四、念仏は大善大功徳

『歎異抄講読(第八章について)』細川巌師述 より

歎異抄講読HP / 目次に戻る

 念仏、即ち南無阿弥陀仏は大善大功徳であって、念仏にまさる善はない。第一章には「しかれば本願を信ぜんには他の善も要にあらず念仏にまさるべき善なき故に」とある。これは遠く聖人の御師匠法然上人のお言葉として『選択集』に由来する言葉である。
 例えば一軒の家を建てるのに、一本一本の柱があってそれが家を支えている。今、家全体を念仏とするならば、一本一本の柱が諸善である。勇気、謙遜、まごころ、積極性等々、色々な善があるが、それらは皆念仏の内容であって、それぞれ家の一隅を守っている柱である。このような喩が『選択集』に引いてある。
 また、布施という善があり、持戒という善があり、忍ぶという善があるが、それらは部分的な善であって、その全体を総合したものが念仏である。念仏が大善大功徳であるというのが、法然上人の根本的な教である。このことを先ず申さねばならない。
 今、『歎異抄』の内容をみると第四章では慈悲が出ている。慈悲とは現代の言葉で言えば、真の愛情というものであろう。慈はいつくしむ、悲は悲しむという。慈しみ育て、あわれみ悲しみ育くむという。この真の愛情を持つということは大きな善の内容である。自分さえよければいいというのではなしに深い愛情を持っている。これは善の大きな柱である。
 第五章には孝行の問題、親に対する子供としての姿勢が説いてある。真の家庭を作りあげていく力は念仏の徳であり内容である。真の家庭とは何かというと尊敬、深い報恩謝徳、親子夫婦のつながりである。一言で言えば同行というものになろう。愛情が友情に変わる。夫婦というのは男女の愛が中心であるが、それがだんだんと友情におき変っていくといえる。これが念仏の働きであり、大善大功徳の内容である。第五章には念仏が孝という姿で出ている。
 第六章は師弟という問題である。師弟というところに真の人間関係がある。「親鸞は弟子一人も持たず候」という、指導者意識を捨てて本当の同行、友としてつながっていく関係である。
 念仏はこのような諸善諸功徳を生み出す力を持っている。

 善とは何か、順理の行を善という。道理に順うという。水が高い所から低い所に流れるように、必然の道が道理である。皆が納得出来るものを順理という。また、善というのは最後は作為的なものでなく、自然でなくてはならない。自分がやった(作心)というものでない無作為のものでなくてはならない。善とは、やらねばならないからやるというのでもなく、厭々ながらやるのでもなく打算的にやるのでなしに無作為である。それを不行而行(フギョウニギョウ)という。行ぜずしてしかも行ずである。
 いま四、五、六章では念仏の功徳として真の愛情と真の家庭の成就、真の人間関係の成立が自然に生まれてくることが述べられている。
 それらを結んで第七章には「念仏者は無碍の一道なり」、本当の大道が開けてくるのだと言う。念仏が大善大功徳であり、人間の上に成り立つ本当の善である。本当の道である。このことが第一章の根底にあるもので、これを「念仏にまさるべき善なき故に」というのである。

 念仏とは南無阿弥陀仏である。それが私に届いて南無阿弥陀仏と念仏申す。大きな世界を如、一如、ロゴスという。小さな小さな存在でありながら私はこの大きな大きな世界に包まれている。ちょうど親木から生まれたどんぐりのように固い殻をかぶってころがっているのが私であるのに、大地がこれを支えている。燦々と太陽が照りまわりには水があるように、自分にはよくわからないが大きな世界に包まれて如なるものが常に働きかけている。母親は単に子供を抱いているのではない。乳をのませおむつを取りかえ語りかけて深い配慮をするように、大きなものは小さなものに常に呼びかける。その姿を如来という。如は如でいることができなくて必ず働きかけてくる。これを如より来たる、如来という。働きかけずばやまじと配慮してやまぬものを如来本願という。具体的には南無阿弥陀仏といい、本願の名号という。私に南無とよびかける。「汝、小さな殻を出でて大きな世界に帰れ」と呼んでやまない。この南無阿弥陀仏が届いて、私が南無阿弥陀仏とそれに応える。それを念仏申す身となるといい念仏行者という。私の殼が破れたところを信という。
 亀井勝一郎氏の『愛の無常について』(角川文庫)の始めにこの問題が出ている。この人は、人間生成という。人間生成とは、人間は生まれ変わるのだ、私の言葉で言えば人間ははじめどんぐりであった。その殼を被ったどんぐりが、発芽して一本の苗木になるということを人間生成という言葉で言っている。
 亀井勝一郎氏のことを仏教界では無視した形になっているようだが、この人には非常に大きな特色がある。その一つとして、仏教用語をあまり使わないでその精神を現代人に届けようとしている努力が見られる。そしてそれが効果をあげている。この『愛の無常について』もその一つである。
 人間生成とは、念仏申す身になることである。このための順序は、
(1)先ず考えるということである。考えるということはどうして出来るかというと、読書と聞法である。
(2)そして迷うこと。ゲーテが言うように、人は努力する限り迷う。まことに迷うことが大事である。わからなくなるということである。それには二つあると思う。一つを問題意識を持つということが大事である。
 話があちこち飛んで申し訳ないが、大内という東大をやめられた先生が、学士会々報というのに「今の学生昔の学生」というような題で書いてある。それによると、学問に未来はあるかということ、一般的に言うと日本の学生に学問を担う未来性はあるかということを副題として出している。結論は、今の学生が将来学問を背負って立つとか、日本の学問の未来に貢献するとかの可能性について、自分は全く絶望的だと言っている。なぜかというと自分が東大で三十年教えて感ずることは、今の東大生は考える力がない、問題意識を持たぬということを繰返し言ってある。
 思うに、問題意識を持たぬということは、「本当にそうなのか」ということを考えない。積極的に勉強してゆくと、「本当にそうなのか」ということに必ずでくわす。仏法に例をとるならば、仏法は資糧位(聞いて考える)から出発する。そして加行位(実行する)。そして遂に通達位(信心)に達するのだと教えられる。しかし自分がやってみるとなかなか出来ない。そこで問題が起るのである。やってみたが私においてはそれができない。これを何回か繰り返しているうちに、本当に聞思修を繰り返していけば通達位に達するのかという疑問が出るはずである。これが迷うということである。仏法の話も、ただ聞いているだけではいけない。迷うということが大事である。
 大内氏は言われる。「三十年自分が東大で教えていて思うに、講義を聞いて覚えようとする学生ばかりで、自分で考えようとはしない。迷わない。問題意識を持たぬ。こんなことでは学問は起らない」と歎いておられる。これは大内先生だけではない。学習院大の加藤秀俊先生の『独学のすすめ』という書物があるが、その中で同じようにこの先生も歎いておられる。この現状ではもう日本の学問の将来は駄目なんでないかと言ってある。考えようとしない。答を出そうとすることばかり考えて、問うという姿勢をもたない。問いを持たない。小さい時から問題を出すのは先生で、生徒はどうしたら答が出せるかという教育ばかりやっている。このためかどうかわからないが考えて迷うということをしない。二人の先生がこういうことを言っておられる。これは本当に皆が考えねばならない問題だと思う。私も両先生の申されるその通りだと思う。しかしそれならば日本の将来は絶望しかないのかというと、私は絶望しない。なぜならば方法は色々ある。私は仏法を学ぶことだと思う。仏法を学んだら必ず迷い問題意識を持つようになっている。仏法がこの危機の突破口として大きな意味を持つのだと思う。
 迷うとは一つは本当にそうなのかと考えること、も一つは「私において具体的にどうしたらよいか」ということを一人一人が考えることである。
(3)人間生成への道の第三の段階は「かくあれかしと思う一念の発生」。迷いの中からどうしてもこうありたいと思う一心がまき起ってくることである。どうしてもこの問題を解決し、私において仏法を成就し、私が本当に念仏申す人間になりたい、どうしてもそうなりたいという一心が起るということ、そういう願いを持つということである。これがなければならない。
(4)そこに出遇い、邂逅ということがある
(5)そして自分の言葉を持つ
 私はこの自分のコトバを持つというところに非常に同感した。大変独創的な言葉で、よくわかるように思った。しかしその後、ことばとは何を言っているのかなとよく考えてみると、これは南無阿弥陀仏が本当に自分の言葉になることだなとわかった。我々は自分の言葉を持たない。自分で話しているのだから自分の言葉だと思っているが、そうではない。実際は皆借りた言葉、習った言葉、教えられた言葉である。自分の言葉とは、私自身が心の底からそう思い、私自身が私自身として発する言葉である。領解であり体解でなくてならない。南無阿弥陀仏という言葉も、はじめは一応話として解るようになる。
 如なるものが如来の本願として名告ってきたのが南無阿弥陀仏であるとわかるようになる。それが受け継ぎ伝えられて法然、親鸞を通して届けられてきて、私が南無阿弥陀仏と申すのである。しかしそうわかってもまだまだ南無阿弥陀仏は借り物であることが多い。本当に自分のものにならない。
 自分の言葉とは何か。ここに火があるとする。火は熱いものだと知っている間はまだ火が自分のものになっていない。この火が私に触れてやけどをして発する「熱い!」という言葉は、まぎれもなく私の言葉である。借りてきたのでもなく考えたのでもない。仮に言ってみたというのでもない。事実として熱いのである。南無阿弥陀仏が来って私に触れた。私の殻を破って届いて、私が南無阿弥陀仏になった時、南無阿弥陀仏は私自身の言葉である。南無阿弥陀仏という大きな火が届いて、私において南無阿弥陀仏になった。亀井氏の言葉で言えば、自分の言葉になった。それを念仏という。これを体解という。私が本当に体得した。ただ南無阿弥陀仏である。亀井氏はこういうことを言われたのではなかろうかと最近感ずる。人間生成の道は遂にこれしかない。法然も親鸞もこの道を歩まれた。我々もまたこの道を歩くしかない。自分の言葉をもつ道を歩まれた。
 人間は動物進化の中で一番進んだものと言われる。アミーバーの状態から魚の状態、両棲類、爬虫類、哺乳動物を経て人間になった。そして母親の胎内でこれらの段階を繰返しながら遂に人間の形になるのだと言う。親が人間だから子も人間というわけにはいかぬ。親もそのような道程を繰り返して人間となり、子もまた繰返し転回して人間となるのである。「往生は一人のしのぎなり」という言葉がある。求道の問題というのは一人一人の問題である。しのぎとは雨露をしのぐというように、色々の苦労を超えていくこと、色々の過程を超えて問題を解決していくことであろう。一人一人がしのぎ、解決し、超えていかねばならぬのが人間生成である。親が求道の問題を解決していった、だから子供はもうしなくてもよいというのではない。子は子でやらねばならない。親鸞は親鸞で、法然は法然で歩んで行った。そして私も私でこの道を歩まねばならない。そうしてはじめて私が人間になる。そのはてに、もはや私から南無阿弥陀仏を奪うことも無くすこともできない世界に立つ。南無阿弥陀仏が借りものでなく無理に身につけているものでもない。わが身に燃えついて自分のものになった。南無阿弥陀仏が届いて私の言葉になった。それを「ただ念仏」というのである。南無阿弥陀仏が私に届く時に本当の人間の生まれ変りがある。
 この南無阿弥陀仏が大善大功徳である、われらの善の中には必ず不純なものが入っている。雑善である。深い自己主張、愚かさの入った善即ち雑毒の善である。如来の善は純粋でまじり気のない大善である。われらの次元を超えた真実の世界からの働きかけを大善大功徳という。この働きかけが届いて私の上に南無阿弥陀仏となって私の言葉となる。この時、私の心が如来の心に燃えとかされて大善大功徳となる。この大善大功徳が『歎異抄』四、五、六章に、は、あるいは慈悲となり孝となり、真の人間関係の成立になって現れてくる。しかしわれらにおいては、主観的に自己を善ということはできない。われらが念仏して善をやったということは決して言えない。そういう否定を「行者のために非行非善なり」という。これが大善大功徳が成立する主観の内容である。

 聖人は『教行信証』行巻の中に次のように言われた。(『島地聖典』12-47) 
 如来本願海から生まれた南無阿弥陀仏は大善大功徳である。それを喩を引いて「悲願は喩えば大虚空の如し」という。大善大功徳(大悲の願、具体的には南無阿弥陀仏)は大虚空のようである。沢山沢山の功徳が満ち充ちてほとりがない。善は沢山ある。親切も勇気も謙譲もみな善であるが、それを小善という。それらは大きな善の中に入っていて、その一部分を占めている。大きなものを大虚空という。本願の海から具体的に出てくる南無阿弥陀仏には、大虚空即ち無辺の善根を(はら)んでいるのである。「猶し大車の如し」。全ての人を乗せていく大きな大きな乗り物である。善人も悪人も全てを包んで乗せていく。我々の現実人生から本当のさとりの世界に乗せて行く車である。これを大車の如しという。「猶し妙蓮華の如し」。蓮華は泥の中にありながら少しも泥に汚れない。それと同じく、南無阿弥陀仏は我々の心の中にありながら汚れない。清純である。「猶し利剣の如し」。切れ味の鋭い刀である。「能く一切憍慢の鎧を断つが故に」。自分が高く自分を買いかぶっている憍慢の殼を打ち砕いてしまう力を持っている。以下多くの喩えを引いて大善大功徳ということを言おうとしておられる。これらはコマーシャルでもなければPRでもない。本当にそうなのである。本当に南無阿弥陀仏が私のものになったならば、その中に沢山沢山の功徳があって、私を乗せて涅槃にいき、私の憍慢を断つ、まことにこの通りである。まことに感銘せざるを得ない。念仏は実に大善大功徳である。

 それでは南無阿弥陀仏と念仏申す者が自分で、私は大善大功徳を持っている、私が大善大功徳の念仏を称えていると自己肯定出来るのかというと、そうではない。行者においては念仏は非善である。自己の作る善ではない。「念仏はひとえに他力にして如来の本願なり」と、高原覚正師は頂いておられるがまことにその通りである。「念仏はひとえに他力にして如来の本願なり」を、「行者のために非行非善なり」という。


ページ頭へ | 五、わが計らいにて作る善」に進む | 目次に戻る