十一、われらの関心

『歎異抄講読(第七章について)』細川巌師述 より

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(1)知的関心

 我々が心を寄せ、重要なものと考えざるを得ないものの一つは知的立場である。私共の知は外にあるものに引かれる。外に対して深い知的関心を持たざるを得ない。あれは何だろう、どんなことを言っているのであろうかというふうに。このような関心が無くなると、人間としての働きを失ってくる。老化したのである。テレビや新聞を見て色々な情報を受けとめる。それは重要な人間存在の働きである。われらのからだ、人間存在を五蘊(ごうん、またはごおん)という。五蘊とは積集(しゃくじゅう)の義という。五つのものが集まったものである。一つは色蘊、我々のからだである。からだというのは色々の元素が集まったというような集まり方でなしに、からだの働きをいう。眼と鼻と口と、そういうのが単に集まったというのでなしに、働きをしている。その働きをして色蘊という。これは犬も猫も人間も同じかというと、同じ部分もあり違う部分もある。眼を考えると、レンズとしての働きは動物も人間も同じかも知れぬが、読みとる力が違う。人間の眼は文字を読みとることができるが、猫に文字を見せても判別することはできない。レンズの集光作用は同じでも機能は違うのである。音楽を聞いて、いい音楽だなと感ずる耳は持たない。人間というのは人間の機能を持っている。色々な部分が集まって人間の体を造っている。この体が色々なものを受けとめるのである。
 受、想、行、識。これが心の働きである。からだと心を合わせて人間存在という。体がある限り色々なものを知り感じとる。そして考え、行動を起し、それを記憶し識別していく。そういう働きを人間という。人間である以上知的関心を持っている。これが生きるということである。
 小さな子供にも知的関心がある。生まれて何ヵ月目かの子供でも動いているものを見たならば、眼を向け耳をそばだてている。そのように受けとめて、何であろうかと考える、そして行動を起すのである。我々の知的関心はやがて、自分はどうしたらよかろうかというはからいを生んでくる。これは人間の深い意識であって誰もが持つものである。

(2)倫理的関心

 も一つは倫理的関心というか、道徳的関心というか、善悪を考える力を持つ。これは善い事だろうか、悪い事だろうか、どうしたらよかろうかと考える。現在の教育というものは大体知的関心だけを高めるようになっている。人間の持つ深い関心として倫理的関心がある。教育においてはそれを無視してはならない。
 私の小さな保育園に、一才児から五才児まで三十数人いる。そこで明日のリーダーちゃんを決める。リーダーは皆を引っ張っていく役割であるから、いい子にやらせる。「あしたのリーダーちゃんによしふみ君はどうかね」と先生が聞く。するとみんなは「よしふみ君はいけない。今日女の子の髪を引っ張って泣かした」という。髪を引っ張ったからリーダーになる資格がないという。これが五才児の発言です。小さな子でもよく見ておぼえている。深い関心を持っている。善い悪いということをちゃんと言う。なかなかリーダーにして貰えない。おもちゃを独り占めして貸してくれないからいい子じゃないよという。何も教えないのにちゃんとわかっている。実に人間の関心は小さい時から善い悪いというものに敏感である。そういうのは伸ばしてやらねばならない。これは教育上忘れてはならない事と思う。正しい事をやらせねばならない。自分さえよければいいということではいけない。皆が助け合っていかねばならない。これは子供の時からよくわかっている。だからこれを伸ばしてやればよい。子供の時の教育が大切だと、子供に接して思うことである。何が善いのか悪いのかということは時代と共に変わるものもあるが、変らないものがある。道理に合わないことは時代を異にしても、根本的には不変のものがある。我侭(わがまま)や平和破壊はいつの時代でも許されない。

 我々の関心は、知的に外に深く知っていこうとする関心と共に、も一つ善悪について深い関心を持つ。その関心が悪をすれば罪悪感、劣等感を生み、反対に善い事をすると優越感を生む。
 「罪悪も業報を感ずることあたわず」とあるが、我々は罪悪を犯したならば深く業報を感ずるのであって、それが人間の持つ大きな特色である。もし罪悪感がなくて、慚愧も後悔もなくなったならば、それは人間性を失っている存在といわなければならない。現代では深い倫理的関心というものが無くなりかけている。そういう一面がある。正しい事と正しくない事、善と悪とは子供の時からよくわかっているのであるから、それを伸ばしていく教育が必要であろう。
 スーパーマーケットで万引きをした子供達に罪悪感がない。みんながやっている、自分が見つかったのは運が悪かった、今日はついてないということになって、物を盗るのが悪いという倫理的関心がなくなった。善悪の考えがなくなった。人間の根本的なものが失われつつある。小さい時から持っている倫理的関心を伸ばしてやる教育をしなければならないと強く思う。

(3)善と悪

 善悪という分別は人間のある限り、好き嫌いと同様になくならないものである。善悪について深い考え方を持つということは、無碍道を知っていく道である。ここで更に善と悪について考える。
 十悪というのは倫理的、道徳的な悪をいう。

(イ)身業の悪(わが身にかけて犯す罪)
・殺生(奪命) 生き物の命をとる。人の平和を脅かし、暴力をふるい生命を奪う。これはいかなる時代、いかなる人、いかなる場所においても悪である。
偸盗(ちゅうとう)(不与取) 与えられないものを取っていく。
邪淫(じゃいん) よこしまな男女の関係。

(ロ)口業の悪
妄語(もうご) 嘘を言う。
綺語(きご) かざり立てた言葉。また卑しい言葉。
悪口(あっこう) 人のわる口を言う。
両舌(りょうぜつ) 二枚舌

(ハ)意業の悪
貪欲(とんよく)
瞋恚(しんに)
愚痴(ぐち)(我見)

以上身口意の三業の悪をいう。悪とは行動だけではない。口で言うことも悪がある。更に深く心の中で思っていることにも悪がある。
 十悪に対して五逆という。五逆とは反逆をいう。これは更に深い悪である。自覚的な悪である。自覚的とは、その人が深い立場に立って自覚することがなければならない。十悪というのは大体わかる。貪瞋痴というところはだんだんわからなくなる。貪-自分が欲なんだというのはまだわかるが、痴-間違った考えを持っているのだということはわからない。
 十悪にも順番があって、氷山にたとえるならば、海の上に見える部分は氷山全体の一部分である。露出して見える所は殺生、偸盗、邪淫である。ものを殺したり盗ったりするのはすぐわかる。が、邪淫は人にはわかりにくい。十悪の報いが地獄であるが、一番軽い地獄が殺生を犯した者のゆく地獄である。盗み、更に邪淫が罪が重い十大地獄の中でも深い所にある。我々は邪淫よりも殺生の方が重いのではないかと思うが、そうではなく、殺生より邪淫、更に口業、意業ほど罪が重い。なぜかというと、人にはっきりわからないから罰を受けないで、かくれて済んでしまう。表に出ているものは浅いもので、かくれている程重いのである。深い所にある大きなものが問題なのである。隠れたものほど深い地獄に堕ち込む。十大地獄の一番浅い所を等活地獄といって、ものを殺した者が堕ちていく所である。一番罪の重い邪見の者が堕ちていく所を阿鼻地獄という。これは絶対に助からない。助かる余地がないという。
 国会に呼び出されて喚問を受けるのは下っ端で、出てこない者が一番問題である。テレビや新聞に引きずり廻されてはいけない。新聞などで悪い悪いと言われている人間はまだいい方で、その底にいて表に出てこない者が一番悪いのである。
 五逆は十悪のも一つ底にある。逆は反逆である。背いているのであるが自分でもわからない。何に背いているのかというと、父、母、阿羅漢、和合僧、仏身という五つである。父と母は私を産み育ててくれた人であって、父母がなければ私の現在はない。それであるのに、この深い関係のある人に対して我々は冷たい反逆の心を持つ。これは人間の持つ深い業なのである。しかしなかなかわからない。これは道徳的な罪でなく、自覚的な宗教的な罪である。師や友や仏は、私の精神的成長をさせてくれたものであるのに、これに対して我々は深い反逆を感じる。これらを五逆という。
 十悪はまだ軽い。その底にどす黒いものがある、それは中々わからない。これを逆という。浅いところの悪を道徳的な悪といい、深いところの悪を宗教的な悪という。

 悪(罪悪)ということについて、嘉祥(唐の初めの頃の有名な仏教学者)の『百論疏』(提婆の百論を解釈した書)に、「罪とは摧折を以て義となす、不善業を造ればかの三塗を感じ苦報を得、行人を摧折す、これを罪という」とある。罪を犯すと心が砕ける。悪いことをすると地獄、餓鬼、畜生(三塗、三悪道)の苦の果報を受くという。そして罪を犯した人の心を砕くのである。それでこれを罪というのだという。悪いことをやって元気がよくなったということはない。「天日為に昏し」という言葉があるが、何となく元気がなくなる。体が悪いと元気がなくなるが、悪いことをしても元気がなくなる。
 犬でもそうである。私の所でも犬を飼っている。前のが死んで今小さいのが二匹いる。私が散歩をさせる時、脇道に入ったら名前を呼ぶ、すると帰って来る。ぐずぐずして帰ってこない時、「何しとるか!」と叫ぶと恐縮して飛んでくる。鶏でもわかる。畑に入った時叱ると、私の顔を見て恐縮して出ていく。あれは頭が小さいので記憶力がない。憶えるのになかなか時間がかかるが、やはり摧折の義ありである。
 後悔とは、どうしてあんな事をしたのだろうか、しなければよかったと思う。これを悪作という。「()せしを(にく)む」という。自分のした事でありながらにくらしい。そして不安になる。誰かに知られたのではなかろうか、何か言われるのではなかろうかと恐れを持つ。悪い報いがあるのではなかろうか、何か起りはしないだろうか。そこに後悔と不安と恐怖を持つようになる。これを「三塗を感じ苦報を得る」という。
 罪というものは、犯したその人が道徳的な感覚のある人なら、あまり責めなくてもいいものである。小さな子供でも感受性が強いほど、寝小便をしたら本当にしまったと思う。そして叱られる前からベソを書いている。そんなのは公開してもう罰を受けているのである。厳しく言わなくてもいい。問題は罪を感じない子であって、これにはしっかり言わねばならない。これが教育であろう。小さな子供の教育というのは、その子と同じ所まで下りねばならない面がある。自分は高い所にいて話しても対話にならない。一番親しく子供と対話ができるのは、文字通り屈んで話すことである。高い所から話すと子供は下からあお向けになって聞く。すると本当の対語にならない。しかしまた一面においては、高い所から、かくあるべき、こうであってはならぬと言う面を持っていて、彼らがそれに背いた時にはピシッと正すだけの力、決意がなければ教育ということは出来ない。悪いことをしたら尻を叩くという一面を持つことが、特に幼児教育には大切である。
 それはともかく、悪いということがわかると後悔してしょぼしょぼしている。それを三塗を感ずるという。苦の報を受けているという。深い叱責を受けているのである。
 普通の場合には、罪悪に対して感受性があって、自身の中にある道徳的な感覚が苦を感ずるようになっている。それを罪悪業報を感ずるという。現代はその感受性を作り育てねばいけない時代である。特に子供の時にしっかりやっておかねばならない。今日はそれがかなり乱れてきている。
 善悪という関心は、深い人間の根本感覚である。犯した罪悪については、人は心に深い摧折を感ずるのであって、それを苦報を受けるという。
 現代という時代の中で、人は罪というものなしに過せるであろうか。後悔なしに人間は生きていけないのではなかろうか。更に言うならば、不安と恐怖なしには現代を生きることは出来ないのではなかろうか。現代は誰もが自己の行動に後悔を感じ、不安と恐怖を持っている時代であろう。すべての人が、自分達は今こんなていたらくであるが、これでいい筈がない。今から先よい事が起る筈がない。必ず悪いことが起るに違いないという不安感を持つのではなかろうか。
 今は五濁の世である。五濁とは劫濁、見濁、煩悩濁、衆生濁、命濁をいう。劫濁とは時代の濁りである。川にたとえれば上流は水が澄んでいるが、下流になれば濁りが増してくるように、今は時代の濁りが増している。見濁とは人間の考え方が、私を含めて自己中心的になり、みんなの考えが濁ってきているのである。人の善を見ればケチをつけ、自分の悪いことは弁護して、決して悪いことはしてないと、皆自己主張する時代である。煩悩濁は、煩悩を刺激するものが沢山出来てきて、悪いことに慣れっこになっている。衆生濁は、抜きん出た人がいなくて、みんなが小さなスケールの人間になっている。命濁は智慧の命が濁っている。この五濁の世の中に人は生きている。
 しかも無仏の時である。本当の高潔な指導者を持たない。もはや一人も出てこない。たまたま出てきたらヒットラーみたいなことになって、却って皆を間違った方向に連れていく。真の指導者を失っている時代である。
 こういう時代にあって人間は罪悪なしにやっていけるのか。色、受、想、行、識という五蘊、無仏の時代の波をもろにかぶっている中で、我々は罪深い存在として生きている。殺生、偸盗、邪淫を、実際の行動としてはやらないかも知れないが、心の中では盗んで自分のものにしたいと思う心があり、その他色々の思いが一杯ある。この五濁、無仏の時代に生きていく考は、皆悉く深い罪の存在であろう。それを一生造悪という。我々の一生が造悪である。正しいと思ってやった事も年を経て考えてみると自己主張であったり、自分では他の人の為に一生懸命に尽したつもりでも、却ってその入の為にならなかったり、自分の教えていたことが間違いであったり、まことに智慧の無い一生造悪の存在である。そこに後悔と不安と恐怖を感じ、心が打ち砕かれて人に善を勧める元気もなくし、自分のような者は、人に善いことを言って勧める資格もない、悪いことをやるなという資格もないというところにとどまって、いよいよ世の中は五濁の世になっていく。こういう時代的悪化がある。ここに今日の時代の苦悩があろう。
 こういう一生造悪の時代において、我々が経験的自我の脱却をして生きる道が、無碍の一道である。我々が経験するものは、善と思ったことも悪いことになってしまう。私は一生造悪であり、経験してきたもの全てが後悔と不安と恐怖の種であった。これを脱却する道が無碍の一道である。罪悪も業報も感ずることあたわずという世界である。経験的自我の脱却とは、自分の十悪五逆が私を苦しめ、私を元気なくし自信を失わせてしまうのでなしに、それらが念仏となって私を励まし、却って私を立ち上がらせ、罪多き者にいよいよ幸せ多しという道にあらしめる。是を無碍道という。
 人間である以上、人はみな深い罪悪感を持つ。それを念仏していく道が無碍道として示されている。

 『歎異抄』の筋から少しはずれるが、人間には道徳教育が大切だと思う。正しい事をやらねばならない、間違った事をやってはいけないのだということをしっかり教育していく道徳教育が大事である。しかし我々はそれをあまり強調されると反撥を感ずるという一面がある。それでは道徳的教育をどうしたら徹底出来るかとなると、現代の教育界では必ずしもはっきりしていない。しかし私共ははっきりしている。道徳教育の根本は宗教である。仏であり神である。神は見給う、神は知り給う。如来ましますということが根本である。宗教なしに道徳教育はあり得ない。こうしなければならない、ああしなくてはいけないと言うだけでは押しつけで終る。人は知っても知らなくても神や仏は見ておいでになるという基本がなければ道徳は成り立たない。そうでなければ道徳教育と言いながら、偽善的な形式だけのものとなる。真の道徳はそんなものではない。神しろしめすが故に、神の教の通りに進んで行かなければならないのである。これが一番根本である。


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