十二、自己の方向を持つ

『歎異抄講読(第六章について)』細川巌師述 より

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 我々は自分の進むべき方向を持っている時に、「つくべき縁あれば伴い、離るべき縁あれば離る」ということができる。先には、縁とは智慧が生まれた時に縁だとわかるということを申したが、自分の方向を持たないと「つくべき縁あれば伴い、離るべき縁あれば離る」とはいえない。
 今、私のそばに仲間が一人いるとする。その人が離れていくならば淋しくてならない。追いかけて行ってどうか一緒に居てくれと言いたい。「つくべき縁あれば伴い、離るべき縁あれば離る」などと言ってすましているわけにはいかない。もしそう言えるとすれば、それは彼が嫌いだからである。嫌になったらそうも言えるだろうが、本当に好きならばそうは言っておれぬだろう。
 最近は離婚者が多いという。結婚する人も多いが離婚する人も少なくない。離婚者の大半は大体二十八才から三十才位迄に離婚するという。九州の新聞を見ると、母子家庭のほかに最近は父子家庭というのが増えた。その中の一割位が母親蒸発で五割位が離婚である。母子家庭がふえ父子家庭もふえている。時々そういう人が私の所に来られる。私の所では幼稚園をやっている。幼稚園と保育園を半々にしたようなものであるから幼育園という。幼稚園は文部省の管轄であって、夏休みや冬休みがあり、一員の時間数は四時間位である。保育所は厚生省の管轄である。時間は長く、朝早くから夕方遅くまで開いていて、夏休みもない。私の所はその中間で、朝九時から夕方五時までやります。そして夏休みは一週間程とる。幼稚園と保育所の両方からとって幼育園という。無認可で何の補助も貰っていないから何でもできる。ところが町役場の方から入れてくれと言ってくる。町立の保育所が一杯で入れない時言ってくる。それは大抵母子家庭ですね。母親が働きに出なければならないのに、小さい子を預ける所がないから預かってくれという。おかげで少しずつ人数が増した。始め三人から始めたのが今二十三人になった。勿論そういう子供ばかりではない。父子家庭もある。そういうことで夫婦の離婚が多いことを知った。
 親鸞聖人の場合、自分のいとしい弟子が去って行った。どれ程それをふびんに思い悲しく思い、いとおしく思われたことであろう。これは人を育ててみた人でなくてはわからない。予め申しますように伝教大師最澄と弘法大師空海との間に、泰範という一人の弟子をめぐって長い長い争いが起った。現在その記録が残っている。やりとりした手紙が残っている。泰範は始め最澄の弟子であった。それがどういう理由かそこを去って、弘法大師の高野山に入るのである。それを返してくれと最澄が何遍も手紙を出して頼むのだが、空海はそれを拒絶する。そういうやりとりがあった。自分が育てたその人が出て行くのに対して「つくべき縁あれば伴い、離るべき縁あれば離る」と言えるのは愛情がないからでない。冷たかったからではない。聖人は弟子に対して非常に強い愛情を持っておられた。そのことは現在残っている書簡集(『末燈抄』、『御消息集』)を見ると、実にこまめにねんごろな手紙を弟子達に出していられることからも伺うことができる。或いは『歎異抄』の第二章、第九章のように、自分の弟子に対して非常に細やかに教を説かれているところからも言えることである。
 愛情がないからではないのになぜこのように言えるのか。それは自ら進んで行く方向を持っているからである。往生浄土、本願の世界、願生浄土という方向を持っているのである。そこに言える言葉がこれである。その方向を持つということが根本である。その時に、一緒について来る人に対して深い深い因縁を感ずる。それを「つくべき縁あれば伴い」という。ついて来る人に対してDuである。Duと呼ばざるを得ない。Duは深い深い連帯感、友よ兄弟よであり御同朋・御同行でる。そして去る人に対してもDuである。友よ、兄弟よである。そこに深い深い愛情、深い深い痛み、悲しみ、願い、連帯感というものが離れない。去る人に対してDuである。去る人を引きとめるのでなく、「どうかあなたに因縁の深い、しかるべき人に遇うてくれよ、どうかよき師を持って道に立ってくれよ、進んでくれよ」という願い。共に歩んで行く人に対してもDu、去る人に対してもDu、これが信心というものである。それは自己の進むべき方向を持っているからである。方向を持っていることを信という。信は人への執われを持たない。人を自分の所に引きつけようとしない。人間的な愛を注ぎ込んでつなぎとめようとはしない。その人達を常に自由の天地に放って、しかも常に念じている。これは自己の方向を持つということがなければ出来ない。結ばるべきはただ大法、弥陀の本願を本当に頂いてあなたも私も共々に「友よ、兄弟よ」となって行こうではないか、こういうものを持つところに「つくべき縁あれば伴い、離るべき縁あれば離る」という言葉が出てくるのである。これは冷たい言葉ではなく智慧の言葉である。先師は「人来れば大法の如く、人去れば大法の如く、正解にも大法の如く、誤解にも大法の如く」と申された。

 「つくべき縁あれば伴い、離るべき縁あれば離る」という言葉を別の言葉でいうと「離合集散は因縁による」という。人間が離れたり集まったり散って行ったりするのは因縁なのだ。因縁と縁とは同じことである。この言葉は悟りの言葉であり、深い眼の開いた言葉である。人と逢い、人と集い、一緒に歩んでくれる。それは大きな喜びである。因縁を喜ばざるを得ない。人が私と一緒に歩んで下さるのも念仏の種。人が離れて行き、散り散りばらばらになる離散もまた念仏の種。離合集散を超え、順逆共に念仏する。合集を順とすれば離散は逆。順逆共に念仏である。その中を貫くものは往生浄土の方向、自分が前進して行くということである。それがないと我々は離合集散によって引き廻される。順縁に於ては喜び、逆縁によっては悲しみ、そこに喜怒哀楽、悲愁、憎悪があり、是非善悪が入ってけしからん奴だということになり、まことに恩知らずだということになって憎しみが増していく。そうではない。人間の喜怒哀楽を超えた世界、それは智慧の世界である。
 自己中心の殻を破って大きな世界に立たせられた。そこに集まってくる人達に対しては深い驚きがあり、深い喜びがある。尊敬と感謝がある。逆縁に対しては悲しみと痛み、願いがある。共にこれ仁である。そこに流れているものは人間的な愛情でなしに、法による結合である。人間的な愛情を超えた世界である。人間的なものによって結ばれたものは愛憎となり、また私有化となる。私の言う通りやってくれる間はいいのだが、私の言うことを聞かぬようになると憎しみが起る。親子でも夫婦でも人間的な愛だけで結ばれている場合には、愛憎の両面を持つ。「愛憎違順することは、高峯岳山にことならず」という和讃があるが、高い山、深い海のどっちに転ぶかわからない。ある時は高い高い愛情のある状態が出てくるかと思うと、またある時は深く深く憎しみ合う状況が出てくる。それは私情であって、法によるものでない。そうでなく、共に念仏で結ばれていく友であり兄弟であるというところに、この聖人の天地が開けてくるのである。
 余談になるが、亀井勝一郎氏が『愛の無常について』を著わされている。この題名は、我々の愛情は変っていくのだ、続かないのだという意味である。この書の前半は三十才になってから、後の方は四十才になってから書いてある。我々は愛する前に「君を二年間だけ愛しよう」というわけにはいかぬ。我々は愛の永遠性というものを相手に言う。
 『ファウスト』の中で、グレートヘンに向かって恋をささやくファウストのように、「私はあなたを永遠に愛するのだ、この愛は決して変わることはない、どこどこまでも愛しぬく」と一生懸命言う。しかし忽ちのうちにその愛は崩れていって、グレートヘンは誤って母親を毒で殺し、兄も殺されていき、自らは彼の子供を産みこれを池に投げ捨てて発狂していく。それをファウストはどうすることもできない。そこに悪魔のメフィストフェレスがささやく「心配いりません、こんなことになるのは何もあの子一人じゃありませんぜ」。沢山前例があるんだという。始めは永遠に愛しようと思ってもそれがみんな崩れていく。最後は憎しみになることもある。このような結びつきでは、「離合集散は因縁による」「つくべき縁あれば伴い、離るべき縁あれば離る」ということにはならない。遇うも別れるも苦しみである。
 このように言えるのは、世界即ち信心の世界においてである。自己の方向を持っていなければ言うことはできない。『愛の無常について』というのは、昭和二十四年、若い人特に二十代の人の為に心をこめて書かれた本ですね。色々と悩んでいる若い人の為に、自分が悪戦苦闘して遂に三十一才、親鸞の教に遇うまでの歩みをもとにして、どうかしっかり仏法を聞いてくれよとの願いをこめて書かれた本である。そこに人間的な愛情ということをテーマにしている。その中である章に「小慈小悲もなき身」という題をつけている。人間的愛情の常なき姿というのを言おうとする時に、小慈小悲もなき身と言っている。これはもとより親鸞聖人の和讃「小慈小悲もなき身にて、有情利益はおもうまじ」というのからとられているのである。自分の所から去っていこうとする者を追いかけてでもつなぎとめようとする愛情は、実に人間的な深い愛情である。けれども、まことに我々は小慈小悲もなき冷たい身である。そのことがこの章に表わされている。非常に胸を打つ題目である。
 人間をつなぎとめるのに我々は、自己の愛情というものをもってし、更に金や物でつなごうとし、策略を考えテクニックを考えるのである。が、そうでなしに法により、法で結ばれるのでなければならない。法とは念仏すること、そこに自ら成立してくる結びつきこそ、深い本当の人間関係である。人間の本当の結びつきは、表面上はかえって淡々としている。表面があまり強い結びつきは、作為的、演出的なもので、かえって表面だけということが多い。新幹線の駅で新婚夫婦を見送りに来ている人達によく出逢う。最後は胴上げをしたり花火をあげたりテープを投げたり賑やかなことである。が、も少し淡々として送れないものかなあと思う。淡々としているとは形式的な愛情というものでなくて、心の深い奥底で結ばれていることである。「汽車の窓から手を握り、送ってくれた友よりも、ホームの蔭で泣いていた、可愛いあの子が目にうかぶ」とはこのことである。真の結びつきは心根で結ばれるのである。
 深い心奥で結ばれる愛とは何か、それは必ず尊敬と配慮と責任と連帯である。尊敬とは私から言えば謙虚である。私が謙虚なところにいて相手の徳を拝むことができる。そしてこまやかな配慮がなされる。花を愛する人は、花を見て水をやり虫を取り雑草を抜き支えをしてやって、こまやかな配慮をする。
 責任とは彼が尋ねることに対して答え、応答していく。そこに深い、友としての結びつきがある。これが教法で結ばれた者の愛である。それは淡々たるものであって、演出されたものではない。これは結局、自己が方向を持つというところから始まる。


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