七、現実人生(現生)と未来(当生)

『歎異抄講読(第五章について)』細川巌師述 より

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 「ただ自力を棄てていそぎ(さとり)をひらく」とは、現生と当生ということを言っている。現生とは現実人生であり、当生とは当然生まれるべき世界である。
 ここに卵がある。この卵には二つの生がある。一つは殻の中にあって黄味と白味と胚から出来ており、卵として生きているという生である。親鶏から生み出されたままの生である。これを現生という。この卵はやがて時間がたてば腐ってなくなっていく、が、この卵にはもう一つの生がある。それは孵化してヒヨコになることによって、やがて鶏になる。そういう生がある。この生は卵に必然的に備わっているのかというと、必ずしもそうではない。
 もし卵が親鶏によって抱かれ温められるならば、目鼻がつき足がついてヒヨコになり、殻を破って出て来て第二の生を受ける。この時、卵としての生は終って鶏としての生を出発する。これを当生というのである。未来というのでは当らない。当生とは必然的未来とでもいうか、必ずヒヨコから鶏になっていくことの、成り立つ出発点を持つことである。親鶏が抱いて温めはじめた時が新しい生への出発である。このように新しい生を持つことが当生である。
 人間はどうなのか。殻の中にあってそのままで終っていく人もあろう。しかしながら人間が真の未来、必然的な未来を持ち得るその時、現生と当生を持つという。真の人間形成がなされていく時に、閉じこもった世界、閉鎖的な世界でなしに開かれた世界(これを仏の世界、大きい、高い世界といい、覚といい、涅槃という)に生きるということが始まるのである。これを当生という。現生の中にありつつ永遠の世界を生きるということが生まれてくる。よく言いつくせないが、これを当生と言っておこう。卵としての延長ではなく、全く変ってしまう世界である。それを大いなる世界、永遠という。
 「私は永遠を信ずる、神を信ずる、信ずるものにおいて永遠はある」というが、これは正しくない。どうして正しくないかということをアリストテレスという人が実にうまく言っている。これは「私が」が主語であり、「永遠を」が目的語である、「信ずる」が動詞である。動詞と目的語を一緒にして述語という。「私は」が主語で、あとは述語である。アリストテレスは言う。「大いなるものは述語にならない」。アリストテレスとはソクラテス、プラトンを継いでギリシャ哲学をまとめた人である。西田幾多郎氏が晩年の論文にこの言葉を引いている。「大いなるもの、永遠なるものは常に主語であり、述語にならない」と。すると「私は永遠を信ずる」という文は成り立たない。私が大いなるものを信ずるのでない。大いなるもの、神が主語である。大いなるものは我々を摂取するというか、抱くというか、そういうものである。小さいものが大きいものを向こう側において、俺は信ずるとかわかったとかいうものではない。このことを非常にうまく言っている。これを西田先生が引いておられて面白い。西洋の人はうまい表現で言う。
 卵が卵として生きているというのが現生(現実人生)、それで終りでなしに、もう一つヒヨコになるという世界がある。小さな世界でなく大いなる世界を生きるのである。その大きな世界を、永遠を生きろというが、本当にそういう世界があるのかと問われると、あるとも無いとも答えられない。知識の対象として有る無しを言うことが間違いである。永遠の世界は対象化して認識することはできない。なぜか、それは向こうが大きいからである。
 現生とは現実人生、当生とは当に来るべし当に生きるべし、当来の生という。当然来るようになっている必然的な世界を言っている。そこで「自力を棄てて」を現生という。現実人生における我等の姿が自力である。それに対して「いそぎ覚をひらく」というのを当生という。卵がヒヨコになって(現生)遂に親鶏になる。これが当生である。覚をひらくというのはこの世ではない。前の第四章では、「念仏していそぎ仏になりて」とあるが、「念仏して」が現生であり、「いそぎ仏になる」が当生である。「いそぎ仏になる」のは当に来るべき生、当来の生である。我々は此の世で仏になるのではない。殻を破ってヒヨコになるところまでが我々の人生であり現生である。このヒヨコはやがて必ず鶏となるのであって、それを当来の生といい、普通あの世という。あの世というと死んでから先のように思うが、現生と当生は必然的に結ばれている。発芽したものが伸びていくところを当生という。そこに仏の徳の全現がある。現生においてはその一部が現われる。分現である。仏徳とは自覚々他という。自ら目覚め他を目覚めしむということが欠けることなく行われる存在を仏という。その仏の働きが全面的に現われる世界を涅槃といい、大いなる世界という。現実の世にその働きの一部分が出てくる。分現する。それを念仏する世界、自力を棄てる世界といい、この現実人生に仏徳が部分的に現われてくるのである。
 第四章でいうと慈悲である。真の愛情という。この真の愛情が、思うが如く衆生を利益し、大慈大悲心をもって人に働きかけるというのが、仏徳の全現の世界である。この現実世界において信心の人、自力を棄てて念仏する人において部分現するのが、人間における愛情の世界である。それがわが父、わが母という私的なものに執われないで、「一切の有情は皆もて世々生々の父母兄弟なり」というような平等の愛の成立である。そこに人間の家庭の成就がある。仏徳即ちあの世の徳がこの世に現われてくる。これが家庭の成就である。人間に出来るところはここである。この人生において、必ず来たるべき世界に向って出発するところに、必ず来たるべき世界の働きがこの人生にまき起ってくる。分現してくるのである。これが「ただ自力を棄てていそぎ覚をひらく」ということの現実の意味である。第四章では「念仏していそぎ仏になる」とある。これと同じことである。

(1)自力を棄てる

 自力とは何か。すでに何回も申したと思うが、今日間違えられているのは、自分の力、自分の努力を自力というのだと思っている。これは間違いである。仏教ではそうではない。自力とは人間の持つ迷い、自己中心の迷いをいう。千年程前に中国の曇鸞という人が使われた言葉である。親鸞聖人はそれを具体的に言っておられる。それを唯信鈔文意の中に四つ定義されている。

(一)    自らが身をよしと思う心――自分自身は間違いないのだと自己肯定している迷いの心。

(二)    わが身をたのむ――自己過信に陥っている。深い自己肯定、自己主張の心である。謙虚さを持たない心。

(三)    悪しき心をさがしくかえりみる――自分のおろかな心や間違いを賢げに反省を加えて、私はもう駄目だ、生きていく意味もないという程に自分を責めさいなんで、深い劣等感に陥っていく。自己卑下の心。

(四)    人をよしあしという――冷たい批判をいう。対象化をいう。この事は何回も申したと思うが、今は対象化ということに中心をおき、この心が自力であり深い迷いなんだということを申したい。

 人に善し悪しのレッテルを貼って責めたり批判したりする。その冷たい心を分別心という。これを対象化の心という。普通、分別というと、思慮分別といって考え方のすぐれた人を分別のある人というが、仏法では自力という。深い自己肯定が入っていて、自分の考え方は正しいのだという自己に対する過信が入っている。それを自力という。
 分別心というのは理想主義的な見方。理想主義の立場をいう。理想主義とは、何が悪いか何が善いか誰もわかっている筈だ、善い事をやろうと思えば皆出来る筈なのに、やろうと思わぬからできないのだという。努力をしてゆけば、かくあるべきという姿にやがて達する筈だときめつけていくのが理想主義の立場である。これを分別といい迷いという。なぜ迷いであるのか。出来る筈だと言っている所に深い自己肯定がある。そしてもし出来なければ卑下して俺は駄目だという。これを自力という。対象化の立場である。対象化とは向こう側において傍観者として見ているのである。向こう側に見る限り本当のものの見方はできない。冷たい批判しかできない。現代の一番大きな問題の一つはこれである。たとえば学校教育は、知性を中心にして知性を磨きあげていって、物事をよく理解し観察していくということを強調する教育である。わけのわからぬことを盲目的にやるのではなく、よく理解して実行しなければいけないという。分別を非常に強く教える。教育者はそれで充分と思う。がそうではない。それは序論である。本当はもう一つ先がわからねばならない。私はよい事ができるんだという底に問題がある。
 耳四郎の話がある。これは法然上人の時代の大泥棒である。縁あって法然上人のお弟子になり、念仏申して深い信心を得て念仏申す身でありながら一生泥棒をやめられなかった。この耳四郎は本当の信仰を持っていたといえるのであろうか。仏法に立って深い自覚をもてば、当然泥棒は悪いということはわかっている筈ではないか。それなのに泥棒をするというのは、その人がまだ本物でない証拠であって、従って耳四郎の信心は本物ではない、このように我々は言いたい。が耳四郎が死んだ時には(伝説ではあるが)金色まばゆい仏となったと書いてある。
 真田増丸先生は盲腸が痛み腹膜炎を併発して亡くなられた。その死の間際に「痛い痛い」と言われた、天下周知の真田増丸先生ともあろう人が痛い痛いで死なれては困ると思ったのか、弟子達は「先生どうぞ念仏を」と言った。先生は大喝一声「何を言うか、それはもう済んでおる。今は痛いんじゃ」と言って死なれた。この人の信心は本物であろうか。
 あるおばちゃんがいて、若い時にはよく念仏の教を聞いていた。年老いて脳軟化症にかかって頭がぼけてきた。そして朝から晩まで千円札を数えている。若い時は尊げな念仏の行者であったが、年とってからああなってしまった。あの信心は駄目だったのうと言えるかどうか。
 我々は理想主義の子であって、本当の信の人に、そんなことはある筈はないと言いたい。理想主義の立場は対象化の立場である。耳四郎を向こう側において見ているのでおる。耳四郎が私であるということにならない。しかし耳四郎が私なのだ。長い間仏法を聞いているから人の悪口を言う筈がない、腹も立てないのが本当だ。冷たい態度で人に接してはいけないというのはわかっている。けれども実際はどうか。自分はどうなのか。理想主義の塊となって耳四郎を対象化して見ているのではないか。その限り自力である。私こそ耳四郎ではないのか。わが身というものが出てこなければすべて理想主義になる。自分自身がぬきになっているのである。我々は理想主義の立場から一歩出なければならない。それを自力の立場を離れるという。これが現在要望されている問題でおる。仏法はこのことを厳しく教える。
 禅宗の公案に「狗子(くし)仏性ありや」というのがある。この公案は趙州という中国の人が考えた問題である、狗子は犬である。犬が仏性を持っているかどうか。仏になる因を持っているかどうか。これは一見非常に簡単な問題で、答は三つしかない。狗子仏性あり、狗子仏性なし、あるのもあればないのもある、この三つである、で、それを順に言えば当る筈でおる、それなのに当らない、この公案は三年、五年かかってもなかなか解けないそうである。仏法を聞いた人はこれが解けなければいけない。これは犬が仏性をもっているかどうかという、犬の問題でないのであって、犬の問題と考えるのを対象化という。その限りこの問題は解けない。そうではない、自分の問題である。「狗子仏性ありや」とは「私に仏性があるか」と問われているのである。ごみ箱に首をつっこんでごみをあさっている犬、それが自分である。首に鎖をつけられてキャンキャンとないている犬、それが私なんだ。犬が私とわかるときこの公案は解ける。現在知性でもって色々な情報を集めて、それを集計して判断していこうという時代において、新しい見方はこれしかない。現在の見方はみな科学的な見方である。科学的見方というのは、自分の知性をもとにして色々なものを観察する。そして原因、状態、経過、結果を分析して考える。そしてそれを綜合して判断をくだすようになっている。
 それでやっていくと、山を見ると木は何本あるか、傾斜はどれだけで土質はどうで、ということになる。対象化は常に道具化につながる。即ち山をどう利用するかという物質化につながる。そして山も川も環境破壊されていくのである、自然界を人間の幸せのために利用していくようになってきて、今のような世の中になる。それを打ち砕き得るのはただ一つ仏教である。山川草木悉皆成仏、一切衆生悉有仏性というような深いつながりが出てこなければ本当の物の見方はない。仏教が今日的意味をもっているというのはそこである。現代に必要なのはこの行き方である。これしかないのである。
 また、家庭の成就もそこにしかない。理想主義的な行き方で、かくあるべきだと子供を向こう側におき、夫を妻を向こう側において、かくあるべきだと言っておったのでは家庭にならない。わが身というものが出てこなければならない。自力を棄てるというものが出てこないと冷たい家庭しかない。そうしなければお互いにお互いを利用して道具化する自己中心の家庭しかできない。そこには自力を棄てるということがなければならない。このことはこの人生で成し遂げられるものである。そして仏への第一歩がふみ出されてくる。そこに仏徳の分現がある。

(2)覚をひらく

 このことばはその前の「ただ自力を棄てていそぎ覚をひらきなば」と続く。大谷大学本といわれる本には「ただ自力を棄てていそぎ浄土の覚をひらきなば」とある。我々の持っている蓮如本には「浄土の」がないが、同じことである。浄土において覚をひらいて仏となったならば、他の人々がどういう状態にあろうとも、ぜひとも助けたいと思うのである。
 覚をひらくとは、第四章では「念仏していそぎ仏になりて」とある。仏になるというのが覚をひらくということである。仏になるということは現在では非常にわかりにくいことになった。仏ということがそもそもわからない。死んだ人を仏というのか、というように、仏という意味がわからなくなっている。仏とは覚をひらいた人をいうのである。仏陀という。
 かねて申すように、卵があるとすると、親鶏から生み出されたままの卵の状態では、それは殻を持っている。殼の中に白味と黄味と胚がある。すべてのものは殼を持った状態でこの世に出てきていると言える。このままでよいのか。卵に一番大事な問題は孵化するということである。卵として誕生してきたのであるが、もう一遍再誕生を遂げることが必要である。親鶏が抱いて温めてやると、(くちばし)が生え、目玉が出来、足が生えてヒヨコになるということが大事なことである。
 人間我々は「人間とは何か」という問題を持っている。人間とは何かというのは、大学の入学試験問題と違う。生物学としての問題ならば、人間の特徴を書けばよい。即ち哺乳類の一つで、ホモサピエンスという学名で、直立して歩き二本の手は自由に使うことができる。猿と違うところはこういうところだと、人間の生物学的な特徴を答えればよかろう。心理学の試験ならば、人間の心理というのは他のものに比べてどういう特色があるのだと言えば、人間を語ることになるかも知れない。だが「人間とは何だろう」ということは、そういう答を要求しているのではない。人間として生きてゆくということはどういうことなのだろう、人間が本当に生きるということはどのような意味を持っているのであろう。人間の生甲斐とは何だろう。もっと言えば、私は何のために生きているのであろう、というのが、人間とは何かということの答であろう。今はそういうことを考える余裕のない程に忙しい一面があるが、しかし、人間は根底にいつもこの疑問をもっている。人間とは何か。人間として生きるということはどういう意味を持つのか。社会科学もこれに答え得ない。生物科学も答え得ない。学問も答え得ない。この問いは、私の今の生き方では駄目なんだ、本当の生き方というのがあるのではないか、ということを尋ねている。
 自分のことになって申しわけないが、私は大学に三十年勤めていました。定年まであと七年ぐらいあったが辞めました。なぜ辞めたかというと、もう大学という所での私の仕事は済んだ、研究も教育も一通りやり終えた。だがもう一つの人間としての生き方がある。大学教授だけで一生終っていいのか、というものがあったからです。これは人間とは何かという問題です。人間は哺乳動物の一種だなどと言ってもつまらぬ。そんなことはわかっている。人間としての生き方というのは何か。この問いに答え得るのは宗教しかない。宗教というより仏教である。仏陀となる、覚をひらく。あまりピンとこないかも知れないが、答はこうである。人間は卵として生まれた。その殻の中で、自己中心の殻の中で右往左往している。あちらに転がり、こちらに転がりしながら生きてきた。だがこれでよいのか。これが人間なのか。こういうことになると、これではいけない、もう一つ本当の生き方はないのか。その答である。それは親鶏に温められて目玉がつき足がつき、毛並が揃って遂に広い天地を生きる。これを覚をひらくという。覚をひらいて何か得体の知れぬものになったのではない。それは卵が変ってヒヨコになっていた。真の意味での人間形成である。そのことを覚をひらくという何か神秘的な覚をひらいたのではない。真の人間形成である。殻を破って卵がヒヨコとして誕生し、遂に鶏になる。これを覚をひらくという。
 この世で覚がひらけるのか。この世で卵がヒヨコになるのであるが、先にも申すように、身を持っているのである。身を受けているのである。煩悩という殼の中にいる。殼は破れてもまだひよこの尻に殻がくっついて残っている。この世ではそういう状態であって、ひよこが鶏となって成長しきった時、殼がとれる。この身がなくなった時、覚をひらき終るという。仏となるという。仏となって完成するのである。我々は完成とまではいかぬ。これを、この世では菩薩の無生法忍をひらくという。
 菩薩の無生法忍をひらくとは、仏法のことばで非常に親しみにくい言葉であるが、無生法とは無死無生の法、無生無滅の法といい、真理をいう。大きな世界をいう。忍とは認、認識である。真理の認識をいう。が、まだ殻が残っているから菩薩という。
 仏の無生法忍というのは完全無欠の真理の解明をいうが、こちらはまだ殻が残っているから菩薩の真理の認識という。本当の認識を忍という。浄土真宗ではそれを信心というのである。無生法忍とは信心ということを言っている。「ただ自力を棄てて」「念仏して」というのを、菩薩の無生法忍を得るという。忍というのは信じ込んだのではなく、認識したのである。するとこの人生に深い深い愛情を持ってくる。「六道四生のあいだいずれの業苦に沈めりとも」、人々が(今は父母となっているが)どのような状態の中におりましょうとも、そこへ分け入って働きかけ、助けようという人生への愛情というものを持つようになる。それを菩薩の無生法忍を得るという。
 菩薩の無生法忍とは、真理の体認(体得認識)であると共に、人生への働きかけをわが身に持つことである。卵が殻の中に閉じこもっている時には、他の人のことまで考え及ばない。自分自身を保持するのが精一杯である。が、ヒヨコになったら、まだ卵のままのものに対して尋ねて行き、あるいは慰め語りかけることができるようになる。それは仏の徳(働き)の分現である。仏の働きの一部が現われてくるのを、菩薩の無生法忍という。これを信心といい念仏という。本当の世界に眼を開かれた者の具体的な姿である。
 ニーチェは人の進展について、初めはラクダにたとえ、次にライオンにたとえ、最後は子供にたとえた。ラクダは砂漠の中を重い荷物を背負いながら何も飲まず何も食べずに、何日も何日も進んでいく、無味乾燥な中を重荷を負うて苦労しながら、一歩一歩耐えていく。努力精進、忍耐の時代を持っている。これが人の進展の初めだという。そのラクダからライオンになる。どのような敵も恐れずぶつかっていくことができる。何者にも屈従せぬ勇者となる。しかし最後には子供になる。子供というのは遊ぶ、欲がない。何物にも期待せず人生に無報酬で、ただ無心に働きかけていくことができる。
 この仏の働きの分現を薗林遊戯(おんりんゆげ)という。薗林とは生死の園、煩悩の林、即ち人生を言っている。遊戯とは子供の遊びである。子供というのは人に知らせようとか自分の所有にしようとかいうのでなく、無我に働きかけている。これを遊戯にたとえる。これを空、無相、無願という。空とは何物にも執われないこと。肩を張って形を整えようとしない。形式張ろうとしないのを無相という。無願とは何も償いを求めないこと。このような働きを遊戯という。こういう働きをとり返すことを、覚をひらくと申すのである。何かを覚るのでなしに、殼が破れたということである。殼が本当に破れてしまったならば、それを覚をひらく、仏となるという。我々においてはしかしながら、その出発点に立つ、これを菩薩の無生法忍を得るという。
 はじめてそこに、どのような世界にも取り組んでいくことができ、どのような仕事にも取り組んでいくことができ、どのような人ともとけ合っていくことができ、どのような世界にも自分を失わないで、しかも仲間となることができる。
 自分のことで申し訳ないが、私は大学で教師をしていた。学生に話すというのは職業上慣れていた。しかし年寄りに話すということはなかった。で、苦手であったが、それもだんだんとこだわりがなくなった最後まで残った問題は子供である。保育園を始めた。一番小さいのは一才で一番大きいのは六才、現在みんなで十七人の小さな保育園である。なぜ大きくしないかというと、大きな保育園では子供の保育は出来ないと思うからである。短大出や高校を出た保母が、普通は一クラス二十五名位持つ、私は五、六人が適当だと思う。三才児は普通の保育園では子供十人に先生一人つける。がそんなにやれないと思う。その保育園が今園児十七名になった。そこに先生が四人いる。他に給食をやる人達や運転をする人がいる。勿論収支つぐなわぬという状態です。
 それは、それとして、この子供達に話すのは大変ですね、私もとても苦労した。子供の世界に分け入って行けない。ようやくコツが少しわかってきましたね。私は立っている。向こうから見たらうんと上向きにならねばならぬ。それが怒った顔でもしたら鬼が怒ったようになる。子供から見たら鬼に見える、それで自分が背を低くして、同じ位の高さで話をするといいですね。「みつあき君、きのうはどこへ行ったかい」と言うと、「あのね」と言って話し出す。それをよく聞いておいてから私が話をする。その話はあまり聞きませんね。「仏様が・・・・」と言っても、小さい子はもじもじしている。しかし大きい子はだんだん聞きますね。学校だけで教えていると、学生には話ができるが学生以外の人には話ができない。これでは六道四生いずれの世界にも入るということにはならない。そういうことがよくわかった。
 自分が殻をよく打ち砕かれて、小さな殻から出ないと相手に通じない。殻を出てはじめてどんな人にもとけ込んでいけるのである。私の身にしみたことで、ございました。

 薗林遊戯ということを申しましたが、子供のような心で働きかけをすることはどういうことか。ある先生の言葉ですが、「人生を結論とせず、人生を縁とする」という表現が当たるのではないかと思う。
 「人生を結論とせず」とは、我々は人生に結論を求めているのであるが、仏法を聞いて結果を求めなくなる。例えば、今から結婚する人があるとする。で、もしこの結婚に失敗したら私の人生は駄目というのは、その結婚に人生の結論づけをしようとしている。事業に失敗したら私の人生はメチャメチャだ、また大学に合格しなければ私の一生はもう終り、というのは、結婚や事業や受験を結論としている。たとい私の願いごとがかなわずとも、仕事がうまくいかなくても、わが人生はそれで終りでない、「人生を結論とせず」である。これを薗林遊戯という。
 それは「人生を縁とする」ということである。何の縁かというと、念仏の縁とするのである。念仏とは大きな世界を念ずる、仏の世界にかえっていくのである。人生における色々な問題、失敗あるいは願いごとかなわず、たたきのめされたそのような現実を結論として、私はもうつまらんというのでなしに、これらを縁として念仏にかえっていく、これを無生法忍という。念仏にたちかえる。成功も失敗も人生のあらゆる問題が縁となり、それによって帰るところを持つ。これを薗林遊戯という。
 それは逃避ではないか。そうではない。それがそのまま人生を愛し、人生に働きかけ人生に取り組んでいく姿である。しかしそれを結論とせず縁として生きる。いわば余裕のある生き方、裏にねばり強い生き方である。一本の木が生きているということは、上に伸びることである。また下に伸びるままが上に伸びることである。二つのものを一つに生きている。こういうのを無生法忍という。人生に生きる姿を薗林遊戯といい、人生を結論とせず人生を縁として念仏するという。遊戯と念仏の二つを生きている、これが余裕のある生活である。金の余裕があるというようなことではない。いかなることをも縁として生きていく余裕を持っている。それは人生に生きぬく方向と共に、大きな世界に生きる方向を持っているからである。


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