あとがき
『歎異抄講読(第七、八章について)』細川巌師述 より
今回は細川先生の『歎異抄講読(第七章、第八章について)』を有難く頂きました。
第七章は実にさわやかなみ教であり、昨今の大空の如く、疑念の雲一筋もない秋空にはためく念仏の大旆にも似て、何ものにも妨げられない荘厳さが感じられます。
「秋の空打出でて見ればなにもなし」この句は、私の郷里の俳人村上鬼城の一句でありますが、なにもなしとは、天地宇宙に大法が充満しているともいえます。
澄み切った大空のかなたから無限にして絶対の大いなる世界に帰れと私に呼びかける如来本願の声は、即得住生、住不退転への大号令の如く力強くひびいてきます。
南無阿弥陀仏、念仏とは仏の本願を憶ひ、私にかけられている仏の大いなる願を憶う。即ち弥陀の本願に対する憶念が、口に南無阿弥陀仏と出る。これを念仏という。
しからば真の念仏とは何か。即ち自力を捨て、仏のはからいにより、ためにすることなく、念仏者の口から流れ出るもので、これを他力の念仏という。この様な念仏であるから念仏は行でもなく善でもないといえます。
第七章、第八章については、昭和五十四年一月から五十四年十一月まで日野市中央公民館の講義をまとめたものです。テープからのおろし及び清書は、佐々木文子・辻内佐喜氏、印刷に際しては広島大学助教授松田正典先生のお世話を頂きました。厚くお礼申し上げます。
田中 佳一郎昭和五十五年十二月十日
歎異抄講読 (第七、八章について) 細川 巖 講述 昭和五十六年一月 十日 印刷 昭和五十六年一月二十日 発行 発行者 田中 佳一郎 発行所 日野市教育を考える会 |