十、仏道と外道

『歎異抄講読(第七章について)』細川巌師述 より

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 仏教は仏道である。仏となる道である。また、仏の教えたもう教法である。仏法を内道といい、仏法以外のものを外道という。内道と外道の相違について考えたい。

(1)仏道とは何か

 仏とは、正確には仏陀という。サンスクリットのブッダに漢字をあてはめて仏陀という。略して仏という。これを訳すると覚者という。めざめた人を覚者という。も少し詳しく言うと、自覚、覚他、覚行窮満という。どれにも覚という文字がある。覚というのは、今まで眠っていたものが目が覚める。あるいは酔っていた者が酔いから覚める。そしてシャンとするのを覚という。自ら目覚めたものを自覚という。ここが先ず外道と違うところである。また、凡夫(普通人)との相違点である。覚他とは他を目覚めさせる。これは声聞との相違点である。自覚を自己の確立(自利)というならば、覚他は他への働きかけ(利他)という。自分がシャンとしているのみならず、他の人に働きかけてめざめさせようとする自分だけのことにとどまっている人、たとえば学者とかエリートの人は、自分は目が覚めていると思うかも知れないが、そこで留まっている。そうではなしに、他への働きかけを持つ。その自利、利他ともに極まり満ちている、まどかであり欠け目のないのを覚行窮満という。ここが仏と菩薩との相違点である。自利利他という点では菩薩も同じであるが、本当に徹底したところを仏という。
 では仏教とは何か。それは仏陀の教である。歴史上仏陀といわれる人を釈尊という。仏陀の教を仏教といい、仏道という。それは仏陀となる教である。自覚、覚他というが具体的にどういうことか。これがはっきりしないと仏教の特色がはっきりしない。
 仏道とは人が人間になる道と言ってよかろう。真の人間生成とも言える。では人と人間は違うのかというと、人とは動物としての存在、哺乳動物の中の霊長類に属する動物で、母親の胎内で育ってこの世に生まれ出て、二本足で立つことが出来る。ものを言うことの出来る動物、ホモサピエンスである。人という動物が人間になる道を仏道という。仏陀こそ真の人間である。
 我々は仏というと、死んだ人というイメージを持つ。仏教とは何かというと、死んだ人の魂を慰める宗教ではないかと言われる。葬式をしたり法事をしたりするのが仏教で、生きた人を仏というのではないと考える。そうではない。本当の人間を仏というのである。従って本当の人間になる道が仏道である。本当の人間とは、自分自身がシャンとし、自分だけでなく他の人をも確立させていく。それが自覚、覚他、覚行窮満である。
 人間と人との違いは、人は動物的存在である、人間は間というのを持っている。人間とは間柄を持つ存在である。連帯を持っている、自己中心でなく間柄を持っている。横のつながり、縦のつながりを持って結びついている。横といえば我々のこの世におけるつながりである。人生につながる。そこには親がおり友がおり、兄弟があり夫婦があり、職場があり社会があって、つながって生きている。つながっているとは、深い愛情と理解と配慮を持つ。つまり深い連帯感を持っている。自分さえよければいいのでない。人のことはかまわない、自分さえよければいいと人生を無視しているのでなしに、人生に深い関わり合いを持っている。そこに、小さな殼を脱した真の人間存在がある。このような人生への結びつきの根本を自覚覚他という。
 人間は始めは人である。人は繰返して申すように殼の中に入っている。自己中心、ナルシシズムの殻である。ギリシャ神話に現われるナルシスという美少年のように、自分だけにしか関心がない、私が損をしてはいけないと自己中心にしかものを考えず、自分だけしか愛し得ない人である。こういう人は覚ではない。その人が覚者となる道が仏道である。この殻が破れて広い天地に顔を出して、人から人間になる。そこに横のつながりができるのである。そして深い愛情一配慮、連体感を持つようになる。これが自覚、覚他のはじめである。
 横のつながりができる時、同時に縦のつながりが生まれる。現在が大きな過去とつながる。過去とは歴史である。長い長い過去から今日まで働きかけている私への働きかけ、即ち御苦労の歴史である。それは具体的には私の前なるよき師である。その背後に更によき師があり、またよき師があり、遂に釈尊があり最後に本願がある。永遠の歴史が私の所までつながって来ている。遠い遠い彼方に源を発した川が、流れ流れて遂に私の足もとをひたひたとひたしてくるというように、過去と現在が密接につながりを持つ。現在の私に永劫の彼方からの深い深い呼びかけが届いて、現在が過去とつながっている。その時過去との間柄を持つ人間となる。私が一人ぽつんと孤立しているのではない。歴史につながる深い深いつながりが私にあるのだということを知らされる。そこに未来に対する深いつながりが生まれる。
 「後学相続の疑惑あることを思う」と『歎異抄』前序にあるように、後に続く人々に対して、深い願いを持ち、どうかこの道にしっかり立ってくれよという語りかけを持ち、深い連帯を持ってくる。そこに現在が未来とつながっている。私だけが生きていればいいというのでなしに、次なる世代を考えていく。このように過去と現在と未来という縦のつながりが出来ることを覚という。これを大きなものに目が覚めるという。過去の歴史と未来の人達に対して一貫した連帯を持つ。歴史に感謝し、未来に願いを持つ。この縦のつながりを持つ時、そこに人間が生まれたのである。これが本当に徹底した人を覚者という。
 仏教は何を教えるのかというと、小さな殻を出て本当の人間となり、縦につながり横につながる覚者をつくる教である。縦につながることを自覚といい、横につながることを覚他という。自覚、覚他を教えるのが仏教である。
 考えてみると、仏法以外のものは小さなことしか教えていない。人は自分の幸福というような小さなことしか考えていないのである。この小さな人が人間になる道を仏道という。
 しかし、そうなってもそれが何の役に立つのか。そうすることにどんな意味があるのか。そんなつながりよりも手っとり早く私が幸福になる道が必要ではないのかというのを外道という。これが仏道と外道の違う点であろう。
 仏道とは人が人間になる道、私が本当の私になる道である。私は始めは殻の中に閉じこもったドングリとして生まれてきた。その私が光と水を受けとめて発芽をして、とうとう一本の木になる道、これを仏道というのである。覚者となる道、人が人間となる道、私が本当の私になっていく道を仏道という。
 これは人間の考える道ではない。我々にはこんなことを考える力はない。どれ位儲かるか、何に役立つか、仏教は政治や経済にどんな具合に寄与するかなどしか考えない。なぜかというと人間は小さな殻の中に入って、自分本位にしか考え得ないからである。だから人間の考えた宗教はすべて外教である。
 私が本当の私になる道とか、人が人間になる道とかいうのは、人間の発想ではない。仏陀の発想である。そういう発想は人間が発想した教ではない。人間が発想した教はキリスト教であれ仏教であれ、人間の要請、人間の要求である。要請の宗教である。かくあるべきだ、本当に真面目にやったならばそれが報いられるべきだと、人間の知性は要求する。これが人間の考え方である。そこで神や仏を立てる。神があって、最後に神が人間を裁くのだ、これが最後の審判である。これは人間の要請によってつくられた宗教である。
 天に神がいて我々をすべて見てくれる。悪い者は神がそれを罰する。だから我々は悪いことをやめて良いことをしなければいけない。その方が結局得なんだという。これは人間の発想である。人間の考えた宗教である。私が本当の私になるということは我々の発想にはない。人間の発想はいつも役に立つか立たないか、有利であるかどうかということを出ることができない。
 仏陀の教というのは、小さな世界に閉じこもっている私に対する大悲の願である。小さな私を痛み悲しんで、深い願いをもって呼びかけるものである。大悲の世界が私に働きかけて、「汝、どうか小さな殻を出て、大きな世界に生まれて来いよ」という悲願を仏道というのである。それを南無阿弥陀仏という。これを法という。仏の法といい、仏となる法という。
 法は普遍の真理、普遍の道理である。法を説くところに仏法の特色がある。普遍の道理とは何か。小さな小さな存在、それを相対といおう。相対は自己中心の殻の中に閉じこもっていて、自分の事しか考えることの出来ない存在である。しかし、それを包む大きな大きな世界がある。それを絶対といおう。真如・一如といおう。その絶対と相対との間に成り立つものが普遍の真理である。大きなものが小さなものを見のがすことができなくて、大悲してやまないとなる道理が普遍の真理である。
 絶対と相対の関係については何回も申した。絶対は必ず相対を包んでいる。しかし単に包んでいるのではない。必ず絶対は相対に向かって働きかけて自己を実現しようとする。自己を届けようとする。ちょうど母親と子供のように、母親はただ抱いているというようなものではない。必ず乳を含ませ、おしめを取り替えてやって、子供を健やかに大きくしょうとして働きかけているのである。その働きかけを大悲の願という。大悲とは大いなる痛み悲しみ苦しみである。この大きなものの小さなものに対する働きかけを表わすには、大悲という表現が一番適切である。
 大悲とは、大慈、大悲、大喜、大捨をはらむ大慈悲であるが、大慈の願とは普通言わないで大悲の願という。悲しみの方を先に言う。なぜかというと、慈とはいつくしみ育てるのであるが、それよりも悲しみの方が先である。悲しみとは、この相対の存在がまともな状態でいないで、難治の三病にかかっている、その病に対する悲しみである。
 難治の三病、また難化の三機と言って、人は皆治らない病気にかかっている。どうしようもない状態になって手のつけようがない。これを難治の三病という。これは『涅槃経』に出ている。難治の三病とは五逆(恩知らず)謗法(大きな世界を全く無視して生きている)一闡提(全くやる気がない)という病気である。これに対して慈しみ育てるというよりも、深い悲しみが先に立っている。それゆえ大悲の願という。
 自分の手が元気でピンピンしていれば、一緒に遊びにでも行こうかということになるかも知れぬが、もし大怪我をして瀕死の状態で、助かるかどうかわからないという時には、いつくしみ育てる慈でなくて、先ず胸をつくものは悲しみであり驚きであり痛みである。早く救急車をということになる。大悲の願というのが適切である。
 この大悲の願が私にかけられている。この発想は人間の発想ではない。小さな殻に執われているこの者を大きな世界に出さねばならない。そしてドングリでなくて大きな木にしなければならない。人を人間に、本当のつながりを持った人間にしなければならないという教は、如来の発想である。これを仏法という。
 絶対なるものの私に対する呼びかけが南無阿弥陀仏となる。南無「来たれ」「帰れ」「出でよ」である。阿弥陀仏は、大いなるもの絶対なるもの「われ」である。「汝小さな殻を出でて大いなる世界に出でよ」と呼びかけてやまないもの、南無阿弥陀仏、この大悲の願を説くのを仏法という。説かれているものは法である。普遍の真理であるし普遍の真理、大いなるものの呼びかけを明らかにすることによって私が私になる道、私を仏陀とする道が成就し、私は小さな殻から出て大きな世界の呼びかけに応える身となる。その時願い続けられた大悲の願、即ち長い御苦労の歴史につながって、歴史に応えていく身となる。この縦のつながりを持つ時、同時に横のつながりが生まれてくる。友よ!という呼びかけをもって親子が結ばれ夫婦が結ばれ、職場や社会に深い連帯感を持つ人間形成がなされていく。それが同時に未来に対する深い配慮を持つ人を産み出す。そこに過去、現在、未来につながり、縦と横につながりを持ったものになって、遂に人が人間になるのである。
 この道は、そういうものが今大切だとか、なる程そう考えねばならないとかいうことではなしに、人間が成り立つ根本的なものなのである。それを真実宗教という。
 仏教は真実宗教である。最も根本的なものである。それがなければドングリに終って一本の木になることが出来ない。本当に縦と横のつながりを持った真の人間になることができない。こういうものを宗教という。この意味で仏教は宗教である。
 キリスト教ではreligion(レリジョン)という。これを宗教と訳したのであるが、これは少し違う。再び結びつくという意味である。キリスト教の場合一神が人間を創った。始め神と人間が一緒にいた。が、楽園喪失という、アダムとイブが神に背いて神の国から遠く離れて行った。それがもう一遍神と結びつく。それが懺悔であり祈りであり礼拝である。これで再結合であり、レリジョンである。仏教は違う。人間が人間になる道、これが本当の宗教の意味である。
 仏法は大悲の教である。これによってわれらが仏となっていく道である。ドングリが発芽して一本の木になっていく、これを仏道といい、それ以外の教を外道という。
 仏道とは仏陀の教であって、具体的には仏の法である。法とは、大きなものの小さなものへの願い、呼びかけである。そこに小さなものを大きな世界に出す法がある。これが仏法である。

(2)仏法の方法、仏道成就の道

 いかにして仏道は成り立つか。一言でいえば観、内観という。これが仏法の伝統的な方法で、他と違った徹底的な方法である。内観とは内に観るのである。自己自身を見る。問題を常に内に受けとめる。これが方法論である。内に自己を知るとは、深い自己愛着というか、広くものを考えることができなくて、小さな自分にふり廻されている自分自身を深く深く知ることである。これに対して外側に外側に知性でもって解決法を求めていくのを外道という。
 教を聞いて自己を知る、これが仏道成就の道である。私自身を本当に知っていく、これ以外に道はない。これを内観の一道という。
 観るということのために必要なものが二つある。一つに眼、も一つは光である。眼と光が要る。眼を我々に持っているかというと、持ってはいるがそれは外側を見る眼である。内側を観る眼、深く自己を観る眼は持たない。せいぜい反省する位のところである。私にも悪い所があった、この次からはよくしよう。しかしあの人にも悪いところがある、という程度しか自分を観ることができない。深く自分を見るのが観である。そして深く私というものがわかるのが覚の成就である。それには眼が要る。外を見る眼はあるが内を観る眼を持たない。この眼は今から養わなければならない。
 我々は目玉は持っているが、本を読む目というのは必ずしも持たない。漫画とかテレビとかを見ているが、本を読む眼というのは持たない人が多い。『歎異抄』を読んでみてもただ読んでいるだけで、本当の意味は読めない。本を読む眼というのはよほど養成しなければできない。本当に本を読む眼があると、二、三頁パラパラと見ただけでこれはいい本だなとわかる。読書力のある人にはすぐわかる。読書家というものはそのような眼を持っている。絵でも同じことで、見る眼を持っている人が見ないと良い絵かどうか判断出来ない。
 私は絵を見る眼はないが、本を見る眼は多少ある。これはいい本だなというのは、ちらっと見ただけでわかる気がする。要するに、眼は訓練によって出来るのである。
 光、これは勿論自分が出すものではなく、外から来るものである。実は光があって、眼はあとからつくのである。深海の底に棲む魚には眼がない。なぜならそこには光がないから。秋芳台の鐘乳洞の中に棲む魚も眼がない。しかし近頃は少しずつ眼がついてきたという。電灯その他の光が入って来てから眼ができてきたという。
 仏法は内観である。自己自身を知ることが中心である。その内観の眼はどうしてできるのかというと、大いなるものの光、大きなものの働きかけ、教、覚者の教、本願の教を聞いて聞いて聞きぬいていくうちにできる。そして始めて私というものが解るようになる。
 先ず教を聞いて自己を見る眼をだんだんとつけられて、その究極において私自身にめざめる。それが仏道成就の道である。
 今日、世界に必要な道はこの道しか残っていない。しかし、現実の社会では殆どの人が相手にせず見捨ててしまっている。しかもこれしか人間を救いようのないような道、それが仏道である。内観の道は人間の発想では出てこない。これは仏の道である。そしてこれこそが人を人間として誕生させ、新しい世界を作り得るたった一つの道である。大悲の心を聞きぬいて眼を与えられ、自覚、覚他する人間形成がなされる。内観の一道を成就して、人をして縦に横につながりを持たせていく道、これが人間にとって最後の道である。

(3)外道

 外道とは仏道以外の宗教、物の考え方を言う。それらはすべて外に問題の解決を求めていく。自己自身が殻を脱していくということを問題にしない。
 外に問題の解決を求めるというのは、人間知性に立つ道である。一言でいえば外に幸福や解決を追求すると言えるであろう。そういう考えは昔から人間のある所どこにもあるもので、インドでは古代にバラモン哲学があった。これを九十五種六十二見という。たとえば、

  1. 天地創造の神、その他の神を立てて次のようにいう。全てのものは神から生まれた。全てはその神の御手の中にある。従ってわれらはその神をあがめ神を守り、それに向かって進んでいくことが幸せのもとなんだという。一般的にはゾロアスター教的な宗教と言える。これがキリスト教その他一神教の起源である。ゾロアスターというのは人の名である。中近東のメソポタミヤ平原に発生した古代の文化の中でゾロアスターという人が現われた。現在拝火教というのが残っている。天地の根源には神がありその神が全てを知っておられる。その神には人間のやっていることが善い事も悪い事も皆わかっている。この世では善い人が衰え、悪い人が栄え、悪い事をしたのが却って幸せにいっているよう見える時もあるが、必ず最後に審判があって、悪いことをした者は地獄に堕されていくのであるという。絶対者を立てて、その絶対者の最後の審判を説くのがゾロアスター教的宗教の特色である。すべては神の御手にある。我々は善い事をやっていかなければならないという。
  2. 仏教では審判ということは言わない。因果応報である一人一人が自分の罪の罰を必ず受けるのである。これを(ごう)という。業を除く道がある。それが殻を破って大きな世界に出ることでである、この法を説くのが仏教である。外教は法を説かず、神を説くのである。超神秘的な絶対的な神を設定して、この神に問題の解決を求めていく。私の外にあるものが私を救うという考え方である。
  3. 運命をつかさどる星をいう。ある星座のもとに生まれると、その星によって運勢が支配されるという。また祟りなどが人間を動かしているのだと信じて、めぐり合せの悪い時にはじっと忍んで時の来るのを待たなければならない。祟りのないように何かお祀りしなくてはならないという。
  4. その他、虚無思想、神も仏も何もなく、すべては偶然だという説。

 このように九十五種あるという。親鸞聖人は『教行信証』の中にその六種をあげられた。それを六師外道という。

 外道が仏教と異なる点は、人生における名聞、利養、勝他を求める心で終始し自己形成にならないことである。なぜ神の教に従うのかというと、そうしないと私は不幸になるという。この宗教では人から悪く言われないように、私の得になるように、人に負けないようにというところを超え得ない。宗教によって、人間の持つ殻が要求しているものの満足を求めている。この教では、殻を破って広い大きな天地に自己形成を遂げていくということが生まれてこない。『大乗起信論』の外道排斥の論議はこれらを指摘している。
 「外道の所有の三昧は皆見愛我慢の心を離れず、世間の名聞、恭敬に貪着するが故に」というのがそれである。聖人はこれを化土巻に引かれている。これは外道というものをよく表わしている言葉である。「外道所有の三昧」は、人間知性の上に立って求めていくもので、たとい悟りを得ても、「見愛我慢の心を離れず」、我見(自己中心の思い)、我愛(エゴ、わが身かわいや、自己愛)、我慢(高ぶりの心)、即ち人間の持つ殼を離れることができない。どこかに執われを持っている。
 たとえば自分が宗教を聞いて、まじめな生活を始めた。そこに私は正しい生活をしているが他の人達はやっていなくてけしからんというものが心に出てくる。宗教に入った為に却って冷たいエリート意識が出る。こういうのを外道所有の三昧という。
 殻を脱していないから世間の名聞や尊敬に執われている。今日、色々な宗教があり、哲学があり、色々な人生観を持った傑れた人が沢出あるが、最後まで未解決で残るものが我見、我愛、我慢であろう。
 三人の坊さんが無言の行の修行をしていた。日が暮れて暗くなった。一人の坊さんが言った「暗くなったから灯をつけてくれ」。小僧に灯をつけるように言いつけるわけである。二番目の坊さんが言った「今は無言の行じゃ」。三番目の坊さんが言った。「ものを言わんのはわしだけじゃ」と。これは実にいいところをついている。人間は最後に「本物はわしだけじゃ」と言いたものが残る。われひと共にそうである。
 現代において尊敬される存在として残っているものは二つは裁判官、も一つは学者であろう。これらの人達は仕事に打ち込んで私利私欲を離れた高潔な人が多いとされている。が、仏教ではそういう人を欲界の天人という。欲界は下の方から地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天という。地獄はいつも苦しみの中に追い込まれている状態。餓鬼はいつも足りない足りないと不平ばかり言っている。畜生とは本能的なものに引きずられている。修羅は劣等感を持っていて、自分より上の者といつも喧嘩をする。人は考える力を持っているが色々なものに迷う。迷わなくなった人を天という。学者とか人格高潔な人をいう。しかしこれら全体を欲界という。欲を離れないのであう。が、天というところは非常に欲が少ないのである。
 学者の生活をよく表わしている本に高橋和巳の『悲の器』がある。この本には大学に勤めている者にとっては身につまされるものがある。主人公は有名大学の教授で、奥さんは病気で寝ている。教授は家政婦と関係して、後に家政婦から結婚不履行の裁判を起こされる。それが問題の始まりであるが、大学教授の持つエゴイズムが非常によく出ている、学問をして非常に高い所に上っても結局、我見、我愛、我慢を脱することは出来ないということをよく表している。人の世界をよく表わしている。
 知性を根本にして進んでゆく者は、人間の知性そのものを出ることは出来ない。知性そのものが一つの殻であり、知性の中に我見と我愛と我慢か入っている。従ってその殻を出ることは到底できない。そこに外道の限界がある。
 外教というものは知性を根本において外に問題の解決を求める。私にふりかかってくる色々な苦しみ、問題をどうやって解いたらよいか。神を、悟りを、思想や主義を、あるいは学説を持ってきてこの苦しみを片付けようとする。例えば経済学的にみるならば、資本主義構造というものでなしに、社会主義的なものに変えなければいけない。それによって社会的不平等、あるいは経済的不均衡を解決出来るんだと、外界の状況を色々観察し、考えて問題を解こうとする。これが現代における外道の行き方の一つである。
 外だけを考えてゆくと、現代は行きづまっている。何とも解決がつかない絶望的な状態である。東欧の実状が色々と報告されているのを見ても、社会主義体制という体制変更の方法だけではどうしても解決できない問題があることがわかる。
 私は精神病院に入っていた人をたくさん知っている。現実の社会では精神病院というと、何か特殊な人が入るのであって、その人はどこか異常ではないかと思うかも知れないが、そうではない。正常である。ただ強いナルシシズムである。自閉的である。先にも言うように、自己中心の中に閉じこもっている。
 私の保育園にも自閉的な子がいる。今、ある大学に園の職員を研修に出して、その療法を勉強している。自閉症の子というのは特色がある。人の言うことを受け入れない。中にはアハハハと勝手に笑ったり机の上のものを投げ捨てたり、そこいら中を走り廻ったりする子もいる。自分の思うことしかできない。そんなことをしてはいけないと言ってもきかないし、友達と遊ぶこともできない。だが、子供同志というのは面白い。この子に「そうしちゃいかんよ」と言って相手になってやる子がいる。大人なら冷たく、これは自閉症児だと批判しているが、子供は批判はしない。えらいものである。自閉症の子も友達の言うことはよくきく。こういう子の中で治っていくのではないかと思う。自閉症の子も人の言葉を聞いて、それに応答していくことが出来るようになると治るのである。ノイローゼの若者も規則正しい生活と、積極的な仕事と聞法とをしっかりやれば治る。ナルシシズムの自閉的な殻を破れば普通人である。破るということが大事なことである。ある人達は、ノイローゼの人は脳のどこかに欠陥があり、それを手術したり注射したりすれば治るのではないかと思っている。が、決してそんなものではない。心が閉じているのである。脳のどこかに悪い所があるのではないかというのは、外に向かった知性的な考え方である。これを外道という。人はすべて外道的な考え方しか持たない。
 それに対して仏道ではどう言うか。私を包む大いなるもの、例えて言えば、私の立っているその下の大地に「汝、帰れ、自分自身に帰れ」と呼びかけるもの(これを大悲の願という)によって、私がだんだんと内に内にと帰っていって、遂に大きなものに出遇う。私の中に大きなものがあるのでなしに、私に願いをかけている大きなものを知ることによって、私自身の穀の誤りを知っていく。知性の中にある我見と我愛と我慢を遂に知らされていく。この垂直思考を内観という。これを仏道という。私自身を知らされて、遂に大いなるもののお心に到る。
 私を内に内に見て転回していくのを内観という。これが内通(仏道)である。これが成り立つと外の現実を見る眼ができる。物事の道理、法則を考え、現実の中に横たわるものを、自己中心でなしに純粋に客観的に見ていく。友よ!という連帯感の上に立って、無私の心を持って、我見、我愛、我慢なしに接していける心が鎮まれてくる。それを具体的に言ってあるのは歎異抄の四章五章六章である。第四章では対社会の問題、第五章では対家庭という問題、第六章では対人間という問題。その上に第七章が出てきている。「友よ」というものが産まれて、私心なく、虚心担懐に接していくことができる。高橋和巳の『悲の器』の中にある冷たさ、深いエゴというものでなく、深い連帯感を持った行き方ができるようになる。それが無碍の一道である。

 「九十五種(の外道)世を汚す、唯仏一道清くます」という聖人の和讃がある。これは善導大師の言葉によっている。「九十五種世を汚す、唯仏一道ひとり清閑」という善導大師の言葉によって和讃を作られたのである。沢山の外道がある。科学的なことを言う人もあれば哲学的な人生観を説く人もある。それが世を汚すのである。これは厳しい表現である。世を汚染しよごしてしまう。色々な問題の解決を外に求めてそれに引きずり廻され、本当に自分が自分になる道、私が私になる道など考えないようにしてしまう。これを「世を汚す」という。白い紙を汚すともう元通りにならない。人間の持つ本当の生きる道を汚してしまった。外へ外へという道に麻痺させてしまった。私が大きなものの呼びかけに応え穀を破って出てくるというようなことは、全くわからなくなってしまう。そこに外道というものの深い罪がある。世を汚す罪があるといわれている。私が外道に汚される。そして本当の道を見失ってしまう。煩悩とか知性で引きずり廻されてしまって、本当の道を忘れてしまう。人ごとでなく私がそうなってしまう。有名になるとか人から尊敬されるとか、人に勝つとか、そういうことに執われてしまって、厚い厚い殻から脱することができないで、しかもそれを当然と思い、道はそれしかないと思う。そこに外道の罪がある。それに対する深い歎きを「九十五種世を汚す」と言われた。
 「魔界外道も障碍することなし」とは、そのようなものに汚されない、本当に私の道を知って、魔界外道の世界に深い歎きと悲しみを持ってそれに向かって、それは間違っているんだ、この道あり、ここに遺ありと叫び得るものを「念仏者は無碍の一道」というのである。そういう道が「魔界外道も障碍することなし」である。

 『歎異抄』前序にあるように「先師の口伝の真信に異ることを歎き、後学相続の疑惑あることを思う」て『歎異抄』は作られたのである。そして「泣く泣く筆を染めてこれをしるす」と後序に出ている。そこに、どうしても外道に引き廻されている現実を見逃すことができない、それに向かって「ここに通あり」と叫ばずにはいられない。それが働きかけである。清々たる人生の濁流の中に、どれ程それを叫んでみても、果して効果があるかどうか、極めて疑わしい。しかし信心の行者は結果は問わない。ここに道ありと言ってやまない。一人でも二人でも本当の人をつくりあげてゆきたい。そういうふうに立ち上がる力を持っていることを「障碍することなし」「念仏者は無碍の一道なり」と申すのである。
 信心の行者には、外に天神地祇、魔界外道など色々のものが何の妨げにもならない。
 また、内に罪悪(自己の犯した罪業、悪業)というものが私を引きずり廻して、不安と恐怖と後悔との中に私をおとし入れて立つ力を失わせるということがない。
 諸善も及ぶことなし。いかなる善も私に妨げとなることはないのである。内なる善も私を高慢の世界にもって行かない。外も内も私の妨げとならないということを今は、「罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善も及ぶことなし」と言ってある。


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