八、魔(悪魔)

『歎異抄講読(第七章について)』細川巌師述 より

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 悪魔は東洋にも西洋にも昔からある。先ず魔はどんなところに出ているか見てみよう。
 『聖書』には悪魔が方々に出てくるが、有名なのは「マタイ伝」である。キリストが洗礼を受けてはじめて荒野に出た時に、悪魔が現われて試練をする。喉が渇き腹がへったキリストに向かって「汝、この石をパンに変えよ」という、信仰よりも物質が先ではないのかということを意味しているのだと、『聖書』の解釈書にある。「人はパンのみに生きるにあらず」とキリストは言う。更に悪魔は高い所にキリストを導いて、「ここから飛び降りよ、もし神がお前を助けるならば、どんな危険も助けてくれるだろう」という。キリストは「神を試みることなかれ」と言ってそれを拒絶する。このように誘惑をして彼を日常的、物質的な世界に誘い込もうとする。

 有名な古典文学では、シェークスピアの『マクベス』に、魔女が何回か出てくる。始めはマクベスが敵軍を破って王の危急存亡を救う。その帰る途中で三人の魔女に逢う。その中の一人に彼が「未来の王様」といわれて、それに心打たれてドキンとする。この王位への関心がだんだんと彼の命とりになる。マクベスは魔女に引きずり廻されて、とうとう非業の最後を遂げる。
 ゲーテの『ファウスト』にもメフィストフェレスという悪魔が出てきてファウストを誘惑する。ファウストは四十才台であろう。自分は何十年間も色々なものを研究してわが青春を費やしてきたが、何も得られなかったと嘆く。そこにメフィストフェレスが入って来て色々という。「あなたがもうこれでいい、これで満足だと言った時に、私に魂をゆずり渡すということにしましょう」といって、ファウストを色々の世界に案内する。ここから始まって、遂に最後にファウストはメフィストフェレスに魂を奪われそうになるが、これをグレートヘンという娘の霊が助けるという物語である。ここにも悪魔が出る。
 最近のものではさきに述べた『エクソシスト』という本がある。悪魔を払う神父をエクソシストという。舞台は現代のニューヨーク。そこに十二才になる少女が悪魔にとりつかれて大変な異常状態になる。そこでカトリックの神父が二人がかりで悪魔払いをしようとする。
 このように西洋では古い時代に、大文豪といわれる人達が悪魔を取り扱って、それがその書物のテーマになっている。また、現代においても悪魔はなくならず、ベストセラーズというような本の中にも登場している。悪魔という問題は、古今を問わず人間全体の問題である。
 東洋ではどういうか。印度と中国では少し違う。印度では大魔王という。他化自在天の大魔王という。仏教ではこの大魔王の発願が『日蔵経』、『月蔵経』などに出ていて、親鸞はその一部を『教行信証』に引かれている。この大魔王がとうとう如来に帰依していく。始めに魔王の娘が三名、次々にお釈迦様を誘惑に行く。そして却って教えられて深く懺悔し、父の大魔王に、あなたの所にはもう居ません、仏様の所に行きますと言って出て行ってしまう。大魔王は一人ぼっちになって、とうとう釈迦の所に行ってお詫びを言って仏弟子にしてもらう。大変に面白い。そしていわく、私は仏教を聞く人を護る神になろう、そして仏教の仇をなす人を打ち払いますと言って仏の前に誓う。『バイブル』の悪魔と少し違う。

 ファウストに出てくる悪魔と「マタイ伝」の悪魔は違っている。『旧訳聖書』の「ヨブ記」の方に出てくる悪魔はファウストの悪魔と似ている。どこが似ているかというと、始め神様と相談する。私は今からファウストという男を試したい、うまくいけば私の弟子にしたいと思いますがよろしゅうございますか、と悪魔が神様に相談する。序論にそう書いてある。これからみるとゲーテは、神様と悪魔とはかなり近い関係にあると思っていたことがわかる。

 中国では鬼神という。鬼神とは悪霊である。森の精とか牛の精というように、物の怪、妖怪変化をいう。あるいは魑魅魍魎(ちみもうりょう)という言葉もあって、ある時間になると三つ目小僧とか一本足の動物とか、変なものが出てくる。こういうものを説いている。これが中国の特色である。日本には中国の系統のものが多い。幽霊とか、崇りだとか、何とかの精だとかが現われるというようなことが古い物語に出ている。
 要するに日本も中国も印度も西洋もひっくるめて、名前は色々違うけれども魔というものを皆説いている。これは深い人間の恐怖心に由来している。洋の東西を問わず、正体のわからぬ物の怪、妖怪変化というものがあって、危害を加えるのではないか、海を行く人は真暗い海の中で何かしら恐怖感を持ち、大きな海坊主がいるという。恐怖心は持つなと言っても持たざるを得ないものである。その対象を魔と表わす。恐怖心の中で感じとられる世界的な人間全体の対象である。魔というものに対しては、東洋も西洋もみな共通の感情がある。

 今から七百年も前に親鸞聖人は、魔というものが何らの妨げにならないと言い切られた。信心の行者には魔界外道も障碍することなし、と言い切って、悪魔というものについて少しのおそれも抱かれなかった。これは実に七世紀も前の話である。こういう人が既に日本に出たのである。これだけでも実にたのもしい。そのため今日まで、親鸞の教を頂いて悪魔というものに対して、はっきりした考えを持っている人が次々と誕生してきた。この事は是非とも知っておかねばならない現代的な問題であろう。現代でも魔という問題は残っているからである。
 福岡の方の坊さんが私に話してくれたことがある。近頃は大分忙しい。それは日曜日にお経をあげてくれと頼みに来る人が増えたからという。サラリーマンが多いから日曜日の法事が多いのでしょうというとそうではなくて、全然知らない人が来るという。「この頃家に病人が続く、昨年は家内が病気をし今年は子供が大病をした。どうしてこうも病人が続くかと思っていると、ある人が言う。『あなたの先祖の中に法事をして貰っていない人がいて、あなた方を恨みに思って崇っている。法事をして貰いたいと叫んで警告しているのだ』と。私はあまり信じていない。だが先祖の霊をまつることは悪いことではないから、とにかくお坊さんに頼んでお経をあげて貰いたい」という。ちょっと悪いことがあると何か崇りがあるんじゃないかという心配が現代もある。
 屋敷の中に柳の木を植えると不幸があるという。柳の木を屋敷内に植えるなというのには私も賛成ですね。あれはすぐに大きくなって枝がふらふらして面倒だから植えないがよい。あまり大きくなる木は狭い庭にはむかない。そのように理由はあるのだが、柳というと幽霊が出る木で夜中にドロンドロンと出てくるのではなかろうか、何か悪いことが起るのではなかろうか、不吉なことに結びつける。今は宇宙をロケットで飛んで月まで行こうという時になっているが、まだ魔というものが頭にこびりついている。この魔ということをはっきりさせねばならない。

 魔の働きは何か。それは三つある。一つは心をかき乱すという。我々が落ち着いた心、静かな心、うれしい心でいるのをかき乱す。それを擾乱(じょうらん)という。我々の心をかき乱して不安定な心にし、恐怖心を起させる。心をかき乱すのが魔のしわざである。も一つは障碍という。妨げをする。私が読書をする、勉強する、善い事をやる。落ち着いて仕事をしようと思っているのにそれを邪魔する。これを障碍(しょうげ)という。私が病気をしたり体が弱ったりしている時に悪魔が近づいて来て、私を死の淵に引きずり込む。それを破壊(はえ)という。私の一生を終りにする。これが魔のしわざである。『マクベス』では魔女が出てきてマクベスの心をかき乱す。彼の心に、王を殺して自分が王位を奪おうという野心をおこさせる。それは魔女の言った「マクベス様、あなたは未来の王様です」という言葉に引きずられて生まれる。この魔女のためにマクベスは妨げられ、遂に死に引きずり込まれる。

 仏教では魔について二つという。一つは外魔(げま)他の一つには内魔という。魔は外と内にいる。外の魔を他化自在天の大魔王という。これは我々の住む欲界の一番頂上にいる。内魔には五蘊魔、(ごうんま、またはごおんま)、煩悩魔、死魔がある。心をかき乱すのが五蘊魔の働き、死を紹くのが死魔の働きである。
 内魔と外魔という考え方は非常に面白い。仏法者において外魔はもはや問題ではない。『日蔵経』や『月蔵経』に説かれるように、大魔王は仏弟子となってしまった。自分の娘が釈迦によって改心させられたのが始めである。釈迦が菩提樹の下で悟りを得ようとする時に次々と美女が現われてくる。「私はあなたを愛しております。どうか朝晩あなたのお世話をさせて下さい」と色目を使う。すると釈導は、「お前達は過去の徳によって綺麗な姿に生まれることができたのに、その綺麗さを以って道を求める者を誘惑するとは何事であるか、こういう事では必ず地獄に堕ちてその姿を失うのであろう」と諄々として説く。そこでその娘達がびっくりして心を入れかえる。こういう物語が出ている。求道者にとって外魔というものはない。外の魔は既に仏法を守護する他化自在天の神になってしまう。あるのは内なる魔だけである。魔というものは外にはない。内にあるのだ。魔というのは私自身の内にあるのだというのが仏教の悪魔観である。心の内に魔はいるのであって、自分が何か事に出逢った時にそれが内から出てくる。それを五蘊魔という。
 五蘊とは我々の心とからだをいう。心と体は分けることができない。我々自体なのである、これは仏教の一番根本の教である。九大に心療内科というのがあって、その教授が、心と体が一緒だと言っておられるが、これは仏教の考えですね。現代は体だけを考えて体だけを治そうとする。病気といえば身体の問題だと思う。胃が痛いといえば胃の問題だとしてしまうが、そうではない、心と体は離れないのだというのが五蘊という考え方である。五蘊とは色蘊、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊という。蘊とは集めるという意味である。色とは物体、物体が集ったものが色蘊。その体がものを受けとめる。受けとめるとは感じ取る、消化すること。食物を消化するとは、食べたものを自分のものとして血肉にしていく。これが受蘊。想は考える。行は生活になる。行動となる。識は深い経験的自我を蓄積していく。これをアラヤ識という。人間の体があるということが感覚があるということである。受けとめる力があるということである。単に受けとめたのではなく、考えるのであり行動を起すのである。そして深い経験を深層意識の中に蓄積していく。それを識蘊という。色、受、想、行、識を五蘊といい、これ全体で私というものがある。
 そうすると五蘊魔というのは、私が魔なんだということである。これが仏教の悟りで、徹底した考えである。私を除いて魔はいない。私が体を持っており、それが色々なものを受け取り、深く蓄積していく。それが外に出て、恐怖を感ずるようになっている。私の心をかき乱すのは私である。私の心が向こうの物を受けとって乱れるのである。
 私の会に色々な人がいる。学生や年輩の方もある。中には精神病院に入っていた人もいる。こんな人に何とか治って貰いたいと思って色々やってみるとだんだんよくなってきた。何とか社会復帰して欲しいと思って最近考えたのは、自動車学校に通わせるということ。自動車免許証が取れるとこれは社会復帰の第一段階である。学科もあるし実技もある。教官が色々と教えるのに耐えて免許証が取れるというのは、相当よくなった証拠である。社会に適応する第一歩である。自動車学校に行くというのは回復のテストとしていい道であると思って、一人をやったが続かない。初めの日にすぐ帰ってきて浮かぬ顔をしている。
 「どうだった」「今日一番先に呼ばれた。それでガクッときた。なぜ私を一番先に呼ぶのだろう、私が精神病院に入っていたことを知っていたのではないか。それで私をマークして一番先に呼んだのだろうと思って青くなった。もう行かない」という。これはいかんなと思う。「そうではないよ、君が一番に願書を出したんだよ。何ヶ月も前から書類を出して申し込んだじゃないか。で、申し込み順で一番先に呼ばれるんだ」。「そうでしょうか、僕の事を知っているんじゃないでしょうか」という具合に被害者意識がある。自分にコンプレックスがあるから、人が馬鹿にしているんじゃないだろうかといつも気になる。だから一番初に名前を呼ばれたというようなちょっとしたことで、もう顔は硬直して頭がもやもやする。魔は心の中にいるのである。
 煩悩魔とは私の内なるもの。一つには我見一私の誤った考え、自己中心の考えを持っているから、ちょっとしたことが妨げとなる。朝、電車に乗り遅れたりすると、バスを降りる時前の人がぐずぐずしていたから遅れたのだ、今日はついていないという。悪いことが続けば何かの祟りだ、もう駄目だという。そうではない。それはあなたが自己中心だからである。間に合わなければ一電車遅れたっていいじゃないか。一電車遅れても次々と電車は来る。東京の電車はすぐ来ますからね。僕の田舎では一時間に二本位しかない。こちらは二、三分おきに来る。だから次のにしても大したことはない。しかし自己中心の思いで思いつめているから、ついてないと文句をいうようになる。煩悩魔に引きずり廻されるのである。外には魔はない。
 煩悩のも一つは貪欲である。欲求である。貪欲は瞋恚、愚痴、憍慢と離れない。いつも人から勝ちたいという欲、たかぶりを煩悩という。愚かさである。小さなつまらぬ所に執われて大きなことを忘れている我々の愚かさを煩悩というのである。それが魔であり、あなたを妨げるのだ。
 我々の死とは業の尽きるところ死が来るのであって、ちょうど太陽が東から出て西に沈んで行くようなもの。死は何かが招いているのではない。我々は各々のつとめを果して死んでいくのであって、魔によるのではない。しかし死によって全てが未完成で終ると思う。これを内なる魔という。このように仏法では魔について言うのである。

 魔の働きというものは具体的にどういうことか。これを魔事という。魔の事業というか、魔が具体的に働くことを魔事という。無事終了を「魔事なく終った」という。
 魔事について『十住論』の調伏品に次のように述べてある。

(1)仏道を聞いてすぐ喜びがでない。
 これを魔事という。仏法の語は聞いて楽しいというものではない。内容はいつも言うように、卵がヒヨコになることである。この卵がヒヨコになる問題を論じているのが仏道である。親鶏が卵を抱いてやると目玉ができ嘴ができ、毛並みが揃い足がついてヒヨコになる。形のないものが形をとって遂に殼を破って出てくるというところに仏道がある。真の人間形成の道、卵がヒヨコになる道が仏道である。
 亀井勝一郎氏の『愛の無常について』には、人間生成という言葉を使っている。この書物は題名だけ見ると恋愛の話かと思うが、そうではない。なかなか良い書物で、若い人はぜひ一遍読むといい。人間生成とは生まれ変わりをいう。普通は人間形成というが、人間生成とはこの人らしい表現である。卵からヒヨコへということを言っている。
 人間生成ということについて亀井氏は六つ言っている。一、考えること、二、迷うということ、三、かくあれかしと願う一念の発起(こうありたいという思いが起ってくること)、四、出遇い、五、自分の言葉を持つ、六、死について、このように人間生成への道を述べている。いま私が言っている出遇いである。親鶏によって抱かれるというのはよき師よき友との出遇いである。このような教が仏道である。
 仏教には必ず我々にピタッとくるところがある。我々の心を本当にふるい立たせるものを仏道は持っている。それを感じないならば仏教を聞いても意味がない。理届だけでは役に立たない。成る程そうだ、自分はこういう所が間違っていた、しっかりやろうというような励ましと喜びが与えられる。それであるのに仏教を聞いても嬉しくない、喜びがない、何ともない、却って厭になるならば、それを魔事という。これが魔の働きであると、龍樹は述べている。
 仏教の話を聞いてピンとこない、それどころか嫌悪感を覚える、抵抗があるということならば、それは魔の働きである。内なる魔の働きである。魔とは体全体であり、煩悩である。それらはいつも仏教反対という旗を掲げている。私の心の中の魔が赤旗を立てて抵抗し嫌がるのである。殻を破って出るという法を聞くのを厭がるのが煩悩魔の働きである。
 仏教の話を一時間聞いても、一日聞いても二日聞いても何ともない。それどころか、いよいよ抵抗があり嫌いになるという時には、話す講師にも問題がある。が、聞く人にも問題がある。聞く人が魔事に犯され、赤旗を掲げた魔にやられているとどうしようもない。日頃考えており、色々迷った結果、こうありたいという思いを持っていて、そこによき師よき友と出遇い、聞いているというのならば、必ず聞いてよかったということがある。ならないならば、自身に問題がある。
 電柱を立てて電線を張る時、電柱と電柱との間が長いほど電線がたるんでいる。人間は御教を長い間聞かないでいると、煩悩の魔にやられて魔事が起ってくる。どんな魔事かというと、聞いてもさっぱり響かない。それは電線のたるみである。これを龍樹は魔事と言われた。

(2)聞法して喜んでいても途中で心が散り動く。
 これが魔の働きである。即ち法話から連想して他の事を考えたり、心が集中出来なかったりで散り動く。これを魔事という。我々はまことにしばしば魔事にやられている。煩悩の働きである。

(3)読書や聞法の時傲慢になったり、心散乱したり妄念におそわれたり、あるいは投げ出したりする。
 これが魔事である。読書にとりかかった時、少し読んで何とつまらん本かと、傲慢になり心が散って集中出来ない。そしてやめてしまった。こういうのを魔の働きというと龍樹は言っている。我々は日頃毎日、魔事にやられているのである。その魔が「障碍することなし」となることを明すのがこの章である。

 親鸞聖人が『教行信証』行巻に魔の働きを引いていられるのは、律宗の祖師元照という人の文である。「魔種ありて定の撃発を被るが故に」とある。禅定三昧即ち心をこらし心を統一していこうとする時、魔が内から出てくるのである。魔の種は私の内にある。煩悩魔、五蘊魔である。私が心を鎮めて精神統一をしようと思うと、その「定」が引き金になって魔の種がおどり出てくる。これを「魔種ありて定の撃発を被るが故に」という。実に面白い。よく人が言う。
 「私は勤行をしている時、妄念妄想がわき起ってきて、勤行になりません」。大森先生がよくその話をしておられた。先生は聞かれる。「どんな妄念妄想が起りますか?」「台所のガスにかけて置いた味噌汁がふきこぼれはしないかと思います」。「そんなのはのけておかねばいかん」。
 仏前に座って勤行をする。心を静めて勤行をしようとすると、それが引き金となって妄念妄想がわーっと出てくる。ペチャクチャしゃべっている時に妄念妄想が出てくるという人はいない。魔事とは、私が心を静かに落ちつけようとするとそれが引き金になって、心に色々と出てくるのである。それを魔事という。「落ち着かねば」というような意識を持つと、却って落ち着かなくなる。かえってイライラする。ちょうど池を静かにしなくてはと思って押えつけたりすると濁るように、内にあるものがその時出てくるのである。魔は外にあるのでなく、皆内側から出てくる。その働きが魔事である。


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