序の原文
竊廻愚案(一)、粗勘古今(二)、歎異(三)先師口伝之眞信(四)、思有(五)後學相続之疑惑(六)、幸不依有縁知識(七)者、争得入易行一門(八)哉。全以自見覚悟(九)、莫乱(十)他力之宗旨(十一)。仍故親鸞聖人御物語趣、所留耳底(十二)聊注之。偏為散同心行者(十三)之不審(十四)也云々(十五)。
書き下し文
ひそかに愚案を廻らしてほぼ古今を勘ふるに、先師の口伝の真信に異なることを歎き、後学相続の疑惑有らんことを思ふに、幸ひに有縁の知識によらずば、いかでか易行の一門に入ることを得んや。まったく自見の覚悟をもって他力の宗旨を乱ることなかれ。よって故親鸞聖人の御物語の趣、耳の底に留まるところいささかこれをしるす。ひとへに同心行者の不審を散ぜんがためなりと云々。
現代意訳
ひそかに思いをめぐらして、親鸞聖人が生きておられた昔と、なくなられてのちの今の状況を、かんがえくらべてみると、わたしたち遺友のなかに、聖人から直接教えていただいたほんとうの信心とちがうものがあるのは、まことになげかわしい。こういうことでは、これから道を学び教えをうけついでいく人びとに、きっと疑いや惑いがおこるであろうと思われる。
さいわいにも、まことの師友にめぐりあうということがなければ、どうして念仏の教えを正しく信ずることができようか。まったく自分かってに理解して、浄土真宗の根本精神をとりちがえてはならない。
そこで、なくなられた親鸞聖人が、かっていろいろお話しくださったことの中心問題で、いつも耳の底にとどまっていて忘れられない言葉のいくつかを、ここに記録しよう。これは、ただ、同じ心で道を求める人びとの、疑いをなくしたいとねがうからである。
注 釈
(一) 竊廻愚案。
ひそかにぐあんをめぐらして。竊(ひそかに)は「公然と」にたいする「私に」の意味で、愚案とか粗(ほぼ)とともに謙遜のこころをあらわします。
『教行信証』の総序が「竊以」(ひそかにおもんみれば)という言葉ではじまっていることが連想されますが、これらは、信の純粋な敬虔感情(けいけんかんじょう)を表白する言葉です。
(二) 粗勘古今。
ほぼここんをかんがうるに。古今とは、親鸞密人在世の昔と、聖人なき今、つまり唯円が筆をとっている今のことです。
(三) 歎異。
ことなることをなげき。この書物が、タンニ抄と名づけられるのは、親鸞聖人の口伝(くでん)の真信に異る現実を歎いて書いたものであるということです。
(四) 先師口伝之真信。
せんしくでんのしんしん。先師とは、師なきあと、弟子から師をよぶ言葉。ここでは親鸞聖人のこと。口伝は、秘密の伝授ということではなく、口から耳へと直接語り伝えられること。真信は、真実の信心。
歎異抄は、細川行信先生の説によれば、親鸞没後二十年乃至二十五年頃に書かれたと思われます。その頃になると、信者の数は多いが、親鸞に面接した人は少くなり、また、たとい親鸞を知っていても、教えを正しく伝える人は多くはない。とすると、ここに、先師口伝といい、真信に異ることを歎くという言葉の重さが知られます。
(五) 有。
あらんことを。これを蓮如(れんにょ)親筆本、永正(えいしょう)本などでは「あることを」と読み、慧空(えくう)自筆本は「ありと」と読んでいますが、多屋頼俊先生は、ここは将来のことを推量するのだから「あらんことを」と読むのが正しいといっておられます。
(六) 後学相続之疑惑。
こうがくそうぞくのぎわく。あとから学ぶ人、後進のものが、教えを聞き、真信をうけついでいこうとするにあたっての疑い、まどい。
(七) 有縁知識。
うえんのちしき。有縁は、縁がある、関係があるということ。知識は、善知識(ぜんぢしぎ)の略。善知識は、梵語カルヤーナミトラ kalygamitraの訳語で、善友、勝友、親友などとも訳されます。これは、自分の内外をよく知っているもののことで、仏道の友は、みな善知識ですが、後には、特に師のことをさすようになります。また、広い意味で道に進むたすけとなるものを外護善知識(げごぜんぢしき)、同じ道を行く友を同行善知識(どうぎょうぜんぢしき)、道の行く手を明らかにするものを教授善知識(きょうじゅぜんぢしき)といいます。
(八) 易行一門。
いぎょうのいちもん。他力念仏の道。易行は、難行(なんぎょう)にたいする言葉ですが、これは「安易な」道ということではなく、自力にたいする過信をすてて、自力を完全に発揮しつくさせる道のことです。
(九) 自見の覚悟。
じけんのかくご。自分のひとりよがりな理解、勝手な了解。
(十) 乱。
みだる。患いあやまる、とりちがえるという意味で、素乱するという意味の「みだす」ではありません。
(十一) 他力の宗旨。
たりきのしゅうし。他力とは、他人の力をあてにするような消極的、退嬰的な他力ではなくここでは、アミダの本願の力のこと。宗旨は、ともに「むね」ということで、根本のこころ、根本義という意味。したがって、他力の宗旨をとりちがえるなというのは、人生には他力と自力が相対してあるのではないということ。つまり自力を完全燃焼させる力が他力である、アミダの本願力に支えられて人間生活が成立っている、この事実に気づけということです。
(十二) 所留耳底。
みみのそこにとどまるところ。いつも耳底になりひびいていて、忘れることのできない言葉。いわゆる耳で聞くのではなくて、耳識(にしき)の底の深い意識に、刻みつけられている言葉。
(十三) 同心行者。
どうしんのぎょうじゃ。心を同じくして同じ道を行く人。道友、同朋、同行、同法などといいます。
(十四) 為散不審。
ふしんをさんぜんがため。疑惑を解消するため。疑いをなくするため。
(十五) 云々。
うんぬん。まだ、いうべきことがあるけれども、それを省略するということ。
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