三、無碍の一道

『歎異抄講読(第七章について)』細川巌師述 より

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 「念仏者は無碍の一道」という。先にも言うように、もしこの章がなければ親鸞の教、あるいは本願の宗教、更には仏教というものが非常に消極的なもので、罪悪深重とか地獄一定とかいって内面的になるだけで、現実に対処する力を持たないことになりやすい。しかし今は「念仏者は無碍の一道なり」という力強い表現で、生産的表現で仏教の意味が出されている。
 しかし実際の人生は有碍の人生といわねばならない。社会という面から見ても家庭という点から見ても、職場というところから考えても、また個人的な人生を考えても決して無碍などと言えるものではない。社会的には沢山の問題がある。大きく言えば米ソという大国が世界を二分して、そのどちらかに属するほかない。日本の中を考えても保守と革新という避けられない対立があり、価値観の差があり、政治的な考え方が根本的に違っている。それらの対立はもう解ける望みもないようなものである。どこに無碍が成り立ち得ようか。家庭においても親子の断絶が叫ばれてもう長いことになる。親と子、若い者と老人の考え方が違っている。そういうものは簡単にうずめることはできない。更には夫婦の問題、これも決して解決された問題ではない。無碍というわけにはいかない。また職場、個人ということになると問題だらけである。個人の持つ孤立感、劣等感、色々なものが各人の心に渦巻いて安定していない。まことに有碍の人生である。
 昨年のベストセラーズの一つに『不確実性の時代』というのがあった。アメリカの経済学者が経済学史の立場から著わしたもので、過去の時代々々には、その時代の指導原理というか、皆が納得できる一つの原理があった。産業革命の始め頃には自由に競争していく、そのうちに自然と改良がなされていくという学説があった。しかし実際にそうやってみると貧富の差が出て行きづまり、やがて共産主義が世の中を正しく導く原理と言われるようになった。しかし今の時代は何も指導原理がない。これだというものが何もない時代だという。
 そういう不確実性の中で、本当にこれが真の原理だというものがあるのか。経済学の立場からだけではなしに人生そのものから考えてみて、この不信の時代の中で確信を持って生きる道があるのかということになると、一般社会でも家庭でも職場でも個人でも、すべて無いと言わざるを得ない。正に不確実性の時代ということができる。確実なものが何もない時代である。人を引っ張っていくだけの指導原理のない時代である。そういう時代の中で「念仏者は無碍の一道」であるということがここに出ている。この有碍の人生の中に無碍が成り立つとはどういうことか。先ずそのことを知っておかねばならない。

 無碍ということを先ずとらえたのは曇鸞大師で、『浄土論註』の終りに近い所で無碍ということを言われている。それを聖人は『教行信証』の行巻に引かれている。「無碍とは、謂く生死即ち是れ涅槃なりと知るなり」とある。これが大事な問題である。有碍の人生の中に無碍ということが成り立つ。その無碍ということは生死即。涅槃という。生死とはわれらの人生、迷いの世界。涅槃法性真如界は大いなる世界、迷いを離れた世界である。この迷いの人生が即ち大きな世界なのだという。これは大変な問題である。
 生死とは迷いの人生、無常、有為転変きわまりない人生を表わす。その生死の世界が現実人生である。生死とはわれらの現実を表わす。涅槃とは大きな世界、その大きな世界は単にあるのではなしに、働きを持っている。南無阿弥陀仏と働くのである。如来は如より来って「阿弥陀仏に南無せよ」と働きかけてくる働きであり、それを南無阿弥陀仏と申す。この南無阿弥陀仏によって「現実が念仏」とわかることを無碍というのである。有碍の人生に立って、この現実こそわれらの取り組むべき念仏の世界だとわかること、これが無碍ということである。これを言葉だけでなく、も少しよくわかってもらわねばならない。

(1)分別心

 それはわかりやすく言いかえると、分別心の問題である。生死と涅槃とを分けて考えるところに人間の持つ分別心がある。我々は、ドングリが殻に入っているようなものである。その殻に当るものが分別心である。分別心とは理性、理知を表わす。我々の理知は、ものを二つに分けて考える。即ち主観と客観、私と社会、私と家庭というように、私という主体を立てて客観というものを向こうに対象として立てる。これが我々の考え方であって、これを分別心という。これを殻という。勝と負、損と得、善と悪というふうに分ける。人の子と自分の子、嫁と娘というように分けて考える。一つのものを二つに分けて考える。私がその殻を破った立場から見るならば、一つでしかない世界をブーバーの表現でいうならば「Ich-Du」という。汝とよぶ世界、友よという世界、兄弟よという世界である。それに対して「Ich-Es」の世界は理性の世界である。向こうを私から切り離してEs化して考えている。対象化して考えている。そこに分別ということがある。ブーバーはこの所を非常にうまく言っている。即ち対象化、私が主体となって、ものを客体として向こう側において考えるならば、ものの表面をなで廻しているにすぎない。単なる経験的な見方でしかない。これが分別心の欠点である。度々言うように母の涙を考える時、涙を物質として見るならば、それはどこから出てくるか、どういう成分を持っているか、どれ位の重さかということになり、どこまで行っても涙の表面をなでているにすぎない。涙嚢にあったものが自律神経の作用で筋肉がゆるんで出てくるのだ、そしてそれは塩分がどれだけ水分がどれだけである、ということにおわる。それも正しい知識ではあるが、そういう見方では母の涙にはならない。単なる液体の一種でしかない。表面をなで廻しているだけである。分別心では表面的な見方、批判的・非難的見方しかできない。現実を忠実に見ているつもりでいるが、私と社会、私とあの人というふうに対象化して考えるところに、実は冷たい批判や非難に(おわ)って表面だけしか見ないということになる。うまく立ち廻っている人は幸せそうに見える。しかし内面の心は不安で渦巻いている、気の毒な人であるとはわからない。持っている車だとか住んでいる家だとかに引っかかる。人はすべて本当は可哀想な存在なのだということは、殻を破られた人でなければ出てこない見方である。
 人が分別心の殼を破られる時に、物の見方は全く変ってしまう。ノイローゼの人がいる。正月などに家に帰すと少し悪くなってくる。家に帰る時はいそいそとして帰るが、こちらに戻ってくる時はしょぼしょぼとして来る。彼に聞く。「どうだったかい」「親爺に叱られてばかりいた」「何を叱られるかね」「たばこを飲みすぎると言って」「君はどの位飲むかね」「一日三箱ぐらいです」。いつでもブカブカふかすわけであるから親から見れば、もっとしっかりしてもらわねば困る、たばこばかりのんでこんなていたらくで……とカンカンになる。親の気持ちもよくわかる。親から見れば可愛さ余って憎さ百倍とかいうことですね。それで傷つけられて帰って来ますから、出来るだけ休みを少なくしている。親から見ると、たとえわが子であろうと、たばこばかり飲んでけしからんということになる。しかし、なぜたばこをブカブカふかすのかというと、可哀想なことに過去のことをくよくよ思って主観に閉じこもっている。そして現在に処してどうしたらよいかと不安を感じ、未来に対して自分はもう社会に復帰できないのではないかと怖れを持っている。一生廃人として過すのではないか、結婚も出来ないのではないかと不安を抱き、たばこを吸うだけになる。それを見ていて、あれがたばこばかりふかすのは殼の中に入って小さな所にうろうろし、可哀想だなあということにならない。唯たばこばかり吸ってけしからん奴だということになって叱りつける。愛情がないわけではない。子供の事を考えないわけではない。が、分別心でそういうことになる。
 我々は現実にふり廻されている。現実が私の方を苦しめて人生は有碍である。何もかもがすべてけしからん話である、ということになる。が、もし殻が破れたらどうなるか。我々の直面する現実の表面だけを見るのでなしに、深く見ることができるようになる。
 先に申すように如来の本願が我々に届いて根源的思惟となる。この思惟は彼と我とが別々に居るのでない。しかしそれを一緒だということを意識するのでなしに、大きなものの働きが私の考えとして出てきて、ブーバーの表現で言えば、友よと呼びかけるものである。
 このようなノイローゼの人に仕事をさせると続かない。土地を耕して畑を作っても、監督が見ていると仕事をするが、見ていないとすぐ休んでしまう。厭々ながらやっているのである。だから表面的に見たら、けしからん奴だ、表面ばかりつくろって怠け者で、と思う。私もある時まではそう思って見ていた。が、よく見ていると根気が続かない。体がきつくてたまらない。暇があるとごろりと横になる。本を読む力もなく考える力もない。仕事する力もない。薬のせいかも知れない。が、一つは頭の中が不安感で一杯なのである。劣等感で一杯になっているから仕事が出来ない。仕事が出来るようになったら大分いいのである。それを見て、こんなていたらくではと思い、けとばしたくなるような心を分別心という。そうでなしにも一つある。それは我々の殼が打ち砕かれたら汝!友よ!である。友よ、気の毒な友よ、可哀想な友よ、その中からどうかしっかり立ち上がろうではないかという呼びかけになる。
 彼が困っている現実、自分の手にあまるような現実が私の悲しみ、痛み、願いとなってくる。そのようになってくることを一体という。一体感というものが出てくる。痛ましい現実が南無阿弥陀仏と念仏する場となる。
 人間は教育を受ければ受ける程、またすぐれた人になればなるほど分別心が強くなる。分別心が強いと相手と一体になれない。又年をとればとる程分別心は強くなり、相手と一体となることができない。いつも相手と私と二つに分けて考える。上から下を見るような考え方になってくる。それを打ち砕かれるところを分別を超えるという。そこに無碍が生まれる。

(2)智慧と方便

 分別を超えたものを無分別という。それを真の智慧という。智慧とは物が本当にわかるということ。分別智でなしに無分別智、仏智をいう。真如法性の働きをいう。法性は法を法たらしめようとする。それを平等智という。これは我々の持たないものである。あらゆるものを差別なしに見ていくということは到底出来ないことである。やっぱりわが子をより親しく感ずる。無分別智は如来のまごころである。
 この如来のまごころは必ず方便となる。方便はupayaという。到達といい接近という、和光同塵、光を和らげて塵に同ずるという。塵に同ずるとは、高い世界から低い世界におりて来て友となることができる。それを下座行、下座につくという。
 禅宗で下座行というのは、風呂をわかしたり薪を取ってきたり便所の掃除をしたりするのをいうそうです。普通の人は壁に向かって座禅をやっている。それに対して皆の食事の用意をしたり風呂をわかしたりするのを下座行というそうである。上座からおりてきて下座において行ずる。下座につくことができる。それを方便という。
 方便とは高い所にいるのでなしに低い所におりてくる。下座につくのである。
 智慧と方便というのは、人間に分別というものを打ち砕かれる天地が開くと、本当の智慧を生じその智慧が深く現実の中におりてくることである。親が子供の世界におりてくる。相手を自分より上とか下とか言って分別する心は打ち砕かれている。そこに差別は打ち砕かれて、どんな人とでも手を握ることができ、どこまでもおりることができる。現実の中におりていくことができる。それを方便という。智慧によって方便ということができるようになるのである。
 方便という言葉は残念ながら今日、非常に誤解があって「嘘も方便」というような言葉になり、何やらその場限りのごまかしのように思われる。決してそうではない。これは仏教語で非常に大事なことを言っている。法性法身、方便法身という。向こうからおりてくるのを方便、ウパーヤというのである。訳するならば「到達」といわねばならない。
 私の所の保育園は二十六名になりました。職員は二名だったのですが七名になり、子供も始めは三名だったから大発展を遂げたことになる。小定員制で、一人の職員が五人位しか持たない。肌のふれ合うような毎日である。私は毎週一回話をする。この頃は私の言うことをとてもよく聞いてくれるようになった。私が言うのは簡単なことである。月曜日の朝の勤行の時私が出て行って話をする。先ず聞く。「わたる君、昨日の日曜日どうしたかい」「お父さんと遊びに行った」と、わたる君は一生懸命話をする。次はけい子ちゃん、次々に聞いていく。赤ん坊が五名いるからこれはやめて二十一名、一人々々聞いていくと、一生懸命言いますね。私はじっと聞いていて「よかったね」「誰と一緒に行ったかね」とか、少し言葉を添えて聞く。一生懸命答えてくれる。それが済んでから私が一つ話をする。話をするのはなかなか難しい。子供達には「しかし」と言ってもわからぬ。朝鮮の民話とか日本の昔話をすると子供達がよく知っていることがある。そこで、今日はカチカチ山の話をしようという時には、「カチカチ山の話を知っている人」と聞くと知っているという。そこで聞いてみる。「何が出てくるかい」「たぬきが出てくる」という。色々な話を聞いてみる。少しは知っているが詳しくは知らない。それから私が五分か十分位話をする。こうしているうちにだんだんと親しくなり、私を園長先生、園長先生と呼んでくれる。この園長先生あまりカッコよくない風情で、いつも長靴をはいてベレー帽をかぶっていますが……。また子供だけでなく父兄に大変密着することができるようになった。発表会などやると父兄がみんな来てくれる。子供の姉や兄達までみんな来る。参加してくれる人が大変ふえた。
 子供に話をするのには高い所から話すのでなく、低い椅子に座って同じ高さで言うのがよい、私はこうしているうちに、幼児教育が大変大事なことだということがよくわかってきた。今からの最後の人生で幼児教育に打ち込もうと思う。皆さんに話してもよくわかってもらえないが、あの子達はよくわかってくれますね。これが今私のぶつかっていくべき現実である。現実が念仏なのである。
 現実が念仏であるとはどういうことか。私にはこのことをよく説明する力がない。これは悟りの言葉ですね。生死即涅槃ということである。仏教の言葉というものは、講義や解釈ではうまく説きあらわせない。南無阿弥陀仏でもそうですね。無碍もそうです。「現実が念仏である」ということも同じです。これは禅宗の悟りの言葉みたいなもので、ほかの言葉ではうまく言えない。が、非常に適切な言葉ですね。無碍ということをよく表わしている。そこでいくつか羅列的に「現実が念仏」ということを述べるならば、

  1. 何が起きても念仏申すということ。外に起きるのが現実である。また心の内面から起ることもある。厭だ嫌いだ、内に善だ悪だという。外に表われることもある。が、何が内に外に起ってきても、それを南無阿弥陀仏と念仏することである。具体的に念仏申すということである。
  2. 現実が念仏のよびかけである。南無阿弥陀仏と私を呼ぶものは、大きなもののよびかけであるが、実はそのよびかけはこの現実を通して私に迫っているのだ。病気が私に念仏を迫っているのだ。病気が分別に執われた私の思いを打ち砕いて、本当にものを直視する道に立てようとしているのである。現実が南無阿弥陀仏の呼びかけであって、それが私の分別心をこわし、本当に現実との取り組みを教える。現実が、なくてはならない念仏の舞台、なくてはならぬ現場なのだ。それがなければ私において念仏は具体的にならないのだということである。私を本当に広い世界にあらしめるものである。

 ここに一本の古釘がある。それを大きなハンマーで叩いて真直ぐにしようとする。その時にハンマーがあればそれで充分というのではなく、本当に釘を真直ぐにするには鉄床(かなとこ)がいる。鉄床がなければハンマーの力は発揮されない。本願の教がハンマーである。それが私に本当に届くには、現実という鉄床がなければならぬ。現実という鉄床を持たないと教は全部抽象的で、本当の仏教にならない。鉄床の上に立つ時に、教のハンマーで私が叩かれると同時に現実の中から私に届くものがある。曲った釘が真直ぐになるということは、曲った釘にハンマーの力が働くからである。しかしハンマーの力は上からのみ働くのではない。下からも働くから真直ぐになるのである。鉄床がなくて砂の上に釘を置いて叩くと、叩いても何の役にも立たない。こたえない。現実こそ本当の教なのだ。現実が私への呼びかけである。その現実をおいては私というものは鍛えられない。教が私に届かないのである。そのことを知らねばならない。そこで人生に起ってくる色々な事、私にとってこの人さえいなければと思うような人が出てきても、それが私において念仏になると、私を教える存在になる。それを無碍道という。その時この現実は何も私の邪魔をしない。私がそれにふり廻されないで、それに合掌していくことができる。
 具体的に、いかなる現実も逃避せず妥協せず取り組めるのである。取り組むとは、それに対して痛み、悲しみ、願いを持ってぶつかっていくことである。そこに何らの不安感もあせりも対立感も持たないで、「友よ」と言って取り組んでゆける、これが念仏である。無私の心である。相手が何と言おうと、自分は下座の心をもって取り組んでいけるのである。その時に、人生何ものも私を邪魔するものはない。人生にふり廻されるということは決してないのである。
 それが生死即涅槃ということの具体的な意味であろう。生死即涅槃というのは抽象的になりやすい言葉である。具体的には現実即念仏、現実が念仏になる。何が起きても念仏申す、そういうところに新しい道が開けてくることである。
 生死の世界が鉄床、涅槃は念仏である。南無阿弥陀仏である。それを現実即念仏、生死即涅槃という。
 これが無碍道の事実である。「念仏者は無碍の一道」である。

 さきにも申したようにこの章は『歎異抄』全体の中でも非常に大事な章であって、もしこの章がなければ『歎異抄』には暗いじめじめした感じが残る。「いずれの行も及びがたき身」とか「地獄は一定すみかぞかし」とか、更に第十三章には「宿業」とか、人間の内向的な姿だけが出ていて、いわゆる積極性とか、あるいは明朗性に欠けたものになってしまう。この第七章はその点、他の章に出てこないような明朗さと徹底した積極性とがよく出ている。まことに仏法は「無碍の一道」である。


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