1 序・第一章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
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 1 序・第一章  
 まえがき
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  三 第一章の二   
  四 第一章の三  
  補 説  
  あとがき  
 2 第二章  
 3 第三・四・五章  
 4 第六・七章  
 5 第八・九・十章  
  謝  辞  
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一 序 「忘れられぬこと」


    
座談会 「歎異抄をめぐって」
                                          司会 竹 田  弘(漁業)

     発会の動機

 司会 この会は、仏教青年会の主催となっておりますが、実は、青年会といっても、これまでは、わずか五、六人の集まりで、それに集まってくる動機とか関心というものもそれぞれ違っていました。ただみなに共通していたのは、この寺の住職の松井君とぼくらは友人だったということ、それから、生活の不安というようなものをみなが感じていて、このままではだめだと思っていたことなんです。
 それで、だれがいうともなしに、なにか宗教的なものを身につけていくことによって不安が解決していくのではないか、生きる自信も出てくるのではないか、そういうことで、歎異抄を読み始めたのです。しかし、参考書などをみながら読んでおりましてもいろいろわからぬところが多い。それで、以前から時々ご指導をいただいたことのある伊東先生に毎月おいでいただくようにお願いをしましたところ、幸いお引き受けくださいましたので、これを機会にもっと広くよびかけて、この地方の青年全部が参加するような会にしたいということで、はじめたわけです。
 ですから、この会は、これから歎異抄に学ぼうとして集まった全員でつくっていく会なんです。そのために、毎回、先生のお話をお聞きしたあとで座談会を開いて、お互いの意見を語りあう機会をもちたいと考えています。

     歎異のこころ

 司会 今回は最初のことですので、特別なテーマを出しませんでしたが、まあ、この「歎異抄に聞く会」についてでも、あるいは「歎異抄をめぐって」ということでも結構です。また、ただいまの先生のお話について質問があれば、それでもよろしいと思います。そういうことで話を進めていただきたいと思います。
 竹内 いま、先生からお聞きしたのですが、歎異抄と名づけられた意味についてもう少し――。
 伊東 さきほどもいいましたように、親鸞がなくなりますと、だんだんと教団(社会)の秩序が乱れてきて、親鸞がいわなかったような異義(いぎ)がおこるようになります。もっとも親鸞在世のころから関東の教団にはいろいろの問題がありまして、そのために親鸞は息子の善鸞(ぜんらん)義絶(ぎぜつ)する、かんどうするというような事件もおこっていますが、親鸞がなくなってからは、混乱がいっそうはげしくなった。それをみて唯円は非常に歎かわしく思ったわけです。
 教団が混乱するということと、信仰がはっきりしないで異義がおこるということは深い関係があるのですが、ともかく唯円は、親鸞の信心とその当時の人たちの信心が異なることを歎いて、その誤りをただそうとして筆をとった。これは一応は、自分が親鸞聖人から直接聞いている言葉にてらして、社会の人たちの誤りをただすというのですが、だからといって、「わたしは正しいんだ」と頑張っているわけではないんですね。
 歎異ということには、「われも、ひとも、異義にまどうてはならぬ」という気持ちがあるのだと思います。歎異抄の後の方には「露命わずかに枯草の身にかかりて」とありますから、唯円は、もう相当年をとっておることがわかります。これは、大谷大学の細川行信という歴史の先生の説ですが、これを書いているのは、親鸞がなくなってから、ほぼ二十年、あるいは二十五年もたったころのことでしょうか。いま書かねばチャンスを逸して千歳に悔いを残す、「どうか正しい信仰が伝わっていくように」。ところが「遺友のなかに、聖人から直接教えていただいたほんとうの信心とちがうものがあるのは、まことになげかわしい」。それで「一室の行者のなかに、信心異なることなからんために、なくなく筆をそめてこれをしるす、名づけて歎異抄というべし」といっています。
 それから、ついでにもうしますと、抄は鈔とも書きますが、抄の方が俗字で、これはどちらも、大切なこと、すぐれたことを書きぬきして、あつめるということです。
 林徳 とっぴな質問ですが、「たんい」と読まないで、どうして「たんに」と読むのですか。
 伊東 それは国語学の方で連声(れんせい)といっているものなんです。たとえば、三位(sami)を、さんみ(sam-mi)と読む、善悪(zemaku・zenaku)を、ぜんまく(zem-maku)とか、ぜんなく(zen-naku)と読むのと同じことで、歎異(tani)と書いて「たんに」(tan-ni)と読むわけです。
 林憲 また、国語の時間のような質問ですが、いま知識というのは善友のことだとお聞きしましたが、それは知識のある人というような意味でしょうか、それとも知り合いというか、知識の間柄というようなところから用いられるようになったのでしょうか
 伊東 知識というのは善知識を略した言葉で、梵語(ぼんご)のカルヤーナミトラ(kalyanamitra)の意味を訳して善友とか親友といいます。それからのちには道の先達とか師匠、つまり先生というような意味に用いられるようになるわけです。
 ですから、この知識ということには、人の心を知り形を識るという意味もあるのでしょう。その人の内外をよく知っているもの、これが親友です。親友には、だれにもいえないようなことを打ち明けることができる、親友は長所も欠点もなにもかも知りぬいている。ですから、なにもかも安心してまかせられる、その人の言葉をたよりに道を歩むことができる、と、こうなればもう先生という意味になります。
 中村常 今日のお話の題は「忘れられぬこと」となっておりますが、歎異抄には「耳底にとどまるところこれをしるす」とあります。その耳底にとどまるということを思い出だと理解しますと、ぼくらには非常にいい思い出もあるし、また逆に肉体的な苦痛をもって担ってくるような思い出もあるわけです。わたしの場合、よい思い出というのは、なにかかすんでいるようなぼんやりした思い出が多いのですが、いやな思い出は忘れたいと思ってもなかなか簡単に忘れられない。
 それで、ここに耳の底にとどまるというようないい方で出されている唯円の言葉は、いまのぼくの場合の忘れられないこととは質が違うように思うのですが――。
 伊東 同じ忘れられぬことといっても、忘れたいこととか、忘れたくないこととちがって、唯円がいうのは、忘れられぬことなんですね。今日は、充分話ができませんでしたが、この「忘れられぬこと」という言葉で、信心というものをいいあらわしたかったのです。「憶念(おくねん)の信」という言葉もありますが、それを唯円は「耳底に鳴りひびいていて忘れることができない」といいます。
 竹内 すると、同じ心でも、毎日毎日の生活は思いというものであって、忘れられぬことは信心だということでしょうか。
 伊東 そういってもいいと思います。仏教では、心とか意識というものを、いろいろくわしく厳密に分析しておりますが、いま、あなたが思いといわれるような意識、つまり、あったりなかったりする意識と、それから寝ておっても覚めておっても、どんなときでもはたらいている意識とに分けて考えるならば、信心は、どんな状態にあってもはたらきの変らない意識の方に深い関係があります。
 中村常 さきほど、ぼくが質問したのは、普通の思い出でない、特別な思い出というものがあるのではないかということです。たとえば、先生のお話をお聞きした場合でも、それが、善い思い出とか悪い思い出とかいうことでなしに、いろいろなことが耳にとどまるわけです。そして、その言葉が、あとになっても案外鮮明に思い出される、ということがある。
 伊東 そうですね、唯円が「耳底にとどまる」というものを、もし思い出というならば、それは「あのときはよかった」とか「つらかった」というようなことでなしに、いつでも、いまの自分を勇気づけるような思い出ですね。そういう意味でなら思い出ということもいえるかも知れません。
 しかし、ふつう思い出といえば、すでになくなった前のことを、なにかあるチャンスに思い出す。すると、もうないはずのことが、記憶として残っている。記憶のなかで、昔のことがいまにつながっている。こういうのを思い出といいますね。思い出せばあるんだから、思い出さなくても、いつもある、あるから思い出すんだ、と、こうもいえます。けれども、耳底にとどまるという言葉とちょっとニュアンスがちがう。耳底にとどまるというのは、いつもわたしと共にあるもの、わたしがどんなになっていても、わたしと共にあって、生きてはたらいているものということですから、思い出という言葉とはちょとちがったものがあるようです。

     信ずるということ

 野呂賢 教えを信じるという場合ですが、ある友だちは、わからなくても、だんだん聞いているうちに自然とわかってくるものだといいます。しかし、ぼくは、たとえば、この歎異抄なら歎異抄の言葉の意味がわからないと、これ以上信心の道へ入っていけないような気がするのですが――。
 伊東 (いわし)の頭も信心からという言葉もありますけれども、盲目になるのは本当の信心ではありませんね。だから信ずるということには、ほんとうにわかるという意味もあるわけで、信ずるということは、これまでわからなかったなにかがはっきりすることだといってもいいと思います。めくらになれといわれてなれるものでもなし、また、めくらになったのでは、必ずあとから納得のできないものがでてくる。だから、めくら信心は、信ずるといっても結局はうたがいです、そういう意味で、わかるということは非常に大事な問題だと思います。
 仏教には大疑菩薩という名の菩薩があります。大いにうたがって、うたがい尽して真実をあきらかにしていく、そういう志願をたてた菩薩があります。あなたの場合、自分にはわかっていないという気持ち、言葉をかえていえば、わかりたいという意欲があるのですから、それを大切にしてほしいと思います。簡単にわかったとかわからぬで片づけないで、わかりたいという気持ちをどこまでも徹底していく、そういうことが大事なんでしょうね。
 中村勉 わたしもよくキリストの復活の問題などを友たちから聞くのですが、わからない。わからないから信じられないのです。わかりたいという気持ち、信じたいという気持ちを持っているんですがわからない。
 中村常 わからないけれども、とにかくこの会へ出てきたということがあるんだから、それに徹すればいいのとちがうだろうか。
 野呂賢 それはそうです。この歎異抄の会に出てくるのも、なにかに引きつけられるものがあったから出てきたのです。しかし、そうはいうけれども、これ以上深く入ろうとすると、やはり理解しないと入れないような気がする。
 野呂勇 しかし、学びつつ進んでいくということもあるのじゃないかな。はじめに全部わからなければ、これ以上学べないとか進めないということはないと思いますね。
 野呂賢 「なにか不幸にでも出会ったとき、はじめて聞いてきた教えがわかるものだ」とか、また「もし、わがるときがこなければ君は幸せだ」ともいわれたことがあるのですが、なにかそこに納得のいかないものがあるわけです。
 伊東 その「わかるときがこなければ君は幸せだ」という言葉を、まともに聞くと意味がちがってくるのでしょう。わかりたいことがわからなければ不幸にきまっています。しかし「ときがこなければわからぬ」ということもたしかにあるわけです。だからそこでは、わかるわからぬかではなくて、わかりたいのかわか。たくないのかで決めるほかないと思いますね。
 いま、わからなければ信じられないということが問題になっているわけですが、こういうことは考えられませんか。つま。あなたに「仏を信ずる」とか「神を信ずる」というような言い方では自分の気持ちをいわせないものがあるのはわかる。しかし、われわれには、わかって信ずるのでなしに、信ずるからわかってくるということがある。信頼があるから行動ができるということがある。
 実は、今日、初めて大西君のところで散髪をしてもらってきましたが、散髪台に登るときの、あの信頼――。初めて会った人に自分の首をまかせるというか、顔にかみそりをあててもらうのですから、疑えばもう散髪はしてもらえない。そのように、生きているということそのことが、深い信頼から成り立っている。その上で、お互いにああでもない、こうでもないと我他彼此(がたぴし)いうのでしょう。
 さきほど野呂君は、この会にひかれるものがあって来たといわれましたが、それは歎異抄にはなにかほんとうのものが語られてあるのだという素朴な信頼があるということでしょう。だから教えを聞けばそうかなとうなずく。しかし、また、うたがう。つまり、うたがうにしてもうなずくにしても、前提には深い信頼がある。それが生きている事実である。それが、「ああ、そうであったか」とはっきり自覚されるのには、ときをまたねばならぬということです。
 野呂賢 そういわれるとそうですが、それでもやはり、わからずに信じるというのはやりにくいのです。
 伊東 それで大疑菩薩(だいぎぼさつ)というような人がいる意味があるわけですね。
 中村常 ぼくの場合は、最初に仏教にたいする誤解があった。アミダというのは、人格神的なものだと解釈していたので、はじめはくだらんものだと思っていた。しかし松井君らと話をしているうちに、その誤解はとけてなかなかおもしろいということになってきた。
 だから、ぼくは、仏教を信じるから社会主義とか共産主義の理論が間違っているとは思わない。ぼくは、そういう理論の中で考えたり行動したりする自分を力づけてくれるものがあるから信じているというか、信じてわかりたいと思う。やはり、自分が力づけられるものがあるから信ずる。
 高田 その信ずるということだが、これを信じれば、なにか自分に利益がある。病気が治るとか生活が楽になるとか考えるのはおかしいと思う。なにかを明確にしないかぎり自分は安心できないという気持ちをぼくらは大事にしたらいいのだと思う。だから理解しなければ信じられないと頑張るのもちょっとおかしい。
 松井 ぼくらは、なにかを信じたら自分の不安は全部スカッとしてしまって、もう悩みや苦しみは絶対に出てこないというような、自分なりの理想を前提にして、そして信じたいと思っている。けれどもそれも一つの理想主義ではないかということを一応考えてみなければならない。信じられないというが「おれは自分に納得するまでは絶対に信じないぞ」といっている、その自分の考え方は全然うたがわない。だから、このような自分の考え方にたいする信というものも疑問にしなければならない。
 中村常 それはそうだ。仏さんは信じられないといっていても一万円札は信じているものな。だから一万円札の価値がわかるようなもの、そういう力を信じるというのなら、そのようなわかり方、信じ方も一応問題にしてみなければならぬということでしょう。

     一人ひとりの課題

 司会 信心という問題は非常に大切な問題ですから、これからも会を重ねてはっきりしていくことにして、しばらくの間、この会の運営について反省してみたいと思います。できればこの会に出席していただいた理由もお話しください。
 高田 一片の案内状に招かれて、忙がしいでもあろうし、また、夜のことで眠いでもあろう。そういうなかから、とにかくここへ集まったのですから、なにを求めてここへ集まってきたかということをはっきりさせて帰りたいと思います。
 中村常 たしかにこうしてみんな集まってきたわけですね。歎異抄の第二章に「おのおの十余か国の境をこえて身命をかえりみずして」とありますけれどなにもここへ来たのは、身命(しんみょう)をかえりみずしてというほどでもありませんが、でも集まったというのは事実ですから、この中で、ぼくらはできるだけ前向きに進んでいきたいと思います。
 林徳 わたしがここへ来たのは、実は三つばかり理由があるのです。その一つは広告のビラに「歎異抄に聞く会」とあったこと。「歎異抄を研究する会」というのでなくて、「に聞く」とあるのをみて、まず最初、奇異な感じがしました。これは間違いでないかと思いましたが、そのうちに、これはよく考えた広告だなと思って印象に残ったわけです。
 それから二つには、いただいた案内状に、わたしの名前が書いてあったこと。指名していただいてあったといいますか、わたしになにかをさずけてやろうという主催者の非常に暖かい気持ちにうたれたことです。
 第三は、私的なことですが、わたしの近親のものがある事情で自殺しました。その時に、学校の教師をしておりましたので、生徒に歎異抄を読めとすすめているということを伯父からしばしば聞かされておりましたので、歎異抄に非常に関心を持っておりました。こんなことでここへお邪魔させていただいたわけです。
 伊東 うけたまわりますと、国語の先生をしておられるそうですが、それなら特に「――に聞く」ではおかしいのじゃないかと思われるのはもっともですね。しかし、そこに聖典を読むという大事な問題がある。つまり、歎異抄に「なにを」聞くのかということですね。
 林憲 わたしもその「に」というのは非常によくきいているいいセンスだと思います。さきほどの説明でよくわかりました。
 伊東 おほめいただいてどうも――。しかし、これは、前の講話では、あのようにもうしましたが、こういう表現は、ぼくがみつけたものではありません。つまり、歎異抄に自己自身の道を聞いていく。これはブッダ(仏陀)以来の仏教の伝統なんです。ですから、もし讃えるとすれば人類の最初のブッダ、つまり、お釈迦さんの徳をみなで讃えることにしたいと思います。
 それから、さきほどいわれた高田君の提案ですがここにこられたことにはいろいろな動機があるわけでしょう。さきほど、林さんからいろいろお聞きしましたが、あのように明確でなくても、なにかここへ足を運んで来たということには、それぞれ足を運ばせてきたものがあるわけです。
 それで、ここへ足を運ばせた意欲の正体はなになのかをはっきりさせたいわけですが、ここでわたしが言えることは、そういう意欲というものの底に、わたしたち一人一人が、みんなにつながっているような大きな願いがあるということです。願いという言葉であらわしたいようなものに根をもつものが意欲となって、この一つの場所にみなの足を運ばせている。この願いというものは、いったいなになのか。それは他人にご飯を食べてもらっても、わたしの腹はふくれないように、それは、一人ひとりが自分ではっきりさせねばならぬものです。
 ともかく、ここに集まったわたしたちには、意欲があることは確かなんですし、その意欲の底に願いがあるということも確かなんです。そして、それがきっとわたし自身の上に、生きているということ、生きていくということの意味を明らかにするであろうということも確かです。
 が、しかし、ほんとうにそうなのかどうかという碓認は、わたしたち一人ひとりがやらねばならぬことだと思います。これから毎月一回、顔を合わせていくうちに、だんだんみなさんと打ちとけてお話し合いができるようになっていきたいと思います。
 司会 では、時間もまいったようです。今日は、この辺で――。どうもありがとうございました。また来月の会を楽しみにしてということで、今夜はこれで終りたいと思います。


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