十七、自力のはからい

『歎異抄講読(第六章について)』細川巌師述 より

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 自力のはからいがすたるとは何か。この自力のはからいということについては今までにも何度か申したが、親鸞聖人はこれについて四つ言われている。

  1. 自らが身をよしと思う
     自己肯定である。私の考えは正しくて間違いないのだという。先のドラマで言うならば、母親が「私が苦労して苦労して育てた子であるから、私の言うことを聞いてくれるのは当然ではないか。私の為に尽してくれるのは当然であろう」という。これが深い自己肯定であって、「私の言うのが正しい」と思う。なる程その通りであろう。が、それはドングリの固い殻の中に閉じこめられている心である。向こうもドングリであるから両方どちらも言い分がある。「お母さんはそう言うけれど、私には私の考えがあるのだ」という。「日曜日ぐらいは十一時迄でも一時迄でもゆっくり寝ている方がいいんだ」と子は言う。親の方は、いくら日曜日でもそんなに遅くまで寝ていてはいけないという。これがお互いに衝突して遂に出てくるのが悲劇である。相争ってとどまることがない。こういうことになると、私の意見を押しつけるという訳にはいかぬ。両方がどこかで妥協して、どちらも泣き寝入りということになる。これでは本当のつながりにはならない。この殻が自己肯定であり自己中心的な考え方である。これを自力という。
  2. 自己過信
     わが身をたのむという。自分はやれば何でも出来るんだといううぬぼれを持っている。理想主義的な考えというか、どれだけでも進んで行けると思う自己過信を自力という。
  3. 自己卑下
     悪しき心をさがしくかえりみるという、深い自己卑下。ちょっと悪いことがあると、私のようなつまらぬ者は生きている甲斐もないという程まで自己を卑下する。
  4. 他のよしあしをいう
     冷たい批判。相手に対しては高い立場から冷たく批判して、よしあしときめつけていく。

 聖人はこの四つをあげていられる。先のドラマでもこれが如実に出ている。これは人間の持つ固い殻である。これが表われて人生模様というか、人間の悲劇と喜劇を織りなしているのである。それを我々はどうすることもできない。この自力のはからいの中にいるのが凡夫われらである。これを持たぬ者は一人もいない。これを凡夫というのである。
 自力のはからいの一番根本にあるものは何か。それを疑い、疑惑という。疑いとは大きな世界に対する無知である。大きな世界を如来という。如来無視、大きな世界に眼開かない。自分の殼の中でしかものを考えることができない。
 また、疑いとは如来拒否である。人間は如来に対して深い拒否反応を持つ。そんなものは考えたくもないという深い拒否反応がある。これが一番根底になって、自己肯定、自己過信、自己卑下、冷たい批判となっている。この殻の根本は疑いである。この如来無視の存在そのものに如来はなおも語り続け、働き続けてよき人の仰せとなって私に語りかけ、時機純熟を待っているのである。
 この疑いはどうして破れるのか。これは破ろうと思っても破れるものではない。ちょうどドングリのように中にある胚芽は、疑いという殼の中に居りながら、それを通して光と水を受けとめ芽が大きくなってくる。そしてとうとう殻を破って発芽するのである。それしか破る方法はない。叩き破るわけにはいかない。自覚によるしかないのである。積極的聞法によって自らの中に胚芽が育ってくる。教によって培われてくるのである。すべて本当のものは、外からこうせよああせよと言って出来るものでなく、内から盛りあがってくるものである。その為には外からの働きかけがなくてはならない。それが教でありよき師よき友である。よき師よき友を通して教を聞いていくところに、自分自身の中に芽ばえて来、だんだんと明らかになってくるものがあって、遂に殻が破れて教に応えるということが成り立つ。それを自力のはからいがすたるという。
 はじめ我々がよき師よき友の勧めを聞いたり考えたりしているのは自力ではないのか。まあ自力でしょう。これが出発点である。ドングリの殻の中で聞くしか我々にはできないのである。自力が他力の始まりである。従って自力を恐れてはならぬ。いや自力というものこそ出発点である。この自力から他力、大きなものの世界に出るのである。自力を尽して他力ヘ出ると言える。ドングリが発芽するには、胚芽は自分の中の果肉の養分をとりながら大きくなっていくのである。自分を食い尽して、自分の持っているもの(知性)を食い尽して出てくるのである。
 自己肯定、自己過信というような自力のはからいは、実際にはどのような姿をとるのか。善導大師は「業行を作すといえども心に軽慢を生じ、常に名利と相応す」と言われた。色々のよい事をするのを「業行を作す」という。よい事をしているのであるが、心の中にいつも慢心(エリート意識)が起る。よいことをやった、自分の方が優れているというような心が生まれて、いつも自分をほめてくれる者はいないかと思う。また損か得かという心を離れない。これを自力という。我々がドングリの殼の中にいる限り、やった事が心に憍慢を生ずる種となる。いつも申す例であるが、三人の坊さんがいて無言の行を始めた。日暮れになって暗くなった時一人の坊さんが言った。「小僧、早く灯をつけないか」。すると二人目が言った。「今は無言の行じゃ、物を言ってはならん」。三番目の坊さんが言った。「物を言わんのはわしだけじゃ」と。これはずい分いいところを言ってある。何をしても「わしだけじゃ」と言いたい。名利と相応するという。実にこの通りである。
 これを別の言葉でいうと体験執という。体験執とは自分の体験に執われる。俺がよい事をした、あの時にああいう事をしたという思いに執われる。それをまた体験の私有化ともいう。これが「業行を作すといえども心に軽慢を生ず」ということである。わしがよい事をしたと、わしがというところに体験の私有化がある。そうではない。我々の体験というものは、よい事をした時には皆おかげである。よき師、よき友、よき教に色々と教えて頂いたおかげである。こういうように私有化でなく、お返しすべき所がある。お礼すべき感謝すべき所を持っている。これを信心という。この反対を体験の私有化といい体験執という。わしがやったという思いは自力であり執われである。ドラマで「私が子供を産んで育てたんだ」という。実に切実な母親の声である。その通りなんだが、自分一人で育てられるのかというと、一人で育てられる筈はない。「お父さんは何もしない、子供が病気をしても看病したのは私だけだ」という。実にその通りである。けれども主人が職業を持ち働いていなければ、病気になっても医者にかかることもできない。食事の時には口と手で食べていると思うが、そうではない。目があり足があるから食べることが出来るのである。しかしながら我々はそれを、手と口で食べると小さく考える。私、というところで考える。そうではない。おかげである。そうならないのを自力のはからいといい迷いという。小さな殻に閉じこもっているのである。我々に、私の体験として私有化してよいものは何一つあるのではない。生かされているのであり、おかげを被って生きているのである。この体験執を現代病という。先のドラマを見てつくづく感じました。家内はあれがもっともだという。彼女も現代病にかかっているなあと思った。人の事でなく私もその通りで、現代病にかかっている。子供を育てたのは私が育てたのだと言いたい、それが自力のはからいなのである。その根本に疑い、如来無視がある。
 如来に目がさめたならば我々は、有難うございます、おかげでございますというほかない。たとい仏様のおかげとまでは言えなくても、沢山の人々のおかげを被っているのである。そういうものが出てくるのが道理である。自然の理なのである。しかし自然の理にかなわないと体験の私有化で終る。逆にいうと、体験の私有化しか出てこないものが打ち砕かれると、そこに感謝があり同時に寛容さが生まれてくるのである。感謝とは御恩であり、寛容さとは心の広さである。今この第六章では、自然の理にあいかのうたならば必ずわかってくれるのであろうという心の広さが出ている。たとい親の恩ということがわからず、自分のことは自分でやっていくと子が言っても、「あの子達がやがて成長したならばわかってくれる時もあろう。まあお父さん二人で仲良くやりましょう」と言わねばならんところである。ドラマはなかなかそうはいかないのだが。要するに体験に執われ私有化する。政治家は、わしがこの橋をかけてやった、道路をつけてやったんだという。聞いている方は有難うございましたとおべんちゃらを言わねばならん。しかしそんな事が一人で出来る筈がない。それを自分の手柄として言うこと自体、その人自身に問題があり大きな殻がある。これが現代病である。
 自力のはからいの人はよき師よき友に近づかない。「人我自ら覆うて同行善知識に親近せず」という。自力のはからいというのは、よき師よき友から離れて行こうとする。離れて行くとどうなるか。「好んで雑縁に近づく」という。本当の世界から離れて行って違った意見の人、自分が発言の出来る世界、自分がリーダーシップをとれる世界に近づいていく。よき師よき友に近づかないということは、自分が被教育者の立場を好まないのである。被教育者でなく指導的な、自分が上に立ってやれるような場にのさばっていく。自分が勧められ忠告され、励まされ教えられるような所から遠ざかって行こうとする。そしてだんだんと深い殼の中に入っていく。雑縁に近づいてますます固い殻に閉じこもってしまう。善導大師はこう言われている。このように自力のはからいというものが、我々をいよいよ小さくするのである。


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