1 序・第一章
 歎異抄の世界 (伊東慧明著)

   
  目  次  
 1 序・第一章  
 まえがき
  一 序  ◀ 
   原文・意訳・注 
   案内・講師のことば
   講  話 
   座談会 
  二 第一章の一  
  三 第一章の二   
  四 第一章の三  
  補 説  
  あとがき  
 2 第二章  
 3 第三・四・五章  
 4 第六・七章  
 5 第八・九・十章  
  謝  辞  
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一 序 「忘れられぬこと」


      案内のことば

 葬式ぎらい、寺ぎらい――、そんなわたしたちが、歎異抄を読みはじめてから三年になりました。気がついてみると、この歳月の間にわたしたちは、この古典の不思議な魅力にひかれて、離れられなくなっていたのです。いわば、ほれてしまったわけです。それなら、ほれた弱身だ、もう一度はじめから読みなおしてみようと衆議一決しました。
 幸いなことに、伊東慧明先生を講師に迎えて、月一回を基準に、約二年間、連続してお話しを願うことが可能となりました。
 古くさいことのきらいな人、仏さんのきらいな人、もちろん、はじめから好きな人はおおいに結構ですが、是非、この機会に集まって共に語りあおうではありませんか。
                                                飯南仏教青年会
  昭和三十九年四月二十三日


      講師のことば

 あるアメリカの識者は、こういっております。「いまや、われわれ人間は、世界中のあらゆることを知ることができる。ただし、自分自身のことを除いては」と。たしかに、わたしたちは、茶の間に居ながらテレビをとおして、月の世界まで見ることができます。しかし、残念なことに、わたしたちはテレビを観ているわたしのことがわかっているとはいえません。わたしは、どこから来て、どこへ行くのか。わたしの運命はどうなるのか。わたしの死は、いつやってくるのか。これらは、みな謎です。
 人類の先達(せんだつ)は、このような謎を解こうとして苦難とたたかいました。真摯に求めて、そして、求め得た人生の記録――それを聖典とよびます。いま、わたしたちが(ひもと)こうとしている歎異抄には、親鸞とその弟子唯円(ゆいえん)の応答が綴られていますが、ここには、七百年のときを距てながら、しかも、つねに忘れることのできない大切ななにかが語られているにちがいありません。
 そこで、今回は、わたしたちの人生にとって、ほんとうに「忘れられぬことしは、いったいなにかということを念頭におきながら、歎異抄の(はじめ)を拝読したいと思います。


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