1 序・第一章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
  目  次  
 1 序・第一章  
 まえがき
  一 序  
  二 第一章の一
   原文・意訳・注 
   案内・講師のことば
   講  話 
   座談会 
  三 第一章の二   
  四 第一章の三  
  補 説  
  あとがき  
 2 第二章  
 3 第三・四・五章  
 4 第六・七章  
 5 第八・九・十章  
  謝  辞  
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二 第一章の一 「す く い」


     第一章の原文

一、禰陀(みだ)(一)誓願(せいがん)(二)不思議(三)にたすけられまいらせて(四)、往生をばとぐる(五)なりと信じて(六)念佛(七)もうさんとおもいたつ心(八)のおこるとき(九)、すなわち摂取(せっしゅ)不捨(ふしゃ)利益(りやく)(十)にあずけしめたもう(十一)なり。彌陀(みだ)の本願(十二)には、老少善悪(ぜんまく)(十三)の人をえらばれず(十四)。ただ(十五)信心(十六)を要(十七)とすとしるべし。そのゆえは、罪悪深重(じんじゅう)(十八)・煩悩熾盛(しじょう)(十九)の衆生(二十)をたすけんがための願にてまします。しかれば、本願を信ぜんには(二十一)、他の善も要にあらず(二十二)、念彿にまさるべき善なきがゆえに。悪をもおそるべからず(二十三)、彌陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえにと云々。

     現代意訳

 アミダの誓願の不思議な力にたすけていただいて、かならず浄土に生まれるのである、と信じて、念仏をとなえようとおもいたつ心のおこるとき、まさにそのとき、すくいは実現する。すなわちあらゆるものを摂取して捨てないアミダの心が、人生のただなかにあらわれて、わたしたちは、この、かぎりのない智慧ある愛のはたらきに、生かされるものとなるのである。
 アミダの本願には、老人であるとか青年であるとか、あるいは、善人だ悪人だというような、差別はない。ただ信心ひとつを肝要とする、と知らねばならない。というのは、罪ふかく悪の重いことにめざめたもの、わずらい悩む心のはげしさに気づいたものこのような人たちをたすけるのが、アミダの本願だからである。
 したがって、アミダの本願を信ずれば、他のいかなる善も必要ではない。念仏よりもすぐれた善はないからである。いかなる悪をもおそれることはない。アミダの本願をさまたげるような悪はないからである。
と聖人はおっしゃった。

     注  釈


(一) 弥陀。
 みだ。真実の人生が、それからはじまる根源そこにおいて成立つ根底、そこに向って進んでいく家郷――それを、ミダ、アミダ、あるいはアミダ仏といいます。アミダは無量、無限、絶対ですが、その無量寿(はかりしれぬいのち・アミターユス Amitayus)によって永遠の慈悲をあらわし、無量光(はかりしれぬひかり・アミターバ Amitabha)によって無限の智慧をあらわします。すなわち、アミダ仏は、かぎりのない智慧と慈悲のはたらきをもつ仏、智慧ある愛の仏、この有限の人生にあらわれた無限の仏です。
(二) 誓願。
 せいがん。たんなる願いではなく、誓われた願い。アミダ仏は、いのちあるもの、迷うているもののすべてをすくいたいという願いをおこし、その願いが成就(じょうじゅ)せぬならば、自らもさとりの座にはかえらぬと誓われました。つまり、アミダ仏の願いには、アミダ仏のさとりを賭けた誓いが秘められています。
 『大無量寿経』(だいむりょうじゅぎょう)には、この誓願を四十八条にくわしく説かれていますが、特に「正しく信じて念仏するものをすくいたい」と誓われた第十八願は、もっとも大切なものです。
(三) 不思議。
 ふしぎ。人間の智慧では、はかり知ることのできないもの、思議することのできないもの。
 歎異抄では、しばしば「存知(ぞんち)せず」といわれますが、存知とは、思い知り、考え知ること。つまり、アミダの誓願不思議は、人智では存知できません。また存知する必要もありません。なぜなら、誓願不思議は信知(しんち)するもの、信知することのできるものだからです。信知すれば、アミダの不思議のはたらきは、この人生の事実であると知られる、これが親鸞のこころです。
(四) たすけられまいらせて。
 第二章にも「ミダにたすけられまいらすべし」という言葉がありますが、こういう表現は、他にない、御物語独特のものです。曾我量深先生は『蓮如上人御一代記聞書』に「廻向(えこう)というは、弥陀如来の衆生を御たすけをいうなり」とあるのによって、「アミダの誓願不思議の廻向によって往生をとける」ということであると教示してくださいます。
(五) 往生をばとぐる。
 おうじょう。往生とはアミダの浄土(じょうど)に往き生まれること。浄土は、人生をこえたところという意味で無生(むしょう)といい、また人生の業火(ごうか)の燃えつきたところという意味で涅槃界(ねはんがい)ともいいますが、その浄土に往生して、無生のさとり、涅槃のさとりを開き、プツダとなる(成仏する)という人生の大目的を果すことを「往生をばとぐる」といいます。
(六) 信じて。
 信知して、信受して。信は、妄念妄想のはたらきが力を失って、疑いのない澄みきった浄らかな心がはたらくこと。だから、信知とは、疑いなく知ること。
(七) 念仏。
 ねんぶつ。仏を念ずること。ここでは、ナムアミダ仏と名(みな)をとなえること(称名念仏すること)。ナムアミダ仏は、真実にめざめよというアミダの大悲のよびかけであり、「念仏もうさんとおもいたつ」は、そのよびかけにこたえること。人生は有限相対であり、アミダは無限絶対ですが、この有限が無限に包まれて一体となったすがたをナムアミダ仏といいます。迷いがさとりに転ぜられるはたらきを「念仏もうす」といいます。
(八) おもいたつ心。
 アミダにめざめ、本願にめざめ、人生の大目的にめざめ、念仏にめざめる心。「わが国(アミダの国)に生まれようとおもえ」というよびかけと「かの国(アミダの国)に生まれようとねがう」というめざめの呼応する心。
(九) おこるとき、すなわち。
 親鸞は、即(すなわち)に即時と即位(そくい)の意味があるといいます。したがって、これは「念仏をとなえようとおもいたつ心のおこるとき、ただちに(即時に)、必ずアミダの世界に生まれる資格をうる(位につく)」という意味の言葉です。
(十) 摂取不捨の利益。
 せっしゅふしゃのりやく。摂取はおさめとること、自の内に他を包むこと。不捨はすてないこと、内に包んだ他をもって自とすること。この、アミダの智慧ある愛のはたらきは、念仏する人がうける恩恵であるという意味で利益といいます。
(十一) あずけしめたもう。
 あずけしむは、あずからせる、蒙らせるということ。
(十二) 弥陀の本願。
 みだのほんがん。アミダが、かつて法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)と名のるとき、おこされた本(もと)の願い。あらゆる願いの根本となる願い。
(十三) 老少善悪
 ろうしょうぜんまく。肉体について老人と幼少、精神について善人と悪人といいます。
(十四) えらばれず。
 差別がない。老少善悪のちがいを、すくいの条件にしない。
(十五) ただ。
 聖覚(せいかく)の『唯信鈔』には「ただ信心を要とす。そのほかをばかえりみざるなり」とあり、法然の『十二箇条問答』には「ただ信心のふかかるべきなり」とあります。「ただ」とは、深く信ずるということ、深信の心を肝要とするということをあらわします。
(十六) 信心。
 しんじん。まことの心。なにものにもやぶられず、かたむかず、みだれぬ心。すべてをありのままに映す澄浄な心、喜びの心。これは如来(にょらい)の本願にめざめた心だから、これをまた、如来よりたまわる心、如来の心ともいいます。
(十七) 要。
 よう。肝要。それがあれば一切が成立しなければ、なに一つとして成立しないような大切なもの。
(十八) 罪悪深重。
 ざいあくじんじゅう。罪深く悪の重いこと。罪悪深重とは罪悪感が深重であるということで、自覚のない客観的な人間観を語るものではありません。
(十九) 煩悩熾盛。
 ぼんのうしじょう。心身をなやましわずらわせるはたらきが、火のもえるようにさかんなこと。とくに、エゴイスティックな自愛(貪欲、とんよく)、すべてを破壊する心、焼きはろぼす心 (瞋恚、しんに)、真理を知らず、また知ろうともせぬ無知、無明(愚痴、ぐち)を三大煩悩といい、また、智慧のない自己主張(邪見、じやけん)、優越感や劣等感(我慢、がまん)、人生や宗教など一切が信じられぬ心(疑惑、ぎわく)などが主なものに数えられます。人間は、このような心作用をもとにして罪悪を犯し、迷いを重ね深めています。
(二十) 衆生。
 しゅじょう。生きとし生けるもの。多くの生類という意味で群生(ぐんじょう)群萠(ぐんもう)といい、心情を有するものという意味で有情(うじょう)含識(がんしき)ともいいます。
(二十一) 信ぜんには。
 信ずる場合にはというような意味であって、信ずるならば云々と、条件にする意味ではありません。信の表白という原文のこころを、いまの言葉にうつすのは困難ですが、問題を残したまま、ここでは「信ずれば」と意訳しました。
(二十二) 他の善も要にあらず。
 プツダとなるためには、念仏以外の善を必要としないということ。すなわち、アミダの本願を信ずるならば、与えられた自己の生活以外のものを求める必要がないということ。
(二十三) 悪をもおそるべからず。
 悪とは、わが身の現実です。したがって、これは、いかなる悪もおそるるにたらぬ、この人生をおそれずに生きよということでしょう。これによって、親鸞の現生不退(げんしょうふたい)の心境があらわされています。われわれは、善は楽果をまねき幸福をもたらすと考えて善に執着します。悪は不幸のもと、苦果をまねくと思うから、悪をおそれ、にくみます。たしかに吉凶禍福善悪は、われわれの人生と深いかかわりをもちますが、といって、善をなそうとすればなしうる、悪をやめようとすればやめられると考えるなら、実はそれが、迷信邪教の温床となるのです。『口伝鈔』にも、親鸞は「それがしは、まったく善もほしからず、悪もおそれなし」といったとありますが、これは親鸞が、アミダの本願を信じて罪福信(ざいふくしん)のまどいを、みごとにこえたことをあらわす言葉です。


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