1 序・第一章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
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 1 序・第一章  
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 3 第三・四・五章  
 4 第六・七章  
 5 第八・九・十章  
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一 序 「忘れられぬこと」


   
講 話 「忘れられぬこと」

みなが共同して聖典を読む
 いまから二年ほど前のことですが、粥見(かゆみ)の青年さんたちが中心になって、歎異抄の会を開きたいから、月に一度くらい来て話をしてほしいと依頼をうけておりました。その会が、いよいよ今日から発足することになったわけであります。それで、だいたい二年から三年という予定で、みなさんといっしょに歎異抄を拝読していきたいと思っております。
 ところで、まず最初に、会を進めていく態度として、わたくしから提案したいことが一つあります。それは、提案といってもいいのですが、わたしの気持ちを率直にもうせば、この会にたいする希望であり、おねがいでもあるのです。
 というのは、この会で歎異抄を読んでいくということを、わたしと、みなさんとの共同事業にしていきたいということです。ただ一方的に、わたしの話を聞いていただくということだけでなしに、歎異抄を読んで、どのように感じられるか、また、どのように考えられるか。みなさんがそれぞれの生活をとおして感じられた忌憚(きたん)のない意見を聞かせていただきたい。それに教えられ励まされて、わたしはわたしなりの了解を明らかにしていきたいと思います。
 そこに、聖典を、ひとりで読むのでなくて、こういう集まりをつくって読むということの意味があるのでしょう。ひとり読んでいたのではわからないことが、みなさんといっしょに読んでいくうちに、ずいぶんいろいろ教えられるにちがいない。そうして、ここで歎異抄を読むということを、ほんとうに意義のあるものにしていくことができるならば、たいへんありがたいことだと思うのであります。

人間は言葉をとおしてふれあう
 ところで、歎異抄にかぎらず、一般に仏教の話というものは、むずかしくて、よくわからぬという批難があります。つまり、言葉の障害です。仏教の言葉は難解である、これが一般の世論かと思います。
 たしかに、そういう問題があります。そのために、仏教の言葉を現代的にいいなおしたらどうか、お経(経典)なども意訳したらどうかという声が、すでに早くからありまして、そういう要望にこたえるために、仏教の学者ばかりでなくて、広く思想家や小説家などによって、経典の現代語訳が試みられておるわけで、その成果も、じょじょにではありますが、あがりつつあります。
 しかし、それも現在では、決して満足すべき状態だということはできません。そういうところから、仏教用語は難解だ、もっとわかりやすくならぬかという声が、依然としてなくならない。というよりも、むしろ、そういう要望は、以前にもまして、だんだん強くなってきているという状態です。
 ところで、この言葉についてですが、ここには非常に大切な問題があります。われわれ人間はお互いに言葉をとおして意志を伝えます。その意味で、人間は言葉を話す動物だといわれるように、この言葉の問題は、人間とはいったいなにかというような、人間の本質にかかわる問題を含んでいるといってもいいのでしょう。
 考えてみますと、人間は、言葉をとおして外の世界と接しております。言葉を聞くということを門として、わたしの世界と外の世界とがふれあう。そういう意味では、言葉は、自分と他を結びつける媒介(ばいかい)だということができると思います。
 たとえば、今日、この会場に来て、はじめて知りあったわたしとだれかとは、これまで全く関係がなかった。ところが、ここで出会って、そうして、わたしのお話することがみなさんに通じみなさんからわたしに話されることがわたしに通じるとすれば、そこに言葉をとおしてコミュニケーション(話しあい)が成り立つ。お互いの意志が伝達される。言葉を門として、お互いがふれあう。ということは、換言しますと、わたしたちは人間であるかぎり、言葉をとおしてでなければ、お互いを理解することができないということです。
 ですから、言葉がわからぬから聞くのをやめておくということなら、現在のわたしの世界が、これ以上に広くなったり深くなったりするはずはないわけです。今日、はじめて会う人たち、粥見で生活しておられるみなさんのことは、わたしは知りませんでした。けれども、いま、ここでお会いして、みなさんを理解することができるようになるなら、それだけわたしの世界が広くなるわけです。また、わたしの話すことを、みなさんが聞いてくださって、わたしのいおうとすることが、みなさんに伝わるとすれば、みなさんの世界はそれだけ広くなる。こういう意味で、一つの聖典をとおして人生の問題を考えていくということは、共同の仕事だということができると思うわけであります。

言葉の本音を聞きあてる
 わたしたちは、お互いに人間だというております。つまり、一人いても人-間です。人-間(ひとのあいだ)だといわれます。現代の社会では、この人間関係が、ずいぶん面倒なことになっていて、そこから、いろいろな問題がおこってきているわけですが、とにかく、その人と人とを結ぶものとして言葉があります。
 ところが、われわれは、その言葉を聞くときに、ともすると、語られている言葉だけを聞く、言葉ずらだけを聞くということになりがちです。けれども、ほんとうは耳に聞こえてくる言葉だけを聞いておったのでは駄目で、その言葉の本音(ほんね)といいますか、本心というものを聞かねばなりません。どんな言葉にも本心がある。ですから、その言葉によって、なにが語られているか、その人はなにを語ろうとしているのか、そういう本心とか本音というものがわからぬと、聞こえる言葉にだまされるということになります。
 自分に都合のいいことだけ聞いて、そして自分に都合の悪いことは聞かぬということですと、たとえ(うそ)でもいいから、耳ざわりのいい言葉だけをじっと聞いて楽しんでいこうということにもなります。
 たとえば、恋人にすてられて「もういやになった」といわれたとします。その「いやになった」というのが本心なんですが、「いやになった」と本心をいわれるよりも、嘘でもいいから「愛しています」といわれる方がいいと思うというようなことがあります。
 そんな嘘の言菜を聞けば、本能的には、もうなにもかもわかっているのでしょう。「愛しています」というのは言葉だけで、それは本心ではない。そういうことがわかっていても、それでもその本心は、言葉としては聞きたくない。ほんとうのことがわかって悲観するより、嘘でもいいから甘いムードのなかにひたっていたいと思うこともあるでしょう。しかし、ほんとうは淋しい。うつろなものが心のなかにはある。
 ですから、そこに語られている言葉の本音と本音とがふれあわないと、ほんとうの意味でのコミュニケーションは成り立ちません。もしかりに、理解しあっているようにみえたとしましてもその関係は虚偽です。それでは、わたしたちは、お互いを理解し、そして、自分の世界を広く深くしていくということができないといわねばならぬと思います。
 このように、言葉というものは、きわめて大切な意味をもっているのですが、その言葉をとおしてでなければ、わたしたちは、お互いを理解しあうことができないわけです。特に、これからわたしたちは、仏の教えを聞きながら人生の問題を考えていこうとするわけですから、そこにはどうしても言葉の障害があって、それをなんとか乗りこえていかねばならぬわけです。
 そして、仏教の言葉がむつかしいということだけでなしに、たとえば歎異抄のお話を十分にできない、そこに語られていることを十分明らかにすることができないとしますと、それは、わたしの責任です。話すという責任をもって、ここに立っているわたしの力量がたりないということなんですが、その、わたしの力のたりないところは、みなさんの、わかろうとする意欲によって補っていただきたいのです。
 おそらく、そのような意欲、なにかを知りたい明らかにしたいという意欲だけが、人生の真実をみつけるのでしょう。さまざまに語られている言葉の本音はこれだと、いいあてることができるのでしょう。ですから、わかろうとする意欲、わかりたいというねがいだけが、言葉の障害を乗りこえさせていくといってもいいのでしょう。
 わたしも、精いっぱいの努力をしながら、歎異抄を読んでいきたいと思います。そうして、みなさんからも、いろいろなアドバイスをうけながら、たとえ二年かかりましても、三年かかりましても、歎異抄を最後まで読んでいきたいと思います。

忘れられぬ人と忘れられぬこと
 さて、今日は、はじめの序のこころにしたがって「忘れられぬこと」という題目を出してあります。みなさんは、おそらく案内状を読んで、この会に来てくださったのでしょうが、実は先日、松井君から、こういうことを聞きました。というのは、案内状を刷ったりくばったりする準備のために、みなさんが集まられたときのことだそうですが、テーマの「忘れられねこと」というのが「忘れられぬ人」となっていた方が、もっと魅力があったんではないかという意見が出たそうです。
 おそらく冗談なんでしょうが、それにしても、わたしは、それを聞くまで「忘れられぬ人」という題をまったく思いつきませんでした。が、なかなか面白い着想だと思います。「忘れられぬ人」という題を思いついた人の頭には、もし、それが男の人なら彼女、女の人なら彼氏、と、そういうような人のことがあったのでしょう。実は、それでもいいのです。わたしは、歎異抄の序のこころは「忘れられぬこと」だと思いますが、それはまた「忘れられぬ人」であってもいいんだと思います。
 わたしたちが、あの人は忘れられない人だというときには、あの人には忘れられないなにかがある、忘れられない魅力があるということでしょう。その人には、忘れようとしても忘れることのできない力がある、わたしをひきつけて離さない力があるということでしょう。忘れられぬ人には、その人となってあらわれている魅力がある、つまり、「忘れられぬこと」があるといっていいわけです。
 ところで、この忘れるということ、忘却(ぼうきゃく)ということは、いったいどういうものなんでしょうか。これについて、わたしは、もう十年ほども前になるかと思いますが、菊田一夫のラジオ・ドラマで「君の名は」というのがあったのを思い出します。
 これは、その頃、非常にうけたドラマで、このドラマがはじまる時間になると、銭湯(せんとう)の女湯はカラになるといわれるほどでした。そして、その頃に、男の子が生まれると春樹、女の子が生まれると真知子という名をつけるのが流行したほどだったのですが、もうこの頃では、春樹くんも真知子さんも、小学校へ通っている年頃でしょう。そのドラマのはじまる前に、「忘却とは忘れ去ることなり、忘れえずして忘却を誓う心の悲しさよ」だったと思いますが、こういう意味の言葉が毎回くりかえして放送されていました。ちょうど、このように、わたしたちが忘れられないといっているものには、忘れられないけれども、忘れようとするというようなこともあるでしょうしまた、忘れたいのに忘れることができないというようなこともあるようです。
 よく不幸に出会った人に、やがて時が解決してくれるから、しばらく目をつむってしんぼうしなさいといいます。また、いつまでもくよくよしていないで、早く忘れなさいといってなぐさめます。ここでは、忘れるということは、力の弱い人間に与えられた生きのびる手段なのかも知れません。忘却は、たくまざる保身延命の術であるといってもいいのかも知れません。
 しかし、よく考えてみますと、忘れたことは、なくなったことではない。どんなに小さなことでも、たとえ記憶の世界から消え去っていっても、ひとたび経験したことは、いま、ここにあるわたしとなって生きている。わたしたちは、くる日もくる日も、新しい出来事にぶつかっております。毎日、新しいことを経験して、すぎ去ったことのほとんど全部といってもいいはど忘れてしまって生きております。けれども、出会ったことは、やがて忘れてしまうにしても、会うたという事実までなくなるわけではありません。ここに、生きているということ、生きていくということの厳しさがあるのだといえましょう。
 このような人生のなかで、心から忘れることのできないものは、いったいなにでしょうか。つまり、忘れたいのに忘れられないというようなことでなしに、忘れるはずのないこと、心の底にやきついていて、もうわたしと一体になっているようなことは、いったいなになのか。また、そのような、忘れることのできない人に出会った人生は、いったい、どういうものなんか。そういうことを、わたしたちに教えるものが、いま、これから拝読しようとしている歎異抄なんだと思うわけであります。

親鸞ブームの謎
 ところで、この歎異抄を書いた人にとって、忘れられない人とは、いったいだれでしょうか。いうまでもなく、それは
 「故親鸞聖人、御物語(おんものがたり)(おもむき)、耳の底にとどまるところ、いささかこれをしるす。」
とあるように、忘れられぬ人とは、親鸞です。
 みなさんも、親鸞については、いろいろご承知でしょう。この親鸞という人は、実に不思議な人です。すでに早くから、親鸞ブームというような言葉も聞かれるのですが、第二次大戦のあとこの二十年ばかりの間に特に、親鸞の研究がさかんになりまして、それは、本願寺の宗門(しゅうもん)とか教団という枠をはるかにこえて、日本の国はもちろんのこと、広く世界の人たちからも注目されるようになってきております。そして、親鸞という名のついた本は、必ず売れる、必ず赤字にならないで売れるという状況が、いまも下火にならないで続いています。
 この親鸞を宗祖(しゅうそ)とする宗教を浄土真宗といいますが、今日では、真宗といえば仏教のなかの一宗派で、禅宗とか日蓮宗などと並んで考えられているわけです。そして、仏教といえば、みんな葬式や法事をやるものということになってしまっているわけです。現在の仏教教団をみますと、たしかに、それは否定できない事実だといわねばなりません。
 このような状況のなかで、多くの人は、いわゆる既成教団としての真宗とか、あるいは仏教というものには関心をもたぬが、親鸞には魅力を感じるといいます。ですから、今日、親鸞の思想と信仰を求めるのは、いわゆる本願寺の門徒(もんと)とよばれる人たち、つまり在俗の信者や、あるいは僧職にあるものばかりではありません。
 明治以降の思想家や評論家や芸術家、そして政治家など、親鸞に興味や関心をもつ人たちの名前を列挙いたしますと、いったいどれほどになりますか。そういう人たちのことについては、これから会が進むにつれて、おりおりふれていくことにしたいと思っております。
 ところで、それらの人たちのことを考えてみて、いえることが一つあります。それは、どんな生き方をしている人も、どんな思想的な立場に立つ人でも、「しんらん」という名の人物を認めないものはないということです。もっとも創価学会の人だけは例外のようですが――。
 たとえば、歎異抄を材料にして小説を書こうというような人、あるいは、宗教がもっている権威主義を否定する人、仏教の教団の封建的なものを批判したり、伽藍(がらん)仏教とか葬式仏教に反感をもっている人、こういうような人でも、親鸞という名の人間は否定しないのです。親鸞という名で語られる人間の生き方は否定しないのです。というより、むしろ、いろいろな関心や興味をもっている、もっと熱心に、親鸞の信仰とか思想というものを知りたがっているのです。これは、まったく不思議なことだと思います。
 この親鸞は、歴史家泣かせの謎のジャングルだといわれておりますが、それほど親鸞という人にはわからないことが多い。いわゆる伝記というものを明らかにしようとしても、あまりにも資料が少なすぎます。
 ですから、戦後、とくに親鸞に関する歴史研究は進んだのですが、比叡山での二十年はどういう生活であったのか、結婚したのはいつどこだったのか、また奥さんは、どういう身分の人だったか。流罪(るざい)になってから越後(いまの新潟県直江津)ではどんな生活をしていたのが、どうして越後から京都に帰らずに東国に出かけたのか、また二十年も住みなれた関東を離れて、たくさんの同朋を残して、どうして京都にもどったのか、その時、奥さんの恵信尼(えしんに)や子供さんたちはどうしたのか、こういうことは、ただ歴史的な問題だけでははっきりしないことですが、しかし、こういうような謎は、いまもやはり謎のままだといわねばなりません。あるのは、歴史家たちのさまざまな推論だけです。

私事を語らなかった親鸞
 このように、親鸞の伝記がわからないのは、親鸞が、偉人とか高僧といわれる人の仲間ではなかったということと、なによりも親鸞が、自分の私事(わたぐしごと)に関してはほとんどなにも語らなかった、書き残さなかったからです。
 それについても、いま、くわしいことをお話しする時間がありませんが、自分のことを、「愚禿釈(ぐとくしゃく)親鸞」(愚かではあるが、愚かさに徹底して仏道を求める親鸞)といい、また「僧にあらず俗にあらず」といっておりますように、親鸞自ら、自分を高僧だなどと思っていませんでした。そればかりか、鎌倉時代の、いわゆるインテリたちにも、高僧として認められてはいなかったのです。
 やがて、本願寺第八代の蓮如(れんにょ)の時代になりますと、あの一向一揆(いっこういっき)で有名なように、本願寺の勢力は非常に大きくなりますが、それにもかかわらず、その真宗教団を除いては、徳川時代になってからでさえも、親鸞は、仏教の高僧として認められていなかった。元禄十五年に師蛮(しばん)という人が編纂した『本朝高僧伝』という書物には、一六六二人の名があがっているのですが、その中に親鸞は入っていないのです。
 親鸞の著作は、今日、数多く伝わっておりますが、ところが、親鸞の個人的な私事についてはどこにもなんにも書いてありません。たとえば『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』という書物、これは親鸞の主著ですが、その終りのところ(後序)に、法難におうたことや、法然上人に遇うたときのことなどが書いてありますけれども、それは、単なる私事を語ったものではありません。
 もっとも、その著作を、一つ一つていねいにみていけば、歴史的なことはいろいろわかるのでありますが、しかし、私事を伝えようと意図して書いたものは、なに一つとしてありません。その意味では、親鸞は、克明に自分のことを記録した日蓮上人とは対照的だといえましょう。ですから、明治時代の終りから大正時代にかけて、田中義成とか八代国治というような学者が、親鸞などという人物はいなかったんだ、それは本願寺三代の覚如(かくにょ)がでっちあげた人物だ、とさえいうようになります。
 いまでは、そういうヤボなことをいう人は、おそらく一人もいないでしょうが、わたしが、親鸞は不思議な人だというのは、伝記としての親鸞、人間親鸞のことが、これほどまでにわかっていないのに、しかも、その親鸞が、今日まで七百年もの間、多くの人たちの生きる力となり、そしていまも力となりつつあるということなんです。そこには、たとえ伝記はわからなくても、史実以上に、もっとはっきりわかっていることがあるんだ、ということが語られていると思います。
 つまり、親鸞が個人の私事を語らなかったということは、実は、私事を語る必要のないものがあったわけです。自分は、どこに生まれて、どのように育ったのか、父母はどういう人であったのか、そして、兄弟は幾人あったかというような、人間親鸞の個人的なことがらは、語る必要がなかった。親鸞は、そういう世界に生きていたのです。
 そこで、いま歎異抄の著者は、「忘れられぬ人」親鸞について語るのですが、その個人を語る必要のない親鸞の精神によっていうならば、その「忘れられぬ人」は、おのずから「忘れられぬこと」のなかに摂まっていくわけであります。
 ところが、さきほど明治以降、多くの人たちが親鸞に関心を示すようになったといいましたがそれらの人びとは、親鸞のこの点を見逃している場合が多いのではないでしょうか。だから、歎異抄をとおして親鸞を語るかに思わせながら、実は、ご自分の私小説的な問題を公開している人が、相当に多い。とすれば、これは歎異抄を材料にしておるけれども、歎異抄の精神、親鸞の精神とは、似而非(にてひ)なるものといわねばならぬでしょう。
 といっても、人間親鸞について明らかにすることは、どうでもいいことであるとはいいません。伝記が明らかになることは、おおいに結構なことであり、ありがたいことなんです。けれども、伝記がわからなければ、親鸞という名で語られる生き方が明らかにならぬ、と、そういうことではないということをはっきりさせておきたいと思います。
 では、そのような親鸞という人間を、忘れられなくしているものはなにでしょうか。実は、そういうことを歎異抄の序が語っておるわけです。歎異抄そのものが、それを明らかにしているわけであります。したがって、人生において、ほんとうに「忘れられぬこと」とは、いったい、どういうものなのかを明らかにしていくことが、これから歎異抄を読んでいく、わたしたちの課題となるわけです。

歎異抄に聞くということ
 さて、歎異抄の本文に入ってお話を進める前に、この会の名前を「歎異抄に聞く会」とした理由について簡単にもうしておきたいと思います。実は、先日「ポスターを作ったり、案内状を出したりする都合もあるので、会の名前をつけたいのだが」とご相談を受けました。会というものは、要するにまとまればいいのだから、名前など適当につけておけばいいという考え方もあろうかと思います。だから、「歎異抄の会」でも、「歎異抄を聞く会」でも、あるいは「歎異抄を読む会」でも、なんでもいいわけです。しかし、わたしは、せっかく名前をつけるんだから、「歎異抄を聞く会」でなく、「歎異抄に聞く会」にしてくださいといいました。
 歎異抄に聞くのは、いうまでもなく「わたしが」聞くのですが、では、わたしが、歎異抄に「なにを」聞くのであるかという問題が残っております。つまり「歎異抄に聞く会」という名前は、わたしに向って問題を投げかけている名前なんです。
 ところが、歎異抄を聞くといえばどうなるか。たとえば、わたしたちは、数学を勉強するとか英語を勉強するという場合、学ぶ自分がまずあって、そして数学や英語を自分のものとして身につける。ちょうど、そのように歎異抄という書物を前において、そして、そこにはなにが書いてあるのかと、いろいろ研究して、それを自分のものにする。歎異抄を学び、歎異抄から知識を得ていく、ということになります。
 たしかに、そういうことも大切です。歎異抄に、なにか書いてあるかを知ることは、非常に大事である。けれども、それは、もう一つの大切なことを明らかにするための手がかりなんだということを忘れてはならぬと思います。では、そのもう一つの大切なこととはなにかといいますと、それが歎異抄に「なにを」聞くのかという問題です。
 すなわち、わたしたちは、歎異抄に「わたし自身の道を」聞いていくのである。真実に生きるとは、どういうことであるか。わたしが、ほんとうのわたしになるには、どうすればいいのか、と、そういう道を聞いていく。だから、この「歎異抄に聞く」という会の名前が、これから、この会を進めていく基本的な姿勢を語っているわけです。

自身をさがし求める現代
 歎異抄には、どういうことが書いてあるのかということも、これからいろいろ勉強していきたいのですが、それに先立って、まず、わたしたち一人ひとりが、自身の道を問うていくのであるという態度を決定しなければなりません。これが歎異抄にかぎらず、広くブッダ(仏陀)の教えというものを聞いてきた、伝統の基本的な態度です。特に、現代において欠けておることは、そういう「わたし自身を知る」という問題でしょう。
 余談になりますが、数年前から「女性自身」という名の週刊誌が出ているのを売店でみかけます。買って読んだことがないので、中には、どういうことが書いてあるのか知りませんが、案外中味は、「女性にとって必要な男性をみる目」というようなことかも知れません。あるいは「女性自身」となってはいるけれど、自身の問題ではなくて、女性についての問題なんではないでしょうか。また、ある雑誌には「男性自身」という題目の連載ものがでております。そればかりか最近では「二人自身」という名の雑誌すらあらわれました。しかし、二人自身は、ちょっとおかしいと思いませんか。自身に二人があるはずはない。これは、おそらくベター・ハーフというようなことをいおうとするのかと思いますが、家庭は、たとえ男性と女性とが相い寄ってつくるものにしろ、男性は男性自身、女性は女性自身、ハーフではなくて、それぞれがベター・ワン、完全なる一者でなければならぬのでしょう。
 しかし、いずれにせよ、このように「自身」という言葉が多く使われるということに、わたしは注意をむけたいのです。はっきりした自身がみつかっているわけではないのかも知れませんがすくなくとも、時代が「自身」をさがし求めているのでしょう。自己疎外などということが問題にされるようになってから、すでに久しいのですが、人間が、ほんとうの人間自身をとりもどしそこに帰って落ち着きたい。これが、時代の願いなんではないでしょうか。
 案内状にも、ちょっと書いておいたのですが、「いまや、われわれ人間は、世界中のすべてのことを知ることができるようになった」たしかに人間の知性は、天に向ってのびつづけ、自然を征服し、世界中のすべてのことを知ることができるようになったといっても、いいすぎではないほどに思われます。けれども、「ただし、わたし自身のことを除いては」という、ただし書きがつきます。
 ソ連の打ち上げた人工衛星が、月の裏側をカメラに写してくる。そして、われわれは、そのカメラに写された月の裏側を、台所に座っていながら、テレビをとおしてみることができる。このように、驚異的な科学、技術の進歩は、わたしたち人間の世界を、どんどん広くしていきます。つまりそれだけ宇宙は狭くなっていく。ところが、その台所に座って、テレビをみているわたし自身とはなになのか。
 このように、ひとたび「わたし自身」を問うならば、すべてが(なぞ)のなかに包まれていきます。わたしは、どこから来てどこへ行くのか。わたしは、どこに向って進めばいいのか。こういう問題は、この現代のなかでも依然として謎のままなんでしょう。しかし、この謎が解かれないかぎり、科学時代は、いつまでたっても迷信時代を超えることができないわけであります。
 おそらく、ここにお集まりのみなさんのなかには、車のなかに厄除けのお札をさげたり、あるいは、結婚するのは大安(だいあん)の日でなければ、というような人はおられないことでしょう。けれども「わたしは、なんのために生きているのか」というような謎がそのままになっていると、やがていつか、きっと謎の淵に漂うているような自分に気づいて、おそろしくなるにちがいない。謎に包まれた生活には、不安がつきまとっています。そういう不安が、ともすると、わたしたちを迷信邪教にかりたてていくことになるわけです。
 こうして、時代とともにわたしたちの身辺のことは明らかとなり、生活は便利になってきました。生きるための手段というか、生活の諸問題は、一歩ずつ解決されてきました。主婦の重労働であった洗濯は、いまでは洗濯機が解決してくれています。農業もだんだん機械化され、合理化されて、たいへん仕事はしよくなっています。
 では、わたしが生きるということは、それによって解決されたといえるかどうか。人生は、ほんとうに楽しいといいきれるがどうかと問うてみますと、多くの人は「ノー」と答えるでしょう。そのような人生の問題、自身の問題は、時代をこえてあるところの、人間の最も深い問題というか、大切な問題なんですが、しかし、それは、ことに「現代の」問題であるといえましょう。
 「眼は眼をみることができず、山にあるものは山の全貌を知ることができぬ」と、西田幾多郎という哲学者がいっています。ものをみるためにあるのが、眼でしょう。ものをみるはたらきが眼である。けれども、その眼は、眼自身をみることができない。わたしの眼は、いまだかって、わたしの眼をみたことがない。これは、眼の運命とでもいうべきものでしょう。ちょうど、そのように、わたしたち人間は、いろいろな物を知り、いろいろな問題を処理していくにもかかわらず、わたし自身を知り、わたし自身を処理することができないのです。つまり、人間というものは、ただ自分ひとりの力をもってしては、自分のほんとうのすがたを知ることができない。だから、わたしたちは、そういう問題をはっきりさせたいと思っている、と、そういう願いによってはじまったのが、この「歎異抄に聞く会」なんだというべきでありましょう。
 さきに、親鸞は、自分の私事については徹底して語らなかったといいましたが、しかし、親鸞は、自分自身の道については、大いに語りました。ブッダの教えによって明らかにされた親鸞自身の道については、九十才でなくなるまで語りつづけたのです。
 今日残っている親鸞の著作の多くは、八十才を過ぎてからのものといいます。主著の『教行信証』にしても、なくなるまで推稿に推稿をかさねたものにちがいありません。「八十才を過ぎた老人が、あれだけの仕事をよくしたものだ。親鸞は、よほど体力にめぐまれた人であったにちがいないしなどといわれております。
 たしかに、九十才といえば長命であり、親鸞の像(鏡の御影など)をみても、がっちりした体格の人であったことがわかりますが、しかし、親鸞の晩年の、あのエネルギーは、体力があったからということだけではすまされないものがあるのでしょう。やはり、宗教的な精神というか、本能の大地から湧き出てくるようなエネルギーが、晩年の親鸞をして筆をとらしめたのだと思います。
 『和讃(わさん)』、つまり、やまとことばで綴られた讃歌や、聖典を註釈したもの、解釈したもののほかに、関東にいる同朋たちにあてた手紙も残っておりますが、それらをみても、みな自身の道を明らかにする言葉を書きつづったものです。

かくれたベストセラー
 その晩年の親鸞をよく知っている同行(どうぎょう)同朋(どうぼう)の一人が、親しく聞いた教えにてらして、親鸞なきあとの自分を深くかえりみながら、親鸞に()かれてあとの教団を批判し、そうして信仰の純・不純の問題についてくわしく正確に記録したのが、実は、この歎異抄なんです。これについては「親鸞をけがす歎異抄」と評する人もありますが、そういう問題は、本文を読みながら考えるとして、いま、ここではふれないことにします。
 わたしたちは、親鸞自らが書いたものから、その思想信仰をくわしく知ることができますが、その親鸞から直接教えを受けた人が、親鸞の言葉を、どのように聞き、どのように了解していたかということを語る書物は、この歎異抄だけです。もっとも親鸞の孫に如信という人があって、その如信が親鸞に聞いたことを、さらにあとになってから覚如という人が聞き伝えた。それをもとにして書いた『口伝鈔(くでんしょう)』という書物もありますが、これは口伝とはいいますが、直接ではなくて間接に伝え聞いているわけで、その意味でも、歎異抄は、きわめて貴重な聖典だといわねばなりません。
 今日、親鸞ブームとともに歎異抄ブームだともいわれているわけですが、最近の出版界をみておりますと、歎異抄に関する入門書、解説書が、毎月平均一冊、あるいはもっと沢山出ているかも知れません。そして、日本中とまでいわなくとも、たとえば、京都にかぎってみても、毎日、歎異抄の会が、どこかで開かれていない日はないといっても、いいすぎではないほどです。
 ところが、これほどまでに関心を集めている歎異抄は、活字にしまして約一万字ばかりの小冊子です。わたしたちが、毎日みている新聞の一頁の中にどれだけの字が入っているか、正確にかぞえたことはありませんが、おそらく一万字くらいのものでしょう。あるいは、それ以上かも知れません。わたしたちは、毎朝、新聞を受けとって読み、そして夕刊がくるまでには、それを読みすてていく。毎日毎日、厖大(ぼうだい)な数の文字が印刷された新聞を、紙屑にしていきます。
 そうした中で、たった一万字ほどで語られていることが、歎異抄というかたちに整理して書きとめられてからだけにかぎってみても、七百年の年月がたっている。以来、ずっと生きつづけて現代のわれわれのところまで伝わっている。それを、単なる偶然だといえるでしょうか。
 やはり、ここには、読みすてるわけにいかないものがあって、それが人びとの心をとらえて離さなかった。つまり、人間生活を正しく明るくおし進めていこうとするとき、ニュースペーパーのように、読みすてるわけにいかないなにかが、この中にある。その、人びとの心をとらえたものが、生きつづけて七百年の歴史をつくったのでしょう。そして、いまや歎異抄は、静かなベストセラー、永遠のベストセラーだといわれるにいたったのです。
 というのは、たとえば、金子大栄先生の校訂された岩波文庫本が、最近では三十五版をかさねております。もう、昨年になりましたが、先生宅に伺っているときに、ちょうど岩波書店から検印紙がとどいたところだとおっしゃっており・ました。それが、たしか三十四版のことだったかと思います。また、角川文庫では、先年まで富山大学の学長をしておられた、梅原真隆氏の校訂本があります。それも、昨日、ぼくの手元にあったのを調べてみましたところ、十五版目でした。
 さらに、入門書や註釈書、解説書などを加えていけば、実におびただしい数の歎異抄が刊行されていることになりましょう。その総計を知ることは、不可能ですが、幾万部、幾十万部になることか。ここに、年々のベストセラーとして、特に新聞や雑誌には紹介されていないけれども、かくれたベストセラーだといわれるゆえんがあります。このように、歎異抄は、時代の人びとの要望にこたえて、静かに、しかも根深く天地にしみこみ、そして地下水のように流れて、流れのつきることがありません。
 ところが、これほどまでに広く一般の人びとに読まれるようになってきたのは、特に明治時代以後のことです。宗教界ばかりでなく、思想界でも、また文芸作品などにも歎異抄が出てきます。そして、各地の青年会や婦人会などで集まりの中心になるテキストとして歎異抄を用いることがずいぶん多い。ですから、一口に歎異抄を読むといっても、その態度とか方法はいろいろさまざまです。
 それについて、ひとつ面白い例をあげてみますと、先年、朝日新聞の「一冊の本」という欄に木々高太郎氏が、「わたしの推せんする一冊の本は歎異抄だ」と述べ、その理由として、「歎異抄は、推理小説のタネ本である」といっておりました。歎異抄といえば、倉田百三の「出家とその弟子」を思い出す人も多いかと思いますが、倉田氏ばかりでなく、歎異抄が一部の作家たちに与えた影響には、すくながらぬものがあります。
 そのような問題については、やはり本論を読むなかでふれていきたいと思いますが、要するに歎異抄を読むといっても、その態度や方法は、人によってさまざまだということを注意しておきたいと思います。

清沢満之と近角常観
 そして、わたしたちが、これからこの会を進めるにあたって、どうしても忘れることのできないのが、明治時代の先覚者、清沢(きよざわ)満之(まんし)先生のことです。清沢先生については、また、これからも、いろいろなかたちで話が出ることでしょうが、三十七才の若さで大谷大学、当時は真宗大学といいましたが、その初代の学長(学監)になるとともに、はじめは東京の本郷、東片町にあった浩々洞(こうこうどう)を中心に精神主義運動を展開して、近代日本の思想界・仏教界に大きな足跡を残された方です。
 この清沢先生は、歎異抄と、阿含経(あごんぎょう)と、それからエピクテタスが自分の三部経だといって愛読されておりました。なかでも、特に歎異抄は、早く学生時代から愛読されていて、その後の学問する態度、生きる態度に大きな影響を与えた。つまり、これは先生の信仰と思想のバックボーンになっているものです。そういう意味で、近代の日本人として、ほんとうに自覚的に深く歎異抄を読まれたのは、清沢先生をもって最初の人とするというべきであろうと思います。
 それから、この清沢先生と時を同じくして活躍された近角常観(ちかずみじょうかん)氏のことにもふれておきたいと思います。近角氏は、ちょうど清沢先生が、大谷大学を卒業した人びとを中心とする浩々洞を作って、そこで活躍されたのにたいして、東京大学や、当時の一高の学生たちと寝食をともにして、仏教を語りあうために、東京の本郷・森川町に求道学舎を作り、また全国各地の信者たちと連絡して、熱烈な信仰運動を展開された方です。近角氏の信仰のよりどころは、やはり、歎異抄でありましたが、近角氏に歎異抄を読む眼を開かせたのは清沢先生であったと、これは近角氏自らがいっておられます。
 すこし話が脱線しますが、この機会にもうしておきたいのは、実は、清沢先生と近角氏の対照がまことに面白いということです。清沢先生は、もともと名古屋の下級武士の家の出身で、貧乏であったため、東本願寺の奨学資金によって勉強された。それが縁になって、やがて得度(とくど)して、本願寺の僧籍をもたれる。東京大学では、日本人としてはじめて宗教哲学を学ばれた秀才で、しかも、ただ学問ができるというだけでなしに、時代の問題とか社会の情勢もよくわかる人であった。先生の親友だった沢柳政太郎という人が「清沢君は、政治家になっておれば天下の権をにぎっていただろう。財界に出ていたら世界の富を集めていただろう。学者として身をたてておれば古今東西の思想をむなしいものにしたであろう」という意味のことを、最大級の言葉でほめておりますが、そのような立身出世の可能性を一切なげうって、一介の学僧になり、一生、はげしい求道の生活を続けられました。
 これは曾我量深(そがりょうじん)先生からお聞きしたことですが、明治時代の学士さんというと、ひげをおいてステッキをついて、ハイカラな服を着て歩いたものだそうですが、清沢先生は、ずいぶん粗未な服装をしておられた。白衣を着て、麻の黒衣を着て、そして、帽子もかぶらずに、厚歯の下駄をはいて、ころころ音をさせて歩いておられたそうです。
 それがあるとき仏教講演会があって講師に招待された。時間より早く会場へ行って、「清沢です」というたところが、受けつけに出た若い人から、あまり風釆(ふうさい)があがらんので、これは清沢先生のおともの人だろうと間違われて、次の間かどこか控室に通されて長い間待たされるというようなことがあった。けれども、みる人がみると、清沢先生は、ただ人ではなかった。質素な着物を着ておられたけれども、その精神のかがやきというものが、体中から光を出しているように感じられた、と、こういう話を聞いております。
 この先生の影響が、いまの大谷大学の伝統として残っております。具体的には、さきほどもうしました曾我量深先生、先生は、現在九十才で現職の学長です。それから、金子大栄先生も、浩々洞の出身で、長い間、機関誌の『精神界』の編集をやっておられました。そして、なくなった佐々木月樵氏や暁烏敏氏、多田鼎氏、また、東京大学の宮本正尊氏など、いま頭に浮んでくる人だけでも、数えあげることのできないほどの人物が、みなそこから生まれたわけで、これに、いまの人たちの教えを受けた人を加えると、もう、まったく数えあげることなどできません。
 これにたいして、近角氏は、真宗大谷派の末寺に生まれながら、その後、働かれた舞台は求道会館を中心に、いわゆる真宗教団の周辺であった。ですから、近角氏の教えを受けた人びとも東京大学や第一高等学校の学生だった人が多いのですが、たとえば『歎異抄講話』で、みなさんご承知の小野清一郎氏、あるいは白井成允氏、それから哲学者の谷川徹三氏、同じく哲学者で思想問題でとらえられて獄死した三木清氏――、この三木氏も晩年は、特に親鸞の信仰に心を傾けたということがわかっておりますが、すでにその芽生えは学生時代の頃にあったわけです。それから、近角氏と深い親交のあった池山栄吉氏――この人は、ドイツ語訳歎異抄を出した人です。
 このように考えてきますと、今日、わたしたちが歎異抄を読もうとして、入門書を読んだりあるいはだれかの教えをうけるとき、その流れのもとは、みな清沢先生と近角氏のところへかえっていく。このほかにも、反戦小説の『火の柱』を書き、そして「親鸞は本願寺の先祖ではない」といってのけた木下尚江、あるいは、西本願寺の学僧の島地大等氏など、沢山の先輩を考えることはできますが、結局、近代における歎異抄の発見という大事業のみなもとは、清沢先生であるといってもいいすぎではないと思います。
 ですから、歎異抄は、どのように読もうとも自由であり随意でありますが、さまざまな読み方に筋をとおすものとして、明治の清沢先生のところへ流れこみ、また、そこから流出するところの伝統があるということ、それを離れては、おそらくわたしたちは、歎異抄の正しい精神を知ることができないだろうということを、忘れてはならないと思うのであります。

歎異抄を書く動機
 さて、今日は、歎異抄を書く動機を記した序のところを、読むことにしましょう。
 「ひそかに愚案をめぐらして、ほぼ古今を(かんが)うるに、先師口伝の真信に異なることを歎き、後学相続の疑惑あらんことを思うに、幸いに有縁(うえん)の知識によらずば、いかでか易行の一門に入ることを得んや。まったく自見(じけん)の覚悟をもって他力の宗旨を乱ることなかれ。よって、故親鸞聖人御物語の趣、耳の底に留まるところ、いささかこれを(しる)す。ひとえに同心の行者の不審を散ぜんがためなりと云々。」
 ここには、特に、意味の難しい言葉はありませんが、「乱る」というのは、「みだす」紊乱(びんらん)するということではなくて、「思いあやまる」「とりちがえる」という意味だということだけ注意しておきます。
 この文章の中心は、一読してわかりますように、
 「わたしたち遺友のなかに、聖人から直接教えていただいた真実の信心とちがうものがあるのは、まことに、なげかわしい」
ということ、これがまさしく歎異抄を書く動機でありますが、その歎異の精神に動かされて、自分は、「故親鸞聖人御物語の趣き、耳の底に留るところ、いささかこれをしるす」というわけでペンをとったとあります。
  「こういうことでは、これから道を学び教えをうけついていく人びとに、きっと疑いや惑いがおこるであろうと思われる。
  さいわいにも、まことの師友にめぐりあうということがなければ、どうして念仏の教えを正しく信ずることができようか。まったく自分かってに理解して、浄土真宗の根本精神をとりちがえてはならない。
  そこで、なくなられた親鸞聖人が、かつていろいろお話しくださったことの中心問題で、いつも耳の底にとどまっていて忘れられない言葉のいくつかを、ここに記録しょう。これは、ただ、同じ心で道を求める人びとの、疑いをなくしたいとねがうからである。」
と、このように筆者は、歎異抄を製作する動機を語っております。

歎異抄の筆者を決定した了祥
 では、この歎異抄の筆者は、いったいだれなのか、ということについては、署名がないために決定的なことがいえません。というより、長い間、筆者が決定できなかったという方が正しいのでしょう。徳川時代までは、親鸞の孫にあたる如信上人が著者だというのが通説でありました。そして、一部には、親鸞の曾孫(ひまご)の覚如上人だという人もありました。ところが、すでに徳川時代に、三河(愛知県)の了祥(りょうしょう)という学僧が、「筆者は、本文の第九章と第十三章の問答のところに名のみえる唯円、つまり常陸国(茨城県)河和田(かわだ)唯円(ゆいえん)大徳に間違いない。あの問答は、親鸞から直接教えを受けて、そしてこの歎異抄の筆をとっている人でなければ再録できるものではない」と主張し、それが今日では通説になっているわけです。
 この著者の問題についても、いろいろともうしたいことがありますが、はんさになるからそれはさけましょう。ただ、著者を唯円だと決定した了祥師の功績というものは、すえながくたたえられるべきものと思います。というのは、だいたい了祥師という人は、一生の間、この歎異抄の研究に身命をなげうった人です。そういう、先人たちの苦労があるからこそ、いま、ここで歎異抄の精神にふれようとするわれわれに、すでに道が開かれているのだといえるわけです。
 ここで思われることは、今日のいわゆるインテリで、親鸞教徒であるとか、親鸞主義者であると自称する人びとのほとんどが、自分は既成教団には関心がないけれども、親鸞という人間は立派だったといっております。すべて随意でありますから、そういう態度も結構ですし、また、そういう人びとに、そういわしめるものが本願寺をはじめ既成教団にはたしかにあるのであります。
 けれども、わたしは、既成教団の非をせめるために、教えの伝承までも否定してしまうならばそこで親鸞をいくら論じても、実はそれは親鸞とは無縁のものなんだといいたいのです。親鸞独自の、思想と信仰が一体になった教えは、その教えの伝承を離れてはありません。そういう伝統のなかに、たとえば、いまご紹介した了祥という学僧の、真摯な求道のあとがおさまっているのです。だから、われわれは、そういう教えの伝統をつくった人びとにたいしては、すなおに謙虚に、敬意をあらわさねばならぬでしょう。そうしないと、せっかく歎異抄を読んでも、歎異抄の精神が、正しくわたしたちに語りかけてこないことになると思われます。

無名の歴史が生んだ聖典
 このように、歎異抄には著者の名前がないために、いろいろの問題があったわけですが、署名がないという事実をおさえて、そのことを考えてみると、どういうことになるのでしょうか。
 それについて、わたしは、署名がないのは署名しなかったからにちがいないが、そこには、署名する必要のないものがあったのであろうと考えたいのです。作者が唯円であるにしても、唯円には、「これは、わたしが書いたんだ」と、個人の功績にする必要のないものがあった。ちょうど、親鸞が個人親鸞を語る必要を認めなかったように、唯円もやはり、個人唯円の名を記録する必要のない世界に生きていた。
 たしかに、歎異抄ができあがった頃の状況を想像してみると、この後序に、
 「一室の行者のなかに、信心(ことなる)ことなからんために、なくなく筆をそめてこれをしるす。名づけて歎異抄というべし。外見あるべからず」
とある。「一室の行者」というのですから、ごく親しい身近な友である。歎異抄は、わざわざ署名をして後世に残すような意図で作られたのでもないし、また、署名がなくても、それが唯円の書いたものであるということは、一室の行者たちの間ではすぐわかることであった、と、このように考えることもできます。
 しかし、署名がないということには、いま、もうしますように、書いたものは唯円だが、書かしめるものは唯円ではない、その書かしめたものに帰れば、個人の名などはどうでもいいのだということが、語られているように思います。
 古典には、歎異抄ばかりでなく、作者の知れないものが他にも多くあるのですから、そんなところで頑張って力を入れなくてもいいではないかという人があるかも知れません。たしかに、そういう意味もあるでしょう。が、わたしは、歎異抄の書かれた状況と、これが伝承されてきた歴史、そして署名がないという事実から、わたしたちに、個人の名を大地に没して、しかも大地とともに生きつづける道が、歎異抄の中にあると知らされるわけです。
 つまり、歎異抄には、親鸞の言葉が記録されてあるのであり、そして教えを聞いて記録しているのは唯円でしょう。しかし、その親鸞と唯円との背景には、人生の真実を求めて、そして求め得た無名の大衆の歴史がある。だから、歎異抄は、生きることの自信を求めて、そして求め得た名もなき群萠(ぐんもう)が、身をもって書き綴った言葉である。親鸞には、「愛欲に沈み、名利(みょうり)に迷う」という、深く徹底した自己反省――、それを懺悔(さんげ)とよびますが、そういうものがあった。ところが、そのように自己をみつめている親鸞こそ、だれもが自己の名を世に知られようとあくせくしているなかで、ひとり静かに個人の功績すべてを無名の世界に帰して、安んじて生きた人であった。
 そういう、名もなき人びとによって伝承されている真実の世界を、いま、歎異抄に、親鸞と唯円との呼応というかたちで語っているのだといえましょう。実は、そういう歎異抄の精神というものが、今日かえって親鸞の名を忘れられなくしている理由だと思います。
 親鸞の名によってあらわされる世界、つまり人間親鸞の生きた世界というよりも、むしろ、親鸞の名によって語られる人間の正しい生き方、親鸞の名においてあらわされる真実の世界――、そういう親鸞の態度とか、親鸞の生き方というものは、右の立場であろうと左の立場であろうとだれも否定しない。ですから、そういう事実が語っているものについて、わたしたちは、注意深く耳を傾けて、聞き誤ってはいけないと思います。
 親鸞を語ることを職業としているものも、そういう生き方をしていては駄目ではないかと宗教家を批判する人も、親鸞という名によってあらわされるものは否定しないという事実がある。それは、親鸞の背後に、おれが、わたしがと、ことあげする必要のないような、安らかでしかも悠然たる歴史が語られているからである、と、このように思います。

有縁の知識
 さて、さきの意訳では、「有縁(うえん)の知識」という言葉を「まことの師友」と訳しました。知識といえば、たとえば、数学についての知識があるとか、政治についての知識があるというふうにいいます。そのような、ものしりという意味であろうと考えられるかも知れませんが、ここでいう知識というのは、そうではありません。知識というのは、もともと友という意味の言葉から、よき友、よき人、そして立派な先生と解されるようになってきております。
 ところで、一般に友といえば、善友だけでなく悪友もある。ひとつ頑張って仕事をしようと思っているところへ、「マージャンをしないか」といってやってくる人がある。「今日は、だめだ」というと「お前、つきあいが悪いぞ」とおどかして、なんとか誘惑しようとする。こういうのは悪友です。まあ、このように、日頃は、ごく平凡な意味で善い友だち、悪い友だちといっておりますが、その善いとか悪いとかいう意味を徹底していくと、わたしたちを善道に向ってはげましてくれるのが善友、悪道に誘うのが悪友ということになる。言葉をかえていえば、人としてのほんとうの生甲斐を与えてくれる人が善友であり、善き人であり、そして、それは友でありつつ先生という意味をもってくることになる。これにたいして、間違った生き方に誘惑して、いのちをすりへらすことを教えるような友は、悪友だといわねばならない。
 このように善友は、わたしに、生甲斐を教えてくれるものでありますが、具体的にいって、わたしたちは、いったい、どういうときに生きているということを実感するものなんでしょうか。実は、今日、ここに来ますまで、わたしのところで同朋会を催しておりました。大谷大学の松原祐善先生を招待して、午前午後とお話を聞いていたのですが、そのなかに、こんな話があったのを思い出します。
 先生は、福井の大震災のとき、建物の下敷きになったそうです。随分長い間、意識不明になっておったのでしょうが、余震が何度もくるので、それでハッと気がついた。気づいてみると、足が、柱か桁かで押しつけられていて、どうにもならない。手の方は、なんとか自由になったが、足の方はどうしても動かない。動かすと痛い。その時に「痛い」ということで「ああ、ぼくは生きている」と感じた。それから、大声をあげて、「生きてるぞ、生きてるぞ」と夢中になって人をよんで、助けてもらったというのです。つまり、先生は、そのとき、痛いということが、生きておることを実感させたんだといっておられました。
 この、生きておることというか、自分の生を実感するのは、いろいろの場合が考えられましょう。そういう状況を、少しロマンチックに想定してみますと、恋人同志が肩をよせあって、夜空にかがやく星をながめているとします。そのとき、二人は、ふれあった肩から伝わるあたたかさによって、生きておるということを実感するでしょう。あるいは、友だち同志が、人生の問題や社会の問題などについて、いろいろ議論しあう。そこでお互いがコミュニケートしながらお互いを確めあう、そういうときに生を実感するのかも知れません。
 ところが、そのように、自分に生きておるということを知らせるものがなんであっても、それは、生きる意味をわたしに明らかに教えてくれるものでなければならない。たとえば、恋人が単なる恋人で終るなら、それは生の確認とはいってみても、結局は、はかなく消えていく愛欲のいとなみにしかすぎない。
 あるいは、友達と議論をするにしても、それは知的興味から出た遊戯というほどの意味しかもたぬことになる。ですから、生を確認させてくれるということは、さらに一歩進めていえば、生甲斐を正しく明らかに教えてくれるものでなければならぬ、ということになるわけです。そのように、相手が、わたしにいつまでも変らぬほんとうの生甲斐を知らせてくれるとき、その相手はたとえなんであっても、それがそのままわたしにとっての善き友であり、善き指導者であるという意味をもつことになります。
 このような善友、善知識というものを、いま、歎異抄の著者の唯円は、親鸞の上にみているわけです。つまり、「先師口伝(くでん)」の先師と、「有縁の知識」の知識とは、「故親鸞聖人御物語の趣」とある言葉にてらしてみると、いずれも親鸞のことをさしているわけです。しかも、親鸞は、唯円にたいして、唯円自身の生甲斐というものを明らかにしているわけです。
 つまり、唯円からみれば、自分の本懐、生甲斐と、先師親鸞の本懐(ほんかい)、生甲斐とが一つであるようなものを、唯円自身の中に見出すことができた。つまり、自身の本懐にめざましめるからこそその人を善知識というのであります。

真信ということ
 さて、唯円に生甲斐を与えているものを、歎異抄の序に言葉を求めれば、それが「先師口伝の真信」であります。この「真信(しんしん)(ことなる)ることを歎く」というところに、歎異抄製作の動機があるわけですが、この裏信が、実は親鸞という人を忘れられなくさせているものなんです。
 では、信とはなにか、これについてはいろいろ考えることができましょう。信心とか信仰というものは、いったいどういうものであるのか、それを明らかにしようとして、この歎異抄は綴られているわけです。それをごく簡単にもうせば、いま、ここにこうしてあるわたし、つまり、わたしをしてかくあらしめておるところの根源にめざめること、自身にめざめること、それを信という。だから、これを自覚といってもよいのです。
 自覚、すなわち自分を正しく知る、自己にめざめる、これが信です。その信の世界でのみ、すべてのものは絶対に平等だということができる。表面のすがたはどんなにちがっていても、ちがったなかには、秘められた一つの世界がある。それにめざめる心が、信であります。
 ですから、たとえば、京都に住んでいて学校に勤めているわたしと、粥見におってそれぞれの仕事をしておられるみなさんとは、いろいろの面でちがう。境遇がちがう。生活様式もちがう。だから、ここで、もし、わたしが、「私」を語るならば、聞くみなさんの「私」ときっと対立する。わたしは、男であって女ではない。すでに青年期をすぎて、もはやオールド・ボーイだといわねばならない。そういうことで語りあうならば、きっと、いろいろの意見の相違が出てくるにちがいない。だから、親鸞にしても唯円にしても、そういう個人の立場、わたしの立場から発言をしていません。
 だれにもかけがえのない自身がある。その自身に帰る道に立って、ものをいうのです。しかもその自身の根源は、わたしの存在の故郷である、とともに、すべてのものの故郷でもあります。それが、「忘れられぬ人」親鸞の奥底にある「忘れられぬこと」なんです。だから、唯円は、そのような忘れようとして忘れることのできない自身の声を聞く心をもって、歎異抄を書いていきます。そして、それが、この聖典製作の動機をのべた、序の大要であるといっていいのでしょう。
 では次回からは、本文の第一章にそって、歎異抄の精神を聞いていくことにして、今回は、一応、これで話を終りまして、このあとお約束どおり、みなさんの声を聞かせていただくということにしたいと思います。 (昭和三九・四・二六)


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