九、障碍することなし

『歎異抄講読(第七章について)』細川巌師述 より

歎異抄講読HP / 目次に戻る

 障碍(しょうげ)することなしとはどういうことか。私の中にどんな妄念妄想が起ろうと、私を何ら妨げない、引きずり込まない。信心の行者には魔界も障碍することなしである。信心の行者でなければできない。

(1)魔事を魔事と知る

 私に色々な問題が起っている。夜晃先生のお言葉では「問題は常にある」といわれる。「問題は常にある」とは、どんな人にも問題は必ずある。たとえば後悔は誰にもある。どうしてあんな事をしたのだろうか、あの時ああしておけばこんな事にはならなかったのにと、後から悔むことを後悔という。どんな人でも後悔のない人は一人もいない。また、外からはどんなに幸せそうに見えても内側にはみな問題を抱えていて、悲しみ悩み苦しみを持っているのである。この人生を生きていく上で、苦しみや悩みの無い者は一人もない。お釈迦様も八十才で亡くなる数年前に大問題が起った。それから数年して亡くなられた。一つは釈迦族の滅亡であり、も一つは提婆の叛逆である。それは釈迦教団ができて四十年以上もたった時である。提婆が分派行動を起し、五百人の弟子を引き連れて釈迦教団を脱退し、新しい教団を作るという事件が起る。お釈迦様にも問題はあったのである。
 親鸞聖人はどうかというと、この人は九十才で亡くなられた。やはりその数年前に長男を義絶して親子の縁を断たねばならぬような問題が起った。このように誰でも問題を抱えているのである。
 魔事は常にあるといっていい。魔事は常にある。常に内にある。そしてその魔事の解決も常に内にある。内にあるとは、私の内側にある。私の内に問題解決の道がある。私共は問題の解決を外に考える。全部そうなっている。政治、経済、社会の体勢、時代の流れ、そういうものが色々な問題をまき起してくると考える。従ってそれらの解決が問題の解決と思う。外に原因があると考える。が、そうではない。
 今、交通事故に逢ったとする。怪我をして痛い、苦しんでいる。自動車が私にぶつかったのだから自動車に原因があると思う。が、仏法ではそうは考えない。ぶつかった自動車は外にあるのだが、外にあるのは縁なんだ。縁とは依りて起るという。条件の一つなんだ、原因は内にあるのだという。自動車にぶつからなくても石にぶつかっただけでも怪我をするほかない体を我々は持っている。そこに因がある。外なるものは縁であって、内に問題がある。従って内を強くすることが問題の解決である。強くするとは、外を受け取る力をつくることである。
 ローソクがあるとする。燃えているローソクに風が吹いてきて消えた。なぜ消えたかというと風が吹いてきたからで、風が原因だと我々は考える。これが常識的な考え方である。これを平面思考という。知性を中心に考えるならばこれしかない。けれども仏教ではそれは違うという。
 焚火(たきび)が燃えているところに風が吹いてきても火は消えない。かえって風によって火は燃えさかるであろう。とすると、同じ風であるのに一方は消え一方は燃えさかる。風は縁である。ローソクの火が風に吹かれて消えるのは、火が小さいからである。同じ風が焚火を燃えさからせるのは火が大きいからである。問題は常に内にあるとはこういうことである。これを垂直思考という。垂直にものを考える力が仏教の知慧である。しかし、そういう考え方は世の中に通用しないじゃないか、皆がこう考えているのだからこれでいいではないかと思う人もあろう。ま、それはそれでいい、そういう考え方もある。そういうのを日常的な考え方という。
 日常的な考え方では世の中は行きづまった。ルネッサンス以来それで一生懸命やってきたのである。資本主義体制ではいかん、社会主義、共産主義体制にしなければいかんといって一生懸命やってきた。ところがよくならない。また科学を発達させねばならぬと思ってやってきたが、結果はよくならない。私自身も科学者のはしくれでありながら科学の批判をしていたのではどうにもならぬが、実際は科学だけではどうにもならない。
 この間、ペンシルバニアの原子力発電所に故障が起った。これはものすごく痛烈な出来事ですね。困った事です。あの事件の意味するものはとても大きい。最後の、人間のたよりにしておったものがあのようなていたらくでは大変な事である。
 日本では原子力発電の燃えかすを全部船で運んでイギリスにその処分を頼みに行っている。燃えかすの処分も自分で出来ない始末ではまことに心細い。
 要らぬ話になるが、この頃はひなどりに排卵剤の入った餌を与えて大きくすると早く卵を産むようになるという。普通は半年たたぬと産まないのに、この餌をやると三ヶ月か四ヶ月で卵を産むようになるという。で、どんどん食べさせる。そうするとその排卵剤はどこに入るかというと生んだ卵に入る。さてその排卵剤入りの卵を食べた人間はどうなるかというと、それはまだ研究されていない。研究のしようもないでしょう。そこで色々な動物に食べさせてみると、どうもよくないらしい。どうなるかというと、男性が女性化する。女性は早く女性化する。今の子供達のように早く体が大きくなり、女性として早く成長しすぎる。
 私が排卵剤入の餌で育った雄鶏を貰った。この雄鶏は体がとても大きい。それが雌鶏と一緒になって餌を食べる。こんな雄鶏を見たことがない。大体雄鶏というのは餌があると、コッコッコッコッといって雌鶏を呼んで、先に雌鶏に食べさせる。私の所では放し飼いにするのでよくわかる。自分は警戒をしてまわりを見ている。僕等が近づいても雄鶏だけはなじまない。やはり保護者としての役割を果している。犬でも来ようものなら必死になって犬に向かって行って雌鶏を護る。排卵剤入りの餌を食べた雄鶏は雌鶏と一緒に雌鶏を押しのけて餌を食べている。情けない奴である。犬が来ると雌鶏と一緒になって逃げて行く。これはもう情けないやら腹が立つやらである。人間の場合は一体どうなることやらと思う。卵を食べるのもあまりいい事はないということになる。いわゆる地卵でないといけないんじゃないかと思う。今は養鶏はものすごく機械化されているからもしかしたら排卵剤入りの卵を皆たべているかもしれない。うちの保育園は毎日うちで産んだ卵でもって給食をしている。毎日十五個位産む。決して心配はない。もう少したったらうちの保育園児の優秀さがわかってくるのではないかと思う。卵ぐらいではどうにもならぬかな。これは要らぬ話になった。
 要するに外の問題である社会体制、福祉施設等々ばかりを考えてもよくならない。条件としては必要ではあるが、それはあくまで縁である。本当はそのもの自体が強くならなければならない。その道は一つしか残っていない。それは自己を堀下げるというか、垂直に思考する道しかない。これでなければ人類は滅亡しかない。
 垂直思考とは何か。我々人間を支えているものがあるのだ、世界を支えているものがあるのだ。それを根源と言おう。我々を支えている根源、それが我々に呼びかけているのだ。仏教ではそれを「弥陀の本願」という。大いなるものの呼びかけ、「南無」と私を呼んで私自身を深くつれもどして、本当に自分の殻を破って脱皮していく。亀井氏の言う人間生成、生まれ変り、真の人間形成、その道しかないのだ。それを仏教という。

 (2)自分が魔であることを知る

 私自身が魔であると知ること、これを懺悔という。そこには何物も障碍しないのである。自己が魔であると知るとは、大きなものの呼びかけに応える、卵からヒヨコへの転回、ドングリの発芽というような、自己の進展がなければならない。それを別の角度から言うならば、如来の前に立つということである。それが根源となる、根源に立つことである。我々が如来の前に立って始めて、自己が自己とわかる。それを魔王懺悔捨離憍慢という。捨は捨てる、離は離れるという。憍慢を離れるという。自分が魔であるということがわからない。魔は外にあり、向こう側に因があるのだと言っているうちは憍慢なのである。それが「南無」と私に呼びかけてやまないものの前に立たされた時に、自分が魔であることにさめて懺悔し、憍慢を離れるのである。私が悪かった、私がお粗末であった、私に問題があった、私が頭が高かった。外を魔として考えていて、自分が魔とわからなかったと懺悔する。そこに憍慢を捨て離れて、魔というものは一切なくなる。「魔も障碍することなし」とはこのことである。
 魔は自分である。私が憍慢で人を見下しているところに問題があったのだ、私自身に根本的な間違いがあったとわかるところに私が魔王とめざめて頭を下げて懺悔し、仏に恭敬合掌するところに、魔障を離れるという道が具体的に開けてくる。
 先にも言うように『エクソシスト』という本に私は深い感銘を受けた。その中で老神父は言う。「悪魔は神の使いだと思う」と。いい所を言っている。本当に魔が私を苦しめるのではないんだ、神の使いなんだというのは、非常に進んだ考え方であると思う。しかし、仏教では更に進んでいる。魔は自分であるという。私が魔王であると目がさめるところに、魔の解決があるのだというのである。これは考え方というのではない。悟りである。認識である。だから仏教者は何者をも責めない。何に対しても祈らない。崇りなどを言わない。私以上の魔王はいないのであるとわかっているからである。そこに何物をも障碍することなしという世界がある。


ページ頭へ | 十、仏道と外道」に進む | 目次に戻る