十四、危機

『歎異抄講読(第七章について)』細川巌師述 より

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 人生行路において前進する意欲を失い、あるいは深い谷底に落ち込んで立ち上がる気力が出ないというような場合を人生の危機という。
 危機には外なる危機と内なる危機がある。外の危機というのは、願い事がかなわないとか、病気とか、皆が認めてくれないとかいう、いわば外部の問題である。しかし内なる危機が大事である。外の条件が悪くて、願い事かなわず、人から誤解を受けようとも、内に燃えさかるものがあるならば、そういう危機は突破出来る。それども外の障碍はわずかでも内に気力が燃え上がらず、ファイトが出てこないということになれば、外のわずかな障碍でも自分を引きずって危機に追い込むのである。
 内なる危機の第一は罪、罪悪である。自分の犯した罪や失敗による挫折感である。これが私を引きずり廻して、「俺のような人間はもう駄目だ、生きている甲斐がない」と、深い劣等感、罪悪感の中に落ち込んでいく。
 第二は他の人の善に対する自分の思いである。私はこんなにつまらぬ人間であるのに、あの人達はあんなに立派なことができ、幸せであり、あのように成果をあげていると、他の人の善がわが内なる劣等感を引き起し、深い自信喪失を招く。これが危機である。自分自身の心が落ち込んで劣等感に陥り、自信をなくしていったならば、どうして立ち上がることができよう。外の苦難を超えていくことができよう。内面の危機が人間の最も大きな危機である。
 これは子供でも大人でも、長年聞法の人でもそうでなくても、皆に共通である。却って長年求道している人の方がこの危機感は大きいかも知れない。即ち自分はもう長く聞法しているのにまだこんな愚かなことを繰返して、そこから抜け出すことが出来ないという自信喪失。あの人はまだあまり聞いていないのにあんなに素晴しいことが出来る。それであるのに私にはできないということになって、かえって長く聞いている人の方がこの危機に深く引きずり込まれるということがある。従って若い人も年とった人も、求道の長い人も短い人も、聞く人も聞かない人もみなこの危機を持つ。
 今、念仏者は無碍の一道と言われ、「信心の行者は罪悪も業報を感ずること能わず」、いかなる深い罪を犯そうとも、そのことが私を劣等感に陥し入れることなく、又他の人の善も私の善も私の自信を失わせるということにならない。どのような危機をも突破出来るということを言われている。それを「罪悪も業報を感ずること能わず、諸善も及ぶことなし」と言う。
 志定気壮(志定まれば気さかんなり)である。どんな失意のどん底、不幸のどん底にいようとも、ファイト、志(仏教では願心)が本当に定まっているならば意気盛んなものがある。内から燃え上がってきて人をふるい立たせるものがある。そこに危機の克服がある。内に盛んなものがあればどのような危機も克服できる。「罪悪も業報を感ずること能わず」というのを先に頂いたので、今回は「諸善も及ぶことなし」ということを頂く。両者は裏表であり、深い関連がある。
 我々の超えねばならない問題は劣等感、自信喪失の克服という問題である。これが一番大事である。立ち上がらせるものは何かというと、先の言葉では志定まるということである。第七章では信心の行者、念仏者という。これが劣等感や自信喪失を克服していく主体をあらわしている。

 劣等感や自信喪失という問題は誰もが持っているもので万人に共通である。外国人も日本人も、老人も若い人も、男も女も皆持っている。人間だけでなく犬猫猿に至るまで、生きとし生けるもの皆に共通な殻である。その殻を破るということが危機を突破する道である。自分がどんなに大きな罪を犯そうとも決してくじけない。他の人がどんな善をしていようとも、それによって自信を失うことがない。そのようなことがどうして出来るのか。それはたった一つ、殻を破るという事である。
 穀はどうして破るのか。それは力づくで破ろうとしてはならない。ドングリの中にひそむ胚芽がだんだんと大きくなって、遂に発芽すると自然に殻は破れる。これが劣等感の克服、自信喪失からの立ち上がり、無碍の一道の展開する道である。
 劣等感を持つ人に対して、あなたは悪い所もあるが良い所、長所があるのだからそれを伸ばしていきましょうといい、自信喪失の者に対しては時機を待ちましょうというふうに勧めることも一つの方法であるが、根本的な解決にはならない。光と水を吸収して胚芽が自分で成長を遂げて、殻を内から破る、そこにピンチをチャンスにする存在が生まれてくる。これが仏道である。

(1)他の人の善

 本文には「諸善も及ぶことなき」とある。諸善とは、人がやっている諸々の善でもあり、また一般的にいう善もある。その両面から見てみよう。
 他の人の善が私に深い危機をもたらすことがある。自分は出来ないのに人は出来る。自分は仏教を聞いているけれども、宗教をやっていない人が結構うまくやっている。家庭も円満であるし、人あたりも良いし、職場でも信望があるし何も言い分はない。また、クリスチャンの方が仏教者よりもすぐれている点がある。社会的に活動的である。キリスト者は社会奉仕とかボランティアとかをよくやっているが、仏教の人はあまりやっていないなど向こうの方がいいのではないかと思って自信を失ってくる。
 曇鸞大師は『浄土論註』のはじめにこう言われている。「五濁の世、無仏の時において阿毘跋致(あびばっち)を求むるを難となす、この難にいまし多くの途あり」と。五濁の世とは、乱れ汚れて汚染された時代をいう。無仏の時とは、本当の指導者を失った時。阿毘跋致とは不退転地、大乗の菩薩位をいう。汚染されて指導者を失ったこの時代において、不退転地をわが身に得るということは非常に難しい。それを難行道という。
 なぜ難しいかという理由を五つあげてある。そこに「一つには外道の相善(しょうぜん)は菩薩の法を乱る」とあり、これが今の問題である。
 絶対に無碍の天地、もはや何ものにもたじろがない天地に出るということは非常に難しい。外道とは仏教以外のもの。相善とは外に形のあらわれる善、これを有相の善という。善といえば善行、よい行いをすることをいう。外に形の見えるものを有相という。その反対は無相の善という。外側からは見えない、内に秘められたものである。外教の人の有相の善というものが菩薩の心をかき乱して仏法でなくても結構善というものがあるではないか、仏法者以外でも結構いいことをやっているではないか、仏教でなくてはならぬということはないではないかというように心を乱されて、不退転地に至ることが出来ない。心の動揺が起って自信喪失を招く。これが先ず第一番の問題点であって、千何百年前の曇鸞大師によって取り上げられている。この問題は人間のある限り常に起ってくるのである。
 先に言うように、仏法を聞かなくても結構幸せに暮らし、子供の躾も行き届いてうまくやっている人がいる。なぜ仏法でなければならないのか。また、仏法を聞いている人でも生活がうまくいっていない人もいるではないかと思う。無仏の後においては、この外道相善が混乱を巻き起して前進を妨げる。即ち無碍の一道にならないと言っている。
 外道の人をとりあげなくても、仏教者同志の中でもこのことがある。同じように仏教を聞いているのに片方はどんどん前進していき、片方はぐずぐずしているということになると、他の人の善に対して自分が傷ついていくということがある。仏法を聞き続けるという人は決して多くない。どうして続かないのか、どうしてやめていくのかというと、原因の多くはここにある。他の人が自分よりも進んでいるように見え、自分が劣ってみえる。他に対する劣等感、自信の喪失が原因であることが少なくない。他の人の発言を聞き、やっている実行内容を見ると、活発に発言し元気よく実行し、喜びの生活に見える。この外にあらわれる姿に引きずられる。これは外道ではないが、やはり相善が菩薩の法を乱ると言えるであろう。
 このような善は実は心配ない。外側に出ているものは大したことはない。偽善的、形式的ということもある。形だけは何とか整えることができる。が、問題は内である。内なる無相のものが外に現れて自然(じねん)の善となる。姿、形に出てこない内面的なものが積み重ねられなければならない。それが先であり根本である。
 車がある。この車体がピカピカ光り形がよくても、それで自動車の価値がきまるのではない。問題はその能力にある。しかしどのように働くかは外から見ただけではわからない。恰好は悪くても中味が大切である。
 私は仏法の場で色々な人に接してきた。華々しく登場する人の中には、華々しく退場する人も少なくない。華々しく登場する人とは、一遍二遍聞いて感激して、これが今まで私が求めていたものだと涙をこぼさんばかりに言う人。早速仏壇を整え勤行をはじめてなかなか元気がいい。出発が大変華々しい。立派な求道者だと皆の人が思う。だが私はあまりそうは思わない。私は意地が悪くできているから、ははあ、この人は華々しく登場してきたが。華々しく退場するんじゃないかなあと思う。あまり劇的な出現は劇的な消失となることがある。しばらくするとそのような人はこちらの欠点を色々と言い出すようになる。そして、仏法というのは実に消極的でなまぬるくて、自分が本当に要望したものと違う、とか何とか言って退場する。勿論そんな人ばかりではない。が、とにかく長く続けるということが大事である。外側に動かされてはならない。一貫相続して何物にも動かされないで進んで行くしかない。「真実のみが末徹る」のである。

 仏法のない人の善についてはどう考えたらいいのか。仏法を聞かない人でも結構うまくやっている人がいるではないか。
 すべて現在は過去の集積である。現在その人が立派であるということは、過去に深い善根があるためである。先祖からの余徳というか、長い過去の中に蓄積されたものがある。我々の過去は長い。大根の種は前の世代の大根の続きであり、更にその前の世の大根から受け継がれたものである。ずっと前からの続きが今出てきている。現在は過去の蓄積である。
 自然科学をやっているとこのことはよくわかる。そうでなくても大抵の処はわかる。歯医者に行く。「ずい分長い間放っておきましたね。甘い物をよく食べるのでしょう」と聞かれる。甘い物を食べて手入れをしないで放っておいたのが、積り積って今日に至っている。過去の蓄積が現在になっている。松がねじれているのは、同じ方向から吹く強い風に長い間吹かれてそうなった。過去が現在の姿の中に出てきている。現在をしっかり見ると過去が見える。過去は現在を通して見る以外に見ようがない。
 現在その人が仏法なしでも善根を持ち、善行をしているということは、その人の過去に深い蓄積があったということに他ならない。反対に現在私が色々な不幸にぶつかっているとすれば、それは私の過去に色々な積み重ねがあって、それが今こうして出ているのだとわからねばならない。
 今、仏法のない人の善は過去の蓄積(これを宿善という)である。人間に生まれてそこに幸せな生活内容を持っているということは、そこに深い宿善があるのだと仏法はいう。
 現在は過去の蓄積である。従って現在我々が善根を集積していくならば、そこに新しい未来が必ず現れてくるわけである。このように過去、現在、未来と続いていく。現在は過去の集積であると同時に、現在善根を集め得たならば、その未来というものは必然的に変ってくるのである。また現在は過去の蓄積によって幸せに過しても、今の積み重ねが善い事でないと、次の代は堕落していくことは目に見えている。

 大体、偉い人の子供には偉い人はなかなか出ない事が多い。そうでない場合もあるので一般論でしか言えないが。仏法も同じことで、仏法を本当に頂いた人の子供に本当の仏法者が出てこない場合が多い。何かおかしいんじゃないかと我々は考える。が、そうではない。三代目には出るのである。「聖教を好きこしらえ持ちたる人の子孫には仏法者出でくるものなり」と、蓮如上人は『御一代記聞書』の中で言われている。仏法の書物をよく頂戴して念仏称名、讃嘆供養して、仏法を頂いていった人の子孫に必ず生きてくるようになっているとの仰せである。仏法を聞かない人でりっぱな生き方をしているのは、先祖に仏法を聞いた人がいて、その宿善があらわれているのである。

 余談になるが、子供のできがよくない事があるのは何故か。これについて私はこう思っている。それは非常に可哀想なことがある。仏法を本当に聞く人の子供は、周囲から一種独特の目で見られる。ちょうど学校の先生の子が人から注目されるように。そこに一種のストレスがかかり緊張感ができる。先生の子のくせにとか、宗教家の子でありながらあんなことではいけないとかいうように、世間から一つの型を期待される。すぐれた仏法者の子供は大変なんです。
 おばあさんが近寄ってきて、「あなたが○○先生の子供さんですか、ありがとうございます」とお礼を言う。先生にお世話になっていると子供にお礼を言う。子供の方は大迷惑、自分は何も知らんのにそんな礼をいわれると却って負担を感ずる。仏法に対する無形の圧迫を感じ、そこで小さい時から仏法に反撥するようになることがある。偉い人の子供というのはかわいそうだと思いますね。親が偉いと子供まで偉くなくてはならぬように思うのが、子供にとっては負担であり、反撥を感ずることである。
 も一つ、親の姿に裏表がある場合。親が皆に言うていることと自分の家における行動とが違う時、子供は敏感にその偽善を知って、仏教に対する深い不信感を持つ。私の家にも子供が四人いるが、その子たちを見て大体そんなふうに思う。
 仏法以外の人の善はどうか。キリスト教、立正佼成会や創価学会でしっかり精進している人達がある。これに対してある仏法者は、あんなのは外道だとケチをつける。またある人は劣等感に堕ちて、自分の仏法に対して自信を失うこともある。
 善というのは定善散善である。人間の関心は知的関心と倫理的関心である。知的関心とは、わからないものを知りたいというもの。このことが人を勉強させ、進展させる。倫理的関心とは、良い事をしたい、悪い事をしたくないというものである。
 倫理的関心を仏教では罪福心という。罪福心とは、罪悪を犯したならば人間の不幸に直結し、善を行じたならば幸福につながる。罪悪の報いとして必ず不幸があり、善根の報いとして必ず幸せがある。そういうことを信じている。これを信罪福心といい、人間の知性の中に皆持っているものである。それ故仏法があるとないとにかかわらず善を行ずるのである。これが人間だれもの関心である。
 信罪福心というのは人間の深い利己心、深い知性的なものである。人間がもし考える力を失わないでいるならば、悪いことをしたら必ず報いがあるということは、心の底で皆がうなずく問題なのである。
 そういう人間の知性の段階にある善はその根本は名聞、利養、勝他である。他の人の善を見たならば負けたと思って自信を失う。それは名聞、利養、勝他の心を根本に持っているからである。しかし行善の根本に、人がどう思うかというような見栄とか、善をやると結局自分の得だとか、負けてはならぬという競争心でやっているならば、それは外側は善であるけれども、純粋な善とは言えない。外道の教の善はここにとどまるのである。

 『十住論』には、善行とは持戒と次の七法とが和合したものであるという。持戒が中心である。持戒とは自分が実行するものを持っている。やってはならぬことをやらず、やるべきことをやるというものを持っている。大体五つ言う。不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒をいう。これらの持戒と次の七つが和合して善行となる。一つには慚、二つには愧。お恥ずかしいことである、まことに形ばかりでお恥ずかしいことであると慚愧する。天に慚じ地(人)に慚ずという。慚愧によって名聞、利養、勝他の心を超えると言っている。三つには多聞、仏法の教を聞いて自己自身を本当に照らされるということ。四つには精進、求道精進をやめない。五つには念、よき師よき友を憶念する。六つには慧。七つには浄命、正しい生活をしている。
 この七法をもって持戒を保つのを善行というのであるという。持戒は行である。漸、愧、念、慧は心根である。善は実行だけではない。行いは外側である。その内側に心根が添わなければ、本当の善とは言わない。
 他の人の善を見て深い劣等感や自信喪失を起す。その反対を「諸善も及ぶことなき故なり」という。危機は諸善の方が私を引っぱる時である。が、念仏者即ち信心の行者には諸善は慚愧となり感謝となるつまり念仏となるのである。

(2)念仏者(信心の行者)

 この人は小さな世界を出ている。仏に対して仏を念ずるという姿勢の人を念仏者という。仏に感謝し、懺悔し、大きな世界を本当に生きさせて頂く人である。この人の基本姿勢を憶念、称名、帰依、懺悔という。私にかけられている仏の願いを憶念しつつ南無阿弥陀仏と称名念仏し、深く帰依礼拝し、申しわけないことであるとあやまり入るのである。
 私が大きなものを生きる。大いなるものを如来という。この大いなるものに対する私の姿勢を憶念という。憶わざるを得ない。なぜなら向こうが私を呼んで下さるからそれに応えるのである。憶念弥陀仏本願である。私が憶うのは向こうが憶えばこそである。そこに称名がある。私に南無と呼びかけて下さるから私が南無と応えていく。私の南無は帰依であり帰命である。仏が帰れと呼ぶから帰依したてまつるのである。これが仏教者の基本姿勢である。人間が大きなものに対して基本的な姿勢を持っているかどうかが、求道の一番根本である。この基本姿勢を念仏といい信心という。そこに信心の行者が生まれる。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と弥陀の本願を憶念し、称名念仏し合掌礼拝懺悔する。この四つが離れない。憶念はありがとうございますであり、懺悔は申しわけありませんである。仏教は、最後は非常に簡単である。本当に仏教がわかったならば南無阿弥陀仏となる。南無阿弥陀仏が「ありがとうございます」「申しわけありません」であり、感謝、懺悔である。南無阿弥陀仏以外に色々と理屈を言っている間は、まだ仏法はわかっていない。南無阿弥陀仏が仏法のすべてである。
 これに附随して同時に備わる姿勢は、人生に対する勧請、随喜、廻向である。勧請とは如来に、私及び人生にどうぞ更に教を説いて下さいと請い願う。「本当に仏法を聞かせて頂きとうございます」という姿勢である。随喜とは善を行ずる人、幸せになっていく人達、平和になっていく社会を共に喜ぶ心である。他の善に対し、他の幸福に対し、自分が共に喜ぶことができることである。廻向とは、私の持っているもの、経験、財、知識等を仏道に捧げて、如来及び人生に報いていくことである。
 憶念、称名、帰依、懺悔という基本的な姿勢がきまると、人生に対する姿勢が変ってくる。ちょうど磁石の一方が正しく北を指すならば、他の一方は正しく南を指すように、如来に本当に眼が開いてきたならば、人生にも必ず眼が開くようになっている。この勧請、随喜、廻向を一言で言うならば、人生への働きかけが生まれてくることである。これを報謝の働きかけという。これは名聞にあらず利養にあらず勝他にあらず、いわゆる人間的な関心でない。人間の殻を打ち砕かれ、仏道によって与えられた純粋なものを根っこに持っている。これが、如来を通してこの世に働きかける働きである。
 電流は電線を通して流れてくる。電線が働きかけるのではない。中を流れる電流が働きを持つ。人間というものが仏法の電線となる時、その中を流れる電流は如来の御いのちである。それが流れる姿が勧請、随喜、廻向となって出てくる。この働きが出るところに、如来につながって生きるという具体的事実がある。
 この時、我々の上に他の人の善は何ら危機とならない。他の人の善は私を照らしてくれる。その人が仏教以外の人であるならばその行善に対して、「私はせっかく仏教を聞かせて頂く身でありながら、仏法を聞かない人の足元にも及ばぬようなお粗末なことである。南無阿弥陀仏」と懺悔になる。仏法者が行ずる善であるならば、まことに如来のお徳の現れである、南無阿弥陀仏と感謝せざるを得ない。
 この感謝と懺悔が念仏である。他の人の善が懺悔となり感謝となり、「本当によいことだ」と随喜する。相手の善が私を感謝せしめるところに随喜がある。随喜とは、単に一緒になって喜ぶというだけではなく、それが私に色々と教えるのである。私において南無阿弥陀仏になる。その時随喜できるのである。これを他の人の善が念仏になるという、他の人の善が受けとめられると、劣等感に陥るピンチが念仏申すチャンスとなる。私自身が大きな世界に出ていく契機となる。


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