八、家庭の成就

『歎異抄講読(第五章について)』細川巌師述 より

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 アンドレ・モロアの『結婚、友情、幸福』(新潮文庫)は、もう大分前に河盛好蔵という人の訳で出ている。モロアはフランス人でアラン(高校の教師で哲学者)の弟子である。この本は現代に大変意味を持つ書である、この中に「幸せな幼年時代」という項目で、子供にとって幸福な家庭とは何かを論じているところがある。子供にとって幸せな家庭をもつことは、やがてどのような厳しさにも耐え得る人間が出来るための出発点なのだということを述べている。それについて五つ言っている。

(1)    やさしい愛情。現在赤軍派といわれるような人達の家庭には一つの共通点がある。それはやさしい愛情がなかったということ、特に父親がガミガミ言ってその権力が子供をおさえつけ、母親をいじめつけるような家庭が多い。やさしい親の愛情がなかった。これはドイツの赤軍派についても言われている。

(2)    確固とした絶えない訓練、しつけ。子供は生まれたその日から鍛えねばならぬという。人生には守るべきルールがある。それを生まれたその日から教えねばならぬ。甘やかすのでなく確固たる方針を持って訓練をする。但しその項目は出来るだけ少なくする。その訓練の最高のものは、親がやって、見せることだという。

(3)    公平さ。男の子と女の子、あるいは上の子と下の子に対し不公平ではいけない。

(4)    父親と母親の強い結びつき

(5)    家庭の換気。家族だけでなしに芸術家、宗教家等々、色々な人達が家に来て、日常性の家庭の空気を入れ換えるような窓が開いていることが大事。これらが子供達にとって最大の幸福であると言っている。

 ひるがえって『歎異抄』を考えてみると、このような言葉では言わないが、その基礎となることを言っている、どうしたならば父親と母親が強い愛情で結ばれることかできるか、どうしたら親が子供に対して公平であり得るか、どうしたら窓が開くか。いわばその方法論というべきものが述べられてある。世の中には教育者ほど子供の教育がうまくいっていないという事実がある。お粗末な問題をひき起した子供の父親が学校長であるということがよくある。校長には教育のことはよくわかっている筈なんだが、実際には自分の家庭ではできない。それが現実である。
 この方法論は第四章では「念仏していそぎ仏になる」とある。それが家庭の成就につながる。大きな世界の徳がこの世に分現して、そこに仏徳の流れ出る家庭が生まれるのである。方法論がはっきりしなければならない。どうしたら子供にとって幸せな家庭をつくり得るかが問題である。私、親が深い自覚の世界に立つことが第一である。これは自力即ち理想主義的あり方、対象化、自己中心の迷いが打ち砕かれるところに成り立つのである。ではその人間の持つ自力のはからいというのはどうして打ち砕かれるのか。このように徹底していかねばならない。これが第五章の前にある問題である、第一章から二、三章、特に第一章が中心である。「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐる」というところが中心である。
 ある青年は言った。「私はきわめて不幸な家庭に育った。不幸な幼年時代を送った」と。その青年の後の方でお母さんが聞いていて小さくなっていた。いざこざの多い家庭であって、確固たる幼年時代のしつけを受けなかったと青年は言う。私自身もモロアに言わせれば幸福な幼年時代とは言えなかったと思う。しかし、本当に仏法を頂いたならば、必ずしも幸福な幼年時代でなくてもよかったのである。不幸な家庭で育っても仏法に立たせられると、その不幸が念仏の縁となってみな意味を持ってくるのである。そして自分の子供にはこうしなければならぬということがわかる。仏道に立ったならば幸・不幸に関係なく、かえってそのために仏道に因縁が結ばれたのだと感謝することができるようになる。
 父と母が友情で結ばれる。普通の愛情は貪愛であり愛憎である。愛情とはひとり占めにする愛情、独占的愛情であって、自分の愛している相手を他の人が愛してくれると困るのである、自分達だけが愛し合う、これを貪愛という。愛憎は、愛は同時に憎しみ、疑いとなる。表側は愛であるが、それがひっくり返ると憎しみとなる。「日高川」という物語や「娘道成寺」という芝居で見るように、清姫が大蛇となって日高川を渡っていく。安珍を恋していた椿姫の愛は、彼の裏切りによって憎しみとなり、大蛇となって川を泳ぎ渡ってついに彼を殺すというところに、人間のもつ愛の本体がよく表われている。それは人間の愛の本質的なものであって、無くしようとしても無くなるものではない。その愛がだんだんと友情によっておきかえられるところに強い夫婦の結びつきができるのである。
 友情とは何か。それは一体であり連帯である。どんなところにできるか。謙虚-傲慢さでなく謙虚なもの。そして無私-相手を利用しようとするのでない。そして誠実。そういうものが生まれる時に友情が成立するのである。傲慢さ、そして私利私欲、嘘、偽りのところには友情はあり得ない。夫と妻が互いに友よと言う一面を持つ。こういうものが愛情を変えていく。そういうことを言っていてなかなか面白い。
 友情はどうしてできるか。ドイツ語でDuという。単なるあなたでなしに一体であり、汝とよびかけるもの。ブーバーは「我-汝」の私、「我-それ」の私、これを根源語という。「それ」とは対象化し道具化している世界である。そこではものを考えるのに因果律で考える。ああなって、これがこうなって、これがこうなってというような原因・結果、あるいは色々の条件だけを考えることである。男女の愛というものを考えても、あれがああなって、これがこうなって一緒になったというように、因果律でしか考えられない。それは相手の上っ面だけを見たり聞いたりなでたりして経験しているにすぎない。
 「われ-汝」の私は因果律を超えている。因果律を超えているとは、二人の結びつきが縁であった、必然的なものであったということである。深い一体連帯の世界を「われ-汝」という。これを友情という。「われ-汝」の私はどうして生まれるか。「われ-それ」の私が、「汝」と呼んで下さる世界からのよびかけによって「われ-汝」の私になるのである。
 自力を棄てるというところに友情が生まれる。それを対象化を超えるという。友というものは向こう側においてじろじろ見るわけにはいかない。友は深い結びつきと連帯との中にあって、謙虚と無私と誠実さとをもって相手を助け励ますものである。それはどうして生まれるかというと、「南無」と私を呼ぶものの呼びかけを聞きひらくということが、それが成り立つ根本である。南無とはサンスクリットでナモという。汝というよびかけ、そのよびかけを聞きひらく、それが方法論である。このよびかけを聞きひらくところに「汝」という、相手の人に対するよびかけを自分に持つようになる。これを「われ-汝」の私に変わるという。これが幸福な家庭の一番基礎になる問題である。何遍でも同じことを言うようになるのは何故かというと、これしかないからである。
 家庭の成就とは本当の家庭をつくるということである。これは『歎異抄』の第五章には直接には書いていない、しかし父母ということから展開して、これを申し添えておきたい。
 真の友情は念仏である。人間の上に本当に友情が成り立つということは念仏しかありません。「信心決定して念仏申す」と小さな殼を出て大きな世界に生きる。これがなくては本当の友情は成り立たない。それは無償というものである。そういうものを人間がもっているのは念仏しかない。
 家庭は、夫婦とそして親子である。親子の間に友情が成り立つ。同行善知識という言葉がある。親子が共に道を歩く同行、友達として結ばれていく、そこに親の手に対する深い尊敬と信頼と理解があり、子が親に対して同じものが生まれる。それを同行善知識というのである。
 『観経』にはその最後に「もし念仏するものは」本当に教を聞きひらいて念仏に立つ者には「観音勢至その勝友となりたもう」とある。観音とは慈悲、愛情を表わす。勢至とは智慧を表わす。観音とは私と一緒にいて私の声をよく聞いて、それを受けとめて私に色々話をしてくれる。いわゆる愛情のこもった存在を観音という。勢至とはよき師である。観音はよき友よき伴侶である。家庭の中でよき友が与えられる。師でありながら友であるというような、よき師よき伴侶というものを持つ。子供にとって親が友でありながら師であり、師でありながら友であるというようなつながりを持つところに、本当の家庭が生まれるのである。
 一括して言うと、私が私の家族にDu、友よ!と呼びかけるということが家庭の成就である。念仏の友が家庭に生まれてくるところに、第五章の教える家庭の成就ということがあろう。

 「ただ自力を棄てていそぎ覚をひらきなば六道四生のあいだいづれの業苦に沈めりとも神通方便を以てまず有縁を度すべきなり」。これはなかなかわかりにくい。主語がよくわからない。「ただ自力を棄てていそぎ覚をひらきなば」これは「私が」である。私が自力を棄てて覚をひらく世界に立つならば、「六道四生のあいだいずれの業苦に沈めりとも」。誰が沈んでいるのかというと親である。父母である。父母がたとい地獄、餓鬼、畜生、修羅、天人という迷いの世界に沈み、胎卵湿化の生涯にあって、どのような苦しみ悩みの中にいようとも、私が神通方便を以て縁の近い人、先ず親、子というところから救うのである。という文章である。即ち私が仏になったら、迷っている人達、親兄弟、妻、夫がどんな所に深く沈んでいようとも、神通方便を発揮して救っていこうというのである。
 親は迷うのか。親は六道四生のあいだに迷っているのか。このことについて申しますと、色々な親がある。念仏の親、無信の親、生きている親、亡くなった親、生きていて念仏の親、生きていて信仰のない親、亡くなった念仏の親、亡くなった無信の親、これらのとり組みができる。いそぎ仏になったらどのような世界をもかき分けて、無信であった亡き父母を助けていこうという。それがこの世においてどうなることか。
 この世において生きている念仏の親に対してはもう感謝のほかない。この世において全然念仏しない親、これが一番大事である。また、亡くなった無信の親、これも問題である。しかしながらこれが問題になるには、先ず自分が信心をもたねばならない。全然無信の親を現実人生において呼びかけていく力とは何か。それは、この無信の親を背負って聞く、即ちその人にDuとよびかけ、その人を背に負うて共に聞いていくということである。でもその人は出席しないではないか。出ては来ないけれどもその人の分も聞いていくのである。仏になってそれから助けるというような悠長な話ではない。今、その人を離さずに背負って聞いていくのである。背負って進んでいくのである。汝!と呼ぶものが私に与えられている。
 亡くなった親は念仏の親であろうとなかろうと、私に仏道に立つ因縁を与えてくれた感謝すべきもの、私が今日あるための仏の使いとしての親である。私はそう思う。
 当生とは、私が死んでから仏になって、迷っている親を探しあてて救うていくというのではなく、私自身の現実においては、それを背に負うて聞くということだと思う。覚をひらいて六道四生のあいだに迷った親を助けていこうということの現実的な意味は、生きている親ならばそれを背負って共に仏法を聞いていく、どうしてもあの人に是非とも伝えなければならないのだというものを持っていることである。
 あるおじいさんが言った。このおじいさんは娘夫婦が亡くなって孫だけ残った。その孫が大きくなって私に話してくれた。「私はおじいちゃんに育てられた。おじいちゃんはよくお寺に詣り、お念仏申す人だった。おじいさんは私にいつも言っていた。『わしはお前を助ける力はない。お前を護る力はない。しかし、わしが死んだらきっとお前を護ってやる。決して心配するな』と言っていた」と。私はそうだと思った。このおじいさんにとってはこの孫が親に死に別れて生きているのであるがどうすることも出来ない。しかし「ただ自力を棄てていそぎ覚をひらきなば」その孫がどのような境涯におっても必ず護ってやりたいという、この『歎異抄』の五章の心を言っておられるのだなと思うのである。これは孫を背にして聞いているのである。孫を担って、この子に一緒に聞いて欲しい、わかって欲しいという願いを持って仏法を聞いているのである。死んでからお前を護るというのは、今護っているのである。今働きかけを持っている。そういうのを分現という。
 この第五章の後半はこのように頂くべきである。即ち「自力を棄てていそぎ覚をひらく」、そこに現生における働きが現われてくる。幸福な家庭と申しましたが、そこにやさしい愛情、公平な待遇、確固とした訓練、そういうものが子供になされていく。それは死んでから先になされるのではない。現生にはそういう形で出てくるのである。

 第五章は「親鸞は父母の孝養のためとて一遍にても念仏申したること未だ候はず」とあるのが中心である。親鸞聖人は幼い時に父母を亡くし、九才で出家をされた。従って家庭にいる父と母に孝養を尽すという意味ではなしに、孝養といえば追善供養という意味である。追善供養のために念仏申して、その功徳を亡くなった父や母にさしむけ、その魂を慰めるということは一度もしないのだということである。その理由は何かというと二つある。一つは父母ということ、も一つは念仏ということにある。父母というのは、一切の有情が皆世々生々の父母兄弟であって、私の父、私の母だけが父母ではない。一切の衆生が父母兄弟なのである。従って私の父母に限っては申したことはない。これが第一の理由。
 第二の理由は念仏である。念仏が、わが力で励む善であるならば、その念仏をさしむけて父母を慰めるということもあるけれども、そうでない。私の力で得た念仏ではないのである。従って念仏を廻向するということはない。それ故結論は「ただ自力を棄てていそぎ覚を開きなば、六道四生のあいだいずれの業苦に沈めりとも、神通方便を以てまず有縁」の人から助けていくのが道であるということである。文章の構造はそのようになっている。先ず追善供養ということから考えてみよう。


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