五、一切の有情は皆もて世々生々の父母兄弟なり(その2)

『歎異抄講読(第五章について)』細川巌師述 より

歎異抄講読HP / 目次に戻る

 ある人はいう、我々の父母という関係をずっと上にたどっていったならば、何代、何十代の間に無数の血縁関係というものができてきて、今の人達は殆んどみな兄弟になるのだと、そういうふうなことを言う人があります。計算上はそういうことになるかも知れない。が、仏法の問題というものはそういう計算の問題でなく数学の問題でない。心の問題と申しますか、だんだん申し上げますように自覚の問題であります。理屈でもなく数学の問題でもなく「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟」なのである。有情は先に申しますように、もとは衆生と訳していたものを新しく有情という。これは人間だけではない。みみず、おけら、プランクトン、空飛ぶ小虫、そういう生きとし生けるもの皆を有情というのである。従って鶏であろうと魚であろうと、それらを全部含めている。そういうものに対する深い呼びかけ、あるいは深い心の転回をいっているのであって、我々の生まれる前をずっと先に尋ねていったらそういうふうな動物になるというのではありません、遺伝学でもなければ進化論でもないのであって、これは心の転回である。
 父母兄弟とあるから家庭、家族ということから考えてみよう。家族とは父母兄弟、夫婦、そういう内容が家族である。家族のいる所が家庭である。この家庭は、いわば私的関係にある。そこではどんなに無作法も大目に行われ、我侭(わがまま)勝手のきく所である。従って外に出てはニコニコしている人も、家に帰ってくると自由な顔が出来るから仏頂面をしているのもいれば、鬼瓦が胡椒をなめたような顔、これはどんな顔かわかりませんが、とにかく自分の思いのままの顔になる。中には「おい、おい」と皆を呼びつけてこれを持って行け、あれを持って来いという。子供は子供で気侭になり、兄弟同志が喧嘩(けんか)をするのでも、学校ではとても言えないような我侭を言い合ってやっている。これが本当の家庭ですね。我々のありのままの家庭である。通常の家庭である。しかしそれは落ちついた、くつろいだファミリーであり、アットホームではあるけれども、私的なものである。いうなれば我侭の通る、自分をむき出しにしても通る場、それが家庭である。従って子供が出来、結婚何十年もたった者は少々相手が気に入らないことを言っても、お前出て行けというわけにもいかず、別れようというわけにもいかない。いうなれば互いに黙認しあっている、我侭が黙認されている、それが家庭である。
 そういう父母兄弟、我々の家庭における父母兄弟、そういうふうな父母兄弟が「一切の有情は皆もて世々生々の父母兄弟なり」と親鸞聖人の言われる父母兄弟であるのか、これをはっきりしておかねばならない。この所をはっきりしないとこの章はわからない。私的関係にある、私的立場にある父母兄弟、それではない。私的関係を超えた父母兄弟であることをわからないといけない。
 この家庭ということを非常にうまく書いてある書物は前にも言ったように、アンドレ・モロアの『結婚、友情、幸福』(新潮文庫)である。この書物は特にこの結婚、友情という所がすぐれている。幸福というのはまあまあというところですが、結婚については非常にすぐれた所があると思います。ちなみに幸福論ということになると、やはりモロアよりも三木清の『人生論ノート』の中の「幸福について」の方が(短いけれども)非常にしっかりしている。
 アンドレ・モロアはこの中でこう言っている。「家庭というものの一番根本は何か、それは夫婦である。夫と妻、この二人が中心である。この二人は初め男女としてむすばれたのであるが、男女としての愛情にだんだんと友情というものが加わって変ってくる。そういうところに本当に結婚というものの意味がある」。こういうことを述べています。この夫と妻、それがいわゆる男性女性としての愛、即ちエロスとしての愛、そういうものからだんだん友情に変ってくる。男女としての愛情から友情に変ってくるところに深いむすびつき、それが家庭関係の根本であると言っている。そこにおいていわゆる妻を通して女性というものを理解し、夫を通して男性を理解していく。そこに深い人間への理解というものが生まれてくる。この人は非常に筆の立つ人で、こういうことを実にうまく言っている。それは私的関係から公的関係、愛情から友情へということである。
 私的関係というのは閉鎖されている。他の人が今更家族になるわけにもいかん。閉鎖的なものでいわゆる特殊のつながりのある者で成り立っているものであって、従ってそこに新しく嫁に来た人はなかなか家族の中に入れぬわけである。何となくのけものにされるということがある。それ程に閉鎖的なものである。それを私的関係という。第五章では閉鎖的関係における父母兄弟を言っているのではない。閉鎖的なものでなしにオープンなものである。開放的という言葉もあまり当らないが、も少し広い視野における愛情関係が成り立つ、それを友情といおう、そういうふうなものが生まれてくるところに、この第五章の解明が可能なのである。我々の家庭は私的関係にある。閉鎖的な立場にある。家庭においては家庭自身が閉鎖されている。従ってそこへ飛び込んで行ったならば家庭の者はくつろぎを感じ、自分勝手なことが出来、裸になってパンツ一枚でいても恥かしくない、そういう場所である。しかしながら他には見せられない閉鎖的なものである。その中では、夫も妻も親も子もそれぞれが勝手放題なことを言うことが出来、無遠慮にふるまうことが出来、人様の前では出来ないようなことができる。そういう場がある。そういう所で人は育っていくのであり、くつろいでいるのである。けれどもそういう意味の父母兄弟が「一切の有情は皆もて世々生々の父母兄弟なり」というのではない。この父母兄弟は違う。それは純化された家庭というか、私的立場を超えた家庭、アンドレ・モロアの表現を借りて言えば愛情、(仏法では恩愛と申します)血のつながり、男女のむすびつき、そういう恩愛、愛縁からの超越、そういうものが愛情から友情への転回、それが徐々に起ってくるところに本当の家庭が成り立つ。これがモロアの書物の「結婚」というところに特に述べていることです。
 さてそれでは、そのような私的関係から公的関係へ (これはあまり良い言葉でないですね)、閉鎖的な立場から閉鎖を打破するような方向へ、つまり恩愛からの超越、それはどうしてできるのか。そういうことになるとさすがのアンドレ・モロアもなかなか筆が進まない。殆んど触れていない。そういうことが大切だと言っているが、それならどうすればできるのだろうかということになりますと書いてない。要するに方法論は書いてない。これがこういう書物の欠点である。が、この種の書物だけではない。殆んどの書物は方法論を持たないと言っていい。どうしたらそうなるのかということがはっきりしない。これは一番大事な問題です。いわゆる理想的な、あるいはそうであって欲しいようなあり方を我々は書物で知ることができる。が、問題の中心はどうしたらそうなるかということにあろう。そのところをはっきりしないといかん。我々が父母兄弟を家庭という中で考える。その深い愛情的なつながりで父母兄弟とくつろいで、不遠慮な姿勢で生きていけるような、そこに血のつながりというものがあって、色々家族でなければわからないニュアンスを持つ。そういう父母兄弟ではなく、も一つある。それはモロアの表現でいうならば、愛情から友情への転回における存在である。そういうものはどうしてできるのか。親子という関係でいうならば、普通の家庭においては私の子供、わが親という。前にも申したと思いますが、男性にとってはわが子というのはさほどにピンと来ないこともありますが、全然思えないわけではありません。従って「花嫁の父」という題の書物もあったし映画もあって、自分の娘が嫁に行く時には父親の方は、その晩はやけ酒だという。そういう書物もありますね。私の子供でないことはない。けれども母親にとって特に「私の子」という思いがある。私の産んだ子ということがある。この感情はものすごく強いものがある。
 かって申しますように私は小さな幼稚園の父兄会をやりまして、母親の会なのですけれども、その時の座談会を聞いてつくづく思った。ある母親がいう。「私の主人が私の子供を叱ると腹が立って立って仕方がない。私の産んだ子です。勝手に叱らないで下さいと言いたい」。それ程に私の子という感情が強い。『盂蘭盆経』には父親が地獄の中に堕ち込んでいるという物語は出てこない。母親が餓鬼道の中に堕ち込んでいるという物語が出てくる。母親が堕ち込んでいく。なぜかというと、「わが子」ということがあるからである。私の産んだ子というその執れが色々の問題を生んで、母親が餓鬼道の中に堕ちていく。子供故に堕ち込んでいく。そういう物語が出ている。
 親はわが子という。しかし今、公的な関係、そのわが子というものから友よとなる。友となるようなもの、愛情から友情へとなる。それを仏法でいうと同行(どうぎょう)善知識という。同行とは同じ舟に乗ったような、方向を同じくし歩みを同じくして、一緒に手をとり合って進んでいく友を同行という。同行善知識という。友を持つ。私的関係、閉鎖的な親子からオープンな、外に窓の開いた親子関係が生まれる。私がいて子がいる、私の産んだ子、子からいうと私の甘えている親、そういうふうなものは閉鎖的、いわゆる私的関係にある親であって、これではどれ程強いむすびつきであろうと、だんだんと餓鬼道の中に堕ちていくより仕方がない。餓鬼道とは何かというと、人間の堕ちてゆく状態をいっている。それは不平不満、そして感謝というものを持たない。それを餓鬼道という。即ちあれが欲しいこれが欲しいといってねだり、あれが足らんこれも足らんと不平をいう。そういう間柄に変わる。親は子供を甘やかし過保護になり、子供は親に甘えてあれやこれやと要求する。そこに深い愛情というものがあるのではあるが、餓鬼道に堕ちていく。それは閉鎖的な段階である。
 閉鎖を破るとは何かというと、この親がも一つ大きな世界、それを大いなる世界といおう、その大いなる世界の方向にむいて前進、出発、そういうものを持つ時に、この子と共に同行となる。それを友よ!という。即ち親が大きな世界というものに歩み始めた時、この子供に対して深い願いを持つ。どうか一緒に道を歩んでくれよという願いを持つ。その時にこの子供に対するその態度、あるいは心持ちは友よである。私の産んだ子というものと違う。愛情がだんだんと転化していく。変っていく。そういうものがある。それが人間の一番大きな問題でございます。我々には愛情というものがなければならぬ。愛情が非常に大事な問題であるということは第四章、この前の章で申し上げました。真の愛情を仏法では慈悲という名前で申しています。慈悲というものが人間になくてはならない。どのように頭が切れて立派な人であろうとも、その人に愛情がなく冷たい。その人に暖かみが無いということになれば人間的には破産です。誰も彼についてくる者はいない。部下を持ち同僚と接した時に彼は人間失格者となる。そういうふうではとても人はついてはきません。たとい結婚しても幸福な家庭はできないだろう。学歴とか才能とか地位とかの問題でなしに、彼が人間として成立しないからである。真の愛情を持たんからである。
 真の愛情とは何かといえば、いわゆる男性女性として愛し合っているということではない。そういうふうなものは煩悩の愛情にしかすぎない。そういうものでなくいわゆる尊敬と配慮と理解と強い連帯感、そういうものの上に立った暖かさというものである。そういうものがなければならぬ。が、親子の間でいえば愛情が閉鎖されている限りそれは餓鬼道に堕ちていくと、仏法はこれを表現する。それが友となる。それは子から親を見ると師主善知識となる。わが親でありながらわが師であるという一面を持つ。そこに尊敬せずにはおれない、その人の言うことに従わずにはおれないという、そのような間柄、それは友よというか、友よではうまく言えませんが今言う公的なもの、大いなる世界、如来というものを持つ時に、人は初めて私的なものを超えるのである。私的なものを超えたところを無私という。
 愛情から友情へという問題、この愛情はいわゆる恩愛、私的愛情である。私的愛情から友情へというところに、父母兄弟というものの見方が変ってくるのである。父母、夫と妻、夫から妻に「私の妻」という男女的なものでなしに、友よというものが入ってくる。友よ、兄弟よ、そういうふうなものを同朋と申します。同朋よ、同行よというものが夫から妻に、妻から夫に生まれてくるところに父母兄弟、そして夫婦という関係の転回がある。それをも少し言っておかないといけない。
 それはかねて何遍も申しましたようにマルチン・ブーバーである。彼は一九二三年に『我と汝』という書物を書きました。これは世界的に各界の人から読まれて日本でもいくつか訳されました。ご承知の方が多いと思います。これはドイツ語で書いてあるから訳しにくいものと思いますが、二、三ある中で、『ブーバー著作集』(みすず書房)第一巻、京都大学の田口という人の訳されたこの訳が私には非常にわかりやすかった。われと汝、Ich-Duという。これは根源語ということを言っている。「世界というものは人間の態度に応じて二重である」。これが書き出しです。人は世界というものを持っている。職場がある。家庭がある、社会がある。これを世界という。自分の持つ世界は二重になっている。ダブル・レイアである。世界は二重になっているというのは、本当はこれを包む大きな世界がある。世界が二つあるのではない。二つあるのでなく二重になっているのである。ここがなかなか面白い。二重になっているとはどういうことかというと、私のいつもの譬で言えばドングリみたいなもので、ドングリの中に閉じこもった世界、閉鎖的な世界と、ドングリの殻を出た世界である。またグルント・ボルトと言っている。これを根源語と訳している。人間の持つわれというものが二重の構造になっているから、それに応じて世界が二重になっているとこういう。グルントというのはご承知のように英話ではグラウンドですが、ボルトは言葉、ワードてある。グルントは何かというと基盤という、大地という、もといという。その上に全てのものが成り立つ、その上に全ての営みが営まれる、その上にあらゆるものが生きている。そういうものをグルントという。根源ですね。根源が二重になっている。それを今、根源語と言っている。それはどういうことかというと、それは対(つい)になっている。対語になっている。これを対偶語と訳していますが、ペアである。どういうことかといえば、私という一つのものでグルントは出来ない。それは対になっている。例えば手袋だと右と左がある。二つあって一つなのである。それが手袋というものである。右と左の靴が揃ってそれを靴という。右だけあっても靴といわない。左がなければいかん。それが対になってそれが私の根源になる。根源語は二つあって「私-それ」という根源、これをIch-Esという。Ich-EsのIch、即ちIでありitであるが、「私」と「それ」で対になっている。それで一つの私の状態、グルントができる。これはどういうことかというとすべてのものを、Es化している。Es化とは道具化、すべてのものを私の道具と考え、すべてのものを物質化して取扱っているような私、そのことによって私自身もまた道具になっている。私も道具化している。そういう「私-それ」の私がすべてのものを、Es化すると共に、Esそのものが私を制限して私自身もまたEsになっている。道具化している。何を見ても何の役に立つか、私においてどれだけ役に立つか、どれだけ利用できるか、そういうふうに考える。結婚を考える時も自分にとって相手がどれだけ役に立つか、有利か、そういうことを考えているということは、相手を道具にしていると共に私も小さなところにいるのである。どういう小さな所にいるかというと、血も涙も通わない、相手を道具として見ている。なぜそれが小さいか、それはあなた自身も道具になっているからである。それは人間の大きな働きの中の一部分、即ち知性、あるいは功名心、打算心、そういうものの上に立ってのみ見ているからである。しかしながら人間の本来はそういうものではありません。また、そういうもので向こうを見たのでは、向こうの全体はわからない。そういう見方を一般的には対象化という。対象化して見ている。私自身が小さい所にいるのだ。友情というのは、大きな所で相手を考えているのです。
 現在は、Es化という時代です。それは今申しますように人を道具化するという問題から、上はいわゆる認識論というか心理学というか、科学的な考え方というか、そういうものに到るまで全部それは、Es化され対象化されている。ですから科学が進めば進む程、学校に行けば行く程冷たい人間が出来るのである。血も涙もない人間が出来るのである。なぜかというと、対象化して物を考えることだけがすぐれてくるからである。そういう問題を現在はよく知るべき時代なのです。そこで家庭というものがどんどん破壊されつつある。優秀な人ほどそういうことがある。
 曾野綾子という人はなかなかそういう点が鋭いですね。あの人の書物で『虚構の家』というのがありますね。それを見ると、東大に息子が合格するのですが、この息子が血も涙もない存在になって母親を(あご)でこき使う。遂に最後に冷蔵庫にサイダーが入っていないと母親をにらみつけて、サイダーはどうしたのかという。母親はふるえながら今から買ってこようと言う。そして深夜の街に買いに行く。そこで母親は車にはねられて死ぬ。そういう悲劇的な最後になっています。そういうていたらくである。親も何も道具にしてしまう。そういうものが出ている。
 親の方も子供を受験にかり立てて、子供の合格によって自己満足する。すべて物質化しており、対象化しており、道具化することによって自分も道具化していくのである。こういう天地をEsという。その愛情を私的愛情という。ここに私的関係があるわけである。それが友情へと転回する。ブーバーの言葉を借りれば「私-汝」に変わる。Ich-Duである。Duはご承知のようにSieと違って、親称というかごく親しい間柄にあるものだけがDuと呼び合うのである。即ち私がDuと呼ぶものを持っている。それはDuが私というものを成立させる。私をDuと呼びかけるものを持つ時、私はまたDuと呼びかけるものを持つ、それが私をまたDuと呼んでくれるのである。Ich-Esの私とIch-Duの私とは違う。公的関係と閉鎖的関係、恩愛の私と友情の私である。Duと私を呼ぶ深い友情と、そして深い尊敬と連帯感の存在をもつ私、この私を「汝」と呼ぶものによって、この私をDuと呼ぶものによって私が変ってくるである。そこに恩愛の私から友情の私が生まれてくるのでございます。これは何遍も申している。そのとき父母兄弟が変ってくるのではない。私が変わるのである。私が転回する。根源語は私、単なる私ではない。私は何と対になっているか。道具と対になっていたのである。私的な私の父母兄弟という見方で見ていたのであるが、Duと呼ばれることによって私が変った時に、同じ相手を友よと呼ぶことができるようになる。そこに世界が変わるのである。まことに人間の根源語に応じて世界は二つの構造をもつのである。
 そこに家庭というものの転回がある。家庭の内容が変ったのでなくて自分自身が変ったのである。ブーバーは根源語という言葉を使って、転回ということを非常にうまく言いました。が、この書物を何遍読んでみても一つ物足りないのは、Ich-Esから根源語Ich-Duにどのようにして転回できるのかということについては殆んど触れてない。即ち方法論が明らかにされていない。どうしたらそうなるかということがこの本でもまたはっきりしない。これはこの書物の難点であります。どうしたらこうなるのかということを具体的に、我々に可能な方法論として言い得るのは、私は仏法だけだと思います。これが仏教の今日的意味です。すべての教の言うことは皆同じなんだ、キリスト教が言い、ユダヤ教が言い、何々学会が言い、何々教が言うのも皆同じです。昔からいう、「分け登るふもとの道は多けれど、同じ高嶺の月を見るかな」と言うのでしょう。その通りです。問題はどこか、方法論です。方法論に問題がある。いや、方法論が抽象的だ。私において可能かどうかという、そのことの吟味がなされて、いないということである。そこが問題である。私が転回しなければならぬ、それはよくわかった。しかしその転回はどうすれば可能か。これが大切である。
 私共は親から生まれ、この世に出て来て今日まで大きくなってきた。いわば卵である。ドングリである。ドングリが殻の中に入った状態でいるわけである。これをIch-EsのIchという。我々はこういう構造を持っている。その殻は何かというと私心という穀の中にいる。従ってそこで考えることが全部「私の」というものを離れない。これは上は総理大臣から(上かどうかわからんが)下は庶民我々に到るまで、(どっちが上かわかりませんよ、我々の方が上かも知れんが)要するにあらゆる人達がそうである。「私が」「私の」という殼の中にいる。これがIch-Esの存在である。人のことを悪く言えるものではない。我々自身もそうである。従って最後は私の人生、私の地位、私の利益、私の幸福というものをみな持っている。やっていることは皆それにつながっているといわねばならぬ。が、それでよいのかということになると、誰がこれでよいと言うことができよう。そこは破れなきゃいかん。しかしそれをたたき破ったのでは駄目であって、どういうふうに破るかというもの、それをDuという。それを汝という。それを水といい光という。これが仏教方法論である。
 仏法というものは方法論を持っている。それが強みです。強みというよりも今日的意味があるのです。それはどれ程声を大きくして叫んでも叫び足りない。今こそ親鸞という人を立たさねばならない。今こそ親鸞の道というものが大きな意味を持ってくる。それは人間復帰というか人間回復というか人間成就というか、私心を打ち破って大きな世界に立つという意味を持つ。方法は水と光です。水はよき師よき友、よき師よき友を得て大きな世界からの働きかけ、教、その教を聞きぬくことによって自己の中なる小さな胚芽、その胚芽を成長せしめていく。何かを信じなければならないのではない。何かを思い込まなければならないのではない。何かを狂信、盲信しなきゃならん、追従しなきゃならんのでもない。水と光を得て彼自身が考え、それを吸収して遂に自分で穀を破る。外から破るのではない。彼自身の中に成長する人間形成、人格形成というものによって破れるのである。破れたところに生まれてくるものがIch-Duです。Ich-Esのドングリの世界からIch-Duの世界に出た時に、そこに本当の友情というものができる。友情とは何かというと、それは人々に対する誠実さ、礼儀、尊敬、卒直さ、寛容性、そういう本当の意味の友情を持つようになる。それを私心が破れた(無私)といいます。無私というのは一応公的という。そういうところに人間の転回がある。これが仏法方法論というものです。その教とは何かということが問題である。しかし一応、教としておきます。教をもつときEs化された今日のわれらをIch-Duのグルントに立たせ得る。聞其名号がそういう人間に変えていく最も具体的な方法論なのであります。その中から生まれた父母兄弟、「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」というのは、数学的にずっと先祖まで辿っていったならば、そこに沢山の関係が生まれているから、ここにいる人達は皆兄弟なんだという、そんな数学の問題ではない。そうではなしに転回です。私が変ったんだ、ドングリが成長したんだ、殼を破って出て来たんだ。その所で叫ぶ、叫び呼ぶ呼びかけがDuなんだ。友よ兄弟よだ。このことを言っている。
 このとき家庭というものも変ってくるのである。どういうふうに変ってくるか。我侭な自分の思いを通して自分勝手なことをやっても許してもらえるというような家庭でなしに家庭が道場となる。道場とは何かというと、道の場である。そこで仏法がなされていくような、仏法が修められていくような場となる。すると我々は何やらかたくるしい、(かみしも)を着たようなことになるのかと思うがそうではなく、Duなのである。同行よというようなものであろう。愛情から徐々にそういうようなものに変ってきて、そこに道の場というものが生まれてくるのである。


ページ頭へ | 「六、いずれもいずれもこの順次生に仏となりて助け候うべきなり」に進む | 目次に戻る