六、非善

『歎異抄講読(第八章について)』細川巌師述 より

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 非善とは、善を私自身が意図的にやるというよりも、私が大きなものに向かって前進していくその背後に自然に生まれてくる善である。前進とは求道である。いよいよ仏法を聞き、考え、いよいよ進んでいく。それを往相という。具体的には読誦、観察、礼拝、称名、讃嘆供養の五種正行をいう。要するに聞いて考えて実行することである。そのうしろに巻き起るものがある。往相の背後に起るものが非善である。この善は私においては自分がやったという思いがない。
 船が全速力で走って行くならば、その後には大波小波が巻き起ってくる。その波が近くの船をゆり動かす。前進していく船には大波小波を巻き起そうという意志はない。ただ自分が進んでいくだけである。進んでいく者がその背後に巻き起すものを還相という。他への働きかけという。還相の廻向というのは、往相が還相をはらむ。前進することによって背後に自然に色々の徳が巻き起ってくるのである。往相が廻向であるから還相も廻向である。
 私は思う。その人が本当に前進しているかどうかを見るには、その人のまわりに本当に動いている人が生まれるかどうかでわかるのだと思う。その人の信心が本当であるかどうかは、ちょうどリトマス試験紙が酸で赤くなるように、その人の周囲に仏法を聞く人が生まれるかどうかでわかるであろう。これは私が自分で信を認めるのではない。わが計らいで申すのではない。自己において自分の信を肯定したら、それはとんでもない間違いである。ただ人の上に徳を拝むには、その人の還相の働きを拝むしかない。その人の周囲に本当に念仏に動かされている人が誕生してくるか、本当に聞法の旅に立とうとしている人が生まれてくるかどうかを見るとわかる。前進する者の背後には必ず新しい人が誕生する。しかしながらそれは自分で肯定することではない。船が進めば波が起る。波が起らずに進んでいる船は一隻もない。これを、還相は往相の利益という。
 求道の背後に巻き起る他への働きかけを非善という。行者の計らいで作ろうとして作った善でなく、やろうとして生まれたものでない。名聞利養、勝他でなく、手段でなく、その人の前進の結果として生まれてくる。それは大きな大きなものの力が出て来たのである。これを如来の廻向という。
 非善は廻向の善である。与えられた善であると感謝せずにはおれないものである。
 ここに磁石がある。この磁石は釘を次々と引きつける。この釘が本当に磁石になると次なる釘が引きつけられる。磁石になると次なる釘を引きつける力を持つ。自らが親磁石に引きつけられるのを往といい、次なる釘を引きつけるのを還という。こうして次々と次なるものが生まれてくるようになっている。次を引きつけるところに親磁石の働きがある。次を引きつけた釘は、私が引きつけたという思いを持たない。親磁石に働きかけられて自分が引きつけられたという思いしかない。そしてその親磁石の徳で次なるものが引きつけられたのであるとしか思えない。これを往相はこの釘においては非善であるという。わが計らいにて作る善にあらざれば、私においては非善であって、その思いは如来のお働き、まことに有難いことであるという感謝。感銘である。如来の御働きとしてしか拝めない。これが行者の思いである。
 曾我量深師はこう言っておられる。本当の仏道の成就、本当に弥陀の大慈悲をわが身に知るということは、単に自分が念仏申して進んでいくということだけではない。自分の周囲に念仏申す人が生まれてくるところに、如来の大悲というものが真に体得される。こう言われるが実にその通りであると思う。自分が働きかけて求道の人が生まれたと、自分の手柄を誇るというようなことではない。周囲に求道の人が生まれたら、如来の御働き大変なことであると如来のお力を感謝するほかない。まことに「わが計らいにて作る善にあらざれば非善という」と言われるその通りである。
 親鸞聖人は往相も廻向、還相も廻向といわれた。磁石に引きつけられる釘にとって、往も還もみな如来の御働きである。自己において肯定される何ものもなく、全て廻向の善、如来の御働きというところに順理ということがある。道理に添った働きであって、これを真の善という。まことに大きなものの働きそのものが現われているのである。

 以上第八章を大体申し上げた。最後に私の感想をつけ加えたい。
 大きなものに小さなものは包まれている。曇鸞は帰命と礼拝ということを言われる中で、「帰命とは信心、礼拝とは礼拝合掌、帰命をもって重しとなす」と言われた。礼拝というのは帰命に比べると軽い。帰命は必ず礼拝である。しかし礼拝は必ずしも帰命にあらず。こういう事を『論註』に言ってある。
 ある先生がこの「重しとなす」ということを話された。重いものの中に軽いものは全部入っていると。帰命の中に礼拝は入る。逆に軽いものの中には重いものは入らない。従って礼拝するというだけでは帰命ではない。信心というわけにはいかない。
 重いとは重要ということである。人生において最も重要なものが解決されるならば軽いものはすべて解決される。
 宗教という言葉がある。いい言葉だと思う。宗とは辞書を引いてみると棟と同じ言葉から出ているのだという。旨とは中心点、最も大事な所であり、棟とは建物で一番高い所で一番目立つ大事な所を言っている。一番大切な所を宗という。一番大事な教一番根本の教を宗教という。英語ではレリジョン(religion)という。契約という。キリスト教では、神が人間に約束された、神の掟を守る者は必ず天国に迎えるという契約を元としているのを宗教と訳した。が、仏教は違う。契約ではない。日本或いは東洋でいう宗教は、教の中の教、一番重要な、一番根本的なものを宗教という。教の宗を言っている。この一番重いもの、一番宗になるものが解決したならば他のものは全部解決する。
 南無阿弥陀仏が本当にわが身に解決したならば、他のものは全て解決される。南無阿弥陀仏という中に全部入るんだなあということが近頃私にわかるようになった。勇気も善である。が、それらはすべて南無阿弥陀仏という中に含まれる。なぜなら念仏は大善大功徳であるから。宗教が解決したならば他のことは皆わかるようになるのである。
 これをつけ加えたい。


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