十六、信心即無碍道

『歎異抄講読(第七章について)』細川巌師述 より

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 『教行信証』信巻末の「真の仏弟子論」に聖人は『安楽集』より引いて言われた。「もし発心して作仏せんとおもわば、この心広大にして法界に周徧し、この心長遠にして未来際を尽し、この心(あまね)(つぶさ)に二乗の(さわり)を離る」。ここに信心(一心、菩提心、道心)の徳について三つ言われている。

(1)この心広大にして法界に周徧す。
 菩提心というものは広くて大きい。そしてあらゆる世界を包むような徳を持っている。本当に念仏する人には、物を包むというかまとめるというか、統率していくというか、そういう力がある。信心の人にはまとめる力があると思う。

(2)この心長遠にして未来際を尽す。
 長い気持ちをもち遠い所が見える。長い先を考えて広い視野を持つことができる。

(3)この心普くつぶさに二乗の障を離る。
 二乗の障を離るとは現実を逃避しない。二乗とは声聞と縁覚をいい、自分の平和、信念、思いの中に閉じこもって、現実と没交渉になることである。現実に対する働きかけを持たず主観的な信心の中に閉じこもる。本当の信心の人はそうではない。この心普くつぶさに二乗の障を離れて、人生に深い深い関心と働きかけを持つようになる。

 これを無碍道という。「念仏者は無碍の一道なり」「天神地祇も敬伏し魔界外道も障碍することなし」と、『歎異抄』第七章に言われたが、これを道綽禅師は『安楽集』に「この心広大にして法界に周徧し、この心長遠にして未来際を尽し、この心普く備に二乗の障を離る」と言われた。『歎異抄』ではこの菩提心の代りに念仏になっている。
 この無碍道が如来心なのである。その如来心をわが心として頂いてそれが却って私自身を照らし出して、私というものが本当に自覚されてくる。そこに無碍の一道が生まれてくる。何物も私を劣等感の中に引き入れず、何物も私に念仏を失わせない。そして粛々として一道を歩みぬく事のできるような人間として下さる。これを第七章に「念仏者は無碍の一道なり」と言われたのである。


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