六、信心の行者

『歎異抄講読(第七章について)』細川巌師述 より

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 前には「念仏者」とあり、ここでは「信心の行者」とある。これは同じことであって、念仏者を詳しく「信心の行者」といわれている。

(1)信心

 信心ということについては既に何回も申したけれども、なかなかうまく言えない。本願の宗教では信が第一である。この信心がはっきりすると『歎異抄』全体がはっきりするのである。
(イ)自覚 普通の人は信心とは、何かを信ずることだと思う。が、決してそうではない。信心を現代語で言うならば自覚であろう。本当にわかるということであろう。これを信知という。何がわかるのかというと自己自身である。自己を知るという問題は大変なことでギリシャ哲学の祖であるソクラテスがモットーとしていた言葉は、デルホイヌの神の神託である「汝自身を知れ」という言葉であった。私自身がわかるということが一番根本である。私が何であるかを知るということほど難しいことはない。
 も一つ、私が生きていく上になくてはならないもの、大いなるものを知るということを信という。かねて言うように我々は殼の中に入っているのである。閉鎖された状態で考え、その中で生きている。この殼を名聞といい、利養といい勝他という。名聞とは人からどう思われるか、人からよく思われたい、悪く思われたくないというように、人を相手に考えている。利養とは打算である。ソロバン勘定で幸せを求めている。勝他は深い競争心を持ち、人に負けてはならんと思う気持ちがある。こういう殻の中に入っている。これらをひとことで言えば自己中心というべきであろう。この中にいる限り我々の眼は外に向いて、人がどう思うか、何が幸せであるか、人に負けてはならぬと思っていて、自分自身がわからない。自分がわかるためには自分が成長しなければならない。
 殻に入っている卵は親鶏がこれを温めて、その熱でやがて目玉が出来、嘴が出来、足が出来、毛がはえてヒヨコとなり、自己形成を遂げて殻を破って出る。その時にはじめて自身の殻というものがわかる。従って信というのは、深い自己形成即ち自らが大きくなって進展するということがなければならない。始めはドロンとしていたものが育てられて形をとってくる。これを人間形成、自己形成という。このように深い成長がなければ自覚というものは出てこない。この殼を出るとはじめて自分の殻がわかる。そこには親鶏が居り、大きな世界には陽が照り風が吹いていて、同じようなヒヨコがいる。このような大きな世界がわかるようになる。これを信心という。仏教でいう信心とは、何かを信ずるのでなしに、深い自己形成の所に与えられる自覚、自己自身の殻を知り、大きな世界を知るということが信心である。
(ロ)信順 更に信順という。頂くべき教を持ち、よき師よき友の勧めを受けとめてそれに随っていく。即ち自分自身の我をつっぱって生きていくのでなしに、聞くべき教、相談する師友を持っているということである。
(ハ)信受 私の上に起ってくる色々の問題。経済的なこと愛情の問題など、いわば現実を受けとめていく力を信力という。自暴自棄にならず、他を呪って自らの命を棄てることをせず、それらを担っていく力を持つ。これを信心という、小さな卵ではどうしようもない。その殼が破れて広い世界にヒヨコとして生まれ出るところに力が与えられる。そこから生まれてくるものが信知、信受である。これらを合わせて信心という。
 蓮如上人は、信心とはまことの心と言われた。人間我々が卵を脱してヒヨコになっていく時に、そこに与えられるのは誠実心、まごころというものである。そこにはじめて信頼のおけるまことの人が生まれる。まことにその通りであって、信心の人はみな裏表のない、言行一致の人である。

(2)行者

 親鸞聖人は信者という言葉をあまり使われない。殆んど使われないと言ってもいい位である。信者という言葉は静的な表現で、じっととどまっている状態である。
 これに対して行者というのは動的表現である。ダイナミックな、動的存在である。行動的であり実動的であって、実際に働きを持っているのである。ただ信じているというのでなくて、人生において働きを持っている。それを表わすのに信心の行者と言われる。まことの心を与えられ、深い自覚と教に対する信頼の姿勢と、人生を担っていくような力を持つ行動的な存在、これを行者という。
 行者とは何か。
(イ)行ずる人
 行動、実行、生活の人である。『教行信証』の英訳を、鈴木大拙という方が中心になってされた。親鸞聖人の生誕八百年を記念して先年出来ました。大拙先生は完成前に亡くなられましたが。その中で、行というのはlivingリビングとなっている。行を英訳してリビングというのは名訳であると思う。行とは単なる実行ではなしに、それが生活の上で実行されている、生活そのものになっている。生活行である。特別の時にだけやるのではなく、生活になっている。平常の行いなのである。そしてリビングは、今も続いて生き生きと働き続けているという感じを受ける言葉ですね。念仏は本当に平常に生きている生活行である。
 行の内容は何か。それを読誦、観察、礼拝、称名、讃嘆供養の五種正行という。読誦とは読むということ。聖典、教典を読む。それを読誦正行という。つまらないものをたくさん読むのでなしに、大事な聖典を読誦する。聞法も読誦の中に入っている。
 観察とは考えること。観は心を静めて思い浮かべ考えることをいう。察とは深く心に思う。あれやこれやを思うのでなしに、深く仏を考え教を考え、正しい道理を考える。これを観察正行という。
 次に礼拝とは、頭を下げて合掌礼拝する。これが生活になっている。身についている。称名とは御名を称えるという。感謝しお礼を言い御名を称える。南無阿弥陀仏と生活の中で念仏して感謝するのである。
 讃嘆供養、讃嘆はほめ讃える。供養とはお供えをすること。普通は供養諸仏という。諸仏に供養するという。その中心は、正しい教を本当に聞いてその仏の御意を頂いていくことをいう。聞法が供養である。しかしながら同時に、お花をあげ香を焚き、お供物をあげて諸仏にお礼を申す。これも供養といい前を法供養、後を財供養という。また同時に供養諸仏、開化衆生である。人々に働きかけてその心を開き、本当の道理を教えることを開化衆生という。それが諸仏に供養する一番大きなものになる。即ち自分が育てられた御恩に報いて人々に働きかけていく。開化衆生ということが供養諸仏なのである。他への働きかけである。
 この五種正行に行の内容は尽きている。仏教の教典をまとめてみると行の内容は五種正行というところに入ってしまう。仏法では一般に六度の行と言って、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧というが、これらもみんな五種正行の中に入る。経典を読み教をよく考え、頭を下げて念仏申し、感謝し、いよいよ聞きぬいて他への働きかけを怠らない。これが生活になっているのを行という。
 五種正行はまた勤行の内容ということができる。仏の前で朝に夕にお勤めをする。その内容は、お経をあげるのが読誦、そして考えているのが観察。礼拝し称名し讃嘆供養する、それが勤行である。勤行が自分の生活になっていくのが行者である。
(ロ)前進する人
 行には行ずるという意味と、も一つ行くという意味がある。即ち前進である。進展である。前進するためには二つのものが必要である。一つは方向である。進む方向を持っている。だから前進ができるのである。方向がなければ前進しても流転にしかならない。
 ここに一つのドングリがある。殼のままのドングリは方向を持たない。ドングリころころである。風が吹けばころころ水がくればころころで、ドングリお前はどこへ行くのかと問えば、風に聞いてくれと答えるほかない。よそまかせである。夫に引きずられ子供に引きずられ家庭に引きずられて、人まかせで過ぎている。高校の時代には受験の為に勉強し、大学に入ったら就職のために、それから結婚のためにというふうに、その時その時の状況で動いている。
 ドングリには方向がない。それは殼の中に入っているからである。ドングリが方向を持つためには、方法は一つしかない。それは大地を持つことである。依るべき大地を持って光と水を吸収して、胚芽が伸びていってとうとう発芽をする。双葉が殻を破って出てきた時に、このドングリは方向を持つのである。一つは深く大地に根を張っていくという方向であり、も一つは光の根源である太陽に向かって伸びていくという方向を持つ。必ず二つの方向を同時に持つのである。一つのドングリが二つの方向を持つ。二つあってもばらばらではない。二つで一つの方向なのである。
 磁石がある。一方は北を指している。これが一つの方向であり、同時に他の一端は南の方向をさしている。一つの磁石が同時に二つの方向をさしている。一つの方向を持てば必ず二つの方向になる。ドングリが発芽すれば必ず上と下とに伸びる。どちらが先かというと根が先である。野菜でも花でも同じ、先ず大地の中に彼が依り処を持つのである。大地から水を吸収し、そのあとから芽が出てくる。それが二つの方向である。「悲願は猶し大地の如し」という言葉がある。大悲の風が大地である。
 発芽すると二つの方向を持つ。一つは聞法しぬくという方向、も一つは現実人生に生きぬく方向である。現実人生に生きていくとは、職業を持つ者はその仕事に打ち込んでいく、そしてその職業を通して社会に奉仕していく。家庭の主婦ならばいよいよ深く知識を吸収し、新しい料理、家の片付け、育児をしっかりやっていこうというように、各自の仕事に応じてそこに自分の力を打ち込んでいく。これが第一である。人生に我々が参加するパイプは職業とか立場とかであって、これで世間とつながっている。その仕事の場で責任を果していこうとするのが第一である。本当の教育者は必ず聞法者であり行者である。勉強しない念仏者というのはいない。勉強とは仕事に精励し、努力することである。勉強しない念仏者がいるならば、それはまだ本当には殻を出ていないのである。信心の行者は現実人生に責任を持って生きようとし、また一人でも二人でも大きな世界に立つように勧めたいという願いを持つ。これらをまとめて言えば、自己の充実と他への働きかけ(この世への奉仕)である。ここに大乗仏教がある。これが前進ということである。
 前進するために、も一つ必要なものは前進力である。船で言えば前進する方向を持つとは羅針盤を持つこと、しかし羅針盤はあってもエンジンがかかってスクリューが廻らなければ船は進まない。エンジンは教を吸収することによってスタートするのである。前進力は本願によって与えられる。そこに前進がある。木の伸びるのは太陽によるのである。
 どのように伸びていくのか。龍樹の『十住論』に進展ということを説いている。その進展の一番始めの段階を初地という。初地の菩薩は本当の明るさを持つようになる。これを初歓喜地という。今までは閉ざされた暗さを持っていたのであるが、それが明るさを持つようになる。人間はどこかに暗さを持っている。特に一人ぼっちになった時には孤独感という避け難い寂寥感がある。外面ではよくわからなくても、心の内面では非常に寂しい思いをしている。進展の第一段階は明るさを持ってくる。たった一人でいても明るい。底が抜けた、殻が破れた明るさ、それが進展の第一である。
 第二は離垢地という。垢を離れる。垢とは貪欲、瞋恚、愚痴である。これが生活の上に行いや言葉の濁りとなってくる。進展とは、だんだんとこのような生活の垢濁から離れて浄化されてゆく。
 更に第三は明地という。教に対して明るくなる。聞いた教を聞きっぱなしにしないで深く深く考えるようになる。そしてその教のもつ意味を極めようとする。教に対して深く考える力を持つようになる。それが進展である。そうして、第八地を不動地という。このようにだんだんと伸びていく。始めは小さな苗だったものが伸びて大木になる。
 私の所では色々な木が出来る。実生(みしょう)です。二月になるに忙しい。杉、松、(ひのき)(くす)など、実生がどんどん出ている。これを二月に植えかえてやる。今年は松を五十本位植えました。始めは小さいが、二、三年たつと三十(センチメートル)位になる。二月に植えかえた木は八月にならないと、ついたやらつかないやらわからない。八月を越すと大丈夫です。松も野生の松だから枝ぶりのよいものではないが、二月の捨て松といって、二月にはその辺に放っぽり出しておいても根づく。五年たてばかなり大きくなり、十五年もたつと見あげる程になる。あの小さな松がよく大きくなったものだと思う。あの小さな苗のどこにそんな力があるのだろうか。それは光を浴び、水を吸収して、時間をかけてだんだん大きくなったのである。
 行者もまた、始めはただ教を喜んでいる状態であったのが、年数を経ると本当に内容の充実したものに進展する。それを行者という。
(ハ)信心の展開
 信心の展開を行という。行とは心のあらわれである。信火行煙といって、信の火の燃えるところに行の煙が立つ。外に現われてくる行は内なる信の展開である。従って、本当の行は名聞のためにやっているのではない。名聞の殻を出ている。行をやることによって人によく思われたいとか、人にいいとこ見せたいと思ってやるのではない。また利養のためにあらず。私のためにプラスになるからやるのではない。そろばん勘定が合うからやるのではない。そんな殻を出ているのである。まごころの現われである。また勝他にあらず。人を意識して人に勝ちたい、負けてはならないからやるのではない。世間心や世間的欲求でやっているのではない。それを信心の行者という。行は信心の展開である。本当に殻を破られた者においては、光と水によって生活の上に必然的な展開が生まれる。これを行という。
 提婆五邪の法というのがある。これは間違った行を言っている。提婆は釈尊のいとこであった。釈迦教団の中に長くいて、深い悟りを開いていた。けれども晩年の釈尊に迫って、「あなたはもう引退されたらどうですか。後は私が引き継いで行きましょう」と申し出た。その時釈尊からものすごく叱られて、「お前のような大馬鹿者にどうしてこの教団をゆずることが出来ようか」と、皆の前で叱られた。その邪心を見抜かれたからである。彼は面目を失って、後に五百人の釈尊の新弟子を引きつれて釈迦教団を脱退し、新しい教団を作った。その時に彼が提唱した行を、提婆五邪の法という。
 提婆五邪の法とは、一つには一日に一回しか食事をしない。二つには乞食して自分は何も蓄えない。三つには生き物の肉を食べない。四つには野宿をして軒の下には寝ない。五つには糞掃衣(ふんぞうえ)という粗末な着物を一枚しか持たぬという。そういう行法を彼はこしらえた。この行法は釈迦教団より厳しいものであって、提婆教団の方が世捨て人の姿に徹した生活である。しかしそれをなぜ五邪の法というのかというと、釈迦教団をいつも意識して、釈迦教団に負けてはならないという勝他の心から出た行法である。また、そうすることが世間の人から尊敬を受けて、自分たちのプラスになると考えている。結局、名聞、利養、勝他の世間心を離れない行であるから、五邪の行法という。何を行じているかという行の内容ということも大切なことではあるが、問題は心である。信心の展開でなければ本当の行とはならない。信心は先に言うようにまことの心である。即ち小さな殻を脱した心である。信心が展開してきたもの、そういう行でなければならない。それを信心の行者という。これが念仏者である。教を聞き開いて南無阿弥陀仏と念仏申す者こそ信心の行者である。この信心の行者は無碍の一道に立つ。彼は何も()えるもののない、「天神地祇も敬伏し魔界外道も障碍することなし」という天地に出されるのである。

(3)「汝」の言は行者なり

 『愚禿抄』の中に「『汝』の言は行者なり」という言葉がある。これは二河白道の譬をあげられた中に出てくる。二河の譬喩は求道の進展を説いたもので、善導大師の『観経疏』の中に出ている。
 一人の旅人があった。彼が出発して西の方へ進んでいった。その途中で大きな河を発見した。南は火の河であり北は水の河である。その真中にたった一つ道がある。火の河と水の河を二河という。そこまでやって来た時に、気がついてみると沢山々々の群賊悪獣が追っかけてきて彼を殺そうとする。逃げる所がなくなった彼は、とうとうこの道を渡ろうと自己決断をした。その時に、誰もいないと思っていた東岸から「友よ行け」という声を聞き、同時に西岸から「汝来たれ」の呼び声を聞いた。そこで彼は一歩々々進むことが出来たという。
 向こうから「汝」と呼ばれたその「汝」の存在が行者なのである。「汝」と呼ばれるところに行者が生まれる。これを親鸞聖人が「汝の言は行者なり」と申された。「汝」という呼びかけを聞く者、「汝」という呼びかけに応えるものを行者というのである。
 「汝」というのはなかなかわかりにくいが、これをうまく言った人はブーバーである。『われと汝』という書物の中で言っている。彼はユダヤ人でイスラエル大学の先生でしたが、「汝」をDuと言った。Duはあなたである。しかし、も一つあなたというのがあってこれはSieという。Sieは一般的にいう「あなた」であり、Duは親称といって親しい間柄、切っても切れない間柄の時にだけ使う「あなた」である、私をDuと呼ぶ人に対して使う言葉である。「汝」をDuという表現でブーバーが言っているが、非常に適切である。私が「Du」と呼ばれ、私がまたDuと呼び返すような深い関係に立つところに行者がある。仏教ではこれを「南無」という。南無とは、「汝来たれ」である。南無阿弥陀仏というところにDuがある。「汝来たれ」がある。南無はサンスクリット(昔の印度語)で汝来たれである。阿弥陀仏はアミタユース、アミターバーで、無限なるもの、永遠なるものである。私を超えた世界から私に「南無阿弥陀仏」「汝、大いなるものと共にあれ、汝、大いなる世界に出でよ」という。これを南無阿弥陀仏という。南無阿弥陀仏といえば人は何か呪文みたいに考えたり、仏の名前と考えたりしているが、そういうものではない。呼びかけである。働きかけを言っている。
 「ヨハネによる福音書」には、「はじめにコトバがあった。コトバは神と共にあった。コトバは神であった」とある。これが始めに出ている。が、コトバというのがよくわからない。「ヨハネ伝」を全部読んでみても無い。「はじめにコトバがあった」というのは、色々な註釈書を読んでみても、どれも解釈が違う。そしてごたごたした解釈が多い。つまりキリスト教でははっきりしないのではないかと思う。しかし我々にはこの意味がよくわかる。コトバは呼びかけであり南無阿弥陀仏である。ブーバーはこのコトバは「汝」という呼びかけなんだと言おうとしている。「汝来たれ」である。これをコトバというのである。コトバは単なる語句ではない。コトバというのは、願いをもって発せられるよびかけである。大きな願いを持って呼びかけずにはいられないものが神である。人間のあるところに始めから大いなるものの呼びかけがあるのだ。「ヨハネ伝」はそれを言おうとしていると私は思う。「南無」と私を呼んだそのものに「南無」と私が応えていく。それを信心の行者という。「汝の言は行者なり」。「汝」の呼びかけを聞きひらく、そこに行者が生まれる。これを信心の行者という。


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