五、一 道

『歎異抄講読(第七章について)』細川巌師述 より

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 智慧と無畏をもってそこに自在が生まれる。これを無碍光如来という。即ち如来において無碍は成り立つのである。無碍の徳相として真知を以てあらわす。親鸞聖人は「無碍光仏の御形は智慧の光にてまします故に」と、『唯信鈔文意』の中に言われている。「無碍光仏の御形は智慧の光にてまします故に、この如来の智願海にすすめ入れたもうものなり」(大きなものの働きが我々に届いて本当の智慧を与えて、大きな智慧の世界に出させるのである)。これから見ると無碍は智慧である。それがわれらにおいて成り立つ時、これを無碍の一道という。
 一道の一は、東洋では非常に大事な文字である。唯一という。聖人の和讃にも「唯仏一道きよくます」とある。も一つは大ということ。他に超えすぐれた大道ということを言おうとしている。唯一つの道でありこの上ない大道である。そして何びとにも可能な道を大道という。愚かな者にも賢い者にも老若男女を問わず、誰でも可能な道である。
 道、道を非常にうまく言ったのはキリスト教である。「ヨハネによる福音書」に「はじめにコトバがあった」。昔の文語体の時は「太初(はじめ)(ことば)ありき」となっている。これはいい訳ですね。道はロゴスである。ロゴスがコトバになり道になる。道というのには「言う」という意味がある。言語道断という言葉があるが、このときの「道」は「言う」という意味である。どんな言葉で言ってみても言いようのないけしからんことだという時に言語道断という。日田の広瀬淡窓の詩に「休道(言うことをやめよ)他郷苦辛多しと」というのがある。
 絶対なるもの無限なるものをギリシャ語ではロゴスという。中国では天といい仏教では如という。ロゴスがロゴスにとどまらないで働きかけてくる。それをコトバという。それがよびかけである。コトバは英訳の『聖書』ではthe Wordと定冠詞がついて大文字で書いてある。語りかけ、呼びかけである。これをコトバという。しかし、このコトバは何であるか、「ヨハネ伝」は明かさなかった。言い得なかった。キリスト教全体でもただ神のコトバというだけで、この初めにあるコトバが何であるのか、よくわかっていないのではないか。仏教ではそれを南無阿弥陀仏というのである。絶対なるもの如なるもの、ロゴスなるものはコトバとなってよびかける。それを南無という。南無は梵語で「帰れ」である。「汝、小さな殻に閉じこもることなく大きな世界に帰れ」というよびかけである。大きな世界を阿弥陀仏という。南無は動詞で命令形、帰れである。これを本願名号という。名告りである。それが我々に届くと道になる。ロゴスがコトバとなり遂に道となる。即ち道はわれらにおいて成立するもの、われらの()んで行くことができるものであって、われらにおいて最も具体的になったものを道という。その道は大きな世界に通ずる道。その上を歩いて行くならば相対より絶対へ、殻に入った卵の存在から、殼を出てヒヨコとなって生きていくような道、ドングリが殻のままでころころと流転していたのが発芽して生長する道が生まれる。大いなるものが小さなものの上に生きることによって成り立っているものを道という。従って道は生活となり、私の具体的な人生内容になる。
 ロゴスが私の道になるにはコトバがいる。「ヨハネによる福音書」は非常に適切なことを言っている。今は口語訳になったので「はじめにコトバがあった」という。これは非常にわかりやすいが、内容からいえば明治訳の方がずっとすぐれている。
 道ということについては『華厳経』に「この道(菩提)を得るをもっての故に名づけて仏となす。十方の無碍人一道より生死を出づ」とある。聖人はこの言葉を『教行信証』に引かれている(『島地聖典』12-14)。仏と無碍人とは同じ。自在人とも言い、無碍自在となるものを仏という。人生を生死海という。迷いの世界である。この迷いを包むものを真実といい如といい、一如、涅槃、智慧の世界という。それはどこかにあるのではなく、我々を包んでいるのである。我々の人生は殼の中にある。その殼は自己中心の迷いである。この人生から真実、涅槃に出るには道が要る。その道がつくとそこに大きな世界が展開してくるのである。その道を菩提(無上道)という。「この道を得る」の得るとは体得である。身につける、本当に自分のものになることである。それが仏である。十方の無碍人はこの一道より出て大きな世界を生きた。『華厳経』にはそういうことを言っている。
 この一道を曇鸞大師は、「一道とは一無碍道なり」と言われた。一とは唯一であり大である。われらが小さな殻を脱して広い世界に出る道を無碍道という。この無碍道はわれらが作り上げていくのでなしに、絶対なるもの、ロゴスなるものの働きかけ(即ちコトバ)、これが道である。われらの人生に南無と呼びかけてやまないもの、これが道なのである。
 仏法は具体でなければならない。抽象的に真如を悟るとか実相を知るとか、一如に立つと言っても、そういうのは私共には手の届かぬ世界であって、も少し具体的にならねばならない。「仏法とは平常心是なり」という言葉があるが、信心というも悟りというも、平常心でなければならない。平常心とは日常の中で生きてくるものである。平常心を英語ではコモンセンスという。これは常識という。コモンはみんなに共通なという意味である。ドイツ語ではgesundという。それは健康な、健全な考えという意味である。これを常識という。信心とはこういうものである。平常心である。金子大栄先生が亡くなられる時に何か言われるのを弟子がよく聞いてみると、「平常心、平常心」と言われたというのを何かで読んだ。信心とは平常心であるということを言われるのであるという。本当にその通りだと思う。仏法は具体的なもの、そして日常生活の中に生きているものでなければならない。何かにとりつかれたようなものではない。常識であり健全なものである。
 真如が我々に生きてくる時には我々の道になる。道を賜うてそれを歩いていく。それが平常の道であり、健康な健全な生き方である。それを大道という。これが唯一の道である。われらが道をつけるのでなしに、向こうから働きかけるものである。南無阿弥陀仏である。道は向こうから呼びかけている。それを本当に受け取るところに道がある。法華の人々は南無妙法蓮華経と私が唱えるところに道があるというが、それは間違っている。道は向こうから来ている。南無と呼ぶものに南無と応える身となるところに道がある。真実なるものが、真実ならざる人生に働きかけてくる働きを受け取るところに道が生まれるのである。これを本願の宗教という。我々はどんなに一生懸命やろうとしても、どうしても不純さを免れない。エゴを脱しきれない。どれ程南無妙法蓮華経と言っても「南無妙法蓮華経、助けて下さい」としか言いようがない。そうではない。南無と私を呼んでやまないものによって、我々の自己自身の深い迷いを知らされて、南無阿弥陀仏と懺悔応答となるところに道がある。そこに無道碍が展開する。
 人間われらの発想は自己本位であることを免れない。殼に入った者のどうしても免れないものが自己中心である。科学研究はそうではないと思われるが、(科学は割に純粋かも知れないが)これを応用し発表しようとするならば、どうしても自己本位というものが入ってくる。名誉心とか競争心とか打算とかが入ってくる。入ってこざるを得ない。
 人間の発想は対象化である。傍観者的である。気の毒な人を見て同情に耐えないと言っているが、やはり他人事である。人が亡くなった。そこに葬式に行ってお悔やみを言うが、帰ってくるとテレビに見入り、ビールでも飲んで寝る。そのようになっている。最後まで悲しめない。親が死んでも葬式が済んだらホッとして、まあ酒でも持って来いということになって遂に傍観者的である。これが人間の発想である。人間の限界である。
 如来の思惟、絶対なるものの思惟、大いなるものの思惟、それを『大経』には如来五劫の思惟とある。親鸞聖人は「弥陀の五劫思惟の願いをよくよく案ずれば」と言われた。如来の思惟は何か、それは大悲である。痛み悲しみ大悲である。鈴木大拙先生は「日本の国は、国土の底には大悲が流れている」と言われた。まことにいいところを言われた。仏教とは大悲である。それがかつては日本人の考え方の中にあった。大悲とは痛みである。批判の中に痛みと悲しみを持つ。大悲は自己本位でなく、己れをほかにして衆生を正客とするという。大悲は大いなるものが涅槃、真実、智慧、一如、ロゴスにとどまることができなくて、南無と呼びかけて衆生われらに働きかけてやまない。ここに如来思惟の具体的な姿がある。
 如来の思惟は「同じて自体となす」という。同じことは大悲同感、衆生われらにつきそってそれを自己とする。この人生に右往左往している私を、大いなるものは自己とする。傍観者でなしに、自己としてよびかけてやまないのである。衆生が地獄に墜ちるならば共々に地獄に墜ちるという。「たとい身を諸々の苦毒の中におくともわが行は精進にして忍びてついに悔いざらん」という如来の誓願如来の思惟である。今まで我々は、如来をいらぬもの扱いにし、無視していたが、如来はわれらが願わないのに向こうから働きかけてくる。その働きかけを如来の思惟、如来の行という。この思惟はよびかけとなる。それを名号、名告りという。号は口と万でできているが、これは心の屈曲した思いが口をついて出るということを意味している。叫びである。このよびかけをコトバという。「はじめにコトバがあった」という「ヨハネ伝」のコトバは、実に的確なことを言っている。キリスト教はこのコトバを遂に明らかにしなかった。しかしこの指摘は実に的確であって、キリスト教が実に深い宗教であるということを思わされるのである。はじめにコトバがあったのだ。そのコトバは南無阿弥陀仏であった。これが本願の宗教である。法然上人は念仏為本、即ち南無阿弥陀仏が根本だと言われた。これはこのコトバというものを実によくあらわしている。
 南無阿弥陀仏が我々に届く。それをわれらにおいて聞きひらくというその時に、南無阿弥陀仏が道になるのである。ロゴスがコトバになり、コトバが道になる。道は南無阿弥陀仏である。「十方の無碍人、一道により生死を出づ」。この一道によって諸仏が生まれる。生死を出る道、それを無碍道という。聖人はこれを『教行信証』の行巻に、『華厳経』と曇鸞大師の『論註』とを合わせて引かれている。一道が南無阿弥陀仏である。南無阿弥陀仏の現代的な言い方はないかと思うが、現代語に翻訳出来ない。南無阿弥陀仏以外にはない。翻訳できない言葉である。ロゴスもそうである。日本語でも外国語に翻訳できない言葉がある。例えば禅ですね。英語で何と言ったらいいかと考えても言えない。なぜなら英語の国に禅がないから。無いから言いようがない。だからZenという。南無阿弥陀仏もそうである。過去にも現代にも人間の世界にない。現代語で言えないかと思うが、言いようがない。帰命尽十方無碍光如来と言いかえてみても、やはり南無阿弥陀仏という原語が一番ぴたりである。

 『華厳経』の「道」ということについて、も少しはっきり言った人は善導大師である。
 善導大師は『観経疏』の中で「道」ということを論じている。二河白道と説いている。白は清浄真実をあらわす。清浄真実の道は水火二河の中に現ずる。水火二河の中に白道が生まれる。そういう譬を出している。水は貪欲、火は瞋恚である。貪欲とは冷たい自己本位のもので、これを水に譬える。火は怒り腹立ちの心を譬えたものである。いかなるものも焼き尽すので怒りを火に譬える。貪欲、瞋恚をもってわれらの心の有様をあらわして水火二河という。
 白道はどこに成立するのかというと、われらの心の中に成立する。南無阿弥陀仏はわれらの心の中に成立して願往生心となる。如来の願心が信心となり本当の道となるのである。これを白道、一道という。信心とは大きなものの呼びかけ、南無阿弥陀仏がわれらの殼を破ってわれらの上に生まれる願い(いよいよ本気でこの道を進ませて頂かねばならないという願い)である。南無阿弥陀仏は他からの呼びかけだけのように思われるがそうでなしに、それが我々に届くとわれらの言葉となる。心となる。これを道心という。願心といい道心といい、菩提心、求道心という。われらの上に本当に求道心となって生まれるのが大道であり一道である。そこに無碍道が展開する。それを信心という。
 「念仏者は無碍の一道なり」。無碍の一道とは南無阿弥陀仏そのものである。「南無阿弥陀仏」と念仏申す身になった者は、南無阿弥陀仏の故に無碍の一道に立つのである。道は信心であり求道心である。信心とか安心とか自覚というとなかなかわかりにくい。一番簡単にいうと、念仏申すということです。「南無阿弥陀仏」と念仏申して、いよいよ一道を歩みぬこうという決意に立つ時、無碍道がそこからはじまる。
 「念仏者は無碍の一道なり」ということが本当に理解できるのには、その一道を歩む実物に会ってみなければならない。私は九州にいる。そこで色々な会をやり、毎月一回一泊二日ぐらいの会をやる。小さな会は毎週一回ぐらいやっている。ある時に田村邦夫さんというお方をお呼びした。この人は、亡くなられた私達の先生の教をよく聞きぬかれた人の中の一人である。この人が来られて、日常的な体験を通して色々な話がありました。そこでみんなは本当に打たれた。まことに無碍道だなあとこころ打たれた。
 今年は続いて辻おふみさんという女性を呼ぼうと相談をしています。この人はもう六十を過ぎた方ですけれども、主人に先立たれ、あとに残った昔の県立一中の一年生であるたった一人の息子さんを原爆で失った。彼女は半狂乱になった。小学校の先生をしておられたが、その時の校長が奇しくも私共の先生の弟さんであった。その校長に紹介されて先師の所へ聞法にこられた。その時私はそこに居ましたが、この人はまるで幽霊のようだった。ふわふわして足が地につかぬという状態で、先生の前に泣きながら、私はどうして生きていったらいいのでしょうと言って泣き伏される。先生はただ「どうか仏法を聞いてくれよ」と言っておられた。それで仏法を聞き始めなさったが、いつもいつもわからんわからんと言われる。それがわかるようになるまでずい分時間がかかったが、遂に念仏を喜ぶ人となって再婚された。
 そして向こうにいた娘二人を念仏を聞く人に育て、新しい主人もまた念仏を聞く人となられた。今は学校をやめてお茶の先生をしておられるが、そのお弟子達も念仏を聞くようになった。その人に接してみると実に明るく、徹底した念仏の人である。
 我々はこのような人に接すると、「念仏者は無碍の一道なり」ということを身にしみて感ずる。実物を知っていないと、このような言葉がピンとこない。人は色々な人に出逢う。嫌いな人もあり逢いたくない人もある。その人生において「念仏者は無碍の一道なり」これは実に大変なことである。
 最後に変な話になりますが、福岡市に私の家があってそれを人に貸している。色々事情があってその人に家の明け渡しを頼んだところが、けんもほろろに断られた。近頃は家に入っている人の方が強いですね。すったかもんだんかで私も無碍の一道にならなかった。近頃ようやく第七章を頂いて本当にお粗末な私だと思われる。やっと相手を包むという気になった。勿論、家は出て貰わなければならないのだけれども、相手を非難攻撃して、けしからん奴だ、わけのわからん奴だと思うのでなしに、こちらの心根が変ってきました。あなたも私も共々に、もっと広い心で考えていかないと道理に合わないのではないかというように、心にゆとりが出来た。親鸞聖人にくらべたらまことにお恥ずかしい限りですが、このような具体的なことを通して「念仏者は無碍の一道なり」ということがわかるような気がします。
 智慧と無畏、まことに無碍とはそのような心が内に開いて、相手を包む心、相手によびかける願いが起こる身とさせられることであります。


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