二、私的人間と公的人間

『歎異抄講読(第七章について)』細川巌師述 より

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 私的人間とは私室を持っているもの、私室とは鍵をかけて誰も入れないようになっている部屋。その室の中には更に鍵のかかる引出しがあり、鍵のかかる金庫があって、誰にも見せてはいけないものが入っている。こういうのを私的人間という。子供がだんだん大きくなると自我を主張するようになる。そういう年代がある。中学生ぐらいになると、母親が机の引出しをあけるのを大変嫌う。「勝手に開けないで下さい」と書いて貼っている子もいるという。中々むずかしい年代である。私事になって恐縮だが、私の家は家内と私と二人しかいないので、机の中でも服のポケットの中でもどこでも家内が一番よく知っている。鍵もないし、あってもかける必要もない。何でもオープンになっている。家内も中々えらい所があって、少々変なものがあっても何も聞かない。服を替えると家内がいろんな物を入れ替えるので、何でも出てくるが何も聞かない。開けっぴろげである。しかし我々は私室を持ちたがるのである。何かかくしておかねばならぬものがある。たとえ夫婦でも親子でもかくしておかねばならぬものがある。勿論他の人に言ってはならない事も沢山ある。また、言う必要のないことを言わないのは当然である。
 秘密の部屋を持っているというのは、私心を持つことをいう。私心とは、名聞即ち人に知られては悪いことがあり、他へのおもわくであり、損得であり嫉妬心とか劣等感とかである。これが私心である。人に知られないようにかくしておかねばならない。自分の本心は人に見せてはならない。そこで表面的なことだけでつきあっている。
 この私心、私室を打ち砕かれたところを無私という。私心を持たない、これを公的人間という。「仏法は無我にて候」とある。無我とは何もないのかというとそうでない。無私ということである。政治家が教育者が医師が、或いはそれぞれの社会的な立場にある人が私心のかたまりであるならば、世の中は闇でどうしようもない。一人でもいいから私心のない人を生み出さねばならない。これがこの社会を一歩前進せしめる根本になるものであろう。私心のない人を生み出す道はないのか。仏法はそれを使命にしている。これを「仏法は無我にて候」という。無我は、無我夢中とは違う。無私である。無私とは私心がないこと。私的人間でなしに、無私の心を持った本当の人間である。それを生み出さねばならない。これが仏法の目標である。仏法はこのような目標と使命を持ち、それを達成する方法を持っている。
 無私や無我はどうして成立するのか。法即ち一つ一つのものがらが殻の中に入っている。その法が法性に即する、大きな世界の中に生きてくる。これがたった一つの私心を脱する方法である。即ち真如に生きることである。しかし単に真如に生きるとか法性に即するとか言っても、机上の空論に終りやすい。その道は、彼が私に近づいてくる、彼の方から私に到達してくるのである。向こうから私に届いて下さる。これを如来の廻向という。法性が法に働きかけて法の中に生きて、法性の世界、実相の世界に誕生させる。これを仏教方法論という。も少しつづめて言えば、南無阿弥陀仏が成立する時にそこに無私の人が生まれるのである。その無私の人において、無碍の一道が展開する。

 私的人間とは自分中心でしかものを考えない私的関心の人である。かつて申したように大学に教授会がある。何か深淵な学問上のことを論議したり深い教育理念を論じているのかというとそうではない。そういうこともあるがそういうのは簡単に済んでしまう。「今後の本学の長期計画をしっかり考えねばならないが、どうしたらよいだろうか」「執行部の方で原案を出して下さい」「当局の方で小委員会を作って、そこで原案を練って貰うことにしたらどうでしょうか」「賛成」ということになって、こんな問題は大体三分間位で済んでしまう。しかし、人事とか予算とかになるとこれは大変である。あそこに欠員があるがどうするか、定員が新しく増員になったがどこに配分するか、誰を教授にするかというような問題になると、これはもう一時間や二時間では済まない。どこでもそういうこまかな問題が我々にとっては大きいことなのである。
 今日、国の予算の四十%が国債でまかなわれている。つまり借金である。そしてその借金を払うためにまた借金をする。こんな事では将来どうなるのかと皆々思っている。政府がやるのだから仕様がないとも言えるが、国民に対する影響はどうか。大増税か大インフレかのどちらかである。インフレになるならば持っているお金は価値がさがって困ったことになる。個人にとっても国家にとっても大変な時が来ている。どうしたらいいのかと考えても私にはよくわからない。が、わかっているのはただ一つ、いずれにしてもわれらは今後かなりの困難を忍ばねばならぬという事、そして真の人間を作るしかないということだけは確かである。人を作るなどという迂遠なことを言っても始まらんと思うかも知れぬが、そうではない。最後はそれしかない。どうにもならないものを立て直そうとするならば、最後は人を作るしかないのである。公的人間を一人でも多く作るしかないと思う。
 念仏者というのは、口先だけで南無阿弥陀仏と申しているようにみえるが、決してそうではない。その人こそ本当に仏道を成就している人であり、その人こそ私心を離れて大きな世界を考えることの出来る人である。そういう人がどこの部門にも一人ずつでも出てこなければどうしようもないではないか。そういうことを仏道に立つ者は考えている。太平洋戦争に負けてから既に三十年、その前の日支事変から考えれば四十年。その間我々は戦争に勝つように、あるいは強い軍隊を作るように色々なことを考えてきた。けれどもやはり念仏者をつくるということが一番大事な道だったんだ。どういう時代の中でも、私心を断って考える人をつくるしかない。しかしそういう事は一挙に出来ない。時間がかかるのである。今は先ず土壌を作る。そうしなければいい花は咲かないんだ。土壌をよくするということは、一人一人の名もない群萌(ぐんもう)がだんだんと本当の道に立って、そこから名のある人が出て来るのである。究極的にはそういう道しかないであろう。
 私室を持たない、そして常に如来の前に私を公開している。如来の前に立っている。人間だけを相手にしているならば、プライベートな部分を持って、これだけは知られたくない、ここは鍵をかけておかねばならないというところがある。けれども如来の前に立つということになるならば、既に心の鍵は砕かれている。そこに公明正大の人が誕生する。
 如来の前に立つということを念仏という。仏を念ずるという。この人を無我の人という。無私であり私心を持たない人である。本当の宗教が日本に栄えて、本当に無私の人が輩出しなければ日本の立て直しは出来ない。私心の人はインフレを利用し、立て直しを利用して自分のポケットをふくらますであろう。そこには社会の破滅があるのみである。


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