三、我執と法執

『歎異抄講読(第六章について)』細川巌師述 より

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 心根に関連して我執と法執ということがある。我執とはエゴに執われているエゴイズム、仏教ではそれを煩悩障という。法執とは所知障ともいう。どちらも心根の問題である。

(1)第一の壁

 人間が殻を破って出ていくのに第一の壁になるのは何か。それを煩悩障という。我執という。自己に執われることである。わが身可愛いやという我愛に執われる。いわゆる利害打算。損をしたくない、有利なようにしたい心。皆さんは大学の教授会などはとても深遠なことを論ずる所だとお思いだろうがそうではない。平和とか教育などというようなことはあまり論じない。もし議題になっても簡単にパッパッと片付ける。最も簡単に片付けるには、その事に関して原案を作る小委員会を作ってそこで議論をしてもらって、その原案をたたき台にしてこの次の教授会で討論しましょう、という具合に三分位で片付く。しかし非常に時間をとるのがある。それは予算の配分という問題である。予算をどのように分けるかということになると、今まで居眠りをしていた教授も起き上がって、目の色を輝かして討論が始まり非常に時間がかかる。もう一つは人事。誰を教授にするか、定員配分をどうするかということは大問題である。助手を一人採用するのでもなかなかの問題になることがある。いわんや学科増設などということになると大変である。大学の先生が一番議論をするのはその二つですね。人事と予算です。これは大体どの大学でも同じでしょう。他のことはどっち向いてもまあかまわぬ。しかし自己に利害が関係する事柄というと大変なことになる。また名聞の問題、自分が誤解されているとなれば黙っているわけにはいかないということになって発言が多い。人間の第一の壁は我愛であるといわねばならない。しかしながら聞法によってこれを突破することは必ずしも困難ではない。突破する人も少なくない。が、次に第二の壁にぶつかる。

(2)第二の壁

 第二の壁を法執という。法とはイズム、思想とも言える。法執とは一つの論理、一つの学説、一つの主義主張に執われ、枠に執われるのである。キリスト教はキリスト教の枠に執われ、仏教は仏教の枠に執われて相手を理解できない。それを所知障という。所知とは知られる所、知られる物に対する執われ、知られる物とは私の認識の対象であり、障とはこれに対する執われである。従ってイズム、宗教、先入観等に執われる。これを法執という。
 現在の学生運動や新しい左翼運動を考えると、これをやっている人は物凄いガリガリでわけのわからぬ人間かというと、そうではない。非常にいい学生が多い。頭も性格もよくてシャンとしている者が多い。けれども一つのものに執われている。一つのものにはまり込んでそこから出られない。それを深い意味のナルシシズムという。ナルシシズムは我執の方にも使うが、第二のナルシシズムとでもいうか、自己陶酔或いは主観性の中から抜け出せない。自己の主観を固く持っておって、それでいつも対象を見るのである。その思いから離れられない。人がどう言ってみても耳をかさない。「それはみんな資本主義社会の論理なんだ」と言って、他の意見に耳をかさない。このように主観に溺れている。これを法執といい、第二の壁という。従ってキリスト教の人はキリスト教の考え方に溺れて仏教のことは知ろうともしないし、仏教の人は仏教の考え方に執われてキリスト教の言うことを問題にしない。両者が常にそれぞれの小さな殻の中に入っているということがあるのである。共産主義は共産主義の中に入って他に耳をかさず、野党は野党の論理に閉じこめられている。保守は保守の壁の中に閉じこもって出て来ないというのが、第二のナルシシズムであり、法執である。これが現代の課題である。そこからどうしようもない対立が生まれている。
 法執とは法我執を略したものである。法は外側にあるものという意味。我執というのは私の内側にある我愛に執われるということ、この我執と、向こうにある自分の認識対象を実体化する。相手を本当に見ないである。ある角度からだけ見る。それが法執である。法執というのは自己の主観を動かさないで相手をきめつけていくのである。人間の突破すべき壁としてこの二つがある。それを仏教では、煩悩障と所知障という。煩悩障を突破すればそれで終りというものではない。
 今、専修念仏という人達は、第一の壁(我執)は突破したとも言える。大体そう言える。しかしまだ第二の壁(法執)が残っている。
 私をとりまく世界を諸法という。あらゆる法、全てのもの。これはもし眼を真に開いて見たならば、一つは御恩、おかげである。キリスト教的な表現をするならば神の御はからいである。全ておかげである。すべて因縁であるといえる。そしてもう一つは、すべて私の受け取るべき現実である。取り組むべき、背負うべき現実である。これが諸法の本当の姿であろう。全ての現象をこのように受けとめることが出来るのを智慧という。心の壁を突破して大きな世界に立って見たならば、あらゆるものはおかげである。「おかげ様で」という言葉は深い智慧の言葉であるといわねばならぬ。あらゆるものに我々は感謝し、有難うございますと頭を下げずにはおれないのが本当の姿ではないのか。それであるのに我々は一つの見方に執われて、おかげだとか御恩だとかは思わない。これは資本主義社会での当然の現象であるなどと言って済ませている。このような見方は血も涙もない見方である。現象を自分と切り離して、抽象的に傍観者として見ているのであり、高い所から相手を対象化して見ているのが人間知性の立場での判断である。人間がこの知性中心の考え方にうぬぼれを持ち、大いなるものとか神とかをぬきにして考えているところに、かえって人間が神になっている。俺の思うことは間違いないと理性過信の立場に立っているのである。これを法執という。その限りおかげも御恩も何もない。自分のはからいで決めつけていく。これを私有化というのである。本当は諸法すべては大いなるものの働きであり。また因縁により起ったものであるのに、人間が私的に考えているのである。法執は私有化を生むのである。
 また、私の周囲に起る問題はどうしようもない問題である。それを仏法では業という。業というのは説明を要する言葉であるが、一言でいえば受け取るべき現実、担うべき現実である。長い過去の集積であって、今やどうにもならぬ複雑な現実である。
 今はノイローゼの人がたくさんいる。そういう子を持った親は大変である。一家心中の一歩手前まで行くこともある。この段階でどうしてこうなったか、資本主義社会の弊害だと言ってみてもつまらぬ。何のたしにもならぬ。問題の受けとめ方、現実に対処する道は一つしかない。もし本当に私が殻を破って大きな世界に出たら、現実が私の取り組むべき課題となる。そういう世界がある。それを説こうとするのが仏法である。煩悩障と所知障を打ち砕いて、殻から出る人間を作りあげようとするのが仏教である。今日的な宗教である。現代の大きな社会問題は一つには我執我愛、利害打算に執われて筋の通らぬことをする者が増した。もう一つは、わけはわかっていながら自己の主観に閉じこもって私的考え方をふり廻して、御恩とかおかげだとかいう考えを持たないことである。もう一歩脱しなければならないのである。そうしなければ地上の対立をどうしようもない。ストを九十何時間もやるなどということは、その発想そのものが他の人を無視している。いかにも自己中心的であり、人の迷惑など考えぬやり方である。あまりにも自己中心の考えに執われすぎている。こんな事を全世界の人々がそれぞれやっていたらどうなるのか。思っただけでも慄然とする。これを超える道は仏道によるほかない。そこに今日的な仏教の意味がある。
 「専修念仏のともがら」が、法執を打ち砕かれたところには何が生まれるか。それを信の成立といい、通達位に立つという。そのような人を一人でも多く誕生させたいというのが仏教の目標であり仏教徒の願いである。これが仏道の到達点である。それは死んでから先の問題ではない。生きている人間をできるだけ早く、特に若い人々にそうなってもらいたいというのが仏教の願いである。
 信の成立とは通達位に立つことである。その立つ方法がはっきりしなければならない。その方法論は、『歎異抄』第二章には「よき人の仰せを被る」とある。広く言うと本願の成就によるという。弥陀の本願を聞き開くことによるのである。ここは非常にわかりにくい。しかしこれが『歎異抄』の第一章から第二章までの教である。そこはかなりの時間をかけて申したのでありますが、新しい参加者もあり、わかりにくいと思うので、もう一度つづめて申しておきましょう。
 それは先ず人との出遇いである。仏法の本当にわかっている人、本当に仏法に鍛えぬかれた人との出遇いである。そして遂に自己との出遇いである。自己との出遇い即ち自身との出遇いであろう。人というのはよき人、善知識である。人との出遇いが仏との出遇いであり、また自己との出遇いが仏との出遇いである。
 よき人とはどんな人か。先ず、(1)その人の過去の実績。その人は今までにどんな事をしてきたか。(2)現在の実態。どんな事を言いどんな事をしているか。実際その人は何をしているのか。家庭で、職場でどうなのか。言っている事としている事が違わないか。(3)その人の先生、その人の友はどんな人か。(4)何を読んでいるか。(5)何を生涯の願いとしているか。こういうことからわかるものであろう。よき人とは、今まで本当にわが身を捨ててやってきた。仏法の為に仏法の柱を支えようとして努めてきた。今、実際の生活の中で仏法を生きている。その人の先生はすぐれた人であり、友はまごころに満ちた本当の人間である。彼が読んでいるのは仏法中心の読み物で、それを生涯の愛読書としている。そして生涯をかけて仏法を興隆したいと願っている。このような人であろう。
 この中で一番問題は現在の実態である。その人の現実である。夫婦はうまくいっているのか。家庭はどうなのか。その人が言っているのは仏法の讃嘆か、世間のことか、人の悪口か。現在の実態というのがその人の決め手であると思う。私の先生はこの五つ共に、特に現実生活において非常にすぐれたお方であった。私は師のもとに五年一緒に住ませて頂いてよくわかった。実に裏表のない人であった。顔が一つしかない人であった。そういう人に出遇うということが第一である。このよき人を通して進展ということがある。人から人へと信の成立は伝わっていくのである。
 もう一つ、自己への出遇いとは何か。これは私自身を知ることである。それには問いを持たねばならない。「君はそれでよいのか」という問いにどう答え得るか。この答一つ聞けばその人がわかる。自己への出遇いが本当にできているかいないかがわかる。おそらく百人中九十九人は言うであろう。「君はこれでよいのか」と問われて「これではいけない、も少ししっかりやらねばならない」と。これが普通であり健全な答である。しかし悲しいかな自己への出遇いはなされていないと言わねばならぬ。本当の出遇いとは「君はそれでよいのか」と問われた時に「これではいけない」という所から先ず出発する。「もっと立派にならねばならぬ」というところから出発して最後に、この問いに対して「よい」「悪い」でなしに「申し訳ないことでございます、南無阿弥陀仏」となる。これを自己への出遇い、懺悔という。この問いの前に立って「このようなていたらくの私」と仏の前に懺悔していくというところに、自己との出遇いを持った人の姿がある。これが「汝自身を知れ」という問いに対する真の答である。
 よき人との出遇い自己との出遇い、これが信の成立の方法論であり、「専修念仏のともがら」から、もう一つ大きな世界に出る道である。


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