十一、縁

『歎異抄講読(第六章について)』細川巌師述 より

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 先ず縁という問題である。縁とは縁起という。詳しく言うと依他起性ということである。縁起というと現代は縁起が良いとか悪いとかいう。結婚式などの祝儀の時に、死ぬとか別れるとか離れるとか言うと縁起が悪いと言います。しかし縁起のもとの言葉は「よりて起る」という。これは深い仏法の悟りですね。
 私共の普通の知性的な考えでは、ある原因があってこれが結果を生んだのだと思う。これを因果関係という。
 今ここに弟子としておったものが離れていく。どうしてそうなったかというと、その師匠である聖人の教を聞かない。そして却って自分勝手な考えで解釈する。それが原因でとうとう破門されるという結果になった。原因と結果というものをそういうふうにみる。また、政府のやり方が悪かったからこういう結果になったのだという。医者の診断が悪かったから治るべき病気も治らなったのだという。因果ということで見ていくのが現在の普通の知性的な考え方である。
 科学というのは(Why)なぜということには答え得ないと申します。(How)いかにして、いかなる経過で、いかなる具合にそうなったかということに答えるだけであって、(Why)には答え得ない。良心的な科学者は皆そう申すのです。私は学生時代英語の時間に、ラザフォードだったか誰でしたか、有名な科学者の本に「科学というものはなぜということには答えない。どうして、いかにしてそうなるかというふうなものにだけ答えるものなのだ」とあったものですから、非常に疑問を持った。「なぜかというのを追求するのこそ科学ではないのか」と、英語の教授に聞いてみた。教授にはさすがにうまいことやられた。「それはラザフォード君に聞きたまえ」。この一発で了ったが、それ以来ずっとこのことが頭にあった。
 ある時期になって、なる程そうだなあと思った。自分が何か研究らしきことをやってみるとそういう道理がわかってくる。科学はある所までしか答え得ない。なぜそうなるかという事には答えることができない。普通の考えでは原因・結果と考える。あれがこうしたからこれがこうなったんだ。弟子が不始末をしたから勘当されて破門になった。あれが悪いんだというふうに、我々はズバリ物事を原因と結果で割り切ろうとする。因果関係をはっきりしようとするのが人間知性である。しかし、本当に因果がはっきりするのであろうか。
 仏教は原因・結果でなく、あらゆるものはよりて起るという。よりて起るとは、沢山の条件が集って起るものであるという。それを縁起法という。よりて起るという。一切空という言葉がある。一切空とは何もないということではなくて、我々が考えているようには何もないということである。我々は原因・結果こういう行為によってこういう結果が起るんだと考えているが、そうではないんだ。ある結果が起るについては沢山の条件があるんだ、それが集まり色色のプロセスがあって、そういう結果ができるんだということである。我々の思うようにはないんだという。一切空なんだ、空とはからっぽというのでなく、縁起ということを言おうとしているのである。龍樹菩薩の『中論』を読んでみると、縁起ということが中心にいわれている。
 これはある人の話です。小学校の先生が受持の時間に子供を見ていると、授業中に居眠りをしている。けしからんと叱ってそこに立たせておこうかと思ったけれども、ひょっと思い直して尋ねた。この人は仏法を聞いている人だった。「お前昨夜寝たか、眠れたか」すると「いや眠れなかった」という。「なぜ眠れなかったか」「蚊が喰うた」。田舎のことですから蚊がいますね。「なぜ蚊が喰うたか」「蚊帳がない」「なぜないか」「父が事故に逢って急に入院したので家の蚊帳を持って行った」という。この子供は居眠りしている。だからけしからん奴だ。そうでなしにそれには因縁があった。眠れなかったのである。なぜ眠れなかったかというと色々の因縁がある。この話はここまでだけども、私がこの先をつけ加えると更にこういうことになりますね。「どうしてお父さんが怪我したのか」「飲酒運転の車がお父さんの自転車にぶつかった」「なぜその運転手は飲酒していたのか」「棟上げの祝いがあって酔っぱらっていたのだろう」「なぜ棟上げをやったか」「その前日にやる筈だったのが、その家のおばあさんが日どりが悪いというから一日延びたんだ」。このようにその結果が起るのには原因がある。またお父さんがその時間にそこを通るのにも色々の条件があり、運転手もこのような事情がある。条件は無限に広がっていく。そこで、今子供が居眠りをしているという状態の原因はどれかということになると、どれというわけにはいかない。それは「よりて起る」といわねばならない。従って、子供がここで居眠りをしているという事柄は、これを大きく表現すれば三千大千世界につながっている。それが寄り合い寄り合って起っている。これを縁起と申します。
 我々はこれが原因だときめつけていますが、実はそれは人間過信、あるいは知性を絶対視しているのではなかろうか。それは智慧がなく、広くものを考えないのではなかろうか。沢山々々の条件があるのだということが先ず縁という考え方なのです。知性はあらゆる縁を断ち切って、単純に原因を考えるのである。事実はずうっと色々なものにつながって錯綜している。飲酒運転の運転手も、も少し日暮れ方でなしに視野がはっきりしておったならばそういう事故にならなかった。どんよりした目で見えにくかった。いわゆる気象条件ですね。なぜそういう気象状況が起ったかというと、大気中の炭酸ガスが最近増してきた為であるというような問題につながってくる。こういうふうにずっと広がっていくのである。
 これを縁起という。知性はこれを一番近いところで断ち切って引きちぎって考える。従って本当の深い見方というものができない。それを知性の限界とでもいうのか、分断化である。そこだけを取り出すということになって、全体との本当のつながりを切ってしまって考える。従って因果関係といってもそれが真実かどうかは疑わしい。しかし我々はそれを疑わない。知性を本とした考え、それを過信しているのが現代の大きな大きな問題である。これは仏法の立場から言えば智慧のない姿である。知性に基づく因果関係だけを正しいと主張するところに、深い人間の自己過信と、人間を絶対視して人間が神様になっている。これを遍計所執という。
 遍計所執の遍とはあまねくという。全てのものを人間のはからい、人間の知性の考えでとらえる、全てのものが知性的にとらえられる。とらえられるとは、人間の考えでつかまえてそれに執われるのである。それに執着するようになっている。知性が全然駄目だというのではない。それに執われているのが問題である。
 嫁と姑がいる。姑は嫁が悪いという。嫁は姑がこうするからこうなるんだという。それぞれ原因と結果の主張がある。その争いはお互いが自分の考えで因果関係を主張し、それに執われているのである。そこに迷っている姿、本当にものを理解しない姿がある。縁起というのはその反対の考え方で、よりて起るという。諸々の条件、大きくいえば三千法界につながるような、皆が一つの共同責任を持つようなつながりにおいてあらゆるものは起ってくるのである。広い智慧とは遍計所執でなしに依他起、あるいは縁起をいう。
 依他起とは、沢山の他の条件が重なり重なって現象は起ってくるという道理をいう。数学や物理で線型という現象がある。線型とは直線型とでも言いますか、ある原因である結果が起る。即ちXとYが直線的な関係にあると申します。原因が一つしかない。その原因がどれ位強く働くかによって影響されぐあいが違う。そういう単純な現象を線型の現象という。線型の現象だけは科学で解くことが出来る。けれども実際の現象というのは非線型である。沢山の原因が色々な強さで重なり合っていて、単純なものではない。従って科学で解決出来るのは線型の部分だけで、ごく限られている。実際の現象というのは簡単なものではない。沢山のものが入り混っているから、科学で得られた法則あるいは結果を直ちに実際の現象に結びつけることができない。これが公害問題とか環境問題の解決に中々結論の出にくい面のある理由である。非常に大胆に、これがこうだからこうなるんだ、会社が悪い、政府がよくない、嫁が悪い、姑が問題だという結論をすぐ出す人は、大胆を通り越して無智であるというか、極めて単純な閉鎖的な考え方であるといわねばならない。智慧がないといわねばならない。
 縁起というものは、そういう考えもあるのかというとそうではない。人間が叡智を持ったら縁起を感じ取るのである。智慧の成立ということによって縁起という悟りが生まれてくるのである。
 ドングリがある。ドングリが小さな殻に入っていると、ものを簡単にしか考えることができない。自分のはからい、自分の考えで原因・結果と簡単に割り切って考える考え方しかできない。けれども自己中心、知性中心のドングリに光と水が働いて、この胚芽がだんだん大きくなって、とうとう殻を破って広い世界に発芽するとその時に、知性を破っても一つ高い次元で考えることができるようになる。なぜかというと、智慧の成立は増上縁による。私を本当に向上せしめる優れた増上縁によるのである。光は教であり、水はよき師よき友である。そのよき師よき友よき教によって、小さなドングリが殼を破って遂に広い天地に出る。その時に増上縁の発見ということがある。自分に働きかけて下さった沢山々々の優れた縁というものがわかってくる。そこに目が開く、それを智慧という。智慧は先ず縁起というものに眼が開くのである。私の考えがあって私が努力したから眼が開くのでなしに、大きな働きかけによってそうなってくるのである。その時に始めて縁起ということがわかる。これを「遠く宿縁を慶ぶ」と申します。或いは宿善を喜ぶという。親鸞聖人は『教行信証』の総序の中で「たまたま行信を獲ば遠く宿縁を慶べ」と言われた。危ない中からたまたま縁に恵まれて、光と水の働きによって大き世界に出ることができた。誠にその縁を喜ばずにはいられないということを言っておられる。それを増上縁という。私を向上せしめる最上の縁を与えられたのである。ここにはじめて縁起ということがわかってくる。この宿縁というものに対する深い感銘が、同時に深い縁によって全てのものは起っているのだと知るのである。我々が自分の知性でもって、小さく引きちぎってこれが原因だ結果だと主張するのでなしに、謙虚に現実そのものを受けとめるところに、感謝と謙虚さが生まれる。そこに智慧の成立がある。縁というものは理屈ではない。縁に対する感謝である。自分が広い世界に出された時の感謝である。弥陀の弘誓願を増上縁とするという和讃があるが、殻を超えたところに開ける智慧の成立が、縁ということを身にしみて体得させるのである。
 人が私から離れる、或いは人が私と一緒になる。そのことが深い深い縁だなあとわかってくる。人が離れていくと淋しくなり、どうして離れていくのかと歎いたり憎んだりする。或いは人がついて来ると喜んでそれを愛そうと考える。そういう人間の心では、努力したならば沢山の人を引きつけることができるようにも思い、逃げて行く人を引きとめることも出来るように思うのだが、そういうものではない。それは縁なのである。離合集散はすべて因縁によるものである。
 智慧の成立は宿縁に対して眼が開けること、縁に開かれる眼は信心の智慧の眼である。これは深くものを考える、殻を破った天地を与えられなければ出てこない。それが信心の智慧である。
 ブーバーは言った「み恵みによって『汝』が私に出遇う。全て真の生は出遇いである」。これは「われと汝」という書物にある。ブーバーはユダヤ教の神学者であるから「汝」というのは神のことを言っているのであるが、「み恵みによって」という。これは神の恩恵を言っている。しかし我々仏教徒からみれば「み恵みによって」というのは優れた縁である。増上縁である。本当に良い縁を頂いて、それによって私を汝と呼んで下さるお方と出遇ったのである。まことにこれは深い深い縁であると言わねばならない。全法界あげての条件が整って、汝が私に出遇ったのである。そこに深い感謝がある。「すべて真の生は出遇いである」。すべての人生は出遇いから始まる。私に深い深い縁が与えられ、光が恵まれ水が恵まれた。恵まれなくても仕方がなかったのに恵まれたのである。それに対する深い感銘を今こういう言葉で表わしている。聖人の「たまたま行信を獲ば遠く宿縁を慶べ」のお言葉は、聖人が「汝」と呼んで下さるものに出遇われた感銘である。「汝」はDuである。切っても切れない相手を呼ぶ場合の呼び名であって、単なるあなたでなしDuにである。私をDuと呼んでくれるものが私に出遇ったのだ、深い深い縁であったのだ。その縁に対する喜びが「遠く宿縁を慶ぶ」という言葉になっている。


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