて、前半の十章までが「親鸞聖人の言葉」という意味で、師訓(しくん)十章とよばれます。そして、その師訓に照らして、当時の社会(教団)の人びとの信仰が批判されるわけですが、はじめの序にありますように、「親鸞聖人から直接教えていただいた、ほんとうの信心とちがうものがあるのは、まことになげかわしい」と思って書かれたところ、それが後半の異義八章であります。

 その意味では、この書物を歎異抄と名づけて明らかにしようとする主題、つまり歎異ということは、後半に述べてあるわけであります。
 実は、その異義の八章を説き終って、それを結ぶ言葉(後序)のなかに、「大切の証文をすこしばかり抜き書きして、この書物にそえておきます」とある。わざわざ唯円が、この書物に書きそえたという「大切の証文」とは、いったいなにかということについては、いろいろ異見のあるところですが、それについてはまた、機会をみてくわしく考えたいと思いますが、ここでは、一応最初の師訓十章を「大切の証文」であるとしておきます。
 そして、その師訓に照らして歎異が述べられていくわけですが、一章と十一章、二章と十二章、三章と十三章というように、前後を照応してみていくことができます。といっても、前は十章、後は八章ですから、前後の全部が必ずしも相対しているわけではありません。そして、四章からあとは、三章までのように、はっきりと対比しているわけではありませんが、すくなくとも、前後を照応して、それぞれの文章の意味を明らかにしていかねばならぬということだけは間違いのないところであります。
 それから、この歎異抄には、三つの序がある。一つは前回お話したところ、つまり歎異抄を書く動機を述べたところ、そして、前半から後半にうつるところ、これを中序とか別序(べつじょ)とよぶことにしましょう。それから最後に、異義八章をうけて、その要点を述べるとともに、歎異抄全体をむすぶところ。これは、第十八章の続きともみられるので、第十九章だともいえるわけですが、ここでは後序(ごじょ)とよぶことにします。
 このような構成のなかで、今日拝読しようとする第一章は、特に説かれる内容からいって、歎異抄全体の総説である。と同時に前の師訓十章の総説である。これは歎異抄の一番最初に書いてある文章だという意味だけではなくて、歎異抄にいおうとすることの要点を、最初にいい切った言葉である。すべてのことが、このなかには説いてある。だから、これは総説であるといえます。が、それだけではありません。これは、ただ歎異抄がいおうとすることだけではなくて、親鸞の教えの全部がこのなかに説かれている、と、こういってもいいすぎではないと思います。ところで、第一章は「弥陀(みだ)誓願(せいがん)不思議にたすけられまいらせて」という言葉からはじまっています。つまりここでは、アミダの本願を根源とする人生は、一体どのようなものであるか、念仏を信ずるところにはじまる生活は、どういうものであるかということが明らかにされております。
 そして、第二章からあとには、そのようなアミダの本願は、この人生にどのようにして開かれてくるか。人生に開かれたものが、どのように展開していくかということを述べます。
 それから、歎異抄には、問答形式で述べるところが三か所、第二章と第九章と第十三章にあって、それぞれみな、大切なものですが、前半にかぎっていえば、問答が、第二章と第九章にあることが深い意味をあらわしております。
 つまり、第一章に説かれたものを第二章に承け、その問答の内面を第三章で明らかにするとともに、ざらに第四章から第八章まで、念仏の生活をくわしく説かれます。そして、第九章では、この人生に開かれた念仏の信心生活を徹底する道について述べて、しかも第十章では、それが、「念仏には無義(むぎ)をもって義とす、不可称、不可説、不可思議のゆえに」と、自然法爾(じねんほうに)の世界に包まれるものであると教えられます。
 こうしてアミダの誓願にめざめるところからはじまる人生が、不可思議のアミダの世界に帰るものであるということが明らかにされます。これが前の十章のアウト・ラインですが、この師訓の最初にあるとともに、後に述べられる異義をも照らすような位置にあるものが第二章であります。
 ところで、面倒なことばかりもうすようですが、もうすこし辛抱していただいて、最初に第一章についての大体の見通しというものをお話しておきます。いま、いいましたように、第一章は総説ですが、これは四節に区分して読めば意味がはっきりする。というか、内容が、おのずから四節に分れるように説かれている、と、このように曾我量深先生が教えてくだきっております。
 それで、わたしも、それにしたがって読んでいこうと思いますが、その最初の一節、さきほどもちょっと読みかけましたように
 「アミダの誓願の不思議な力にたすけていただいて、かならず浄土(じょうど)に生まれるのである、と信じて、念仏をとなえようとおもいたつ心のおこるとき、まさにそのとき、すくいは実現する。すなわち、あらゆるものを摂取(せっしゅ)して捨てないアミダの心が、人生のただなかにあらわれて、わたしたちは、このかぎりのない智慧ある愛のはたらきに生かされるものとなるのである」
というところまで。これが第一節です。それから、「弥陀の本願には」「アミダの本願には」というところからが第二節、「そのゆえは」「というのは」と、その理由を明らかにするのが第三節、そのあと「しかれば本願を信ぜんには――」から終りまでが第四節。こういうふうに区切って読めば意味をとりやすいと思います。

原文にはおよばぬ現代語訳
 ところで、この第一節の「アミダの誓願不思議」からはじまる文章ですが、その意味を考えるときには、なにか、この言葉の前に解説がほしいのだろうと思います。
 たとえば、「アミダの誓願は、わたしたち人間の知性をこえた絶対無限である。わたしのいのちの根源である。そのアミダの誓願の不思議なはたらきにすくわれて――」こういうような解説がほしいのでしょう。そうしなければ、わかり難いように思われます。けれども、原文には、そんな解説はありません。ですから、やはり意訳をするときにも、解説をつけると間違いになります。それで、さきほどのように意訳してみたのですが、だいたい、この原文が難しいといいますけれども、意訳の方がかえって難しいということがあります。
 最近、なんでも仏教の聖典は意訳しなければということで、いろいろ試みられておりますが、むしろ原文をすなおに読む方がよくわかるということがあるようです。つまり、意訳したものは一応わかるような気がするけれども、再度考えると、なにがなんだか、わけがわからなくなる。そういう意味では、わたしたちに最も大切なことは、歎異抄に謙虚に聞くということ、謙虚に聞いて、歎異抄の語る本意、本心というものを納得のいくまで聞きあてるということが大切です。
 それには、百万遍の解説を聞くよりも、それぞれみなが、歎異抄の原文をすなおに読むということが、歎異抄に親しむ近道だといえましょう。いま、わたしは、大谷大学でこの歎異抄の講義をしておりますが、一時間の間に、二度も三度も、場合によっては、それ以上も、たびたび、学生諸君に読んでもらって、そして、わたしの話は補説にすぎないという態度で授業をやっております。
 これは、一般的なことだといえるかどうかわかりませんが、その歎異抄の講義だけでなくて、ほかの真宗入門や、観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)阿弥陀経(あみだきょう)の時間中に、わたしが、いろいろ話をしていると、いねむりしている学生があります。ところが、話の中に歎異抄の原文が出てくると、いねむっている人も目をさます。
 そこに一瞬なにかパッと開けるものを感ずることがある。わたしの口をついて出てくる言葉にわたし自身で驚いている。学生が目をさましたことによって歎異抄の言葉が、あらためて生々しく自分に聞こえてくるということがある。それは、歎異抄の言葉は、それを読むわたし自身に語りかけてくる言葉である、と同時に、それは学生たちみなの本心に語りかける言葉である。そういうことを、教壇に立つようになってから感じております。
 わたしが、歎異抄を読みはじめたのは中学生の頃ですが、意味がわかるはずもないのに、ときどき声をはりあげて読んでいたのを思い出しますと、やはり、わかるとかわからないということに先立って、歎異抄そのもののもっている魅力というものがある。それがわたしをひきつけていたのでしょう。ですから、一応の手引きとしては意訳にたよるということも結構ですが、やはりわれわれは、原文を読むのだということを忘れてはならぬと思います。

第一章から読まぬのは裏口入門
 それから、歎異抄は、どの文章をみても難しいけれども、なかでも、特に第一章は難しいということで、そういう場合は、第二章から読めばいいといっておられる人が多いのであります。わたしも、長い間、はじめの一章をとばして、二章から読めばいいのだ、そのうちに、また一章へかえってくることもあると思っておりました。けれども、それでは駄目だと、口をすっぱくしていわれるのが曾我先生です。わたしも、最近では、わからぬ一章をぬかして、わかるところから読めばいいという態度は考えなおさなければ駄目だと思うようになりました。
 歎異抄の解説書は、この頃は、非常に沢山出ていますけれども、第一章から腰をすえて、すなおに読んでいるものは、ごくわずかだといえましょう。ほとんどすべての入門書、解説書は、第二章から読んでいるといってもいい。
 第二章から読むということは、第一章から入門できないから「では、ここから入りなさい」という方便なんでしょうが、しかし、それでは、入門はしても裏口入門というものではないか。表からでも裏からでも中に入ってしまえば同じだというかも知れませんが、しかし裏口入門は、やはり裏口入門であって、表から入ったのと世界が違う。そういう問題があるように思います。

すくいにめざめる生活
 さて、話が脱線しましたが、今日は、この第一節を「すくい」つまり救済(きゅうさい)というテーマでお話しようと思っております。
 「アミダの誓願の不思議な力にすくわれて」と端的に「すくい」の法がのべられます。ここのところは、これまで「念仏の大道」とか「本願の大道」をあらわすものといわれてきたところです。
 これをうけて
 「アミダの本願には、老人であるとか青年であるとか、善人だ悪人だというような、差別はない。ただ信心ひとつを肝要とする、と知らねばならない」
とあります。このように第二節は信心、つまり、めざめが大切だといいます。
 では、このような信心は、どうすれば得られるか、信心はどこに、どのようにしてあらわれるか。それについて、第三節には、
 「というのは、罪ふかく悪重きことにめざめたもの、わずらい悩む心のはげしさに気づいたもの、このような人たちをたすけるのが、アミダの本願だからである」
と述べてあります。
 はじめの序をみると、歎異ということは、「真信(しんしん)に異ることを歎く」とありますが、どこまでも問題は、真実(まこと)の信心ということでしょう。しかし、信心というものは、これが信心ですといって、とり出して見せることのできないものです。信心は、はだかでわれわれの目の前にあらわれるようなものではない。すなわち、「まこと」というものは、「罪深く悪重きことにめざめ」「煩い悩む心のはげしさに気づく」ということのほかにはありません。
 だから、真実(まこと)というものを、われわれ人間のなかに求めれば、それは至誠(しじょう)(まこと)である。人としての至誠をつくすような「まこと」として、われわれの身近にあるようなものである。したがって、めざめ、すなわち信心というものは、「罪深く悪重きことにめざめる」ということのほかにはない。この悪人にめざめるものを正機(しょうき)とする、それがアミダの本願であるということを、第三節では明らかにしておるのであります。
 このように、第一節がすくい(救済)の法をあらわすのにたいして、第二節、第三節は、まさしく自己自身を知るということ。すなわち、これを仏教では()の自覚といいます。それで、ここでは、お話を進める都合もあって、第二節と第三節とをいっしょにして「めざめ」というテーマで考えてみることにしようと思います。
 では、念仏の法、すくいの法にめざめるならば、われわれの人生は、いったいどうなるか、それを第四節に「しかれば」と承けて、
 「アミダの本願を信ずるならば、他のいかなる善も必要ではない。念仏よりもすぐれた善はないからである。いかなる悪をもおそれることはない。アミダの本願をさまたげるような悪はないからである」
といわれる。このように、「善もほしからず、悪もおそれなし」という言葉で語られているものが、親鸞の教えの中心問題である。つまり「自信ある生活」というか、現生(げんしょう)のただなかにあって不退(ふたい)の心境をうるところの生活である、と。
 アミダのすくいにめざめる生活は、どういうものであろうか。それは「ゆるぎなき生活」「おそれなき生活」であると、このように第四節は結ばれます。これを現生不退といいますが、これが親鸞の明らかにされた真実(まこと)の宗教の肝要であります。

アミダとはなにか
 ところで、まず「ミダの誓願不思議」とありますが、ミダとか、あるいはアミダという言葉で語られるものについては、みなさんも、すでに、なんらかの知識なり、イメージなりというものをもっておられるのでしょう。ともかく、ここでは、一応アミダとはなにかという言葉の意味をはじめにもうしておきましょう。漢字で阿弥陀(あみだ)とよぶものを、インドの言葉(梵語(ぼんご)・サンスクリット)では、アミター(amita)といいます。かぎりなきもの、永遠なるもの、はかりなきものということです。そして、このアミターから、はかり知れぬほどの寿命(いのち)、すなわち、アミターユス(amitayus)という意味と、はかり知れぬ光明(ひかり)、すなわち、アミターバ(amitabha)という意味が考えられます。無量のいのち、無量のひかり、それがアミダであります。
 さて、これによって思うことですが、わたしたちが人として生きていくために、どうしてもなくてはならぬものはなんであろうか、生活するためになくてはならぬものといえば、たとえばお金が必要だと考えられる。たしかに、それもなくてはならないものである。が、金には金の限界というものがある。今日の案内状にもありましたように、自由は金で買うことはできない。心も金では買えない。愛情も金では買えない、と、このように考えていきますと、人生を正しく豊かに生きていくためになくてはならぬものは、二つにしぼられていくのではないでしょうか。
 その二つというのは、いつまでも変らぬほんとうの愛情と、そしてすべてのものを誤りなく見きわめる智慧の眼であるといってもいいと思います。実は、その愛情が、ここでは「いのち」(寿命)という言葉であらわされております。仏教では、愛といわないで慈悲といいますが、慈悲は、ほんとうの愛だという意味で、ここでは愛といって話を進めていきます。そして智慧が「ひかり」(光明)といわれるものです。

矛盾する人間の愛と知
 さて、まず愛ということですが、考えてみますと、わたしたちは、愛なくしては一日だって、ひとときだって生きてはおれません。愛とはなにか、愛とはどういうものか、ということになれば、いろいろ問題も出てくることでしょうが、いま「いのち」は愛をあらわすと理解されていることからもわかりますように、愛は、わたしたちのいのちとともにはじまったもの、いつもいのちのあるところには一緒にあるようなもの、といわねばなりません。生命愛という言葉もありますが、寿命と愛は、同義異語といっていいのでしょう。
 その生命愛というもの、自分自身の生命を大切にして、それを、どこまでもどこまでも延ばしていこうという生命愛が外に向ってはたらくと、たとえば、身近なところでいえば、親に対する愛とか、兄弟愛とか、友情とか隣人愛というものになる。が、まず、自分が生きているということがある。この生きているということそのものが愛である。ですから、わたしたちは、つねに、愛が永遠であるように、いつまでも変らぬようにと願っているわけですが、それは実は、自分のいのちが、永遠のものでありたいと願っているのと同じことであるといえると思います。
 ところが、わたしたちは、自分ひとりで生きているわけではない。生きているものは、自分だけではないということを知っているもの、それが人間です。そこに愛の感情がはたらくということがある。つまり、愛したり愛されたりするときには、必ず自分のほかになにかがある、だれかがいる。
 彼女を愛するとか、あるいは音楽を愛する、自分の持ち物を愛するなどと、いろいろあるでしょうが、愛情がはたらくところには、きっと愛するものを知るということがある。たとえば、ある女性と知りあって、その女性のすがたが美しいとか、心がやさしいということに気づく。そして愛する。というように、美しさ、やさしさを発見するとき、愛情がはたらく。こういう意味で愛情と、そしてものを知るはたらきというものは、きってもきれない深い絆で結ばれているといえるでしょう。
 パスカルという人は、「精神の明晰(めいせき)は、また情念の明晰をひきおこす。だから、明晰にして大いなる精神は熱烈に愛する」といっています。もし心が明るくすみきっているならば、そこにおこってくる愛情も、きっと浄らかなものであるに違いない。愛は盲目であるなどともいいますけれども、それは知のない愛のことをいうのでしょう。
 たとえば親の愛というようなものも、非常に深い尊いものだが、えてして盲目の愛になりがちではないか、といわれる。あるいは、男女の愛情にしても、マス・コミなどを賑わせる事件のかげには、男女の愛のもつれということがある。はじめは、そんなつもりではないのに、坂道をころがり出した石のように、自分の力ではどうすることもできない。一度堕ちかけると、もうとめようとしてもとまらない。
 だから愛は盲目だというわけですが、しかし、こういう動物的な盲目的な愛はほんとうの愛ではない。わたしたちが心から願っている愛ではない。たしかに、わたしたちは、刹那的、本能的な愛に動かされて生きてはおりますけれども、それとともに、愛情は浄らかなものでありたいと願って生きております。それが人間です。
 ところが、パスカルは、つづいて、その明晰な心は「判明に彼の愛するものを見る」といっております。だれかのなかに、なにか美しいものを見出すから愛するのですが、美を見出す心は、また醜さにも気づく心である。知るというはたらきは、美を発見するけれども、やがて、その美の裏返しになった醜さをも発見する。ものの正しいすがたを知ることができるけれども、また、ものの誤ったすがたをも知ることができる。だから、大いなる精神の愛を説きながら、パスカル自身は、永遠の失恋者であったといわれております。

智憲ある愛の仏
 人生にあるものは、いつも美しいもの、正しいものとかぎりません。反対に(みにく)いもの、間違ったものが沢山ある。としますと、愛するものが、美しいものであり、正しいものであれば順調にいきますが、それが裏返しになったときには、愛情は破綻(はたん)して憎しみになり、いかりにもなる。愛の感情が激しければ激しいほど、ひとたび、それがつまずいて憎しみに転ずれば、愛情の激しさはそのまま憎しみの激しさにかわる。こうしてみると、愛するがゆえに憎み、憎むがゆえに愛する。これが人生だということもいえるわけであります。
 愛情というものは、その愛するものと一つでありたい、一つになりたいという気持ちだといってもいいでしょう。それは、恋人などにたいする感情を考えてみれば、よくわかることですが、人ばかりでなくて、物にたいする愛着だってそうです。愛は、つねに一つでありたいと願っているものである。ところが、いまもうしましたように、一つでありたいという気持ちのなかに、それから離れたい、のがれたいという心、つまり二であろうとする心もある。
 このように考えますと、人として生きるのに知と愛はなくてはならぬもの。にもかかわらず、それは一つでありたいといいながら二であろうとするように、お互いに矛盾するもの、と、こういわなければなりません。ところが、この矛盾する知と愛が一体となっているもの、永遠の愛と真実の智慧が、矛盾なく一体となっているところの、智慧ある愛の仏、それがアミダ仏であります。

摂取して捨てない心
 さきほど、仏教で慈悲というものは、ほんとうの愛のことだといいましたが、この愛について考えるために、それを、もう一度、慈悲という言葉におきかえることにしましょう。慈とは読んで字のごとく、いつくしむことであり、悲とはかなしむことである。こうしてみると、愛という感情の中には、何かをいつくしみはぐくみ育てるという気持ちがある。恋人同志であるとか、あるいは兄弟とか、親子とか、それと一つになりたい。それを自分の中に包みこんでいこうとする気持ちがある。慈とは、すべてのものを自分に包み、自分としようとする心である。これにたいして悲というのは、むしろ他のなかに自分をみていく心というか、他をもって自己とする心でしょう。
 このような慈悲、すなわちほんとうの愛情というものをあらわすのが、さきほどありました摂取して捨てない心(摂取不捨)です。摂取ということは、外のものを内に摂め取るということ。そして不捨というのは、自分のなかに包みこんだ他をもって自分とする。他が自己となるのですから捨てる道理はない。いったん自分としたもの、そのものの上に自分をみていく。それが慈悲である、と、このように、ほんとうの愛情を慈悲という言葉でいうのは、それが、すべてのものを自分に摂取して、しかも捨てないという意味をもっているからであります。
 考えてみますと、やはり、わたしたち人間の愛情も摂取します。たとえば、さきほどの例でいえば、美しい人をみて愛する。その人を自分のなかに摂取して、いつまでも一緒にいたいと思うことがある。また、音楽を愛するという場合も、わたしと音楽とはとけあって一つになっている。
 ところが、ある一定の期間がすぎますと、音楽から離れる。そうすると、いつまでもそれを捨てないとはいえない。それから、「あなたを愛します」と誓いあってはじまった生活でも、なにかちょっとしたトラブルでもあって、「憎いやつ」と思ったとする。それは、瞬間的であっても、不捨ではなくて捨です。愛情で結ばれているから、生活が全く破壊されるということはないにしても、憎いと思ったり、腹を立てたりしているときは、愛人を捨てている。そして時が過ぎると、また摂取の気持ちがはたらく。
 このように人生というものは、摂取と捨とのくりかえしだといえましょう。しかも、それは、なにも精神的なものばかりではない。尾籠(びろう)な話ですけど、わたしたちの肉体も摂取と捨から成り立っている。栄養を摂取して、そして不捨というわけにはいかない。もし不捨だったら生きておれません。つまり生きているということそのことが愛である、生命愛であるといいましたが、それは摂取と捨から成り立っている。精神的にも肉体的にも、摂取だけあって不捨がない。これが人間の愛というものの、いつわりのない姿です。
 人間愛がこのようなものだから、だからわたしたちは、いつまでも変らぬような、ほんとうの愛を求めます。いのちの永遠を求めます。人生は無常だと知るからこそ、わたしたちは永遠を求めます。摂取不捨というものを、心の深いところで頼って生きているのです。
 そのような、ほんとうの愛、すなわち摂取して捨てない心を、歎異抄にはアミダの心だといいます。こうしてみますと、わたしたちが、永遠の愛を願うということは、アミダの心のはたらきだということも、うなずけてくることであります。しかも、そのアミダの愛は盲目の愛、無明(むみょう)の愛ではありません。智慧ある愛、これがアミダです。

うしろを見る眼を開く
 さて、願いということですが、先年、日中親善の文化使節団として、中国へいったある評論家が、向うの働いている人たちに会った感想を書いたものを読んだことがあります。それをみますと、中国の働く人たちの合い言葉に、「困難は自分が引き受ける、栄誉は他人にゆずる」という言葉があるそうです。
 都合のいいものは自分のところへもってこい、都合の悪いものは困る――、これがわたしたちの普通の気持ちでしょう。ところがそうでなくて、逃げたくなるような困難こそ実は自分が引きうけ、そして自分のものにしておきたいような栄誉こそ他人のものにしよう、と、こういうのです。
 これから思うのですが、「困難はわたしが引き受ける、栄誉は他人にゆずる」といわれておるところには、「そのような自分でありたい」という願いがあるのでしょう。「そういうわたしでありたい」という願いが、その言葉の背後にあるのが感じられる。「いまここにおる自分は、どんな困難でも引き受けられる、そして栄誉は他人にゆずることができる」ということだとおかしい。そういう人間をみると、わたしたちは嫌厭を感じます。ところが、「そういうわたしでありたい」という願いの言葉として聞きますと、そこになにか非常な謙虚さというものを感じる。ですからその評論家も、中国の人たちが非常に明るい顔をしていた、非常に謙虚なすがたで働いているのに感銘したといっております。
 すると、いまここにいる自分はそうだとはいえないということは、自分の現在をみる眼があるということ。しかし、そうありたいという願いは未来を開く心だといえましょうか。この未来を開く心は、現在の自分をみることのできる眼から出てくるものでしょうが、その現在をみる眼は言葉をかえていえば、自分のうしろをみる眼だといっていいのじゃないかと思います。
 倉田百三という人が、こういうことをいっております。それは「青年の頃から宗教だ神だ仏だと求めるのが、必ずしもいいことだとは思わないけれども、しかし青年らしく、なにかを求める気持ちが純情であり、そして真実であるならば、その求める果てには、いつかきっと、うしろをみる眼が開けるときがやってくる」と。
 このうしろをみる眼という言葉で、どういうことをいおうとしているのか。それは、わたしたちは、とかく、前ばかりみているけれども、それではほんとうの未来はわからないのだ。前をみている自分がみえるということ、それが大事だというのでしょう。それが、うしろをみる眼が開けるということである。うしろがみえてはじめて、いま、ここにいる自分が正しくみえる。それは「まこと」であろうとする願いが開いた眼だ、と、こういうのであります。

生かされて生きている現実
 ご承知のように、倉田百三という人は、歎異抄を素材にして『出家とその弟子』という戯曲を書いた。それが、多くの人びとにたいへん感銘を与え、ロマン・ロランもその本に序文を書いています。それは親鸞とか歎異抄という名前を人びとに知らせるのに大きな役割を果たした本ですが、この倉田百三という人は、いろいろな苦しい精神的な遍歴をたどった人でありまして、社会主義に傾倒もしたし、キリスト教の信仰も求めた。そしてまた親鸞の信仰にも非常に心を傾けた。そういう遍歴をたどった人ですが、彼は若い頃に「働らかざるものは食うべからず」という言葉にぶつかって悩んだといいます。
 中国の唐時代に、百丈(ひゃくじょう)というお坊さんが、「一日食わざれば一日為さず」といったといいますが、ともかく、倉田百三は病弱で、やがて大患いをする。自分は働けない、ベッドの上でいろいろな人の世話になって、なにもできないでいる。言葉としては「働かざるものは食うべからず」ということはよくわかるが、しかし実際には、その言葉のとおりにできない。理論と現実とは一つにならない。そういうジレンマに悩んで、そうして、いろいろ苦しんだ末に眼を開いていくのです。そうした中から「うしろをみる眼」というような言葉もでてくるわけです。
 世の中の矛盾、社会の矛盾というものは、やがて解決するときもくるであろう。いや、解決するように努力していかねばならない。けれども、いまの自分はどうか。現に自分はベッドの上でなにもしないで、みなの世話になっている。これは一体どういうことかと悩んだ。そして、日頃自分は生きているといっているけれども、ほんとうは生きているのではなくて、多くのものによって生かされているのではないか、と気づいていきます。
 わたしたちは、生命を保っていくのに、毎日、魚を食べたり、米を食べたり、野菜を食べたりしている。それはあたりまえのことだと思っているわけですが、ところが、そういう人間が、平等でなければならぬ、自由でなければならぬといっておる。これは矛盾ではないか。
 なにも生きているのは人間だけではないのですから、人間に生きる権利があるというなら、魚にだってやっぱり生きる権利がある。われわれは、魚獲量何トンというように、魚は食糧品だと頭から決めてかかっておりますが、魚にしてみれば、人間に食われるために海の中を泳いでいるわけではない。人間は、それを食べようと思って稲を作るけれども、稲は、人間に食われるのが嫌だからのびないでおこうとか、いや人間のために大きくなってやろうなどとは考えない。稲は稲自身のいのちを、ただすくすくとのびていくだけであります。
 稲にも魚にもいのちがある。それをとってわれわれは生きている。ということは、わたしが生きるためには、犠牲になっている沢山のいのちがある、ということに眼が開けてくる。そうしてみると、わたしは生きておるにはちがいないけれども、それは、生かされて生きているのだといわねばならぬわけです。

捨身の愛・無償の愛
 また、さきほどから、愛ということをお話しているわけでありますが、愛は、償いを求めないような、無償の愛でなければならぬとよくいわれます。愛のもっとも徹底したものは、代償を求めないものでなければならぬ。ですから、それを捨身の愛といってもいいでしょう。
 人間のなかにあるものは、どんなに純粋にみえても、みな、なにかの条件をともなっている。そういう意味で慈悲といっても、人間同志の愛、生きているものの間の愛は、小悲である、衆生縁(しゅじょうえん)の慈悲であるといわれます。この場合、縁というのは条件ということでしょう。これにたいしてアミダの愛は絶対無条件の愛でありますから、無縁の慈悲であるといいます。
 これを「不請(ふしょう)の友」という言葉であらわすこともあります。人間というものは友だちがなくては生きられない。にもかかわらず、ほんとうの友だちがなくて、いつも孤独に悩んでいるものである。それでブッダは、すべての人びとに、請われないのに友となろうといわれる。そこには、どんなかけひきもない、とりひきもない。全く無条件、無償の友情である、とこういうことをあらわすのであります。
 ところで、捨身ということですが、わたしは、人間の愛のなかでも、最高の愛は死ではないかと思います。というと、みなさんは、「変なことをいう」と思われるかも知れません。死んでしまえば終りなんだから、愛も恋もないではないかといわれるかも知れませんが、しかし、そういうものではないと思います。
 これは、もう数年前のことですが、ある仏教の集まりで座談会を催した。そのとき、若い主婦が、
 「最近、嫁いださきのお母さんが、なくなったので、いまそのあとかたづけに大変です。それよりも心配なのは、これからどうして家をきりまわしていったらいいか」
とグチばかりいっておられる。それで、わたしは、
 「お母さんがなくなられるとき、なんといっていかれましたか」
とたずねたところ
 「わたしに遺言などありませんでした。」
 「いや、お母さんは死なれたのですから、きっとあなたに、なにかいいのこしていかれたにちがいない」
というのですが、禅問答のようなことで、わたしのいおうとすることがわからぬらしいのです。
それで
 「あなたは、お母さんの死から、なにを聞きましたか、なにを学びましたか」
といったところが、それでハッと気づかれた。
 「自分はいままで、お母さんがなくなったといいながら、お母さんのことなどそっちのけで、自分の心配ばかりしていた」
と。親に死なれて、それで心配の種がふえたにすぎないなら、それでは親は、犬死というものでしょう。ものをいうといっても、言葉だけでいうとはかぎりません。無言の言葉というものが聞こえて、はじめて智慧ある人といえるのでしょう。
 ついさきほどまで、かたちのあったものが、なくなって骨になる、それは愛でもなんでもない、自然の法則にしたがっているだけだというかも知れませんが、白骨になってまで、なにかをいおうとしている、声なき声にじっと耳を傾けると、「これが人間ですよ、どうか、あなたも、このことを忘れないでください」という声が聞こえます。
 最近は、交通事故でいのちを失なったり、いろいろの災難で不慮の死をとげる人が多い。そのために、無常ということがこの時代の問題になっている。無常観が社会全体をおおっている。それは「ぼやぼやしてはおれん」ということに気づけということでしょう。身を捨てて、そういうことを語っているもの、それを、わたしは愛だといいたいのです。

ナムアミダ仏のすくい
 このように、わたしたちが生きていくために身を捨てていくものは、みな、「あなたがたは人間です。どうか、あなたがたのいのちを、ほんとうのもの、まことのものにめざめるまで、大切にしてください。真実を求めて、そして、生きてよかった、人間に生まれて甲斐があったといえるようになってください」と、こういう願いを語っているのではないでしょうか。それは、かたちにはあらわれてこないかも知れない。わたしが、いま、お話しているような肉声になってはあらわれてこないかも知れない。けれども、その願いの声が聞こえるならば、きっとその願いは、わたしの願いになるにちがいない。
 わたしたちは、生かされて生きているのだと言いましたが、その、わたしを生かしている願いが、生きているわたしの願いになる。わたしを生きさせている願いが、わたしの生きる願いになる。生きさせようとする願いと生きる願いと一つになる。そのような、言葉を超えた世界をあらわす言葉をナムアミダ仏といいます。
 われわれは、たしかに生きているのだし、生きていかねばならない。けれども「おれは、生きているんだ」と頑張る必要のない世界がある。それがナムアミダ仏の世界です。そこにかえればわたしたちは心から安らぐことができる。生かされて生きていくという安心がある。そこから、わたしたちの人生がほんとうに新しく出発するのでああ。そういう生活が、アミダの「すくい」によって開けるのである、と、このように歎異抄は語っているのであります。
 この歎異抄の言葉を一つ一つ解釈するということになりますと、まだまだ、もうさねばならぬことが沢山ありますが、ここで一度に話してしまえないところは、機会をみて補っていくことにします。

おこす心とおこる心
 それで「アミダの誓願の不思議なはたらきにすくわれて、必ず浄土に生まれるのである、と信じて、念仏をとなえようとおもいたつ心のおこるとき、まさにそのとき、すくいは実現するのです。」念仏ということについても、また改めて考えることにしようと思いますが、いまもうしますように、アミダの願いが人生にあらわれる言葉をナムアミダ仏という。だから、ナムアミダ仏が、もう、すくいの実現を語る言葉である。それを即の字であらわしております。
 親鸞の解釈によれば、即には即時という意味と、そして即位、つまり位に即くという意味があるといいます。したがって、それを「念仏もうさんと思いたつ心のおこるとき、まさにそのとき(即時に)」すべてを受けいれて見すてないアミダの心「摂取して捨てないアミダの心が、人生のただ中にあらわれて、わたしたちは、そのかぎりのない智慧と慈悲のはたらきに生かされるものとなる(即位する)」というのであります。
 ここで、思いたつ心が「おこる」ときとなっていて、「おこす」ではないということに注意したいと思います。実は、東本願寺の役宅に住んでいる人たちの聞法会というのがありまして、毎月一度、夫婦そろって正信偈(しょうしんげ)の話を聞いておられます。先日も、その会がありまして行ったのですが、そのとき、まだ大谷大学を卒業して間もない人が、いろいろ悩みを語っておりました。
 わたしは、ほんとうに仏教を聞かねばならぬ、真剣にならねばならぬという気持ちになかなかなれない。ほとんど毎日、仕事に追われ流されて「これでは駄目だ」という気持ちのおこるのは、ほんの瞬間的なことだ、それをなんとかその時だけのものにしないて、もっと真剣な聞法ということにまでしていきたいのだけれど、どうしたらいいのだろうか、と、そういうことを話していた人がありました。
 そういうときに、よく言葉を注意してみると、これでは駄目だという気持ちがおこるといって、おこすとはいわない、わたしたちも、そういう経験はよくあることです。なにか遊びすぎたあとで、後悔する、「これはいかんぞ」という気持ちがふとおこる。ふとおこすとはいわないで、おこるという。
 そうしますと、ものを思ったり考えたりする心、おこす心の底に、おこる心がある。おこす心の底から、ときどき、おこる心がつきあげてくる。このおこす心を生きていることに伴う意識、いろいろのものを見たり聞いたりする上層の意識だとしますと、おこる心は、この生を成り立たせるような深いところにある意識、生そのものを成り立たせる意識、それが表面の意識のなかにおこる、あらわれる。なんだかんだといっている平素の生活のなかに、「これでいいのか」と、ささやく声がある。その、ふとおこる心をとらまえる、それが大事なんでしょう。

「すくいは抹香(まっこう)臭い言葉」か
 それから、「たすけられまいらせて」というのは「すくわれて」「たすけていただいて」という意味でしょうが、だいたい常識的にいって、現代人は「すくわれる」とか「生かされる」というような言葉に抵抗を感じるのかも知れません。しかし、そこにも、よく考えてみなければならない問題があると思います。
 先日、大阪の難波別院で親鸞聖人の七百回忌がつとまりましたが、その記念講演会で、東京の法政大学の教授をしておられる本多顕彰という人と、大阪のある女流作家と、それから大谷大学の先生で、わたしの先輩であります広瀬杲という人と、この三人がお話をした。年令の順番で広瀬さんが一番最初に話して、次が女流作家、それから次が本多さんだったわけですが、その女流作家が、降壇してきてから、「今日ほどしゃべりにくかったことはない」と大変困っておられた。この人はテレビで仏教学者と対談をしたり、人生相談の解答をしたりして活躍している人で、話したり書いたりするのは得意のはずなのに、その時ばかりは話しにくかったと、控室でいろいろ話がでた。
 その時に、彼女がいうには
 「親鸞聖人は立派な人だ、今から七百年も前にあれだけ深く徹底して、人間の問題を解決している、人間の実存ということを問題にしている。
 そういう親鸞は尊敬もするし、魅力も感じる。ところが、いったん宗教ということになると、救済だとか信仰だとかと抹香臭くなる、それがいやだ」
と、こういう話がでたというのです。その抹香臭いというところですくいをとらえますと、彼女だけでなく、沢山いやな人はおるのだと思います。しかし、すくいという言葉であらわされているその人間のなかのすくわれたいという願いの問題は、「抹香臭いから嫌だ」ではかたずかないのではないでしょうか。
 そういう話がでたので、広瀬さんは、それには直接ふれないで、
 「あなたは歎異抄をどう思われますか」
と、こう聞いたところが、「もちろん、歎異抄は非常に感銘深く読んでおります」
という返事です。それはそうでしょう。このごろは、ある特殊な人を除いては、歎異抄を読まないではインテリだといえない時代である。ことに、この人は親鸞について語りにきているのですから、歎異抄は、非常に感銘深く読んでおりますと答えるのは当然なんです。
 「では、歎異抄の一番初めにどう書いてありますか」
と問うた。すると、もう返事ができない。歎異抄は、さきほどからお話しておりますように、「アミダのすくい」ということからはじまっている。すくいということは嫌で、歎異抄には感銘すると、これはいったいどういうことなのか。彼女はその矛盾に気づいたのでしょうが、それは、はじめの序文にもありましたように「自分防手な解釈で、歎異抄の正しい精神を思いあやまってはならぬ」ということを語るものでしょう。
 とかくわたしたちは、こういう本質的なあやまちを犯しがちであることを忘れてはならぬと思います。ですから、歎異抄は「アミダのすくい」からはじまっているのだから、やっぱり「アミダの誓願の不思議なはたらきにすくわれて」というところをくぐらなければ、歎異抄が語ろうとする世界は、わたしたちの上には開かれてこないということになります。

わたしよりたしかなわたし自身
 このように第一節をすなおに読んでいきますと、一つ一つの言葉の意味にはわからぬことがあっても、この文章全体が語っている響きというものがある。歎異抄の語りかけてくる声が聞こえてくる。こうしたなかで、「念仏もうさんとおもいたつ心のおこるとき、すなわち」という言葉が、この一節の前と後を結ぶ大切な言葉であることに気づいてきます。そして、その「おもいたつ心のおこるとき」という表現に注意してみますと、わたしたちの日常の意識、さまざまの心をおこして生きている底から、ふとおこってくる心がある。生きていると思っている意識の底に、生を成り立たせている心がある、と、このように、わたしたちの人生のほんとうのすがたが明らかになってきます。
 この、わたしを生かしているもの、わたしの生を成り立たせているものを、ただちに、それもわたしだとか、それがわたしだというわけにはいかない。考えてみれば、わたしたちは、そういうことを忘れて日頃は生きている。それを踏み台にして生きている、それを犠牲にして生きている、だから、それをただちにわたしだということはできない。
 けれども、一歩さがって静かに歎異抄のよびかけに聞けば、アミダの世界こそすべての人間の故郷だといっている。ということは、わたしたちが、日頃、これがわたしだと思っているよりももっとたしかなわたし自身、ほんとうのわたし自身は、アミダの世界にあるということでありましょう。
 すなわち、アミダの世界は、わたしたちの、いのちの大地とでもいうべきところである。そのいのちの大地に帰ろうとする心のおこるとき、そのとき、さまざまの問題をかかえているわたしの人生そのままが、いのちの故郷に帰るものとなる。人生そのものの問題を、アミダにまかせてわたしたちは人生の諸問題を解いていくことができる。人生のいとなみをおし進めていくことができる。そういう生活を、人らしい人になっていく生活、つまり念仏生活というのであると、歎異抄は語っております。

教えに開かれる道
 ですから、この言葉は、人間のほんとうのすがたにめざめた親鸞の言葉ですが、このめざめた親鸞の言葉の中に、わたしたちも、また、自分のいのちの真実にめざめていく道がある。このめざめた人の言葉の中に、わたしの道もあるという気持ちがわたしの心の中におこる時に、その言葉は単なる言葉ではなくて、それは教えの言葉になる。わたしの人生にとっての教えであるという意味をもってくる。
 その教えの中に、われわれのすくわれていく道があるのでありますが、その教えに遇うて開ける心境はどういうものであろうか。すくいにめざめるということは、いったい、どういうことであろうかということを明らかにするのが、このあとの言葉です。つまり、第一節をうけて述べられるところですが、それについては、次回に「めざめ」というテーマでお話しすることにして、今日はこれで終ることにいたします。                 (昭三九・五・二五)


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