第七章

『歎異抄講読(第七章について)』細川巌師述 より

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 「念仏者は無碍の一道なり」に始まるこの第七章がなかったならば、『歎異抄』全体の真意というものが明らかにならない。この章があるために本願の宗教、念仏の道というものが非常に力強い、現実を生きぬく働きを持っていることを的確に表わしている。本願の宗教は内向的な面が強い。例えば第一章には「罪悪深重煩悩熾盛の衆生を助けんがための願にまします」といい、第二章には「地獄は一定すみかぞかし」というように、深い内向的な面が強く出ている。これを誤って考えると罪悪深重、地獄一定というように、ちぢこまってちぢこまって小心翼々として生きているようにとられる一面が出ている。更にまた、後の章になると宿業という問題が出てきて「兎の羽毛の毛の端にいる塵ばかりもこれ(ことごと)く宿業であって、どうすることもできない宿業の中に我々は生きているのである」という文もあって、内も外も助かりようのないような中で、信心を得てかろうじて生きていくのであるというように誤られる趣がある。しかるにこの第七章があってはじめて、そういういじけた、ちぢこまった宗教でなしに「無碍の一道」と、何物にも引きずられない、何物をもおそれることのない、いかなる障害をも意とせずに向かっていくような力強い明るい、そして徹底した積極的な表現が出ている。これが第七章の特色である。この章がなければ『歎異抄』、いや仏教全体が消極的なものであるの誤解されてしまうであろう。
 「念仏者は無碍の一道なり、そのいわれいかんとならば信心の行者には天神地祇も敬伏し」、天の神も地の神も向こうの方からこの人を尊敬し平伏し「魔界外道も障碍することなし」。更に作った罪悪も私を引きずり廻すことなく、いかなる諸善も及ぶものがない。このように極めて力強い表現であらわされている。この章を繰り返し頂くと本願の宗教が聖人において積極的な、徹底した教であったことが明らかになる。
 「念仏者は無碍の一道なり」。まことにこれは大文字である。実に感銘深い文字である。


一、念仏者

 「念仏者」について二つの説がある。一説では「者」は置字であって読まないのだという。「念仏者」は「念仏は」であるという。「念仏は無碍の一道なり」ということになる。例えば曾我量深師の『歎異抄聴記』には、その点が非常に強調してある。「念仏者」とは念仏申す者ではない。念仏が無碍の一道であって念仏申す者という意味ではないのだ。者は置字である。漢文では「念仏者無碍之一道」という場合に「者」は読まない。『観経』には「仏心者大慈悲是」という言葉がある。これは「仏心とは大慈悲これなり」という。「者」を読まない。これが漢文の常識である。「仏心とは」である。そうすると「念仏者」は「念仏とは」、あるいは「念仏は」と読むべきである。このように「者」は読まないというのが一説である。第二説は、念仏申す人であるという。「者」は人であるという説である。
 先の第一説の依り処は、あとに続く言葉は「道」であるから、人間が道である(はず)がない。念仏即ち南無阿弥陀仏が道なのであって、人間が道であるのはおかしい。従って念仏は無碍道であるというのが筋が通っているという。曾我先生の系統のお方は皆「念仏は」と言ってあります。例えば高原覚正師の書物にも「念仏とは」とある。念仏が無碍道なのであるということです。
 第二説は「者」は人であるという説。念仏というものは空中にぶら下がってあるのではない。念仏はどこかにあるのでなしに、必ず人の上に生きているのである。ちょうど、春がどこかにあるのでなしに、春が生きて春風となり花となり、鳥の鳴き声となって春は具体的である。このように、念仏は人の上に生きて念仏申す人になる。その人において無碍道は展開する。「者」は「人」であると言う。以上の二説がある。
 私は第二説の方が正しいと思う。言い分は上と同じ。それに、も一つ言えば次の文章、「そのいわれいかんとならば、信心の行者には……」とある。この文章から見て、「念仏は無碍道である、その理由は信心の行者には」となるとおかしい。文章としてもやはり「念仏者は無碍の一道である。それはなぜかというと信心の行者には……」となって、始めの方も人、あとの方も人を表わすのであって、「者」を読まないというのは文章としても適当でないと思う。事実として、念仏は具体的に念仏者の上に生きているものであるから、これらからして第二説の方が正しいのではないか。以下第二説によって申し上げる。

 念仏者とは念仏申す人である。南無阿弥陀仏と称名念仏する人である。これを次には信心の行者と言ってある。こうとるのが私としては非常にわかりやすい。
 信心の行者とは、南無阿弥陀仏と念仏申す人であるが、口先だけで言っているのでなく、深いめざめを与えられて、口に称名念仏申す人である。
 我々のこの存在を法という。この法はものがらという意味で、諸法とか一切法とかいう。私という存在は一切のものがらの一つである。この諸法を包む大きなものを法性あるいは真如という。真如法性という。現代的に言えば絶対という。法を法たらしめるものである。諸法の実相という。あらゆるものを包む大きな世界である。それが万法の根本である。
 しかしながら法性と法は単に並んであるのではない。法性は大きい。大きく包んでいるのであるが、単に包んでいるのではない。親と子にたとえれば、親と子が単に一緒にいるのではない。親の方が赤ん坊より大きいのであって、親は赤ん坊を抱いている。これが法性と法の関係である。しかし単に抱いているのではない。必ず法性は法に働きかけて、その法を法性たらしめようとする。ちょうど親は赤ん坊と単に並んでいるのでなく、また単に抱いているのでなく、赤ん坊に働きかけて乳を飲ませ世話をして、この子を大きくして遂に自分と同じものにしようとするのである。働きを持つ、法性は常に働きかけてくるのである。
 働きかけてくる姿を如来という。如より来生するという。これが大きなものの小さなものに対する必然的な働きである。太陽と氷にたとえれば、太陽と氷が並んであるのではない。太陽の照る世界に氷は包まれているのである。太陽からの光線が氷に働きかけてそれを融かして水にし、水蒸気にして大きな世界に出そうとする。それを如来という。如来というのはあるとかないとかいうのでなしに、それは真如法性の働きである。これを如来本願という。本願は一言でいうと南無阿弥陀仏である。南無は帰れ、阿弥陀仏は真如法性の働きかけの姿をいう。「汝小さな世界を出でて大きな世界に帰れ」という。無量寿、無量光といい、「無限にして絶対なる大きな世界に帰れ」「南無」と私に呼びかけるものである。
 その南無と呼びかけてやまないものが、とうとう氷を融かし殻を打ち破り、我々の上に本願の呼びかけとなって届いたところを信といいめざめという。その時に信は必ず南無阿弥陀仏と応答する。これを称名念仏という。法性に法(われら小さな存在)がかえっていくことを、如来本願を聞き開くという。ドングリが発芽して大きな世界を生きるように、鶏の卵がとうとう孵化(ふか)してひよこになるように、南無阿弥陀仏に応えて生きる身となる。これを殻が破れるという。この事が一番大事な問題である。これを仏教の原理的な表現で言えば諸法実相を知るという。真如法性にかえる、仏道を成ずるという。色々に言えるが、要するに小さな世界を出て大きな世界に帰ることを言っている。それを南無阿弥陀仏と念仏申す身となるという。大きなものの働きかけとは具体的には本願の教である。その教を聞き開いて念仏申す身となる、この人を念仏者という。
 私を小さな殻から出して大きな世界に立たせる根源、そしてひとたびそこに立ったならば、深くものを考え、道を行ずることができるようになる。その根源が南無阿弥陀仏である。仏を根源とする者、これを仏法者という。
 われらは何を根源として生きているか。一つには感情、そして理性、本能を根源に持っている。この三つが我々の心にある。何を本として考えるかというと普通は本能的なものである。好きとか嫌いとか、損だとか得だとか、そういう私の心を根源として生きている。またすぐれた人は、たとえ感情では嫌いであろうと好きであろうと、そういうものをふり捨てて物の道理を考える。或いは道徳的な立場で、或いは科学的な立場で考えるということがあろう。これは理性を本にしている人である。これらも人間の根源である。
 だが我々が真の根源を与えられるとどうなるのか。感情や理性や本能でない大きなものがわれらの真の根源である。この根源の呼びかけは我々の感情、理性、本能を打ち砕くのかというとそうではない。それはそのままに残しているのである。が、心の一番奥に根源となって成立する、それが南無阿弥陀仏という根源である。南無阿弥陀仏を根源とするようになる。これを信心という。信は私の根源となって感情、理性、本能を浄化する力となる。
 ここに一つの現実が起るとする。たとえば家庭の問題とか社会的な問題とか、あるいは個人的なこともあり内面的なこともあろう。嫌いな人が来るとその人に対して先ず、厭だ、嫌いだという感情が先立つ。あんな人と一緒にいると損だ、自分が傷つくなどと思う。理性的には、いやそうではない、あの人は可哀想な人で慰めてやらねばと思ったりする。ところが、もしも大きな根源を知らされると、そういうことはなくなって深い考えを持つ。南無阿弥陀仏が私の根本になって、根本的思惟ができるようになる。
 根源的思惟とは感情、理性、本能で考えるのでなしに根源に立って考える。「よくよく案ずる」ということができるようになる。根源的思惟とは如来の本願である。南無阿弥陀仏である。南無とは「帰れ」であり「来たれ」であり「共にあれ」である。いたみ、悲しみ、願いである。ブーバーはそれを「汝」と言った。Duである。その嫌いな人に対してIch-Duとなる。Duはドイツ語で親称であって、親子、夫婦というような深いつながりのある者に対する呼びかけである。我々の理性や感情はEsである。向こう側にその人を置いて対象化して考えている。しらじらしく相手を私と切り離して考えている。これをEs化、物質化という。利害、打算、好悪の対象として考えている。根源的思惟においてはその人を深く包むものが出てくる。利害、打算も考えないのではないが、も一つ深く考え、よくよく案ずるということができるのである。
 我々は理性的に考えるのが精一杯である。しかしながら理性は善い悪いということで裁く。根源的思惟というものは包むのである。いたみ、悲しみとなって出てくる。理性、感情、本能は世間心、信心は出世間心である。
 このように世間心から出て出世間心を持たされた者を念仏者という。これを南無阿弥陀仏と称名念仏する人という。ただ単に口先だけで念仏するのでなしに、心の一番奥底に彼を支える根源、根源的思惟を持たされるようになる。こういう人を念仏者という。従って念仏者というのは大変な存在である。ただ単に念仏するというだけの問題ではない。人間変革である。
 『歎異抄』第九章に聖人のお言葉として「よくよく案じみれば……煩悩の所為なり」とある。また後序には「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば」とある。私を支えて下さる根源にたちかえって深く考えてみると、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」と言われる。これを根源的思惟という。深い深い思惟を与えられ、深い深い考え方をせざるを得ないような立場に立たされる者を念仏者という。

 現代の世の中は、われひと共に感情と理性と本能のみで走り廻っているような世の中である。この現実人生において深いものの考え方、受けとめ方をなさしめる道が念仏の道である。これを仏道という。今こそ深くものを考えなければならない時代ではないのか。色々な事実が次々と起ってくる中で、我々は本当に深くものを考えねばならないのではないのか。それは念仏道に立つことによって万人に可能なのである。
 蓮如上人は「思案の頂上と申すべきは弥陀如来の五劫思惟の本願に過ぎたることはなし」と言われた。本願が人間の上に成立して、われらの最もすぐれた思惟となる。弥陀の五劫思惟の願即ち弥陀の本願を本当に頂いていくところに、弥陀は我々の根源となって下さる。その本願がわれらの思惟の根源となる。そうすると何事をも受けとめ、包むということがでてくる。これを無碍道というのである。


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