三、第一、二、三章と第八章との関係

『歎異抄講読(第八章について)』細川巌師述 より

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(1)第一章と第八章

第一章は「弥陀の誓願不思議にたすけられる」が中心である。大きなおおきなものが届いて光となり、私の発芽をうながしてくれる。人間の本当の救済というのは本願に遇うということである。この第一章は第八章がつづまりになっている。「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせる」ということは第八章から見ると「ひとえに他力にして」如来の本願力に助けられるということである。これがひとえに他力念仏なのである。念仏というところに弥陀の本願があり、弥陀に助けられまいらせるということがある。第八章は第一章と直結して頂くと、弥陀の誓願不思議にたすけられるということは、ひとえに他力であって、「ただ念仏」の身となるということに極まるのである。ただひとえに念仏するというところに如来の本願力がある。「念仏はひとえに他力にして如来の本願力なり」、高原覚正師のこの言葉は名文句である。こういう言葉を何遍も繰り返して口にしていると、いつしか我々は深い感動を覚えるようになっている。我々一人一人が申す念仏がひとえに他力であって如来の本願力である。仏を念じ称名念仏する、これが如来の本願力であって他力である。自力を離れて行者のために非行非善である。私の力の何一つ加わらない如来の本願力である。そこに「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせる」ということが具体的に成立する。第一章と第八章を直結して考えると、「南無阿弥陀仏」と念仏することが如来の本願であり、弥陀にたすけられるということであるとわかる。感銘深いことである。

(2)第二章と第八章

第二章は「よき人の仰せを被る」である。それが「他力にして如来の本願力」である。よき人の仰せを被って信ずるというところに念仏があり、南無阿弥陀仏がある。その念仏は他力にして如来の本願力であって、我々がよき師よき人を賜うて念仏する身となっていくというところに本願力というものがある。第二章では「親鸞におきては『ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし』と、よき人の仰せを被りて信ずるほかに別の子細なきなり」というところに、念仏の具体的な姿がある。如来の本願というものはよき人の仰せを頂いて届いてくる。よき人の仰せを被るままが他力であり如来の本願力である。
 この世に必要なものは水と光である。どんぐりの発芽には先ず水が必要である。私共の方では十月の中旬までに秋播野菜や春の花の種を蒔く。中旬過ぎにえんどう、十一月に入ると蚕豆、十一月中旬頃に麦を蒔く。私の所ではそうしている。今やっと草花の種を蒔き終えた。たくさん蒔くので、私の所にいる六十代の三人の方に分担して種を蒔いてもらった。一番大事なのは土。いいのは腐葉土である。次に大事なのは水。多すぎてもいけないし、足りなくてもいけない。次に光が必要である。発芽しても光を当てないと、がっちりとした芽は出来ない。水が要り、光が要る。この水がよき人の仰せであり光が教である。
 よき師よき友の勧め励ましが水である。私の所の小さい保育園には現在三十五人いる。その中に障害児が四人いる。この間運動会をやった。重い障害児は、皆が並んでいる時でも飛び出して、とっとことっとこ走り廻る。なぜこのような子を園に入れるかというと、他の幼稚園でみな断わられて入る所がないからである。みんなと一緒に保育したら治るかも知れないと思い、保母達に相談して入れることにした。見ていると、他の子供達がとっとことっとこ走る障害児の手をとって連れてきて座らせる。こちらが何も教えたわけでもないのに、子供同士で、自分達で励まし合い勧め合い助け合ってやっていく力を持っている。運動会の様子を見て私は非常に感動した。父兄も涙が出たという人もいた。大人の我々にはなかなかできないが、子供達は協力し助け合っていく力を持っている。友の働きによってかたくなな殻の中に水がしみ込んでいくのである。その友はよき師より生まれる。また、よき師が同時によき友である。これがよき師よき友である。
 も一つ光がいる。なぜ光がいるのかというと、人はよき師よき友の励ましによって大きくなっていくのであるが、最後には教によって照らされて自己自身を知るということが展開されていかねばならないからである。

 これらよき師よき友の仰せ(水)教(光)は全て他力廻向であって如来の本願力である。私の力でよき師よき友に遇うたのではない。私の徳で教に遇うたのでもない。全てこれ如来の廻向である。廻向とは賜うたもの、恵まれたるものである。水と光を与えられてはじめて広い天地を知らされたのである。
 これが第二章と第八章のつながりである。「念仏はひとえに他力にして」という意味は、第二章と結びつけて考えると、「よき人の仰せを被りて」念仏申す身となった、そのよき人というところに如来本願の働きがあったのだ、他力廻向だったのだという趣がある。
 従って第一章、第二章もそれぞれ第八章と結びついて、第八章の意味が明らかになる。それらのつづまりが第八章となる。

(3)第三章と第八章

 第三章の「他力をたのみたてまつる悪人」の自覚というところに他力廻向の念仏が生まれる。悪人の自覚というところに生まれる念仏も、その自覚もひとえに他力なりであって、「行者のために非行非善なり」である。

 このように第八章は第一章からのつづまりになっている。『歎異抄』の第一章から第八章までの一番ピークが第八章になっている。一番深い言葉になっている。


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