はじめに

『歎異抄講読(第八章について)』細川巌師述 より

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 『歎異抄』は第一章から第十章まで「念仏」で一貫している。第一章には「念仏申さんと思いたつ心」とあり、また「念仏にまさるべき善なき故に」というように「念仏」が出ており、第二章にもまた「親鸞におきてはただ念仏して」とあり「念仏はまことに浄土に生まるるたねにてやはんべらん」「この上は念仏をとりて信じたてまつらんともまた捨てんとも云々」とあって、「念仏」が繰り返し出ている。第三章だけはこの「念仏」という言葉が見えない。しかし「本願」といい「他力」というのは、本願他力の念仏ということで、念仏がうしろにかくされている。第四、五、六、七章にはすべて「念仏が出ている。今また八章に念仏があり、第九章にも「念仏申し候えども」とあり、十章にも「念仏には無義をもって義とす」と結ばれている。このように念仏が一貫している点が『歎異抄』の大きな特色である。
 念仏とは何か。大体二つの意味がある。一つは念ずるという意味。念ずるとは憶念、心に憶い念ずること。従って、憶念弥陀仏本願であり、仏の本願を憶う。私にかけられている仏の大きな願いを憶う。これが第一で念ずるという心の働きが中心である。も一つは称名念仏。憶念に対して称念。口に御名を称えて仏名を称念する。口の働き(口業)が中心である。
 『歎異抄』ではこの二つは根が同じであり、憶念が称念であり称念が憶念である。従って、蛙が鳴くようにただ口先だけで念仏申しているのでもなく、落語の種のように人を笑わすために念仏しているのでもない。弥陀仏の本願に対する憶念が口に南無阿弥陀仏と出る。これを念仏という。これが一貫している念仏である。
 現在、親鸞聖人の宗教の中で、現代人に一番わかりにくい点の一つは、南無阿弥陀仏と念仏申すということであろう。念仏とは何か呪文をとなえているような、わけのわからぬもので、「ゴマよ開け」というようにまじないを口にしている気がする。
 も一つ現代人にぴったりとこないのが浄土である。反対にぴたっとくるものは自覚であり認識(信)である。親鸞の宗教は自覚の宗教である。人間の日常性、凡夫性に深く目覚めることが自覚であるというようなことには同感するのであるが、しかし念仏とか浄土というのはさっぱりわからない。念仏も浄土も、現在では非常に非現代化して風化している言葉である。現代では念仏の風化はまことに目をおおうほかない程である。戦前までは浄土真宗のお寺というお寺は、お参りした同行の称名で本堂には念仏の声が満ち満ちていた。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏という声が本堂一杯で、念仏称名の絶え間がなかった。けれども今や耳をそばだてて聞いても念仏などというものはめったに聞こえなくなっている。念仏に意味がないのかというとそうではない。念仏ということがわからないと『歎異抄』は本当はわからないとさえ言えるほど、念仏には大事な意味がある。
 念仏とは、憶念という点から言えば、閉じている心が開いた、即ち心の開明である。心が開き明るくなる。それを念という。
 人間の心はどんぐりのように、親木から生まれてきた時には固い殼に包まれている。その殻は自己中心というか、自己主張というか、自閉的というか、要するに殻に包まれている。広く開けた世界を持たない。自我の殻の中に心が閉ざされている限り、どんぐりころころであって、どんなに努力しても人生の表面をころがっている流転にすぎない。風によってころがり、水の流れによってころがって、どんぐりころころである。そういうのを流転空過という。人生の表層を転がって、人生に深く食い入ることができない。
 このどんぐりに光と水が与えられて、遂に芽を出した。それが自己中心的に自閉している心が開かれることである。そこに明るい世界、広い世界を持つと共に、同時に深い取り組みができる。それを憶念といい念仏という。仰ぎ見る大きな世界を持ったのである。仰ぎ見る大いなるものをもってそれを念ずることができるようになったことを念仏という。その時、南無阿弥陀仏と口をついて讃歌がこぼれでる。それが南無阿弥陀仏であり、称名称念である。

 「ヨハネによる福音書」のはじめの第一節は、「はじめにコトバがあった。コトバは神と共にあった。コトバは神であった」である。この解釈書を色々読んでみるが、非常にまちまちである。どこがまちまちかというと「コトバ」というところである。そこがなかなかわかりにくい。しかし我々にはよくわかる。この「コトバ」は『英訳聖書』では定冠詞をつけ大文字を使ってthe Wordと書いてある。なぜ定冠詞をつけ、なぜ大文字なのか。それは普通の人間の言葉でなく神の言葉であるから大文字なのである。それは呼びかけなのである。その呼びかけは南無阿弥陀仏である。
 南無阿弥陀仏、南無は帰れ、来たれ、共にあれである。阿弥陀仏はアミタユース、アミターバー、即ち大いなるもの、無限なるものわれである。「汝小さな殼を出でて大いなるものわれと共にあれ」との呼びかけを南無阿弥陀仏という。それが「はじめにコトバがあった」である。一番はじめ人間のあるところに呼びかけがあった。この呼びかけにこそ大きなものすべてがあった。それをよく指摘したのは「ヨハネ伝」であるが、しかしそのコトバが何であるかを明らかにすることができなかった。それを明らかにしているのは仏教である。それを南無阿弥陀仏という。南無阿弥陀仏は仏の名前でなしに、仏のはたらきかけそのものである。大いなるものが南無阿弥陀仏と呼びかけてくるのであり、南無阿弥陀仏となって呼びかけてくるのである。それが届いてどんぐりの発芽がなされて殻が破れてくる。その時、大きなものに対する答を応答という。呼びかけに対する答、向こうから私の胸を叩くのに対する私の答を南無阿弥陀仏という。それを称名念仏という。これは呪文でもなければ、わけのわからぬ言葉でもない。
 ただ単にとなえているのでもなく人の真似事でもない。それは弥陀の本願、大きなものの願いを本当に聞き開いた時に私がそれに応答せずにはいられないもの、それを称名念仏という。これが南無阿弥陀仏である。従って南無阿弥陀仏という称名念仏がわが口から出るようになることこそ、親鸞の世界に入ることであり、大きなものにふれていく歩みなのである。念仏申すということが『歎異抄』を理解してゆく道である。
 南無阿弥陀仏と念仏申すことが大切なことである。『歎異抄』では第一章から第十章まで繰り返し繰り返し念仏を貫き通して言ってある。従って念仏ということがわからないと『歎異抄』もわからないと言える。念仏というのは言葉でわかるものでなく、また頭でわかるものでなしに、実際に南無阿弥陀仏を聞きひらいて念仏申すということが大切なのである。

 浄土真宗、広く申して仏教が他の教とどこが違うかというと、南無阿弥陀仏と念仏申すというところが一番違う。このような宗教は他にどこにもない。しかし南無妙法蓮華経と唱題する教があるではないかという人があろう。これは日蓮さんの教である。尊いお経の題目をとなえれば功徳があると日蓮が言っている。念仏とは違う。念仏とは大いなるものの願いである。はじめにコトバがあった。コトバは神と共にあった。南無妙法蓮華経と違うのである。
 「南無妙法蓮華経」という唱題は人間が考えてとなえる教である。しかし南無阿弥陀仏は本願の名告りである。呼びかけである。それが私に届いて遂にそれに答える身となる。そこに殻が破れて大きなものがどんぐりにおいて成立し、発芽していくという事実が生まれる。そこに仏教本来の目的である自閉的なものが打ち砕かれて大きな世界に心開いていく。本当の認識の上に立つということが成り立つ。南無阿弥陀仏が成り立つ。念仏申す身となるというところに仏教がある。祈る宗教や願う宗教はあるが、南無阿弥陀仏という宗教は他にない。これは人が真に独立する道である。仏教全体を代表した大道である。

 『歎異抄』は第一章から念仏ということを申し続けている。「他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なき故に」とある。ここは念仏には最上無上の善がある。第二章には「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」と言う。
 また第四章では念仏即慈悲という。真の愛情、慈悲というのは、第四章の終には「しかれば念仏申すのみぞ末徹りたる大慈悲心にて候うべき」とある。念仏申すということが大慈悲心である。人間の上に成立する真の愛情とは南無阿弥陀仏の成立にほかならない。念仏こそが慈悲の極みなのだといわれている。
 第五章では孝の問題。家庭における親子の結びつきは念仏に中心があるのだという。言葉としては反対のことばで「わが力にて励む善にても候わばこそ念仏を廻向して父母をも助け候はめ云々」と出ているが、意はその時に申したように、親子の本当の結びつきは念仏である。家庭における夫婦、兄弟、更に人間の結びつきは念仏に極まるのである。第六章は師弟関係、一般には人と人との結びつき、連帯は念仏に極まるといわれる。念仏こそが人間の本当の連帯である。このことも第六章のところで申した通りである。第七章では念仏が無碍の一道である。天の神も悉く尊敬し、外魔も内魔も何らの障碍をしない。念仏を申す者は無碍の一道に立たされる。念仏そのものが無碍道なのだというのが第七章である。
 このように第一章から念仏の働き、念仏の徳というものが述べられ、特に第四章からは第七章をピークとして深い念仏の働きが細やかに述べられてきた。その結びが第七章であって、念仏というものが無碍道なのだ、念仏道に立つ者は無碍の一道に立つのだというしめくくりがなされて、ここに念仏の持つ徳が大きく讃えられている。
 それを受けて第八章は、われらが南無阿弥陀仏と念仏申すのであるが、その念仏は行者にとって非行非善である。「わが計らいにて行ずるに非ざれは非行という」私の思いで行ずるのでなく私の努力で励む善でもなく、即ち「ひとえに他力にして自力を離れたる」ものである。ひとえに他力であり、ひとえに如来の本願力である。念仏は既に述べたように多くの働きをもつのではあるが、それは私の努力、私の決断でなしに、ひとえに如来の御はからいであるという深い感謝、感銘、感動が述べられている。即ち第一章よりずっと、特に四章から七章まで念仏の働きについて述べられてきて、今八章で念仏そのものが如来の御働きであると、まとめというか喜びというか、感銘となってあらわれている。


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