十五、念仏の徳

『歎異抄講読(第七章について)』細川巌師述 より

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 念仏者の徳とは南無阿弥陀仏の徳である。南無阿弥陀仏が本当に私に生きて、何が起きても念仏申す身になった時、南無阿弥陀仏の徳がわが身にあらわれる。聖人は信巻末の真仏弟子論に善導大師のお言葉を引いて次のように言われた。「もしよく相続して念仏する者は……更に物として以てこれにくらぶべきもの無し」。これを人中の分陀利華という。
 白蓮華である。「物として」とは物質でなく、人物である。誰一人として比べるべき人がいない。これを希有華という。人中の白蓮華という。善導大師の仰せは『観無量寿経』に依ってある。「もし念仏する者は当に知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり、観世音菩薩、其の勝友となりたまう、まさに道場に坐し諸仏の家に生ずべし」と。この『観経』のことばを解釈されたのが先の善導の言葉である。「道場に坐す」とは、弥陀の浄土に生まれて観音勢至を友とし、釈尊自身が友となって下さるのであると述べられている。
 これは念仏者の徳を実によく言ってある。観音、大勢至が友となりたもうとは、よき師よき友を賜うことである。そして道場に坐す。人生にあるままが道場にある。これが念仏者の徳である。人の中の人となるが、しかし私が自分で人の中の人であると自認し肯定するのは傲慢である。自分の事と思って読むと間違う。これは親鸞聖人のことである。本当に念仏を頂かれたお方は親鸞である。親鸞こそはまことに人の中の人である。また、我々の有縁のよき師よき友を仰ぐと、この人たちは色々な苦難の中を生きぬいて、念仏を頂きぬかれた。まことに人の中の人である。自分の上に認めるのでなく尊い人の上に拝んだならば、実に経言がその通りであると拝むことができる。
 念仏者は如来の徳を仰ぐ。如来の徳を仰ぐ人が徳の所持者となる。徳とは功徳であり、その身に備わった大きな働き、すぐれたものである。バッテリーの働きは充電された電気の働きである。念仏者の徳の根源は浄土である。それを無量寿(命をあらわす)無量光(智慧をあらわす)という。阿弥陀という。ここに無限の徳の根本がある。如来の徳をあらわして阿弥陀という。南無阿弥陀仏の中に無限の徳がある。
 その徳を行者が受ける。「もし相続して念仏する者」、即ち一貫相続の念仏行者の上に如来の徳が成り立つ。如来の徳が成り立つ者は必ず如来の徳を仰ぐ。南無阿弥陀仏、ありがとうございますと法徳を仰ぐ。これを法の深信という。同時に深く自らを知る。これを機の深信という。深く自らにめざめるのである。だから行者自身は「私が人の中の白蓮華である」とは爪の垢程も言えない。夢にも言えない。
 徳はすべて如来の徳である。私に見えてくるものはすべてお粗末な私、煩悩無底、無功徳、お粗末極まる申し訳ない私、「人の中の人にあらず白蓮華にあらず、無漸無悦のこの身」である。聖人は「地獄は一定すみか」と申された。善導は「自身は現に是れ罪悪生死の凡夫」と言われ、道綽は一生造悪といわれた。それが真に徳の成立した姿である。念仏者は徳を如来の上に仰ぎ、よき師よき友の上に仰ぐ。
 聖人の上に人中の人を仰ぎ、自らは罪悪生死の凡夫とめざめていく。そこに他の人の善に対してケチをつける思いはない。あの人は表面はああだが中味はなっていないよ等ということは全くない。自分の居り場所がはっきりしているから人の悪口は言わない。人の悪口を言うている間は本物ではない。悪口を言ってはいけないという倫理的なものではなく、人のことを悪く言えなくなる。それは徳を如来に仰ぎ、自己自身に不徳を見出すからである。そこに住するからである。
 道場に坐す。道場とは道の行なわれる場である。本当の道場を浄土という。如来の場である。どこかに浄土があるのかというとそうではない。磁石があると必ず磁場がある。見えないけれど鉄粉を置いてしらべると、磁力線というのがわかる。如来まします所に如来の働く場がある。私を教えて下さり私を照らして下さり、私を励まして下さる働きが如来の場である。それを道場という。
 浄土は死んでから先にあるのではない。あるいは東経何度、北緯何度にあるのではない。遠い所や地理的な場所ではない、浄土とは如来の場である。如来の働きたもう場である。もし殻を破られてその大きな世界に発芽したならば、そこが如来の道場である。南無阿弥陀仏と私が念仏する道の場である。家庭も道場であり電車の中も道場であり、至る所道場となる。道場の本源を如来の浄土という。如来の光の照らしたもう所が道場であり、道場に坐するものを念仏者という。人生至る所全て道場である。家庭を道場にしようと言わなくてもいい。本当に自分が念仏する身になったら家庭は道場になる。道の行なわれる場、道を教えられる場、道を行ずる場、私が照らし出される場、即ち念仏の場が道場である。この場に出されることを「道場に坐す」という。
 剣道の選手は剣道場に入る時、一礼をする。相撲取りは土俵にのぼる時に一礼をする。我々もまたわが道場をもって、そこに一礼して入る。道場には主人がなくてはならない。それは仏である。如来があって道場となる。わが家庭が道場となるとは、そこに如来ましましてそれが主人公であり、そこによき師よき友、道の同胞があって道場となるのである。
 道場に坐すのは念仏者の徳である。念仏者は道場にあってよき師よき友にあり、南無阿弥陀仏をあるじとして生きる。
 その時他の人の善を見てわが姿を照らされ、「相済まないことだ。南無阿弥陀仏」となり、その善の人を、私に道を教えてくれる人として感謝する。他の人の善が私に懺悔を教え、感謝を教え、私を道場にあらしめる。ここに道場に坐すということが成り立つ。この時、全てが念仏に帰一するのである。
 このようにあらゆる善が念仏に帰一することを「他の善も要にあらず」という。このことが私において身を以て体得、体解されねばならない。


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