生死を超える道へ
〜 わたしの人間診断 〜

(社)在家仏教協会の機関誌「在家仏教(2005年5・6月号)」の志慶眞文雄氏と金光寿郎氏の対談をスキャナーで取り込みました。
2004年10月にNHKラジオ深夜便「こころの時代」で放送された対談をもとに、加筆訂正されたものだということです。
著作物の扱いとしてはルール違反であることは承知の上、ほぼ全文を掲載させていただきます。
一人でも多くの方に、ここで語られている真実にふれていただきたいと願うが故です。
両先生はじめ、本稿に関わったすべての方にお許しを乞い奉る次第です。

もくじ
   1.「自分はいつか消えていく」  
   2.自分自身の問題と気づかされて  
   3.わかるまで聞いて下さい  
   4.煩悩に名前をつけたのが私  
   5.聞法を人に勧めるまでに  
   6.「天命」から目をそらさずに  
   7.井戸に宙づりの旅人は  
   8.真実が私に呼びかけている  
   9.自分を根拠に生きなくていい  
  10.私が変わるわけではない  
  11.教えによって照らし返される  

志慶眞文雄(しげま・ふみお):1948(昭和23)年生まれ、医師、沖縄県うるま市
<聞き手> 金光寿郎(かなみつ・としお):元NHKチーフディレクター


1.「自分はいつか消えていく」

□金 光 志慶眞先生は沖縄県具志川市で小児科医院を開業なさっていますが、診察をなさるだけではなく、ご自身が仏法を聞き、一般の人々にも仏法の話を聞いてもらう機会をつくっていらっしゃいます。
 そもそもどういうことでお医者さんである先生が仏法との関わりを持つようになったのですか?
■志慶眞 沖縄では仏法の教えを聞く機会はなかなか無かったですね。私は昭和二十三年生まれで、十歳の頃のある夜、庭に出て満天の星空を見あげている時、その時に突然「ああ、自分はこの地上からいつか消えてしまう」という思いに襲われ、涙がぼろぼろと出たのを四十数年経った今でも、昨日のことのように覚えています。それが私にとっては、どうしてよいかわからないという問題の発端でした。
 十歳の頃までは、近くの米軍の通信隊から、チョコレートを持って来る外国人のジープを追っかけたり、朝から晩まで遊び回っておりまして、そういう悲しみや苦しみなどはとりたててなかったのですが、その十歳の時の体験を境に、生きてゆくのが辛くなったですね。もう何をしても、どうせ亡くなるのではないか、そう思うといても立ってもいられなくなったのです。それは一時的なものではなくて、小学校、中学校、大学と、ずっと自分を揺さぶり続けた問題でした。
□金 光 まさに生死の問題に直面させられたわけですね。
■志慶眞 そうですね。この問題をどう超えてゆこうかということで、いろいろな人の話を聞いたり本を読んだりしていました。誰か助けてくれという悲鳴に近いものが心の中にありましたが、それを解決できるめどもなく、とくに大学時代は学園紛争の時代でしたし、沖縄の復帰問題も抱えていた時で、どう生きてゆけばよいかわからず、今から思うと本当に生きるのが辛かったですね。
□金 光 そう聞きますと、哲学とか宗教を専攻なさるのが普通でしょうが、大学では工学や物理学のほうへ行っていらっしゃいますね。
■志慶眞 そうです。中学や高校では、倫理や哲学関係の本を読んでいました。けれども自分の助けにならなかったんですね。言う人によってそれぞれ違いますし、なんら確信的なことが自分に届かなかったのです。そのためそれを頼りにして生きて行こうという気はなく、逆に自分の思いとは別な、物理学や天文学に、生きる糧を見つけてゆこうかという思いでした。哲学などのように人によって変わるものは、自分の助けにならないという思いが、違う方向に自分を向けていったのですね。
□金 光 しかし、そちらの方向に行きながらも、大学時代に仏法に出会われたのでしょうか?
■志慶眞 いいえ、当時の沖縄には内地留学の制度がありまして、初めは愛媛大学工学部の電気工学科に進学しました。ところが入学してみて、自分がやりたかったのは応用的なものではなくて、もっと基礎的な物理そのものだったということがわかって、転学部しようとしたのですが、別枠でとっているのでそれはできないと言われ、とりあえず工学部を卒業することにしました。
 しかしその大学生活は生きていくのに四苦八苦と申しましょうか、大学を卒業する頃には本当に痩せ衰えて、高熱がつづき病院へ行きましたら肺炎と栄養失調だと診断され入院しました。その時に初めて、こんな自虐的な生活をいつまでもしていてはなんにもならない、自分の生きる支えにしたいと思っていた自然とか宇宙とか天文とかの学問に、もう一度自分を向けてみようと思い、一年間浪人して、広島大学の高エネルギー物理学という素粒子の実験をする研究室に進学しました。
□金 光 広島大学は、広島高等師範、広島文理科大学時代から金子大榮先生などがおられたり仏法の盛んな所ですが、そこで仏法に出会われたのですか?
■志慶眞 いや、単純にそういうことでもないのです。私は高校時代からどちらかというと禅宗関係の本をずっと読んでいました。高校、大学時代は道元禅師の本や臨済録を愛読していましたが、親鸞聖人や法然上人の教えは、まだ心に響いてこなかったですね。広島に行ってもまだお念仏の教えにふれる機会はありませんでした。
 私は大学の修士課程から博士課程に進むときに結婚しました。家内は熊本出身で、たまたま田舎で浄土真宗の話を聞いていて、それが縁になりました。家内が非常勤で物理学科の事務をしているときに、広島大学会館で細川巌という先生が歎異抄のお話をやっているということを聞いてきて、一緒に行かないかと誘ってくれたのです。しかし私はその頃、既成の仏教に反感を抱いておりまして、こんな葬式仏教では人間が救われるとは思えない、お釈迦さまの教えと全く違うものになっているじゃないか、いまさらそういう仏教を聞こうという気は起こらない、と言って家内の勧めを断り、その後七年間拒絶しつづけたのです。
 家内は毎月、聞法会に行っては、こういう話があった、こういう本がある、と報告してくれたのですが、初めは心に響いてこなかったですね。しかし先生の本が置かれてあると、やはり気になって読むわけです。そして六、七年経った時、この先生の話なら聞いてみようかなと思いました。自分のかたくなな心がとけるのにそれだけの年月が必要だったということでしょうね。
 素粒子の研究室にいた私は、人間の思いとは別の自然の真理を追究して、それで一生を終えるのならいいや、どうせ人間とは何かよくわからないのだと、どうにもならない絶望感のようなものがずっとありました。でもそういう生き方では自分の生死の問題は超えられなかった。一生懸命にやっているときはいいのですが、ふとわれに返った時にやっぱり、生きてゆけないという思いがあったわけです。
□金 光 子供の頃のこのまま死んでどうなるのかという問題は、素粒子の勉強をしても、どこか別なところにあったと……。
■志慶眞 結局、行き詰まり、私は博士課程を途中で退学しました。生きるのが辛くて、もう行くところがないと思った時に、自分のふるさと沖縄に帰ろうと思った。その時に、医者になった友人が何人かいたものですから、今からでも医者になれるかと聞くと、医学部を通れば年齢は関係ないという。それで医学部に行こうと思って勉強しだしたのです。ところが医学部に通るまで五年かかりました。その間、予備校で非常勤講師をし、五年目に広島大学の医学部に入学しました。

2.自分自身の問題と気づかされて
■志慶眞 その頃、どうしていいか迷っている間にも、細川先生の歎異抄の会の情報がずっと入ってきていました。医学部の合格発表があった日にたまたまその会があって、初めて聞きにいきました。それが先生との最初の出会いであり、念仏の教えを聞いた最初でもあったのです。
□金 光 そのとき「あっ、ここにある」と思えたのでしょうか?
■志慶眞 私にとっては、これは大きな転機でした。先生のお話を聞いて、いちばん心に響いてきたものは、そう言っているあなたはなんですかという問いで、それが聞こえてきたのです。それまでは、本を読んだり、話を聞いたりしても、ああだこうだ、という対応の仕方をしてきたわけです。ところが、歎異抄の話を聴いたときに、そう言っているあなた自身が問題ではないですか、そう言っているあなたはなんですか、という問いが初めて聞こえてきたのです。これは今まで思いもしなかった問いでした。
 それまでは外にばかり向かって、あれが悪い、これが悪いと言っていた私が、言っているあなた自身が問題ではないですか、と。初めて眼が内に向けられました。これは私にとって大きな衝撃でしたね。
□金 光 死ぬのが怖いのは私なわけですから、それはあなた自身の問題ですよというところへ向けられた、そういう感じなんですね。
■志慶眞 ただそれで終わっていましたら、それだけの話なのですが、もう一つ、私にとって大事なことは、この話を聞き続けてみようと思ったことです。いままで自分の思いでやっていけると思ってきましたが、自分の思いではどうにもならなかった。だから自分の思いはさておいて、先生の話を聞いてみようと決断しました。今日は天気が悪い、今日は頭が痛い、今日は夫婦喧嘩した、今日は疲れた、今日は睡眠不足、今までそういう思いに引きずられ、なんの解決にもならなかったのだから、とにかく聞き続けてみよう、と。
 私にとってこの二つのできごとは大きな転機となりました。
□金 光 でも、それが今までとは異なった方向に歩むことが出来るようになった転機とはいえ、すぐ「はい、わかりました」とはなかなかゆきませんでしょうね。
■志慶眞 いかないですね。それで決断して、先生が来られる時は何があろうが出来るだけ時間を割いて、六年間、必死に聞法を続けました。医学部を卒業するまで六年間、六年経ったら沖縄へ帰ろうと思っていましたから、年月を区切って一生懸命聞きました。なにしろ沖縄ではふれたことのない教えですから、最初は言っておられることがよくわかりませんでした。
□金 光 ことばは覚えられるでしょうが……。
■志慶眞 はい、ことばは覚えられます。今でも覚えているのは、細川先生の先生でありました住岡夜晃先生という方が、巻頭言の中で「昨日も悪く、今日も悪く、明日もまた悪い」とおっしゃっておられるのですが、これは当初まったくわかりませんでした。昨日、今日が悪いというのはわかります。でも、明日は良くなるだろうと思っているわけです。ところがそれは自分を知らないからそう思うんですね。私どもは明日良くなるものなど持っているのでしょうか。そういう反省を持たない生き方をしてきたために、このことばがわからなかったのです。
□金 光 わからないからと突き放すのか、それともわからないけれども何か魅力があるということか、それはどちらなんでしょうか?
■志慶眞 他のことではもう解決がつかなかった。初めて、そう言っているあなた自身が問題じゃないですか、という問いを突きつけられた。そうであるならば、問いを突きつけた教えそのものを聞いてみよう、聞き続けてみようと思ったのです。そう言える世界とは、いったい何だろうか、逆にそのわからなさが、聞いてみようという原動力になったのです。
□金 光 それで六年間聞いてみて、ああそうかというところまではゆかなかったのでしょうか?
■志慶眞 一生懸命に聞いて、六年経って結局沖縄に帰ってきました。私が医学部に入ったのは三十二歳。三十八歳で沖縄に帰ってきて、琉球大医学部の小児科で研修することになりました。そういう中で、この教えをどう受け取ったらいいのか、戸惑いを覚えていたのです。本土から帰るときは、年に一、二回は広島に戻ってくるよと言ったのですが、とてもそういう状況ではありませんでした。ある程度はわかったと思ったその教えが、沖縄では何の支えにもならず、もうメッキが剥げ落ちたようになりました。
 沖縄という所は、生活習慣として祖先崇拝がしきたりになっていますから、その中で念仏の教えをいただくということはどういうことか、それが大きな戸惑いだったのです。しかし自分が問題だということに気付いていますから、聞かなかった昔には戻れないのですね。だからといってわからないまま歩むこともできないわけです。また、とどまって安心していられるかというと、それがまたできない。だから四、五年は、どうしていいか分からない状態でした。
 広島であれだけ仏教のことを語っていた私がほとんど何も言わなくなったので、家内は沖縄へ帰った私がすっかり仏教を忘れてしまったと思ったらしいのですが、こちらは逆に口に出せないくらい悶々としていたわけです。重い石を引きずって、毎日あえぎあえぎ生きているような思いでした。

3.わかるまで聞いて下さい
■志慶眞 そういうなかで聞こえてきたことばがありました。広島から帰るときに、あるお同朋が私に声をかけてくれたのです、「わかるまで聞いてください」と。そのことばは、この教えにはわかるということがあるのだ、そしてわかった人がいるのだということを教えてくれました。私が挫けそうになってもうやめようかと思うときに、そのことばがいつも起ってきました。
 沖縄に帰って五年目ぐらいに開業しようと思ったときもそうでした。そこで、聞法のできる場を設けて先生をお呼びしたいと、小児科医院を開業するとき二階に、四、五十人ほどが入れる場所を作りました。それはこの教えがわかったから作ったというのではなくて、わからないからもう一度聞いてみようという思いからでした。
□金 光 自分も一緒に聞いてみよう、と……。
■志慶眞 そういうことです。もし十年間聞きつづけてわからなければ、その教えは自分にとどかない教えだから、もうそれでやめようと思ったのです。やめるのだったら、もう一度本気になって聞いて、それからどうするか考えてみよう、と。一九九二(平成四)年に開業し、翌年から先生方をお招きして公開講演会を始めました。自分は教えがよくわかっていないということがわかっていて、やめようかどうしようかという思いをぎりぎりのところで抱きながら、この聞法の会をスタートしたのです。
 そういうときに、私に一通の聞法通信が届きました。それが私にとっては、この浄土真宗の教えに気づかせていただく大きなきっかけとなったのです。
□金 光 それはどういうことでしょうか。
■志慶眞 私が広島で話を聞いておりました福岡教育大学の細川巌先生と、その教え子だった関真和先生の往復書簡なんです。関先生は小学校の先生で、大学にいるときに細川先生から仏教の教えをいただきました。ところが五十六歳で癌になって亡くなります。実は細川先生も癌だったのですが、関先生は亡くなる一か月前に細川先生にお手紙を書いておられます。その手紙を読ませていただきます。

 合掌 先生、長い間ありがとうございました。このことばは何度いってもいい尽くすことができません。福岡学芸大学時代、本校で先生にお遇いし、仏法にあわせていただき、大きな世界のあることを知らせていただきました。あの当時二年制で教員になることも可能でしたが、四年制課程で本校に行けたことがいかに大きなことであったか、今にしてつくづく思います。先生にお遇いできたことが、最大の収穫でした。
 その後、卒業以来も久留米を中心に仏法を語っていただき、時に父のごとく、時に教育者ともなり、私を育んでくださいました。
 前後しますが、大学四年の時父がなくなり、その時先生にいただいた日輪没する処、明星輝き出ずる如く、人生の終焉は永遠の生の出発である″ということばは、その当時私の大きな救いとなりました。そして、今、病床でこのことばをかみしめています。
 以来三十数年、先生のみ教を通し、夜晃先生、親鸞聖人、七高僧、釈尊と連綿とつらなる深い歴史観を頂きました。
 このことは私の人生をいかに豊かにしてくださったことでしょうか。また、教育をしていきます上でも大きな励みとなりました。
 お念仏「南無阿弥陀仏」をいただいた故に、生きることができ、お念仏いただいた故に死んでいけます。もし、お念仏におあいしていなかったら、今ごろこのベッドの上でのたうちまわっていると思います。肉体的にはたいへんきついです。すわるのもちょっとの時間でしかできないくらいです。でも、心は平安です。
 先生を通して、たくさんのお同朋をいただき、にぎやかです。
 先生、本当にすばらしい人生をたまわりましてありがとうございました。
 最後の一呼吸までは生きるための努力を続けます。
 先生、本当に長い間ありがとうございました。
 先生は、病気回復期ゆえ、どうかお体お大事になさってお同朋の大きな光となってください。
 ことばは尽くせません。ありがとうございました。
   平成五年六月二十四日   関 真和



 これが、関先生が亡くなる一か月前に細川先生に書かれたお手紙です。
 これに対して細川先生がその二日後の二十六日にこういうお返事を書かれたのです。


 関君、いよいよ大事な時になったなあ。
 この病気は後になるほど痛みが増すと聞いているが、君もさぞたいへんだろう。慰めようもない。南無阿弥陀仏。
 南無阿弥陀仏におあいできて本当によかった。
 これが人生のすべてであった。
 私は昨年十二月以来入院して、このことをいよいよ知った。君も同じだと思う。本当に良かった。南無阿弥陀仏。
 人間、最後の場に立ったとき、心に残るものが二つあるという。
 一つは死んだらどうなるのかという問題。
 一つは残った者はどうなるのかということ。
 諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向
 如来の至心回向によって、われらは信心念仏を賜わり、願生彼国と生きていく方向を知り、即得往生 住不退転 ここが浄土の南無阿弥陀仏となる。
 死ぬも南無阿弥陀仏
 生きるも南無阿弥陀仏ただこのこと一つ
 残った者は私の死を見て、何かを得て、それぞれの人生を歩む。
 私は願う、どうか良い縁を得て、この道に立ってくれよ、南無阿弥陀仏、と。
 このこと一つを願い、このこと一つを南無阿弥陀仏に托して歩んでゆく。
 すべてを如来におまかせして進むとは、この事である。
 こうして念仏道に立つ者には、残る問題は一つもない。
 関君、どうか、
 学芸大学時代から、田川、飯塚と、本当に長い間、よく聞法してくれた。有難う。君が一生かけて如来実在したもう証明者として生きてくれてうれしい。
 私の方が先に浄土に行っていると思ったが、君が先かもしれぬ。
 しかし、あともさきもない。皆、南無阿弥陀仏を生きてゆくほか道はありえない。
 よかった、よかった。君の人生、苦労もあり、誤りもあり、思うようにならなかったことも少なくなかったと思うが、人生の最後にあたって、感謝し、有難うございますと言える人は、白蓮華である。
 私は大分よくなった。あと何年かは働けるだろう。君の分も背負って、如来のため、報謝の一道を進みたい。
     六月二十六日   細川 巌



■志慶眞 私は病院での診療を終わって、封を切って、この往復書簡を見たとき、初めて、ああ浄土真宗の教えとはこういう教えだったのかと思い、その場で溢れるように涙が流れました。今までずっと先生を疑い、仏法を疑って、冷酷無比に周囲を見回していた。しかし先生が届けたかったのはこういう広い世界だったのかと知りました。これが私にとって大きな転換点でした。

4.煩悩に名前をつけたのが私
□金 光 十歳の時から死んだらどうなるのかという問題を抱えていらっしゃった。でも、今のお二人の先生のお手紙をお聞きしますと、念仏とはかくかくしかじかで、それを身につけたらどうなるかというようなことは全く出てきませんが
■志慶眞 念仏とはこれこれですよ、という理解のしかたではなかったということですね。
□金 光 それを知りたくてこうだろうかああだろうかと求めてこられたわけでしょう?
■志慶眞 長い間、如来とか念仏とか本願とか、そういう観念的なことで人間が救われるとはどうしても思えなかったのです。そういう私に、往復書簡は念仏とはこういうものですとか、教えとはこういうものだというような、頭の中だけの理解ではなくて、むしろ教えそのものが私を問い返したと申しますか、本当は真実の大きな世界の中を生きているのだけれども、自分のちっぽけなエゴで、小さい世界を塗り固めて生きているのがあなたじゃないですか、と気づかせていただいたのです。
□金 光 如来の世界とは永遠に続く大きな世界だという説明は、当然受けていらっしゃる。そういうことばを聞いて、そういうものだと自分が受け取っても、それは安心にはつながらないわけですね。ところが、お二人の先生のそれぞれのおことばが出てくる元の世界が、読まれた志慶眞先生に伝わってきたということでしょうか。
■志慶眞 そういうことですね。お念仏の大きな世界がうなずけなかったのは、自分の中に煩悩があると思っていたからです。ところがそうではなかった。煩悩に名前をつけたのが私だった。だからどこを切っても煩悩でしかない。その煩悩のわが身が見ているのが、生死だったのです。
 十歳の時、私がどうにも越えられない壁にぶつかったのは、煩悩のあえぎだったのです。この往復書簡にあうまでは、私の中に煩悩があるのだと思っていて、そういう生き方をずっとしてきたわけです。
□金 光 ふつうは、私の心に煩悩が湧いてくる。私の中に煩悩がある、と考えますよね。
■志慶眞 ところが、煩悩に名前をつけたのが私だったのです。我々はわが身かわいさで生きている。だから例えば殺生一つをとっても超えることができないわけです。すでに有罪人なのに、有罪人が有罪人を責めているのが、このわれわれの世の中なんですね。そういう意味では加害者です。加害者が加害者を責めているのです。
 私どもはそれを離れることはできませんが、そういうわが身に気づくということはできるわけです。生死を超えられないのは、そういうわが身がわからないからなのです。
□金 光 そこのところは微妙なところで、自分が悪い悪いと思っていますと、何もできないとも言われます。そういうわが身であったということに気がつくことによって、生死が超えられるというお話、ことばにはしにくいかもしれませんが、それは生死が問題ではなくなるわけでしょうか、それまで扱いかねていた生死の問題の質が変わってきたということなんでしょうか?
■志慶眞 何が問題だったかが明らかになるということです。要するに私どもの煩悩が、年をとりたくないとか、死にたくないという。それも何が生で何が死か実はわからないけれども、便宜的に自分で勝手に判断しているのです。自分を抜きにしてそういうものがあるわけではないのですね。世間とか娑婆とか言いますが、私が娑婆を作り、私が世間を作っているわけです。その私に問題があるのです。世間や生死に問題があると思っていましたが、そうではないことに気づかなかったのです。
 歎異抄の会に行ったときに、実は自分が問題だという、そのきっかけはもう与えられていました。でも、それが本当に身にうなずけるには、長い長い年月が必要だったということなんですね。
□金 光 ことばとしてそういうことを言われても、本当にわが身の問題であると身にしみてわかるのは難しいということでしょうね。
■志慶眞 我々はよく「こんな自分は」などと卑下したりします。ところが卑下というのは、自分が自分を責めて、自分で自分の始末をつけようとする姿です。仏法では卑下は卑下慢と言って、慢心、高慢と一緒なのです。ちっぽけな世界です。
 自分で自分のことを処理しようとしても、にっちもさっちもゆかなくなる。実はそういう世界とは別に大きな世界、頭を下げて生きる世界がある。そこにいるにもかかわらず、自分のちっぽけなエゴがそれを見えなくしている。そういう身を生きているということに気づかされたのです。往復書簡はわたしが長い間うなずけなかった永遠につづく大きな世界から届いた声でした。
□金 光 このお二人の文面から、自分が今までわからずにいろいろ突っ張ってみたり、もっと勉強したいと思ったりしていたそういう世界とは違うところからの声が、端的に、理屈なしに伝わってきたということですね。
■志慶眞 そうです。だから教えとはどうだとかという頭の理解のしかたではなく、じかに心に響いてきた。私が超えられないと悩んでいた死を目前にしてそれだけのことが言えるとは、単なる頭だけの理解の世界ではない、もっと大きな世界からの声なのだと思ったのです。
 それまで私にとって、死は意識がなくなること、肉体が滅び、ものが聞こえなくなり、目が見えなくなる、未来永劫、虚無の中に吸い込まれて行くのだという恐怖感がありました。そういう死を目前にして、これだけの世界が開かれるということは、単なる思い込みでも、恐怖でもない、お念仏の教えはそういうものを超えた世界を届けようとしているのだ、と。
□金 光 細川先生もそのあと癌でお亡くなりになったわけですが、関先生の場合は身動きするのも辛い、重い病状の中で書いていらっしゃるのですね。
■志慶眞 重い病状の中で先生にお礼の手紙を書かれ、その一か月後に亡くなられました。
□金 光 ご自分がまもなく亡くなるということは当然、意識されているわけですね。だから先生のご返事にも冒頭に、慰めのことばもないとあって、その後のもっと大きな、別の悲しみをいうところで、慰めようという方向ではないところからの声が聞こえていますね。
■志慶眞 そうですね。だから、我々の生きているこの娑婆世界、ここでなんとか処理してゆこうという解決のしかたではないのですね。それを超えたもっと大きな世界、真実の世界といいますか、そういうものの声が初めて響いてきた、ああ、なるほどそうか、と自分に届いたのです。
□金 光 あっ、こういう世界だったのか、と志慶眞先生が体感された後、これまで聞かれたものと同じ内容のお話を聞かれることがあったとき、その聞き方や本を読んでの感じ方に変わってきたものがありましょうか?
■志慶眞 ええ、変わりました。いちばん大きな変化は、それまで無味乾燥で何のことかわからず、読めば居眠りしてすぐやめてしまった仏教の聖典が、本当に響いてきました。ことに『大無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の浄土三部経といわれるものは宝の山だと思うようになりました。そういうものをひもといてゆく喜びが生まれてきました。

5.聞法を人に勧めるまでに
□金 光 これまで志慶眞先生が長い時間をかけた聞法の中で、仏法の広い世界に気づかれるまでのお話をうかがってきました。その後、熱心に聞法の会を開いていらっしゃいますが、あまり仏法になじみのない方に、いきなり仏教とはとかお経はこうと説明してもなかなか届かないところを、いろいろ工夫されていらっしゃることと思いますが。
■志慶眞 沖縄は念仏の教えに縁の薄い土地柄ですから、こういう教えはなかなか理解しがたいのです。それで、お呼びする先生には「こういう状況ですから、人間の生き方の問題を話してください、初めから念仏の話をすると来なくなりますので」そう注文をしてスタートしたわけです。
 五十名くらいの人に声をかけたのですが、集まったのは数名でした。初めは夫婦二人で聞くことが出発点でしたから、一人でも二人でも来てくださったら、それだけでうれしかったですね。医院内に掲示を出したり、知り合いに声をかけたりして、二、三年後には毎月公開講演会を開くようになりました。
 さらに継続して聞かれる方々が出てきて読書会も始めました。この読書会はその後、毎週開くようになり、もう十年くらいになります。沖縄ではこの教えはゼロからのスタートですから、本を読み、語り合いながらわからないことはわからない、疑問に思ったことは疑問と言おう。疑問を抱えたまま聞き続けてみよう、この教えは聞けば必ずわかる教えだからというメッセージを送りながら続けてきました。
 そして三年目くらいから「沖縄聞法通信」を出すようになりました。島根県から来られる岡本英夫先生の話を多くの方々に聞いていただきたいという願いをもって始めた聞法通信ですが、自分たちの思いも綴って、いま全国に二百部くらい発送しています。
 往復書簡に出会うまでは仏法を聞いているということさえ気恥ずかしくて人にはとても言えなかったのですね。しかしその後、この教えをいただいて歩まなくてはと決断するまでには三年ぐらいかかりました。その間に関先生は亡くなられ、細川先生も亡くなられました。お二人が亡くなってから、沖縄でこの教えのためにできることを本気にやってゆこうと思いました。もしこの教えに会わなければ、私はこの人生をむなしく終わる以外になかった、何のために生きて、何のために死んでゆくのかわからないままで一生を送ってしまうところでした。この教えに出会えて新しいいのちをいただいた、この場所で生きてゆける、そういう思いが自分にあったものですから、三年目ぐらいから聞法を積極的に人に勧めるようになりました。この仏法の教えがひとりでも多くの人に届くことを願いながら、毎日の仕事をしています。日頃は病院の職員にもミーティングでときどき仏法の話をしたりしながら、今日に至っています。
□金 光 ただ、たとえばこのお経にはこういう願があって、四十八願とはこういうものだというような説明ではなくて、現代人にとっても生きている問題で、さらに言うと、先生ご自身が抱えていた生死の問題、現代はその死を遠ざけようとするような生き方が盛んな時代ですし、病気も多く、死を考えざるを得ない境遇に直面したときに、慌ててどたばたしてもどうにもならないわけですが、こういうかたちで話をされると仏法の受け取り方も違ってくるのではありませんか?
■志慶眞 そうですね。だからこの仏法の教えをいろいろな人に届けたいですね。今、若者が行き詰まっています。ここの公開講演会のときに、本土から来られたある先生が、駅の階段やコンビニの前などでたくさんの若者たちがたむろしているがあの人たちもみんな往生人なんですね、とおっしゃった。それを聞いて私は、親に反抗する息子の問題を抱えていましたから、ああそうか、みんな道を求めている、みんな往生人だと思いました。往生人とは、大きい世界に生まれたい、生きるとは何か、死ぬとは何か、人生とは何か、そういう根源的な解決を求めている人ということです。
□金 光 そういうことを自分で意識していない人も多いでしょうね。
■志慶眞 そういう人たちにも、本当に生まれてきた意味といいましょうか、ああ生まれてきて良かったといえる、そういう人生が開かれるきっかけを作ることができたら、と。私どもは生老病死といいますけれども結局、それは動かすことのできない、みんな背負っていかなければならないものですね。それを超える道があるのだとお釈迦さまは言われたわけです。日常の私どもの世の中では、ある種のテクニック、例えばカウンセリングとかで解決しようとしますが、仏法とはそういった解決のしかたではなくて、もっと大きな世界に人間を出すことによって解決しようとしているのです。
 私どもは病気にもなるし、年もとるし、死ぬこともある。決して喜べないけれども、それを通して大きい世界をいただくことができる、そういう人生をたまわることができる、そういうものではないかと思うのです。

6.「天命」から目をそらさずに
■志慶眞 世の中ではよく「人事を尽くして天命を待つ」と申します。子供たちにも、がんばれがんばれ、がんばったらいいことがあるよ、と叱咤激励するわけです。ところが、それでみんなが行き詰まっているわけです。
 私どもが生きている裟婆の論理はそのようにして出来上がっていますが、果たして本当に人生とはそういうものでしょうか。そうであるならばうまくゆかない人は悲惨な人生で終わるのではないでしょうか。
 明治時代に出られた清沢満之という先生は、これに対して「天命に安んじて人事を尽くす」と言われました。どちらも人事を尽くす内容は同じなのです。この話を聞いたから一生懸命になれない、ということはない。中途半端に考えるから何か力が出ないとか、がんばれないと思うことがあるのでしょうが、どちらも人事は尽くせる。しかし、やっている自分が明らかにならないで、一生懸命にやることは、結局は迷いではないか、流転ではないか、これはそういう問いかけだと思うのです。やっているその自分というものが何なのかということが、天命に安んずるということばの中にあります。
 この宿業、生老病死を背負って生きている自分というものを、目をそらさないできちっと見ること、私の中に煩悩があるのではない、煩悩に名前をつけたのが私。私はそういう身なんです。そういう身のままで、人事を尽くせる世界が開けるのです。私どもは自分というものがわからないから、自分に真実を立て、正義を立てていますが、じつはそういうものはない。自分に正義を立てるということは自分の正体を見誤っています。
 真実といい、正義といい、それは大きい世界に返すべきものであり、自分に立てるべきものではない。なぜかと申しますと、この身は、わが身かわいさで生きていて、私どもにある愛情は、我愛です。自己中心なのです。我愛でもって我愛を超えよう、自己中心でもって、自己中心を超えようとすることはできないことです。しかし、煩悩具足、煩悩が満ち足りている、そういう自分が実は大きい世界に生かされている。だから自分に根拠を置かないで、大きな世界にうなずいて生きることができる。だから百パーセント力が出せる。それまでは自分に真実や正義を立てて、一生懸命やることによって、なにか目的を達成しようとしてきたわけです。
 時々読書会でこういうことを申します。私どもは明日のために今のいのちを消費し、過去を悔いて今のいのちをいじめ殺している。だから、今に生ききれないのだ、と。それはなぜかというと、自分というものを見誤っているからです。自分の正体を見届けることによって、初めて私どもは大きい世界をいただくことができる。大きな世界がちっぽけな自分を教えてくれる、そういう世界が私どもの上に成立するのではないか、これが教えではないかと思うのです。
□金 光 人間の我執の強さは大きな世界の話を聞くとそれを我執の中に取り込むことがあるわけで、宗教を錦の御旗にしている今の戦争なども、本来の宗教だと大きな世界に、それこそ永遠の世界のほうに人間が入っているのだということに気づいたら、ああいう行動はしないだろうと思うのですが、それを人間のほうに持ってくると、我愛で宗教を利用するということで、人間というものは始末の悪いものだと思います。
■志慶眞 そうですね。だから今のいろいろな悲惨な状況は、一口で言えば人間の狂気だと思うのです。これはやはり自分に正義を立てるからなんですね。人間の上には正義はありません。正義も、真実も、仏さまに返すべきものです。それを自分に立てるために、逆に残酷になるのです。それはやはり、自分というものを見誤っているからです。

7.井戸に宙吊りの旅人は
□金 光 仏法では、自分の一生というものはいろいろな説き方がなされていて、いわれてみればそうだと思いますが、なかなか自分では気づかないものです。
■志慶眞 そうですね。読書会ではときどき、古井戸に逃げた旅人の古い説話を話します。ある旅人が罪を犯して、追手を逃れて荒野に来る。追手が迫ってきて、逃げている途中で古い井戸を見つける。そこに蔦(つた)が垂れ下がっておりましたから、急いでその蔦を伝って下に降りて隠れようとする。ところが下では、大蛇(たいじゃ)が口を開けて降りてくるのを待っている。慌てて上を見ると、白い鼠(ねずみ)と黒い鼠が蔦の蔓(つる)をかじっている。
 私どもが旅人です。しかも罪を犯したということに意味があるのだろうと私は思います。私どもはみな有罪人です。生きるということは、いのちあるものを食べているわけです。どの人も忘れているけれども、実はみなそういう意味で罪を犯している存在です。白い鼠と黒い鼠は昼と夜ですね。蔦の蔓はいのち綱で、いつかは必ず切れる。切れたら下に落ちる。大蛇は死です。暗黒の死なんです。旅人は恐怖のあまり、しばらく震えていますが、その井戸の一隅に蜂の巣があるのを見つける。そこから蜜がしたたり落ちていて、思わず口を開けてそれを口に入れている間に、自分の状況を忘れてしまう。これが私たちではないか、そういうお話です。
 いつかは白い鼠と黒い鼠が、このいのち綱を切って、必ず死が訪れる。これは私が十歳の時にいだいた問題に直結するわけですが、そこで、どうせ死んでしまう、生ききれないと思うか、それともこの問題の本質的な解決ができるかどうか、もしこの問題の解決ができなければ、私が十歳の時に持った問いは解決できないわけです。この古井戸の旅人の話はそういう意味で心を打ちます。
□金 光 このたとえ話の、どうすればいいかというお答えはあるのでしょうか?
■志慶眞 私はあると思います。お釈迦さまの教え、仏法というものはこの問題の解決だと私は思います。一つは、我々はこの生死の生を生きているわけです。この生死には迷いという意味があります。私どもが見ている生死は迷いです。そこで死んでゆくことはむなしいとか悲しいとかと言っているわけです。ところが、仏教が届けるものは、本質的には無生の生です。生まれるのでもない、死ぬのでもない、実はその生と死を支えている大きな世界を人間に届けようとしているのですが、無生の生といっても、私どもにはわからない。そこに方便が必要なわけで、それが往生の生だと私は思うのです。往生の生というのは大きい世界に合掌して生きることです。
 実は私どもは、そこから出て、そこに帰るのだという大きい世界からの呼びかけがあるのですけれども、自分のちっぽけなエゴでそれを見えなくしている。ですからお念仏とは大きい世界からの呼びかけで我々にとってお念仏が往生の生です。そしてその肉体が滅びると、そのまま無生の生です。涅槃あるいは滅度です。
 けれども我々は、煩悩がある間は、この姿婆世界を生きる以外にない。古井戸の中の旅人は、いのち綱が切れるところに死を見ている。これは生死の生です。生死の生をこの娑婆世界で超えようとしても超えられないのです。たとえばどうやっていのち綱を長くするかとか、切れないようにするにはどうするか。あるいは忘れるために地位とか名誉とかをいろいろ取り込んで、しばしの間そういう悲しみや苦しみを忘れようとしている。しかしそれでは本質的な解決にならない。とするならば、そこにぶら下がっている人間、生死の生を生きている人間そのものに問題があるわけで、この人自身が大きく転回しなければ、この問題は解決しません。
 人間の内面が何によってできているかというと、やはり罪悪生死と申しますか、煩悩にまみれているわけです。その煩悩の身で生死を解決しようとしても、それはできないことだと思います。人間にできることは、その煩悩を持った、一生罪を作って生きる以外にない自分に目が覚めることです。だからこの問題は、そのいのち綱をなんとかしようということではなくて、そこにぶら下がる人間が井戸の中から大きい世界にどう出るかということです。問題そのものがすべてひつくり返って、大きな世界に転回するということになるのです。
 旅人の内面は、仏教から言えば貧欲と瞋恚と愚痴なのです。「二河白道」という教えがあります。人間には超えることのできない大きな煩悩があって、その中に道が開かれる。煩悩を抱えて生きているこの旅人の中に、無生の生という大きい世界、私どもの浄土教の教えでは往生の生という大きい世界が開かれたとき、その古井戸の旅人の絶体絶命の問題に道が開ける。これは自己へのめざめの問題、つまり信心の問題だと思います。

8.真実が私に呼びかけている
□金 光 人間はとかく分別をするわけですが、分別によって解決はできないので、大蛇をどうこうしようと考えてもだめですし、寄られているものを寄られないように努めてもだめ、蜜を飲むのを少し増やしたところでそれもだめです。いわば分別の世界だけでは解決できない。しかしもともと人間は分別だけで生きているのではないわけで、もっと大きな、分別以前の世界、生かされている世界に気づきなさいよ、とそういう表現もできましょうか。
■志慶眞 これは私が最近よく読んでいる本ですが、マルティン・ブーバーという方が、世界は二つあるといっています。一つは「われ−それ」の世界です。「われ」は自分で、「それ」は物です。もう一つは、「われ−なんじ」という世界です。これは関係性の世界、呼びかけの世界です。
 「われ−それ」というのは別なことばで言うと、他動詞の世界です。他動詞は目的語をとるわけです。何々をする、と。我々はずっとそういう生き方をしてきたわけです。
□金 光 勉強して良い所に行ってこうなる、とか常に目的を持ってやっていますね。
■志慶眞 ところが本来、私どもは自動詞の世界を生きているのです。それが「われ−なんじ」です。目的の要らない、このままでいい、大きな世界で生きているのだけれども、私どもの分別心は目的を立てて、しかも私の煩悩が自分で勝手に切っているわけです。分別は人それぞれ違うわけです。好きなように切ってその世界を生きていながら、それがあたかも絶対であるかのごとく生きているわけです。私どもの分別のしかたは昨日と今日でも違う、同じものを見てもちょっと気持ちが変わるだけで違ってきます。まったく当てにならず、根拠が置けないものです。
□金 光 「われ−それ」という別個の世界と、「われ−なんじ」という関係の世界、その違いが具体的にはどういうふうになって出てくるのでしょうか?
■志慶眞 私は、人間は百パーセント煩悩の身ですから、「われ−それ」の関係しかないと思うのです。わたしの都合の良いように切ってみる世界しかないのです。これが人間の発想法です。でもそれは私が切っているのだという認識が生まれ、これを超えた世界があることにうなずけるかどうかが問題なのです。
 私からは、「われーそれ」しかないのです。私が「なんじ」と呼ぶことはできないのですが、向こうが私を「なんじ」と呼びかけていることに「われ」は気づくことができる。私は真実ではないけれども、真実が私に呼びかけているということはうなずくことができる。私どもは「なんじ」と呼ばれることによって、初めて目が覚めて「なんじ」に向かうことができる。
□金 光 「われ」が勝手に神さまを立てて、私の都合のいいことをやってもらう、そのような世界じゃないわけですね。
■志慶眞 ではないですね。どこまで行っても私どもは「われ−それ」の世界なのです。逆に「われ−それ」の世界しか生きていない自分の身が明らかになるということだったのです。「なんじ」と呼ばれたときに、初めて私は「われ−それ」というちっぽけな世界しか生きていなかったということに気づかせていただけるんですね。そういう世界だと思うのです。
 私は長い間念仏というものを「それ」として理解しようとしたわけです。それで、わからんわからんと言い、念仏なんて何の役にも立たない、気休めだ、呪文だ、と思ってきたわけです。ところが先生方の往復書簡を読んで、実は「なんじ」と呼ばれていた世界があったのだということに初めて気づかされたのです。
 お念仏というものは、「なんじ」という呼びかけでした。お念仏のほうから呼びかけられている。本当に長いこと私はそれがわからなかった。「われ−それ」の世界しか生きていないから、耳に届かなかったのです。

9.自分を根拠に生きなくていい
□金 光 先ほどご紹介いただいた関先生のお手紙の中の「お念仏『南無阿弥陀仏』をいただいたゆえに生きることができ、お念仏いただいたゆえに死んでゆけます」といったことばの中に、自分を育てて生かしてくださっているすべての働きを込めて、そのことばで表わしていらっしゃるという感じが伝わってきますね。
■志慶眞 そういう大きい世界からの先生の声だという感じがいたします。
□金 光 日頃そういう呼びかけを受けて生活をしていらっしゃる人からは、そういうことばがまた自然に出てくるということですね。それを受けた細川先生のお手紙にも、また同じような波長のことばがあります。それはもう永遠の世界とつながって生きているということになるわけですね。
■志慶眞 そうですね。だから生と死を支えている大きな世界ですね。私たちは生か死かと分けていますけれども。
□金 光 これは分別の世界で言っているだけで、死は別と思っていますね。
■志慶眞 だからその生と死を支えている大きな世界が本当にいただけるかどうかが問題ですが、これは自分というものの限界に出会わなければ、観念で理解しようとする以外にないですね。結局、真実の大きい世界に出会うということと、私の正体が明らかになるということは切り離せないことだと思うのです。そういう世界がここには語られているのです。
□金 光 自分に出会うという場合、何か自分という塊がどこかにいて、日頃気がつかないでいたのが、やあこんにちはと会ったかのように考えられるかもしれませんが、どうもそういうことではないようですね。自分に出会うとは、自分の正体を教えられるということでしょうか?
■志慶眞 私の中に煩悩があるのではなく、煩悩に名前をつけたのが私で、どこまで行っても私は煩悩なのです。だから人間の上に真実とか正義とか立てることは、本当はできない。
□金 光 それはいわば「われ−なんじ」の関係であれば、「なんじ」のほうにのみ正義や真実があるということでしょうか?
■志慶眞 そうです。正義も真実も、すべて仏さまの世界のものです。そこに返すべきものを、私どもはそれが見えないために自分に立てようとする。そのせいで、さまざまな悲惨なことが起こってくるのではないでしょうか。
□金 光 だからそういう正義・真実を自分のものにしようと努力して、できたつもりでもそうはならなかったし、むしろそうでないことをいっぱいしている自分であったということに気がつくとどうなるのでしょう?
■志慶眞 ちっぽけな自分を根拠に生きなくていいのですね。ところがその大きな真実の世界に気づかないので、私どもは落ち込んだり、卑下したりするわけです。自分で自分の始末をつけようとするんですね。これでは生ききれないのです。私どもがこの裟婆でやっていることはみなこういうことなんです。
 けれども本当に自分というものは、煩悩具足の身であると気がついたら、私に真実がないことがわかる。落ち込んだり居直ったりするのも煩悩なんですね。そういうことがわかれば、私どもは大きい世界に頭を下げて生きる以外にないんじゃないでしょうか。
□金 光 そうしますと、自分自身を取り上げて、自分はこれができる、あれができるというようなことは言えない自分であるけれども、といって卑下したり、小さくなって生きる必要はない……。
■志慶眞 逆に大きい天地が与えられてくると申しましょうか。それまでは裟婆の自分のエゴがエネルギー源でしたが、この大きい世界をいただくと、真実の仏さまの願い、それがエネルギー源になってくるのです。一生懸命がんばることは同じなのですが、そのもとのところが違うのです。

10.私が変わるわけではない
□金 光 煩悩がなくなるのではなく、生きるためのいろいろな働きとして、煩悩のようなものが出てきても、それにエゴの塊がくっつかないで、それが大きな広い世界で活躍する原動力にもなるということでしょうか?
■志慶眞 仏法の教えに出会うことによって、また本当の自分に気づくことによって、私どもは煩悩の身に信をいただくのです。これがあるから私どもは大きい世界に出会えるのです。この大きい世界に出会えるのは、私が煩悩具足だからです。私に真実を立てなくていい世界、私が真実でなくていい世界。逆に言えば真実にうなずいて生きてゆける世界、これは私が自分で決着をつけなくていい、大きい世界です。
□金 光 煩悩がなくなるのではなくて、煩悩があることに気づかせてもらえる世界がまた生きる新しい大きなエネルギー源にもなるという……。
■志慶眞 だからこの人生では、切って捨てるものはない。すべては生かされてくるのです。私どもがこの教えを聞きますと、最初はもうがんばれないという思いになったり、がんばることが悪いように思われてくるのですが、そういうことではないのです。逆にいろいろなものが照らし返されて、がんばれる世界になってゆくのです。
□金 光 がんばるということばは、我を張るということからきているそうですが、我を張る必要はないわけですね。我を張らないで、力を発揮すればいいわけで……。
■志慶眞 ただ、私ども人間のほうから言えば、私どもはいつでも「われ−それ」の世界にあって我を張るんですね。その我を張っている自分がもう一度照らし返されて開かれてくる大きな世界がある。私はそのままですが、この煩悩の身に仏さまの眼差し、仏さまの視点がいただけるということで、私が変わるということではないのです。この身の正体が光に照らされて、教えによってはっきり見えてくる世界、仏さまの眼差しをいただく世界が開かれるということです。私の行動が良くなるとかということではないんですね。
 私どもには自分の最期がどうなるかわからないですね。ぼけるかもしれないし、病気になって死にたくないといいながら死ぬかもしれない、交通事故に遭うかもしれない。どういう死に方をしてもいいのですが、一度はこういう大きな世界に出なくてはならないだろうと思います。
□金 光 大きい世界があることに気づかないと、本当に息苦しい、辛い人生ですよね。
■志慶眞 それは悲惨な人生だと思います。結局、私どもは生老病死の中にあって、死にたくない、こうはなりたくないと愚痴を言いながら生きているわけですが、そうではない永遠の真実の世界を実は仏さまは届けようとしているんですね。
□金 光 そうしますと、先ほどおっしゃったブーバーという人はユダヤ教のラビだそうですが、本当に永遠の世界、超越した世界、生死を超えた世界の消息というものは、宗教の教派が違っていても、根本のところでは共通な所があるわけですね。
■志慶眞 そう思います。この話を聞いている自分だけが、真実に出会えるわけではなくて、教えを通すことによって、どの人も大きい世界に出会うことができるのだと思いますね。
□金 光 それで若いときに「わかるまで聞いてください」と言われたのも、そういうことを知っている方がおっしゃったということなんでしょうね。
■志慶眞 そういうことだと思います。本当にありがたかったですね。

11.教えによって照らし返される
□金 光 まことに俗な質問になりますが、志慶眞さんは開業して十数年間、小児科の先生としてやっていらっしゃるわけですが、まだ仏法がわからないとおっしゃっていた最初の頃と現在とでは、患者さんをご覧になるときの姿勢に多少の変化は感じられましょうか?
■志慶眞 何が変わったかというと、焦りがなくなったことです。それまでは毎日毎日の生活が何か焦っていたんですね。それがなくなりました。それは本当にうれしいですね。私は昔、理想主義を掲げて突っ走るほうだったのです。そうしないと生きてゆけなかったのです。
□金 光 ずいぶん勉強されているということは、目標を立ててまっしぐらに突き進まないとできることではないと思いますが。
■志慶眞 止まったら倒れる以外にないというぎりぎりの生活をずっとしてきました。今は沖縄のこの田舎で、毎日この身のままで生きていっていいと思っています。これは十歳の頃のどうにもならなかったことからしますと、ちょっと想像もつかない世界でした。それまではあれを変えたりこれを変えたりして、解決しようと思ってきたわけです。でもそれは解決にはならなかった。だから、そうではない世界があったことはうれしいのです。
□金 光 と言って、たとえば疲れたときには疲れたという感じがなくなるわけではない……。
■志慶眞 いや、それはもちろんあります。先ほども申しましたように、私どもは生老病死の身です。それはもう喜べないです。でも、その身を通すことによって、教えに会うことができる。教えを喜ぶことができるのです。煩悩で振り回されているわが身が見えるということは、逆にそれを超えた大きい世界がうなずけるということです。一つひとつのことがすべて、私に教えとなって届く世界が開けてきますね。ですから、わが身が念仏道場です。
 疲れることもありますし、愚痴を言うこともあります。しょっちゅう腹が立ったり、あれが欲しい、これが欲しいという生き方をしていますが、そのわが身がいつも教えによって照らし返される、これは死ぬまで変わらないと思うのです。そういう変わらない世界をこのまま生きてゆける、仏さまがいらっしゃるから生きてゆける、そういう世界だと思うのです。それまでは、自分で決着をつけなければならないと思うから、あえぎあえぎ生きていたわけです。
□金 光 でも、十代の頃から何十年か経って、今こういうお話ができるという身になられたということは、本当に良かったですね。
■志慶眞 はい、うれしいですね。

志慶眞さんに、NHK出演の顛末を文章にまとめて頂きました。→「NHKラジオ深夜便出演の波紋