四、仏道に立つとはどういう事か

『歎異抄講読(第五章について)』細川巌師述 より

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 仏道を我々が行じていくならば我々はどうなるのであろうか。
 現代の我々の課題は何よりも先ずわれらの生活行である。何をすべきか、またどういう心でやったらいいのか。行いを身業、言葉という。この三つが我々の課題である。大体困っていることはこの三つの中に入る。何を言ったらよいかわからない。どんな心構えで行ったらいいか、何をしたらよいのかわからないというように、問題は大体この三つのうちに入る。これを身口意の三業という。明るくというのは心の問題、正しい行為(身業)正しい心(意業)明るいことば(口業)正しい心根で事をやるというのは真の行為、嘘を言わないというのは言葉である。普通の生活ではこの三つを問題にしている。
 仏教では身業(行い)と口業(ことば)を散善といい、心に深く思う世界を定善という。これを一緒にして定散二善という。一般の宗教は定散二善ということに大体おさまる。しかし仏道ではここを入口にする。
 では仏道の課題というのは何か。どんな心でどんな行いをし、どんな言葉を出していくかが我々の問題である。だが仏道の課題はここにだけあるのではない。その心の奥、これを蓮如上人は心根と言われた。『御一代記聞書』には「心根がよくなり難きものなり」とある。現代の言葉でいうと深層意識という。仏法では深層意識を第七識、あるいはマナ識という。この心根を問題として、心の根っこを解決しようとするものが仏法である。
 心根を一言でいえば私心というものであろう。私的な心である。仏法ではそれを我(が)という。我執という。とらわれである。私心の最もよく現われたものを虚栄心(名聞)という。自己愛という。我見という。言葉や心の問題をもう一つ深く探ったならば、いい所を見せたい、つまらぬ所を見せたくないという虚栄心と、深い自己愛がひそんでいるのである。仏教はこのような最も根源的な人間の問題の解決を目ざしている。即ち定善散善の更に奥にあるものを問題にしている。
 元来、深層意識に着眼した人は西欧ではフロイトであった。フロイトは人間の深層意識というものは性本能であると、精神分析の立場から言っている。仏教ではそれより何千年も昔に深層意識ということが言われている。私心、我ということが言われる。「仏法は無我にて候」というのはこのことである。無我とは人間の持つ私心を打ち砕くところに成立するものをいう。
 それではその私心、虚栄心をどうしたら打ち砕かれるかということについて、三木清が『人生論ノート』(新潮社文庫)に次のように言っている。「虚栄心というのは人間に固有なそして普遍的な性質である」。即ち虚栄心というのは人間にだけあって他のものにはない。しかも人間は皆持っている。そういうものである。で、この虚栄心をなくそうとすること自体が虚栄心である場合が多いと言っている。ではこの虚栄心はどうしたらなくなるのか。彼は「虚無に帰することによって」と言っている。なかなかわかりにくい。が仏法のことを言っているのである。
 虚栄心はどうして打ち砕かれるのか。それはたとえて言えばちょうどドングリのようなものである。ドングリは親木から離れてきた時に固い殻に包まれて生まれてきた。その殻が私心である。この私心が私の子供、私の親、私の、私のと言わせる。仏道に立つとは、「私の」という私有化の思いがなくなることである。そこに開けてくるものが「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」である。これは仏道に立たねば出てこない。「私の子」というのは、人間にだけある人間固有の心である。虚栄心というも同じである。
 私のところで小さな保育園をやっている、今ようやく十四人になった。時々母親の会を開き、座談会をしたり感想を聞いたりする日その時、ある若いお母さんが言いました。「この子を夫が叱ると、私は心の中でいつも思う。私の産んだ子ですよ、勝手に叱りなさるな。」という。夫は子供にとっては父親である。父親が子を叱ると母親は腹が立つ。私の産んだ子ですよと思う。これは大変なものであると教えられた。なる程女性は助からないなあと思った。(ちょっとうまく表現できないが)父親にはそういう気はない。「私の産んだ子」という思いは母親の強い愛情である。しかし仏法ではそれを私心といい迷いというのである。根本的な迷いという。それは愛情ではないかと思うかも知れないが、そこには「私の産んだ子を勝手に叱るな」という。純粋でないものがある。「私の子」ということは私の分身であり、叱られるその子をかばうということにおいて自己をかばっている。それを私心という。また私情といい迷いという。それは純粋な愛情ではない。それはドングリの殻と同じであって、特に女性に強いのである。
 私心を破るにはどうするか。「私の子」という思いをやめなさいと言ってみてもやめられるものではない。それは心根の問題であり深層意識であるからである。それを破るのはたった一つドングリの中にある胚芽が光と水によって育てられ、遂に殻を破って発芽するという、自己形成を遂げる時にはじめて破れる。光は教であり、水はよき師よき友である。よき師よき友を通して教を受けとると、その光と水は彼の殼をとおして彼を育て、やがて彼は殼を破って出てくる。そこに私情が砕かれる。人間の心の奥にあるマナ識の奥に与えられている無漏の種子(これを仏性という)が聞薫習(もんくんじゅう)されて育てられ、私情を打ち破るのである。聞薫習とは教を聞いて薫習されていくこと。これによって凍結状態にあった仏性が揺り動かされ育てられていく。そしてそれが私心を打ち破るのである。それを無明の闇を破るという。ここに仏道が成り立つ。
 仏道の課題は、善いことを行い、善いことを思うという定善散善の実行にあるのではない。殻を破って出てくることにある。殼を破って出てくるところに、私心を超えるということが生まれる。そこに生まれてくるものを「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」という。仏道の課題は心の奥の問題、心根の問題である。深層意識を問題にして、その殻を打ち破るところに仏法がある。それを信の成立という。
 信といえば人々は、何かを信ずることだと思う。が、それは違う。心の中で何かを信ずるというのが信心だと思うが、そうではない。仏教の信は違う。信とは、心の奥の深い深い根源といおうか、徹底的に深い奥底を問題にし、そこに無私が成立することである。
 無私とは私心が打ち砕かれたということである。無私が成立する時、「私の子供」という私有化がなくなる。これについてブーバーは次のように表現している。私心が破られない時の私は「私-それ」の私である。「Ich-Es」のIchである。子を私の子という。私有物にしている。物質化である。その私が、私を「汝」と呼ぶものによって「私-汝」という私になる。それを無私という。「Ich-Du」の私となる。「私の子」、と主張する私が撤回されると、その子に対してDuということができる。友よ!とわが子に呼びかけるものが生まれる。

 家庭とは何か。夫婦があり親子があり兄弟があり祖父母がある。大体家庭とは大変私的なものである。英語でいえばホームである。at homeというと、くつろいだ状況をいう。帯ひもといて裸で何の遠慮も要らないのをいう。またフランス語でファミリエという言葉がある。家族的という。これは無遠慮なことも許されるような間柄をいう。家庭とは、くつろいでいられてそこでは遠慮が要らないところである。人は家庭で本当の顔になる。それを内面(うちづら)という。家に帰るとその内面むき出しで何とか彼とかいう。親しくてよいではないかというが、果してそうであろうか。
 仏道に立つと家庭はどうなるのであろうか。くつろぎの場であることも無遠慮も変らないだろう。が、一つ変ったものが出てくる。仏道に立つと、家庭が道場となる。道場とは道の場である。仏道の行われる場となる。大変な話である。道場というと我々は柔道場とか剣道場とかを思う。そこを出たらもう道場ではない。が、人が仏道に立つと家庭が仏法の道場となる。
 夫婦、親子、兄弟というような関係を普通愛縁という。それは恩愛の縁、血のつながりによって結ばれ、そこで遠慮なく過している間柄である。私の夫、私の妻、私の子というように「私の」「私の」である。最も近しい関係である。それが、信が成立するとどうなるか。愛縁を超えて友よ!となる。愛情が友情にとり変っていく。これを道場という。
 愛情と友情はどう違うか。友情ということの中にあるものは尊敬である。わが子への愛情が信の成立によって尊敬となる。教を共に聞いていく友よ、私のあとに続いて聞法してくれる友よとなる。一般的に言えば仏の子よとなる。こうなると恩愛の場である家庭が道の場となる。わが子に対する友情、それは友よ、仏の子よになる。夫と妻は男女として結ばれていながら友よとなる。
 友情とは尊敬と共に礼儀である。礼儀とは、言ってはならぬ言葉を言わないことである。余談になるが、私が結婚したのは今から三十年も前で、まだ法がよくわかっていなかった。それでも何か夫婦の間で言ってはならぬ言葉があるのではないかと思った。それで結婚した時に「これだけは言うまい」という言葉を考えた。一つは「お前と結婚したのは大失敗だった」という言葉、これは何とか口では言わずに済んだ。が、何遍心の中で言うたかわからない。もう一つ、「別れよう」という言葉、これも形だけだが何とか言わずに済んだ。心の中では何遍思ったかわからない。これらは口に出して言ってはいけない最低限度の言葉であろう。私にはこの程度しか出来ぬが、夫婦の間でも言ってならぬこと、してはならぬこと、考えてはならぬこと、があるのだと思う。
 友情とは更に率直さである。率直に勧め励まし、いましめ忠告する。これを言ったら相手がどう思うかと、もたもたしているのでなしに、率直に忠告することができるのが友である。その他、寛容さとか誠実さがある。しかし先の三つが大事だと思う。愛縁を超えて友情へという、このような内容が生まれてくるのが道の場、即ち仏法の場になったところに愛縁を超えて友情が展開してくる。
 家庭ということについて非常にすぐれた書物の一つは、アンドレ・モロアの『結婚、友情、幸福』(新潮文庫)である。先ず結婚というところで夫婦の問題、親子の問題を取り扱って、真の幸福即ち友情ということに及んでいる。それを読んでみると真の家族関係即ち夫婦、親子というものが、夫婦の愛情、親子の愛情から友情に変っていかねばならないということが、簡潔な文章で適確に書かれている。
 しかし、それはどうしてできるのかというと、その点はこの本には書いていない。仏法はその方法論である。どうしたらそのようになるのかという根本的な方法論を仏法は持っている。その心でもってこの本を読むと意義がある。
 愛縁を超えた言葉が「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」である。我々は私の父、私の子という親子、夫婦というつながりにおいて結ばれたものだけを考えるわけであるが、仏法によってそれを超えていくことができる。それは友よ!という呼びかけの成立である。親子、夫婦、兄弟の愛情を無視していくのではなくて、いわば愛情の純化である。私的愛情という小さな殻に閉じこもっていたその私に教とよき師よき友、光と水を頂く時に、その二つから汝!といって呼ばれている。友よ!と呼ばれている。それが私に届くと私において殻を破って発芽するということが生まれる。私は「汝」(仏法の言葉で言うと南無)と呼びかけられている。「南無」、我をたのめと呼ばれている。聖人はこれを勅命と言われた。「南無」と呼ばれた時に私は「南無」と答える身となる。「南無阿弥陀仏」と答える身となる。これを殻が破れたという。この心を信というのである。この信が私を支えている家庭に向かって友よ!と呼びかける心となる。そこに生まれてくるもの愛縁の超越、恩愛を超えるという。それが「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」となる。生まれ変り生き変りした父であり母であり兄であり弟である。それを「友よ」という。そこに無私というものがある。それはわが子に対しても「友よ」であり、わが子でなくても「友よ」であって、つまり私的立場を離れるのである。

 私的立場を分別心とも言う。分別心とは分けて考える、即ち自分の子と他人の子、自分の親と他人の親、右と左、正と邪というようにものを分けて考えるのを分別心という。これを邪見という。その邪見がこわれていくところに無私というものがある。分別心が打ち砕かれるところに愛縁の超越がある。それを具体的には、「友よ」のよびかけが成立するという。
 愛縁を私的立場という。その根底を分別心という。また分別智ともいう。分別とは私共の知的な立場をいう。
 愛縁を超えるとはある面からいうと、本尊を持つということであろう。本尊とは何か。本来尊重、根本尊崇という。本来とは本からあるもの、本からあるもの、本からあって私が尊重せざるを得ないもの、私を支えて下さる根源として尊び崇めずにはおれないものを本来尊重、根本尊崇という。それを本尊という。根本というものが大事である。我々の生活の根本、考え方の根本になるもの、尊敬せずにはおれないものを持つということが、人間の小さな殻を超えることである。
 帝釈天という欲界の第二天の王が天人五衰の相になった、『涅槃経』梵行品にある。ここに大事なことが書いてある。帝釈天が天人五衰の相になって、お釈迦様の所へ聞きに行くのである。
 天人とは高い高い世界である。善を修めた人が上っていく所である。十善業を修した人が行く世界である。しかし遂に衰えが来て、最後には地獄に堕ちこんでいく。その前兆を天人五衰の相という。体がくさくなる、着物が汚れてくる、冠の花がしおれる、脇の下から汗が出る、本座を楽しまず。この五つの相である。『起世経』には天人の姿が出ているが、沐浴するのが非常に好きである。沐浴をすると香樹からたくさんの香水がたれてくる。それを体に塗るのでいつもいいにおいがする。次に衣樹といってたくさんの衣装が下がっていて、軽い立派な衣服を羽織るようになっている。このようにしているのに、体のにおいが臭くなり、奇麗な着物が垢じみてくる。これは死の前兆である。
 そこで帝釈天はお釈迦様にたずねて言った。「なぜこうなるのでしょう」。「それは慳貪嫉妬のためである」。慳貪嫉妬でしょぼしょぼしてくるのだ。慳は出し惜しみ、貪はとりこみ、布施供養ができなくなる。そして人のやることを見てねたむ。それが衰えの原因である。「それでは私の慳貪嫉妬は何から起ったのでしょう」「それはあなたの無明だ」と。無明とは愚痴、あなたに智慧がないからだ。「その智慧のなさは何から起るのでしょうか」「あなたの放逸から」。したい放題の事を言い、心が腹を立てっ放しである。少しも反省しようとしない。「その放逸はどうして起るのでしょうか」「顛倒(てんどう)だ」顛倒とは、頼りとしてはならないことを頼りとすること。われらが頼りとしていることは私的立場である。私の思い、私の子供に頼り、私の考え、「私の」「私の」に頼り、そこに基礎を置いているのを顛倒といい分別という。分別心が根底にあり、そこから勝手放題の事が出てきて、その人が智慧のなさを生み、人に対して供養をせず布施をせず、人に対する嫉妬心となる。顛倒というところに問題がある。これがもとになるのだ。「それでは顛倒はどうして起るのでございましょう」。これが帝釈天の最後の問いであった。「それは疑いから起る」。疑いとは仏智疑惑といい、仏ましますということがわからないことである。如来ましますということが明らかにならない。私を支える本当の根源が明らかにならない。それを疑惑と申します。そこから自分の私的立場が生まれて、それを自分の立場にして顛倒-放逸-無明-慳貪嫉妬となるのである。疑いが根本である。それを言われた帝釈天は、「まことに私は仏でないものを仏としておった。私の分別心をもとにしてその上に立っていた。如来を無視して如来を知らずにおりました」と言ってあやまり入るのである。その時、五衰の相が消えた、と『涅槃経』にある。
 帝釈天はこのお釈迦様の教に感謝して「私はこの上は一生を仏道の為に捧げたい。つきましては人々の為になることはないでしょうか。一切の人達は何を望み、何で苦しんでいるのでしょうか」と聞く。「それは闘諍がなくなることが一切の人達の幸せである」。闘は武器をもって戦う、諍は言葉でもって言い争うこと、そう教えられた帝釈天は「それでは阿修羅と戦うことを今日からやめます」と仏の前に誓う。
 愛縁は私的立場から生まれる。私的立場を顛倒という、顛倒は自分がはっきりしないものを持っているのである。それを疑いという。私の根本に尊ぶべきもの、敬わずにはいられないものを持たないということが、本尊を持たないということである。それが疑いであり、顛倒の母胎である。それがしょぼしょぼしている本因であり、死への前兆を生む。天人が意気沮喪(そそう)し、どんなに香水をつけても(いや)なにおいが内から出てき、衣服が薄汚れてくる原因はここにある。顛倒、疑いが問題なのである。徹底した教というのが仏道である。心にそれが徹底したところを根源の成立という。根源を明らかに成立させるものが仏教である。
 疑いが打ち砕かれるということは、本尊が明らかになるということである。私を支えている根本が明らかになるのである。私の一番根っこに対し呼びかけるものがあるのである。南無と呼ぶ、私に友よと呼び、求める、大いなる世界に出でよとよびかけて下さるものがある。それがわかるのを本尊を持つという。本尊を持つと顛倒が打ち砕かれ、分別心が打ち破られて、友よという広い呼びかけが私から出てくるようになるのである。そこに生まれてくるものを平等心という。
 平等心というのは仏教では非常に大事な言葉であって、四十八段以上の大菩薩においてはじめて成立するものとされる。平等心は仏の心である。仏の心が私に届く、教が届いて我々の心に深い信が生まれる。そこに「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」というよびかけが出てくるのである。分別心が打ち砕かれたところに出てくる如来の心、よびかけがわれらの上に生まれてくる世界を「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟」という。
 私は父母は亡くなり家内の両親も亡くなり、親はいないのであるが、年寄りを見ると何となくいとおしく心ひかれる。特に老人が仏法がわからない、信心がわからないと言われると、非常にいとおしく思える。何とかしなければと思う。その意味で近頃老人党となりました。で、老人に対しては大いに叱咤(しった)激励している。先ずこう言う。「あなたはおいくつですか」「六十八です」「仏教を聞いたことはありますか」「いや初めてです」「うーん、遅いですな、もう間に合うか間に合わんかわかりませんよ」と、先ず一発言わねばならない。「しかし、しっかり聞いて下さい。そうすれば何とか間に合うかも知れん」と言う。
 最近は小さな子供にも関心があります。私の所にいるのは三才児、四才児、五才児です。最近は二才児も現われた。毎週一回話をするのだが、小さいですね。この子供達に話をするのは難しい。今まで年寄りの人、学生など色々話をしたが、この子供達に話すのが一番難しい。私が話をしている途中でも足を投げ出す、後を向く。苦心惨憺しながら毎週やっている。大分この頃は聞いてくれるようになった。この子等を何とか仏法を聞く子に育てなければと思う。
 今までは自分の親に関心があったが親もなくなってしまった。しかしながら年寄りに対して何とか聞いて欲しいと思い、幼い子達に強く働きかけなければならないと思う。
 親鸞聖人が父母の孝養といわれたのは、愛縁を超えた深い所から父母というものを考えられている。一切の人達に友よという呼びかけを持つ時に、わが父わが母というものを超えて平等のよびかけとなる。釈尊は、「一切の衆生を見ること一子ラゴラの如し」と言われた。ラゴラというのは釈尊の子である。一切の人を自分の子ラゴラの所まで高めるということであろう。自分の父や母を無視して一切の人を父母というのでなしに、切っても切れない恩愛のあるわが父わが母と同じところまで一切の人達を引き上げて、父母と呼ぶことができる。それは深い友情である。子供は仏の子であり、人々は深い恩愛のある人々であり、そこに礼儀、率直さ寛容さ、誠実さというものを持つ友情の展開がある。それを愛縁の超越という。
 信心の世界において、一切の人々に対して深いつながりができるのである。


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