九、追善供養

『歎異抄講読(第五章について)』細川巌師述 より

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 追善供養とは、死んだ人のためにこの世から我々が、あるいはお経をあげ、あるいはお供物をあげ、あるいは法事をしてその善根を死んだ人の世界に送って供養し慰めるのをいう。そういう考え方が現在もあるのである。それはどういうことかということを考えてみよう。

(1)霊魂はあるのか

 霊はあるのか。慰霊祭というのがある。また、三回忌、七回忌、十三回忌などの法事をして死んだ人の魂を慰めるという。人が亡くなると、冥福を祈るという。しかし一体、霊魂というものはあるのだろうか。あるという人もかなりある。一方、ないという人もある。あるという人は更に発展して霊の祟りというのまでかつぎ出す。あなたの家にこの頃病人が続いたり不幸が絶えないのは、先祖の霊が崇っているのだ、よく法事をして貰わなかった先祖がいて、それが祟るのだという人もある。そういう事があるのだろうか。
 あるのか、ないのか。仏教ではどのようにいうのか。仏教はこれに対して非常に冷たい返事をする。「あるという人よ、霊というものは君が思っているような霊はないのだ。ないという人よ、君がないと思っているのは間違いなんだ」という。あるに非ず、ないに非ずという。
 ブーバーのことばを借りると、この説明は非常に簡単である。この人自身は仏教徒ではないが、表現が非常に面白い。彼はユダヤ人で最後はイスラエル大学の神学の教授であったが、先年亡くなられた。『ブーバー著作集』の第一巻に『われと汝』対話的原理という書物がある。その一番はじめにこのように言っている。「世界は人の態度に応じて二重構造である」。これは既に申しあげました。世界というのが今ここでは霊魂である。態度というのは姿勢である。二重構造というのは、たとえば卵でいうならば二重になっている中と外である。上っ面から見ると楕円形の物質であるが、内容は上っ面とは全く違った想像できないようなものを持っている。即ち白身を持ち黄身を持ち胚を持っていて、外側とは全然違う。りんごを見ると外側は赤い色であるが、内側は外とは全く違う乳白色の厚い果肉で、その中に種がある。外側からは中味はわからない。二重構造になっている。「人の態度はその根源語に応じて二重である」。ブーバーの大きな特色は根源語ということである。根源語というのはかねて申すように、物を考える一番基礎、物が成り立つ一番基礎である。それを根源語というところが面白い。一番根源になるものは私である。その私が二つある。「その根源語が二つあるのに応じて二重である」。根源語をまた対偶語という。Wortpaar(ボルトパル)対語である。相手と私で一つである。その第一を「私-それ」の私という。
 「私-それ」の私。私が知性を根本において世界を物質化し対象化して見る。そういう根源語に応ずると、世界はそういうふうに見えるのだという。今、霊魂を考える。霊魂を考えるあなたは何か。あなたが「私-それ」の私であれば、それに応じて世界が現われてくる。贈り物を頂いた。その時それが物に見える。「これいくら位かな」「そうですね、二千円位でしょう」。二千円に見える。そうするとくれた人の心持とか頂いた感謝の気持ちとかでなく、ただ二千円になってしまう。そういうのを物質化という。山を見るとこの山はどのくらいあるか、これを開発したらどの位の坪数がとれるか、ということになる。このように見れば、霊魂はあるかないかどちらかに見える。このような見方をすると世界は表面的な見方しかできない。上っ面をなでまわしているのである。そしてすべて因果津の法則で見ていくしかない。因果律とは原因と結果、即ちこうしたからこうなったという見方をする。霊魂があるかないか。死ぬ前の人を秤にのせる、その人が死んだら目方が少し軽くなっている。それだけ霊魂が出て行ったのだということになってしまう。こういう考え方に立つ。表面的で因果律に従って見ていくと、有の見、無の見ということになる。有るとか無いとか言っているのは、物質化し対象化して表面的に言っているのである、
 ブーバーは二重構造であるという。も一つは「私-汝」の私である。私が汝とペアである。片方が私で、もう片方が汝なのだ。ドイツ語でDuである。「Ich-Du」という。私を汝と呼ぶものと私とがペアになっている。ドイツ語では「汝」というのを親称といって、切っても切れないつながりのあるものをいう。それをDuとよぶ。親子、兄弟、夫婦のように、切っても切れない関係にある者を呼ぶ時にDuという。神は私を汝とよんで下さる。ブーバーは神という言葉は使わなかったが、そういう心を入れている。私を汝と呼ぶと同時に私はまた、Duと呼び返さざるを得ない。私に語りかけるものがあり、そのよびかけに応えざるを得ない私が生まれると、世界は表面的でなしに深く内面的である。内面的なつながりにおいて超因果律の結びつきを持つ。原因とか結果とかを超えている。このような世界が開ける。有の見、無の見を辺見という。かたよっている。あるかないかということにかたよっている。この考え方は一次元的な考え方である。一次元とは直線であって、一方向だけのひろがりである。この上に立つ考え方は低次元の考え方である。次に高い二次元は平面を持っている。三次元というのは空間を持っている。一次元に住む者は、一直線の上を両方からアミーバーが来るようなものである。途中で衝突すると、勝つか負けるか、押すか押されるかということになる。そういうのを辺見という。これが一次元の世界であり我々はこういう世界にいるのである、白か黒か、行くか帰るか、やっつけるかやっつけられるかというように、対立的な、世間的な考え方しかない。霊魂はあるかないか、あると思う者は物質化してあると言ったのである。ないという方も、魂というものを考えて、ないんじゃと言っている。これは両方とも辺見である。一次元的な考え方である。二次元の世界に立つならば面がある。数学的にいうならばX軸方向とY軸方向とのひろがりをもっている。両方から来てぶつかりそうならば、よけて向こうを通してやればよい。三次元ではもぐったり越えたりすることができる。
 根源語「Ich-Es」において霊魂を論ずるならば、霊魂は物質である。そのような物質化は霊魂を真に考える見方ではない。真の霊魂という問題は「Ich-Du」において本当にわかるのである。「Ich-Es」の世界でいっているような、物としての霊魂は仏教では関知しない。それは科学の領域である。もし高い次元に自身が深まったならば、本当の霊魂がわかるのである。
 霊魂はあるのか。あなたは「私-それ」の私か。それならばあなたはドングリが固い殼の中に入ったままだ、有るとか無いとか言っているのは虚妄顛倒、そらごとたわごと、何の役にも立たぬ間違いである。それは一次元的な考え方である。それは「私-それ」の考え方であって、表面的な因果律をふりかざした考え方にしかならない。科学的な事実に立って有るとか無いとか言ってみても本当の事ではない。
 もしあなたがドングリから発芽して出てきて、広い世界がわかったならば、そこにはあなたに対してDuと呼びかけるものがあり、そしてそれに対してあなたがDuと応えざるを得ないようなものがある。そのような世界に出たならば霊魂というものは、私によびかけるもの、深い結びつきを持ったものとして有る。「私-汝」の世界において死んだ人の魂は、私に深いつながりを持つものとしてある。
 私をDuと呼ぶものとしてあるのである。私は海に行くのが好きで、戦後、バシー海峡という所を船で二回往復した。バシー海峡は台湾の南、フィリピンとの間にある深い海峡であって、その下には岩があり、潜水艦がかくれ易い場所であった。
 第二次世界大戦中に日本の船がそこで沢山沈められた。今でもそのあたりの島々には、岩礁にのり上げて赤さびだらけになっている船が何隻もある。潜水艦の魚雷攻撃をうけて、島に乗り上げてでも助かろうとしたのであって、恐らく全部では何十万という人達が死んだに違いない。私はそこを往復する度にお経をあげた。今度の戦争で日本人は三百万人死んだといわれる。その死んだ人達はどうなっているのか。魂があるとかないとか言うが、そういうことではなくて、死んだ人と我々の間には深いつながりがある。私において忘れることのできない、私が今日あるのはその人達のおかげなのである。その人達の尊い血潮によって私共が今日あるを得たと深く感謝せずにはいられない。このような深いつながりと、その人達に対する深い懺悔、その人達に対して私の今日の申し訳ないような安逸な生活に対する懺悔。その人達と私とのつながりは感謝と懺悔である。霊魂はあるとかないとか言うものではなく、私と共に生きている。
 私は始めは日章丸という十五万(トン)位のタンカーに乗って往復しました。次の東京水産大の海鷹丸の時は千四百噸の小さい船であった。バシー海峡は何遍行っても非常に感銘がある。特に知っている人がいるというわけでもないが多くの人が死んだ。そして何十年か経った。その人達は空しく死んだのではない。かの人達は今日の日本が成り立つための有形無形の働きをした。理屈でいうとそうなる。しかし理屈でなしに我々はそれらの死者と深いつながりを持つ。
 霊魂はあるのか。その問いに対して、あなたが考えているようにあるのでもなく、あなたがないと思っているようにないのでもない。このような表現を一切空という。諸法空という。諸法とはブーバーの言葉で言えば世界である。あらゆるものである。あらゆるものは、あなたがあると思っているようにあるのではない。あなたがないと思っているようにないのでもない。「Ich-Es」での立場に立つ考え方を打ち砕く表現を一切空という。あなたが転回して殻を破って広い世界に出たならば、そこに深いつながりがあるものとして一切はあるのだ。これを空即是色という。

(2)死者は迷っているのか

 慰霊祭といって霊を慰めるというが、霊は慰めなければならぬのか。追善供養といってこちらからお供えをしてお経をあげて慰めなければならぬのか。死んだ人は迷っているのか、これも問題である。
 迷っているという人もある。死にたくないといって死んだから、今もうろうろして迷っているんじゃないかという人もある。よく考えねばならない。大体日本人の考えには、悪く言えば土俗的、民俗的信仰というものがある。即ち死んだ人は黄泉(よみ)の国という所に入るようになっている。『古事記』の伊邪那岐(いざなぎ)、伊邪那美(いざなみ)の尊(かみ)の物語だったか、女の神様が死んでそれを葬る。そのあとを男の神様がたずねて行くところがある。行ってみたら非常に醜い恰好をしていたので、驚いて逃げて帰る。それを女の神が追いかけるという話がある。死んだ人は汚れた国に行き、醜い姿をしているのだという考えがある。
 私共は小さい頃は葬式から帰ってくると、すぐに家へ入れて貰えなかった。玄関の外に立って待っていると母親が来て塩をまいてくれる。死んだ人と一緒にいたからけがれ果てて帰ってきたので、塩をまいて払い除かなければならないという。死んだ人の出棺ということになると、お茶碗に御飯を盛りそれにお箸をさかさに突っ立てるとか、出る時にはその茶碗を割ったりする。なぜそうするのか。御飯を出すのは腹一杯食べて行け、茶碗を割るのはまた来て食べるといけないからということであろう。このように、死んだらどこかに行っていて、逢いに行ったら追いかけてくるというような考えと葬式とが一緒になっている。葬式という式は仏教の形式を借りてやっているけれども、やっている心そのものは民俗的、土俗的な考え方でやっている。その心が、死んだ人は迷っているのではないか、だからこちらから慰めてやらねばいけないということになる。本当にそうだろうか。
 ブーバーの言葉にたずねるならば、あなたがもし「Ich-Du」というような大きな世界に芽を出して、あなたを「汝」と呼ぶものに出逢ったならば、死者は迷っていないことがわかる。死者は私と深いつながりを持って私と共に生きている。私に語りかけている。私を励ましているのである。それを権化の人という。権とは仮のものである。仮に私の親となり、また色々の人の姿をとって、この世において順縁逆縁を通して私を道に立たしてくれる。順縁とは私を勧め励まし助けてくれて、私を高い世界に出す手助けをしてくれる縁。逆縁とは、私のためには悪役となって私を困るような目にあわしながら、それによって私が色々なことを教えられて今日の私になることができた縁。そのような順縁逆縁を通し道に立たしてくれた。それを権化の人という。すべてを権化の人として仰ぐことができる。
 そういうことになると、死んだ人というのは迷っているのではなく、私と深いつながりをもっている人である。その人に感謝し、その人を縁として法要を営む。法事をしてその人にお礼を言い、それを機縁として更に私自身が仏法を聞いていこうとする。そのような立場を与えられるのである。これが法要である。
 ここに親鸞聖人の追善供養というものの考え方、仏法の考え方がある。追善供養というのは仏法の本質から言えば存在しないのである。あるのは法要であり法事である。仏法の事業である。これは死者に感謝すると共に、これを縁として法を聞き法を頂き、仏法に照らされて自己自身を知らせて頂く、更に深い感謝と深いお礼を申させて頂くところに法事の意味がある。
 亡くなった父や母がどうして迷っていることがあろうか。私自身が広い大きな世界に出されるならば、父と母があればこそ順縁逆縁を通して私が広い世界に出る機をひらいてくれたのであることがわかる。私に対して深い深いつながりがあり働きかけがある。従って亡き父母に対する報恩謝徳の営みが法要であり、これを通して私は法を頂くのである。追善供養ではない。法要、法事でなければならない。

 それでは第五章に「いずれの業苦に(父母が)沈めりとも」とあるのは何故か。また『盂蘭盆経』に目連尊者の母が餓鬼道に堕ちているのを見出したとあるのは何かという疑問があろう。これについては充分に答え得ないが、今は感想を述べておく。
 亡くなった父や母は私のための如来の使者として順縁逆縁を通して働いてくれた存在である。この事はすでに申した。
 しかし生きている父や母が間違った行いをしたり、仏法を聞かなかったり、かえって仏法に反対したりする人であった場合、これを受けとめること、権仮の人と領解して念仏してゆくことは至難な事である。父母でなくてわが子であったときも同様である。
 親に(そむ)き、反逆して仏法を仏法とも思わず世間道の中に沈んでゆく子、また親、それはまことに悲しい痛ましい存在である。この相手に対しては、血の通った存在であればあるだけ、かえって反撥があり、反逆がある。
 このような親や子に対してはまことに「いずれの業苦に沈めりとも……まず有縁を度すべきなり」といわざるを得ない。いや、それしかない。それだけが唯一つの人間に可能な道である。
 しかし、この言葉はこの世において、迷った親や子を放置して、ただ来世における働きかけを言っているのではない。彼等を念じ、彼等に願いながら、彼等を心の背に負うて往相する現実の姿の表白こそ、この一句の心であると思う。


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